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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第5章 1930-

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赤鉛筆と計算尺

翌日、頼と久保田は再び組立現場と言う名の戦場へと戻った。


ラインは止まっているが、そこには工具を握りしめたまま動かない職人たちが、頼を射抜くような視線で待ち構えていた。


「少佐さんよ。あんたの言う通り規格を統一して、治具(じぐ、固定器具)も全部作り直せってんなら、俺たちのこの『手』は何のためにあるんだ」


一人の古参の職長が、油とタコで固くなった掌を頼の目の前に突き出した。


「数ミリの狂いを、指先の感覚だけで修正して、寸分の隙もなく組み上げる。それが三菱の、俺たちの誇りだ。それを全部機械任せ、図面通りにしろってのは、俺たちに『素人になれ』って言ってるのと同じだぞ!」


周囲の職人たちから、低く地鳴りのような賛同の声が上がる。


「やり直しは時間の無駄だ」


「そんなやり方で、本当に今よりいい機体ができんのか」


「結局、現場を知らねえ役人の机上の空論じゃねえのか」


突きつけられる不信感の嵐。久保田が何かを言おうと一歩前に出たが、頼はそれを制した。


頼は黙って、その職長の「手」をじっと見つめ、それから一機の機体フレームを指差した。


「職長。あんたのその腕は、確かに神業だ。だが、その神業が『必要』だという時点で、この機体は前線では『ただの鉄屑』になる」


「俺たちが魂込めた機体が鉄屑だと!」


「戦地の前線には、あんたのような神業を持つ職人はいない。弾丸で主翼を撃ち抜かれ、泥の中で部品を交換しなければならない整備兵がいるだけだ。あんたが『ヤスリで数ミリ削らなければ嵌まらない』ように作った部品は、戦地では絶対に交換できない。あんたが職人としての誇りを守れば守るほど、前線の搭乗員は死ぬことになるんだ」


頼の声は、怒鳴っているわけではない。だが、工場の高い天井にまで響くほど、冷たく、重い響きを持っていた。


「やり直しは無駄じゃない。神業がなくても、誰でも、どこでも、暗闇の中でさえ完璧に組み上がる。そんな『最強の機体』を、あんたのその腕で、図面に落とし込んでくれと言っているんだ。三菱の技術を、あんた一人のものにしないでくれ。日本海軍全体の『標準』にしてほしい」


職長の拳が、微かに震える。


「俺たちの腕を、標準にしろ、だと?」


「そうだ。あんたたちが一番よく知っているはずだ。どの部品が、どうあれば一番組みやすいか。それを『規格』という言葉に変えて、俺に叩きつけてくれ」


頼は頭を下げるのではなく、対等な「戦友」として、職人たちの視線を受け止めた。


現場の空気が、わずかに変わる。


それは拒絶から、戸惑いを経て、自分たちの技術が「未来の基準」になるという新しい誇りへの転換だった。


現場の職長が震える拳を解いたその時、人だかりを割って、丸眼鏡の奥に鋭い知性を光らせた若き技師、堀越二郎が歩み出た。


その手には、深夜を徹して修正されたであろう、書き込みの激しい図面が握られている。


「吾妻少佐。現場の言い分も、あなたの仰る『ロジスティクスの理想』も、理屈は分かりました」


堀越の声は静かだが、鋼のような芯があった。彼は図面を作業台に広げ、一本の線を指差す。


「だが、すべてを中島規格に合わせるというなら、三菱が追求しているこの翼の曲線、そして極限の軽量化は成立しません。これは、妥協ではありません。我々が譲れる『統一の限界点』です」


堀越が提示したのは、ボルトやリベット、艤装品のジョイントといった「共通部品」は完全に海軍規格(頼の案)に従う一方、機体の性能を左右する「主構造」については、三菱独自の工作精度を許容するという、極めて現実的かつ高度な折衷案だった。


頼は図面を食い入るように見つめた。


(やはり堀越か。ただの意固地ではない。性能と量産性の限界エッジを見極めている)


「いいでしょう、堀越技師。この『公差(精度の許容範囲)』なら、前線の整備兵でも調整の範囲内で交換が可能だ」


頼は懐から赤鉛筆を取り出し、図面の余白に「承認」の二文字を力強く書き込んだ。それを見て、背後にいた技師長や所長が大きく息を吐く。


「職長!」


頼は、先ほどの古参の職人に顔を向けた。


「その図面なら、ヤスリを使わずに組めるな?」


職長は図面を睨みつけ、それから堀越と頼の顔を交互に見て、不敵に鼻を鳴らした。


「設計の坊主がここまで歩み寄ったんだ。俺たちが組めないとは絶対に言えない。道具を揃えてすぐにラインを再起動する! 規格外のクズ鉄は全部ひっくり返せ! 」


「おおおっ!」


現場に、昨日までの拒絶とは違う、爆発的な活気が戻った。


サイレンが工場内に鳴り響く。


止まっていたベルトが軋みを上げて動き出し、選別された「正しい部品」が、吸い込まれるように組み合わさっていく。ヤスリで削る音は消え、代わりに正確なピッチでボルトを締め込む、リズムのいい金属音だけが響き始めた。


「吾妻少佐、見事なものです」


久保田が、眼鏡を拭いながら歩み寄る。


「三菱のプライドを折るのではなく、海軍の規格という新しい器に、彼らの誇りを流し込ませた。これで中島と三菱、日本の二大巨頭が、同じ『言語』で会話を始めますよ」


「いや、まだ第一歩だ。名古屋の現場を変えただけでは、まだ足りない」


頼は、窓の外で動き出した牛車、ではなく、急ピッチで荷積みされるトラックの列を睨んだ。


工場が変われば、次は物流が変わる。そして組織が、教育が変わる。


「さあ、久保田少佐。東京へ戻る前に、もう一度だけあの『赤だし』を飲んでいこう。次は、海軍大学校という名の、さらに厄介な『現場』が待っている」


夕闇迫る大江工場の煙突から、昨日よりも力強い黒煙が空へ昇っていく。

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