赤味噌
三菱大江工場の騒乱を背に、市電に揺られて辿り着いた熱田。
停留所を降りると、そこには工場地帯の刺々しい熱気とは無縁の、潮風と緑が混じった穏やかな空気が流れていた。
「久保田少佐、狭い家ですが、今夜はあそこに。母も、客人が来ると聞けば喜ぶはずです」
「ありがとうございます。軍刀を置いて一晩過ごすには、最高の場所のようですね」
二人が歩みを進めると、古びているが磨き抜かれた格子戸が見えてきた。頼が戸を開けると、奥から小走りにやってくる足音が響く。
「おかえりなさい。あら、頼さん、その格好!」
出迎えた母・静は、頼の泥まみれ、油まみれの姿を見て目を丸くした。
だが、その驚きはすぐに柔らかな微笑みに変わる。
「中島さんの時もそうでしたけど、あなたは本当に、昔から夢中になると周りが見えなくなるのね」
「お母さん、ただいま戻りました。こちらは久保田少佐です。今回の監査の同行者であり、一番の協力者です」
頼の紹介に、久保田が深々と頭を下げる。
「夜分に失礼いたします、久保田昴です。不肖、吾妻少佐の『道連れ』を務めております」
「まあ、ご丁寧に。立ち話もなんです、さあ上がってください。お風呂も沸いていますし、恵子さんも、大須のご実家からのお土産を持って待っていますよ」
家の中からは、出汁のいい匂いが漂ってくる。
頼は玄関で軍靴を脱ぎながら、ふと自分の掌を見た。
三菱のラインを止めた時の、あの凍りつくような空気は、この温かな空間の中で静かに解けていく。
「久保田少佐、まずは風呂だ。油の匂いを落とさないと、母の飯が油臭くなってしまう」
「ははは、それは困りますね。お先に失礼しますよ」
久保田が風呂場へ向かうのを見送り、頼は居間に座った。
そこには、燈の母・恵子が穏やかな顔で座っており、傍らには絢への贈り物だろうか、可愛らしい布地が置かれている。
「頼さん、お疲れ様。名古屋の三菱さんを『止めた』んですって? 街の噂になるのも時間の問題ね」
恵子がいたずらっぽく笑う。
頼は苦笑いしながら、熱い茶を啜った。
「止めるのが目的ではありません。正しく動かすための、一時の休息ですよ。この家の夜のようにね」
風呂で油の匂いを洗い流し、清潔な浴衣に着替えた頼と久保田が居間に戻ると、食卓には湯気の上がる夕飯が並んでいた。
中央に鎮座するのは、大ぶりの椀に注がれた、濃い漆黒に近い茶色の味噌汁――赤だしだ。
「久保田さん、愛知の味噌は少々個性が強うございますが、お口に合いますでしょうか?」
静が心配そうに、だが誇らしげに椀を差し出す。久保田は興味深そうにその色を見つめ、丁寧に両手で受け取った。
「これは、、、これが噂に聞く赤味噌ですか。東京ではなかなかお目にかかれない色だ」
久保田が一口、ゆっくりと口に運ぶ。
頼は自分の椀を啜りながら、その様子を黙って見守った。独特の渋みとコク、そして強い塩気。
慣れない者には驚きを与える味だが、頼にとってはこれこそが「故郷」の基点だった。
「ほう。深い。ただ塩辛いだけでなく、後から来るこの旨味は。吾妻少佐、あなたが『現場』で見せる、あの粘り強さの秘訣はこの味噌にありましたか」
「ははは! 久保田少佐、それは買い被りすぎですよ。ですが、この味を知っているからこそ、中半端な『ごまかし』が利かない性格になったのかもしれません」
頼の冗談に、居間が柔らかな笑いに包まれる。
久保田は「これは癖になりますね」と言いながら、二口、三口と箸を進めた。
「久保田少佐。ごまかしの利かないもの、といえば。あなたは瑞典のプリムスという名を聞いたことがありますか?」
頼が、ふと思い出したように、しかしどこか懐かしむような眼差しで問いかけた。久保田は箸を止め、小首を傾げる。
「プリムス。ああ、海外の資料で見かける石油焜炉のメーカーですね。それが何か?」
「あそこの『七十番』という型が、実にいい。掌に乗るほどの真鍮製だが、予熱で生じた自圧だけで、青白い猛烈な火柱を立てるんだ。部品の公差が完璧でなければ、ああは燃えない」
静は、不思議そうに二人の顔を覗き込んだ。
「まあ、そんなに小さなコンロがあるんですか、頼さん。それは軍隊さんで使う物なの?」
「いいえ、お母さん。あちらでは登山家や旅行者が、命を預ける道具として使うんですよ。いつか、この国でもね、久保田少佐。そんな『狂いのない道具』を、誰もが手にできるくらい、工業の底上げをしたいものだ」
頼の言葉には、単なる道具への興味を超えた、祈るような響きがあった。久保田は頼の横顔をじっと見つめ、深く頷いた。
「頼さん、久保田さん。三菱さんの件は大変でしょうけれど、今夜はしっかり召し上がって。明日もまた、あの大きな工場へ行かれるのでしょう?」
恵子が、お土産の佃煮を小皿に分けながら言った。
頼はその佃煮を白米に乗せ、力強く口に運ぶ。
「ええ。明日は『再起動』です。止めたラインを、今度は新しい規格という背骨で繋ぎ直さなければならない。今日以上に、胃の痛む仕事になりますよ」
「その『背骨』を通すのが、我々の仕事ですからね」
久保田が赤だしを飲み干し、決意を込めて言った。
外では、熱田の杜を揺らす夜風が穏やかに吹いている。
三菱という巨大な鉄の城を止めた二人の軍人は、赤だしの温かさに支えられながら、明日の戦場へと心を整えていった。




