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22 霧の庭にて

 馬車の車輪がぬかるんだ道を進むたび、白い霧がゆらりと揺れた。

 街を離れて半日。セイブル丘陵の森の奥――霧に沈む高台の上に、石造りの修道院が姿を現す。

 それがセント・アシュウェル修道院だった。


 時代の異なる三つの建物が重なり合うその姿は、まるで時そのものが石に閉じ込められたようだ。

 蔦の絡む礼拝堂と赤茶の鐘楼、生活の匂いを残す寮棟、そして白い漆喰壁の新しい学舎。

 古びた煉瓦の壁を霧が撫で、鐘の音が遠くで低く鳴り響く。


 門の前で馬車が止まる。

 ピップが扉を開け、エルザの手を取った。

 冷たい湿気が頬を撫で、森の土の匂いが鼻をくすぐる。

 空気には蝋燭と花の香りが微かに混じっていた。


 迎えに出てきたのは、灰色のローブを纏ったサミュエル・ローク司祭。

 物腰は柔らかいが、その目の奥にはどこか怯えの影が宿っている。

「ようこそ、セント・アシュウェル修道院へ。

 法務官殿は院長室で院長がお待ちです。……お嬢さんと、この少年はこちらへ」


 案内されて歩く回廊――クロイスター。

 アーチの間から淡い光が差し込み、中央の庭には花を摘む修道女たちの姿。

 古い煉瓦の壁には聖句の刺繍や押し花の標本が飾られ、靴音と衣擦れの音だけが静けさを満たしていた。


 エルザは思わず立ち止まる。


 石と光と祈りの匂い。

 貧民街の喧騒も、母の怒鳴り声も、この場所にはない。

 けれど、音のない世界は少し怖かった。


 そんな彼女に気づいたサミュエルが振り返る。

「ここは……古い約束ばかりが眠る場所です。

 けれど、あなたを脅かすことはありませんよ」

 ピップが小さく頷き、エルザの手を引く。

「エルザ、大丈夫。行こう」


 二人が案内されたのは、修道院の客人棟だった。それは石造りの回廊を抜けた奥にあった。

 白壁に小さな扉がいくつも並び、扉ごとに真鍮の番号札が下がっている。

 エルザの部屋には白いカーテンと刺繍入りの寝具、磨かれた床、窓の外には霧の森。

 暖炉の上の十字架と祈祷書だけが、飾り気のない静寂を守っている。

 外からはかすかに鐘の音と、パンを焼く香りが漂ってきた。

 ピップとエルザの部屋は隣り合った個室だった。


 たった一人の部屋。


 エルザには整理するべき荷物などない。

 手持ち無沙汰に祈祷書を手にとってみるが、エルザは字が読めない。ため息をついて、元の場所に戻した。

 エルザはベッドの縁に腰掛けて、

「……ここが安全なんだよね」

 一人で小さくつぶやく。


 やがて扉がノックされ、エドガーが現れる。

 霧の光を背に、穏やかな微笑みを浮かべていた。彼の背で束ねられた黒い長髪が揺れる。

「エルザ、部屋はどうかな」

 エルザは立ち上がり、ぎこちなく礼をする。

「本当に、ありがとうございました」


 その不安げな声に、エドガーは少し屈んで彼女の頭を優しくぽんぽんと叩いた。

「大丈夫。僕たちが守るよ。ピップも一緒だ」


 エルザは唇を噛み、小さく頷いた。

「……はい」


「あぁ、そうだった」


 エドガーは屈んで持っていた革の鞄を開くと、小さな袋を取り出した。彼はそっとエルザの手を取り、その袋をのせた。


「ルシアンから」

 

 エルザが袋を開くと、中にはトフィーが何粒も入っていた。

 エルザの顔がほころぶ。

「私、これ大好きなの」

 エドガーは優しく微笑んで、頷いた。

「君がそうやって笑っていられるように、早く片づけて迎えに来る」

 赤毛が揺れ、黒い瞳が潤んだ。

「待っててね」

「……はい」


 馬車が修道院を離れるとき、二人は中庭の門のそばに立って見送った。

 霧の中に車輪の音が消えていく。

 その音が完全に途絶えても、二人はしばらく立ち尽くしていた。


 鐘楼の鐘が、霧を割って低く鳴る。

 その音は遠くの森の奥まで染み込むようで――

 エルザは胸の前で小さく手を組んだ。


 ――ここで待っていよう。

 あの人が言ったとおりに。

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