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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第5章 1930-

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歩み

1932年初夏


頼と久保田が名古屋に刻んだ「規格」のくさびは、日本の航空産業の運命を、音を立てて変え始めていた。


「久保田さん、頼さん。お気をつけて」


名古屋駅のホーム。


母・静と恵子の二人に見送られ、頼と久保田は名古屋を後にした。


鞄の中には、三菱の意地と妥協が詰まった新しい図面が収められている。


東京へ向かう急行列車の車窓を眺めながら、頼はふと手帳に目を落とした。


(絢が生まれて、もう一年か)


上海での死線、東京での政変、そして名古屋での産業改革。


怒涛の勢いで過ぎ去ったこの一年、父らしいことは何一つできていない。


だが、その焦燥感さえも今の頼には前へ進むためのエネルギーだった。


夕暮れの東京。官舎の扉を開けると、そこには燈に支えられながら、おぼつかない足取りで畳を踏みしめる絢の姿があった。


「あ!お、と!」

一歳になったばかりの娘が、頼の姿を認めて顔を輝かせる。


「頼さん、おかえりなさい! 絢、お父さまですよ」


燈が愛おしそうに娘を抱き上げ、頼に歩み寄る。


頼は、三菱の油の匂いが染み付いたままの手を戸惑いながらも、そっと娘の小さな頬に寄せた。


「ただいま、燈。少し、大きくなったな」


「少しじゃありませんよ、もう歩き始めたんですから。あなたのいない間に、この子はどんどん先へ行ってしまうんです」


燈の言葉に、頼は静かに微笑んだ。


自分が変えようとしているこの国の「仕組み」は、すべてこの小さな命が歩む道に繋がっている。


この年の残りの半年は、飛ぶような速さで過ぎ去った。


名古屋で火をつけた「規格統一」の波は、横須賀、佐世保、そして呉の工廠へと広がり、海軍全体の生産現場に摩擦と、それ以上の変革をもたらしていった。


1932年12月28日


御用納めを迎え、慌ただしく人が行き交う航空本部の廊下で、頼は一通の辞令を受け取った。


「海軍大学校教官を命ず」


その紙片を見つめ、頼は小さく息を吐いた。


名古屋から始まった「規格統一」の波は、呉や佐世保まで飲み込み、海軍の生産体制を根底から揺さぶった。


だが、そのあまりに強引な手法は、伝統と秩序を重んじる上層部の反発という、巨大な揺り戻しを招いたのだ。


現場を剥奪し、教育という名の「箱庭」に閉じ込める。


それが組織の下した、吾妻頼に対する回答だった。 


「やはり、そうなりましたか」


背後から、低く落ち着いた声がした。


久保田が、新調したばかりの度の強い眼鏡を指で押し上げながら立っている。


「川崎の件、先ほど最終的な合意書を取り付けてきました。これで今年のうちに、三菱、中島、川崎の三社を同じ土俵に立たせることができた。あなたの無茶な独走ランを、私が必死に兵站ロジスティクスで繋いだ結果ですよ」


「助かりました、久保田少佐。あなたがいなければ、この辞令が出る前にすべてが空中分解していたはずです」


頼は、自らのデスクに視線を落とした。


そこには使い込まれた製図道具や、中島と三菱の工場で拾い上げた不揃いなボルトのサンプルが置かれている。それらを一つずつ、丁寧な手つきで久保田へと差し出した。


「久保田少佐。これからは、あなたが現場の『精度』を守って下さい。職人たちは常に楽な方へ、慣れた方へ流れる。それを堰き止めるのは、航空本部に残るあなたです」


「預かります。吾妻さん、彼らはあなたを現場から追いやりましたが、僕はそうは思いません。あなたが海大で蒔く種は、ネジ一本体制よりも恐しいものになるはずだ」


久保田は、頼から受け取ったデバイダーを儀式のような慎重さで鞄に収めると、去りゆく友の背中へ向け、一度だけ短く頷いた。


航空本部を後にした頼は、冷え込み始めた霞が関の街を一人歩いた。


新聞の号外を配る少年の声が響き、街を行く人々はどこか落ち着かない表情を浮かべている。


1932年が終わり、さらに険しい時代が口を開けて待っている、そんな予感が肌を刺す。


視線を南へ、目黒の高台へと続く空に向ければ、移転したばかりの上大崎の校舎が冬の夕闇に沈んでいた。


伝統の築地を離れ、新たな地で産声を上げたばかりの学び舎。


現場という実務の武器を奪われた自分に、あの中で一体何ができるのか。


現場という実務の武器を奪われた自分に、あの中で一体何ができるのか。


(だが、やるしかない。)


その夜。



頼は官舎の静かな部屋で、眠りについたばかりの絢の寝顔を見つめていた。


「頼さん、お疲れ様でした。新しいお仕事、おめでとうございます、と言っても良いのでしょうか」


背後から歩み寄った燈が、頼の心中を察するように静かに声をかけた。


「ありがとう。おめでとう、でいい。現場を離れるのは寂しくもあるが、俺にしかできない教育があるはずだ。燈、苦労をかけるな」


「いいえ。あなたがどこにいても、私はここで絢と一緒に待っているだけですから」


燈が静かに、しかし温かい手で頼の肩に触れた。

その掌のぬくもりだけが、今の彼にとって唯一の「現実」だった。


指先に残っていた三菱の油の匂いは、いつの間にか消えていた。


そして頼の指が、チョークの粉にまみれる日々が始まる。


「ああ。またさらに忙しくなりそうだ」


1933年


頼は教壇という名の最前線へ、たった一人で乗り込んでいく。


(第五章・完)

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