40 火は射られた
王立裁定院――午前九時。
重厚な扉が閉じられ、室内は深い静寂に包まれていた。
長机の上には分厚い記録簿と、押印済みの告発状。
法務官エドガー・レイブンズは、最後の一筆を丁寧に記し、黒のインク壺の蓋を閉じた。
「告発書類、確認しました」
書記官の声が小さく響く。
エドガーは群青の瞳を上げ、淡々と頷いた。
「対象はモートン侯爵家。罪状は――人身売買及び未成年者への加担。
証拠一式は添付済み。治安監察局に通達を」
印章が押される音が、静寂に溶けた。
その響きはまるで弓の弦を弾く音のようだった。
エドガーは立ち上がり、窓の外に目を向けた。
霧の街の向こう、鐘楼が淡く霞む。
その目に、微かな光が宿る。
◇◇◇
夜霧の濃い王都の外れ。
街灯の光さえ霞む石畳に、黒塗りの馬車が音もなく停まった。
治安監察局の印章を刻んだ車両から、数人の隊員が降り立つ。
背後からは、王立裁定院外部調査局の徽章をつけた男が一人、静かに歩み出た。
――ルシアン・ヴェイル。
その隣で短く号令をかける青年がいる。
――アーサー・ケイン。治安監察局第六部、現場指揮官。
「位置につけ。突入は俺の合図で」
アーサーの声が低く響く。
霧の中、黒衣の隊員たちが無言で持ち場に散った。
「毎度思うが、霧ってやつは便利だな。隠したいものも、暴きたいものも飲み込んでくれる」
「ルシアンさん、皮肉は踏み込んでからにしてください」
「そうだな。悪かった」
合図とともに、鉄扉が蹴り破られた。
鈍い音が夜を裂き、監察局の部隊が雪崩れ込む。
古びた建物の中では、帳簿と金貨の山を前に数人の男たちが振り向いた。
「動くな! 治安監察局だ!」
アーサーの声が響き、瞬く間に拘束具の音が広がる。
室内の明かりが揺れ、霧が割れたように空気が緊張した。
階上から慌てて降りてきたのは、モートン家の当主レイモンドと、その弟リチャード。
「なんの真似だ! ここは私有地だぞ!」
「王立裁定院からの正式な告発に基づく踏み込みです。――国外人身売買の嫌疑で、あなた方を拘束します」
アーサーの声は静かだが、反論を許さぬ強さがあった。
「証拠など――!」
「それなら、留置所でゆっくり説明を」
そのやり取りの傍らで、ルシアンは書類棚の前に立ち、帳簿を一冊抜き取った。
指先で紙の端をなぞり、低く息をつく。
「ノルドレア、グランディア、エッセン……輸送経路も取引額も完璧に記録してある。
随分と几帳面な犯罪だ」
アーサーが眉をひそめる。
「ルシアンさん、皮肉は後で頼みます」
「悪い。職業病でね」
机の上の封筒をめくると、貴族の印章が押された手紙がいくつも出てきた。
ルシアンが一枚を光にかざし、片眉を上げる。
「……こんなに証拠を残してくれるなんて、熱烈だな」
アーサーがすぐに封を押収箱に入れる。
「これで決定的ですね」
「そうだな。――終わりだ」
アーサーが部下に合図を送る。
「全員拘束、搬送を開始。証拠物件は監察局へ運べ」
レイモンドがなおも叫ぶ。
「おのれ……レイブンズの仕業か! あの男め!」
だが、誰も返事をしなかった。
ルシアンは鞄に帳簿をしまい、窓の外を見た。
夜霧が深く、遠くの街灯がぼんやり滲んでいる。
「アーサー、君の部下はいい動きをするな」
「ありがとうございます。……ルシアンさん、今度飲みましょうね」
「え、やだよ」
アーサーが笑い、ルシアンも肩をすくめる。
拘束されたモートン父子が連行され、部屋に静けさが戻った。
「これで全部揃いましたね」
「ようやく、だ」
ルシアンは調書を閉じ、淡い息を吐く。
その目には疲労と静かな決意が同居していた。
霧の向こうで、夜明けがほんの少しだけ白んでいた。
◇◇◇
その頃、王立裁定院。
エドガーは静かに報告書の束を閉じた。
窓の外で霧が晴れ、朝の陽光がわずかに差し込む。
机の上の封書の上に、指先が軽く触れる。
「――これで、すべての駒が動いた」
群青の瞳が細く光を宿した。
冷静さの奥に、理知の炎が静かに燃えていた。




