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調和の守護者 リリィ&コピ第一部  作者: マスター


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第60話 ファルコンの空路

ラグナ全域に、旧市民会館の呼び出し音が響いた。


それは、長く使われていなかった音だった。


かつて、市民が水について話し合うために集まっていた時代の音。

水量を確認し、農地の状態を共有し、どの区へどれだけ流すかを決めるための音。


今のラグナでは、ほとんど忘れられていた音だった。


けれど、老人たちは覚えていた。


配給所に並んでいた一人の老人が、震える声で言った。


「市民会館の音だ……」


その言葉に、周囲の人々が顔を上げる。


下層区の窓が開く。

南部農地では、ダレンたちが水路のそばで空を見た。

中央塔前に集まっていた市民たちも、赤い警戒灯の下で足を止めた。


そして、ラグナの街にミラの声が流れた。


『ラグナの皆さん。私は、旧水路技師レンの娘、ミラです』


その声は震えていた。


けれど、確かに届いていた。


旧市民会館の地下で、ミラは古いマイクを握りしめていた。

隣ではコピが放送設備を制御し、アルセリウスが補助電源を安定させている。

セヴァンたち元水路技師は、古い水路図と市民水路協定の資料を次々と読み込ませていた。


オルガは暗渠の入口を警戒している。


地上では、リリィが評議会の兵士たちを抑えていた。

双剣の光が夜を裂き、彼女は兵士たちの武器だけを弾き飛ばしていく。


「ここは、市民が水を話し合う場所だよ!」


リリィの声が響く。


「壊させない!」


だが、評議会の動きも早かった。


中央塔の上部で、赤い警戒灯がさらに強く回り始める。

塔の側面に並ぶ通信アンテナが一斉に起動し、市内全域へ妨害波を放ち始めた。


コピの端末に警告が走る。


「放送信号が弱まっています。中央塔からの妨害です」


ミラの声が一瞬乱れた。


『水門は……壊れて……いません……南部農地への……』


音声が途切れかける。


地下室に緊張が走った。


セヴァンが叫ぶ。


「信号が落ちるぞ!」


コピは必死に補正する。


「旧回線だけでは出力が足りません。中央塔の妨害を突破するには、中継点が必要です」


オルガが振り返る。


「中継点?」


「市内の古い水量表示塔、配給所の掲示板、監視ドローンの通信回線を一時的に接続すれば、放送を分散できます」


アルセリウスが眉を寄せる。


「でも、それを誰がつなぐの?」


その問いに、上空から声が届いた。


「俺がやる」


ファルコンだった。


彼は旧市民会館の上空を旋回しながら、中央塔の妨害波と監視ドローンの動きを見ていた。

夜空には、評議会のドローンが増え続けている。

赤い光が点々と浮かび、まるで空そのものが監視されているようだった。


コピが通信で答える。


「ファルコン。危険です。中央塔周辺の対空監視が強化されています」


「分かっている」


「中継点は市内に散らばっています。すべてを接続するには高速移動が必要です」


「それが俺の役目だ」


ファルコンの翼が、夜風を受けて広がった。


彼は戦場の情報を運ぶ者。

物資を運ぶ者。

都市と都市をつなぐ者。


そして今、止められた声をつなぐ者になろうとしていた。


リリィが地上から空を見上げた。


「ファルコン、お願い!」


「ああ」


ファルコンは翼を大きく打ち、夜空へ上昇した。


その瞬間、中央塔の監視システムが彼を捕捉する。


『未登録飛行体を確認。撃墜許可』


塔の上部から、複数の対空ドローンが発進した。


ファルコンはまっすぐには飛ばなかった。


建物の間を抜け、古い給水塔の影に隠れ、監視光をかわす。

翼の表面に搭載された冷却装置が熱反応を抑え、夜の空気に彼の姿を溶かしていく。


それでも、敵のドローンは追ってくる。


「コピ、最初の中継点は?」


「下層区西側、旧水量表示塔です。現在は停止していますが、内部アンテナは生きています」


「了解」


ファルコンは急降下した。


下層区の屋根が迫る。

狭い路地の上をすれすれで飛び、赤い監視光を置き去りにする。


追跡ドローンが発砲した。


青白い光弾が屋根瓦を砕く。


ファルコンは翼をひねり、空中で身を反転させた。

翼から数枚のフェザーシャードが放たれる。


それらは敵を破壊するためではなく、光弾の軌道を逸らすために展開された。

小さなエネルギーシールドが夜空に光り、攻撃を受け流す。


「こんな街の上で撃つな」


ファルコンは低く言った。


下には人がいる。

家族がいる。

水を待つ人々がいる。


空での戦いは、地上を傷つけてはならない。


旧水量表示塔が見えた。


錆びついた鉄塔。

かつては毎朝、水量と配分計画を市民へ知らせていた施設。

今は評議会によって使われなくなり、壁には古い文字が残っていた。


本日の貯水量。

本日の通水予定。

市民確認欄。


ファルコンは塔の頂部へ接近し、翼から小型ドローンを排出した。


「第一中継、接続」


小型ドローンが古いアンテナに張り付き、通信回路を起動する。

火花が散り、表示塔の古いランプが一瞬だけ点灯した。


コピの声が届く。


「信号強度、回復。ミラの放送を下層区西側へ再送信します」


途切れていたミラの声が戻る。


『……水は足りないのではありません。水は、止められていました』


下層区の人々が顔を上げる。


家の中で古い端末を抱えていた老人が、涙を浮かべた。


「聞こえる……」


その隣で、若い母親が子どもを抱きしめる。


「本当に、聞こえる」


だが、中央塔も黙っていない。


妨害波の出力が上がる。


コピが叫ぶ。


「第二中継が必要です。配給所中央掲示板へ」


「向かう」


ファルコンは再び空へ飛び上がった。


追跡ドローンが三機に増えている。

さらに、中央塔から長距離照準用の光が伸びた。


「ロックオン警告」


コピの声が響く。


「分かっている」


ファルコンは高く舞い上がらず、街の構造を使った。


水路跡に沿って飛ぶ。

低い橋の下をくぐる。

古い給水管の支柱をかわす。

建物の影から影へ、風の筋を読むように移動する。


彼は空をただ飛んでいるのではなかった。


街の上に、見えない道を描いていた。


それは、監視塔の死角を結ぶ道。

人々がまだ使える場所をつなぐ道。

情報を届けるための空の水路だった。


配給所が見えた。


昼間、多くの人々が水を求めて並んでいた場所。

今も市民が集まり、評議会の兵士たちが盾を構えている。


掲示板は中央塔の命令で黒く消されていた。


ファルコンは高度を落とす。


兵士の一人が空を指差した。


「飛行体だ!」


銃口が向く。


だが、ファルコンは攻撃しなかった。


翼から放たれたフェザーシャードが、兵士たちの銃口の前に滑り込み、射線だけを塞ぐ。

同時に小型ドローンが掲示板の裏側へ張り付いた。


「第二中継、接続」


黒かった掲示板に、光が戻る。


そこに映し出されたのは、ミラの顔だった。


旧市民会館の地下で、彼女は震えながらも話し続けている。


『評議会は、水門が故障したと言いました。でも記録では、水門は正常です。農地への水は、命令によって閉じられていました』


配給所の前で、人々がざわめく。


「また映った!」


「消されてない!」


「ミラだ。レン技師の娘だ!」


兵士たちは慌てて掲示板を止めようとした。

しかし、コピが回線を複数に分散させているため、すぐには切れない。


ミラの声は続く。


『私たちは、無秩序に水を流そうとしているのではありません。貯水量を守りながら、下層区、農地、病院区へ段階的に水を戻す計画を提示します』


画面が切り替わる。


コピが作成した市民水路協定の図が映る。


貯水量。

生活用水。

農地への最低通水量。

病院区の優先供給。

工業区の節水制御。

市民代表による公開監視。


それは暴動の呼びかけではなかった。


支配への反抗でありながら、同時に、秩序ある提案だった。


一人の兵士が掲示板を見上げたまま、呟いた。


「これなら……都市は干上がらないのか」


隣の兵士が慌てて言う。


「見るな! 偽情報だ!」


だが、その声はもう以前ほど強くなかった。


ファルコンはその様子を上空から見ていた。


真実が届けば、人はすぐに変わるわけではない。

でも、迷いが生まれる。


その迷いは、支配にとっては亀裂だった。


「第三中継へ」


コピの声が急ぐ。


「南部農地の仮設端末です。そこへ届けば、農地側からも証言を返せます」


「証言を返す?」


「はい。放送を一方向ではなく、市民側からも声を届ける形にします」


ファルコンの目が鋭くなった。


「なるほど。水と同じだな」


「はい?」


「一方通行では流れじゃない。循環にするんだろう」


通信の向こうで、コピが一瞬だけ黙った。


そして答えた。


「その通りです」


ファルコンは南へ向かった。


街の中心部から離れるほど、灯りは少なくなる。

閉ざされた水路が続き、乾いた畑が広がっていく。


南部農地では、ダレンたちがまだ用水路を守っていた。


細い水の流れは、ほとんど止まりかけている。

中央塔が水圧を絞ったのだ。


それでも、農民たちは離れなかった。


水が流れたことを見たからだ。


もう、壊れていたという嘘には戻れない。


ファルコンは農地の上空に到着し、低く旋回した。


「ダレン!」


地上でダレンが顔を上げる。


「ファルコンか!」


「仮設端末は?」


「こっちだ!」


農民たちが用水路のそばに置いていた古い通信端末を指差す。

ミラが以前使っていた補助端末を、コピが改造したものだった。


ファルコンは翼から小型ドローンを落とす。


ドローンは端末に接続し、信号を旧市民会館へ返す。


「第三中継、接続」


コピの声が響く。


「農地側からの音声入力が可能です」


市民会館の放送に、ダレンの声が乗った。


『こちら南部農地のダレンだ』


配給所、下層区、中央塔前。

人々が画面を見る。


ダレンの顔は土に汚れていた。

疲れていた。

だが、その目はまっすぐだった。


『俺たちは今日、用水路に水が流れるのを見た。水門は壊れていなかった。水は少しだけだが、確かに流れた』


農地の人々がうなずく。


『この畑は、まだ死んでいない。土も、種も、人も、まだ諦めていない。だから頼む。水を奪い合うんじゃない。水を戻す仕組みを、みんなで見直してくれ』


その声に、配給所の人々が静まり返った。


農地は遠い場所ではなかった。


そこから食べ物が来ていた。

そこに親戚がいる者もいた。

かつて働いていた者もいた。


水を止められた農地の声が、初めて街へ戻ったのだ。


コピは市民会館の地下で、放送の反応を確認していた。


「市民の視聴範囲が拡大しています。下層区、配給所、南部農地、旧工業区の一部まで到達」


セヴァンが目を細める。


「まだ足りん。病院区と中央塔前の群衆にも届けなければ」


ミラはマイクの前で頷いた。


「病院区には、水が必要な人たちがいる。そこへ届けば、評議会も簡単には止められない」


アルセリウスが補助電源を確認する。


「出力は持つ。でも、中央塔の妨害がさらに強くなっているわ」


コピの端末に、赤い警告が表示された。


「中央塔が対空制圧を開始。ファルコンへの攻撃が強化されます」


その通信は、ファルコンにも届いていた。


夜空の向こうから、新たなドローン群が迫ってくる。


数は八。


さらに、中央塔の上部から長距離レーザー照準が伸びている。


ファルコンは翼を広げた。


「ずいぶん増えたな」


彼は恐れていなかった。


だが、焦ってもいなかった。


空は広い。

けれど、街の上で自由に戦えるわけではない。

下には人々がいる。

不用意に撃墜すれば、落ちたドローンが家を壊す。

レーザーを避けるだけでは、流れ弾が地上を焼く。


だから、ファルコンは上へ逃げなかった。


逆に、低く飛んだ。


古い水路に沿って。

閉ざされた橋の下をくぐって。

使われなくなった市場の屋根をかすめて。


追跡ドローンは、その複雑な軌道に対応しきれない。


一機が建物の角で失速し、ファルコンのフェザーシャードに回転翼だけを切られて落下する。

別の一機は電子妨害を受け、空き地へ誘導されて不時着した。


ファルコンは敵を街へ落とさなかった。


人のいない場所へ誘導し、機能だけを止めていく。


それは、戦いでありながら輸送でもあった。


危険を、街の外へ運ぶ。

声を、街の中へ運ぶ。

希望を、閉ざされた場所へ運ぶ。


ファルコンは次の中継点へ向かう。


病院区の給水塔。


そこには、評議会の兵士が配置されていた。

病院区は市民の反発を抑えるため、最低限の水を与えられている場所だった。

だからこそ、そこへの情報流入は厳しく制限されていた。


「病院区上空、警備あり」


ファルコンが通信する。


コピは答える。


「病院区への中継が確立すれば、医療従事者から必要水量の証言を受け取れます。市民水路協定の正当性が上がります」


「分かった」


ファルコンは給水塔へ近づく。


兵士たちが空を見上げ、照準を合わせる。


その時、病院の窓がいくつも開いた。


白い服を着た看護師たちが、布を振っている。


その一人が叫んだ。


「こっちです! アンテナは屋上の裏!」


ファルコンは驚いた。


「協力者か」


病院の屋上には、古い医療用通信アンテナが残っていた。

評議会の管理網からは外れている。


ファルコンはそこへ急降下した。


兵士たちが撃とうとする。


だが、病院の職員たちが屋上に出てきた。


「撃たないで!」


「ここは病院です!」


「患者がいるんです!」


兵士たちは一瞬ためらう。


そのわずかな隙で、ファルコンはアンテナへ小型ドローンを接続した。


「第四中継、接続」


病院区にも放送が広がる。


画面に、ミラと市民水路協定が映る。


続いて、病院の医師が端末の前に立った。


『こちらラグナ中央病院。現在、病院区への水は最低限維持されていますが、下層区の衛生悪化により感染症リスクが上昇しています。農地への通水停止は、食料供給の悪化を招き、長期的には患者の増加につながります』


医師は疲れた顔で、しかしはっきりと言った。


『水を一部だけに集中させる管理は、都市全体を守る方法ではありません。公開された水量管理と段階的通水に賛同します』


病院区の人々がざわめく。


評議会が守っているはずの病院からも、声が上がった。


これは大きかった。


ハルバートの主張は、「水を開けば病院も危険になる」というものだった。

だが、その病院が市民水路協定に賛同した。


中央塔の放送が割り込もうとする。


『現在の情報は偽装された――』


しかし、コピが中継を分散させる。


下層区。

配給所。

南部農地。

病院区。


複数の地点から同時に信号が返ることで、中央塔は一か所を切っても全体を止められなくなっていた。


コピは静かに言った。


「放送網が循環型になりました」


セヴァンが感心したように呟く。


「水路と同じだな。一つの門を閉じても、別の流れが残る」


ミラはマイクを握り直した。


『ラグナの皆さん。これは反乱ではありません。水を奪い合うための呼びかけでもありません』


彼女の声は、もう最初ほど震えていなかった。


『私たちは、市民水路協定を提案します。水門操作を評議会だけに任せるのではなく、技師、市民代表、農地代表、病院区、生活区が確認できる形に戻します』


画面に、古い資料が映る。


かつてのラグナで行われていた公開水路会議。

市民代表の記録。

貯水量の掲示。

農地と居住区の配分表。


『これは新しい支配ではありません。昔、この街にあった仕組みです。水を一部の人のものにしないための仕組みです』


下層区で、老人たちが頷いた。


「そうだ……昔はこうだった」


「水の会議があった」


「うちの父も参加していた」


記憶が戻っていく。


評議会が消したかったもの。

市民が自分たちで水を考えていた記憶。


それもまた、流れ始めていた。


ファルコンは病院区を離れ、再び上空へ出た。


中継点は増えた。

だが、最後に必要な場所がある。


中央塔前。


そこには、最も多くの市民が集まっている。

そして、最も強い恐怖がある。


そこへ届かなければ、ラグナ全体は動かない。


コピが通信する。


「ファルコン。中央塔前への中継は危険です。対空制圧の中心です」


「分かっている」


「別経路を検討します」


「時間がない。俺が行く」


リリィが通信に割り込んだ。


「ファルコン、無理しないで」


ファルコンは少しだけ笑った。


「リリィ。空路は、誰かが最初に飛ばなければできない」


その言葉に、リリィは黙った。


ファルコンは中央塔へ向かう。


赤い光が彼を捉える。

対空ドローンが進路を塞ぐ。

塔の照準が一点に集中する。


空が狭くなる。


だが、ファルコンは止まらなかった。


翼を畳み、急降下する。

塔のレーザーが彼のいた場所を焼く。

次の瞬間、彼は翼を開き、風を掴んで横へ滑った。


追跡ドローンが迫る。


ファルコンはフェザーシャードを展開した。

攻撃ではない。

鏡のように光を反射する配置。


中央塔の照準光が一瞬乱れる。

追跡ドローン同士が互いを誤認する。


その隙に、ファルコンは塔前広場の上空へ出た。


下には、大勢の市民がいた。


兵士たちは盾を構え、市民を押し戻そうとしている。

ハルバートの放送が繰り返されている。


『秩序なき自由は滅びである。評議会の指示に従え』


ファルコンは広場の古い掲示塔を見つけた。


かつて、市民会館からの告知を流していた塔。


今は評議会の標語が映っている。


秩序なき自由は滅びである。


ファルコンは一直線にそこへ向かった。


兵士が叫ぶ。


「撃て!」


銃声が上がる。


だが、広場の上空にリリィの投擲剣が飛び込んだ。


遠くから投げられたデュアルソードが、弧を描いて銃口を弾く。

剣はそのまま光の軌跡を残し、リリィの手元へ戻っていった。


「ファルコン!」


リリィの声。


「今!」


ファルコンは掲示塔へ小型ドローンを叩き込むように接続した。


「第五中継、接続!」


広場の巨大表示が、一瞬黒くなる。


そして、再び光った。


映ったのは、ハルバートではなかった。


ミラだった。


続いて、ダレン。

病院の医師。

下層区の老人。

セヴァンたち元水路技師。


ラグナの市民たちの声が、中央塔前へ届いた。


『水は足りないのではない。止められていた』


『農地はまだ生きている』


『病院区は公開水管理を支持する』


『昔のラグナには、市民の水路会議があった』


『水は、支配の道具ではない』


広場の市民たちは、画面を見上げていた。


誰かが小さく言った。


「一人じゃない……」


その言葉は、近くの人に届いた。


「下層区も見ている」


「農地も声を上げている」


「病院も、技師たちも……」


恐怖は消えない。

けれど、恐怖の中に別のものが入り込んだ。


つながっているという感覚。


声を上げても、自分だけではないという実感。


それは、水と同じだった。


一滴では乾いてしまう。

けれど、流れになれば、土を変える。


広場の前方で、一人の女性が声を上げた。


「水路協定を見せて!」


別の男が続いた。


「公開しろ!」


「水門の記録を市民に返せ!」


「水を、評議会だけのものにするな!」


兵士たちは盾を構えたまま動けなかった。


ハルバートの声が中央塔から響く。


『市民よ、冷静になれ。これは外部AIによる扇動である』


だが、広場の人々はもう画面を見ていた。


そこには、AIだけではなく、市民の顔が映っている。

農民がいる。

医師がいる。

水路技師がいる。

ミラがいる。


これは外から与えられた答えではない。


ラグナ自身の声だった。


ファルコンは掲示塔の上に降り立った。


翼にはいくつもの焦げ跡があった。

フェザーシャードも半数近くが消耗している。


それでも、彼は空を見上げた。


追跡ドローンはまだいる。

中央塔の照準も消えていない。


だが、今の空には道ができていた。


下層区から配給所へ。

配給所から南部農地へ。

南部農地から病院区へ。

病院区から中央塔前へ。

そして、旧市民会館へ。


情報の空路。

声の空路。

人々をつなぐ、見えない水路。


コピが通信で言った。


「ファルコン。中継網、安定しました」


「どのくらい持つ?」


「中央塔が物理的に中継点を破壊しない限り、しばらくは維持できます」


「なら、次は人を動かせる」


「人を?」


ファルコンは広場を見下ろした。


市民たちはまだ恐れている。

だが、動き始めている。

水路協定を知りたがっている。

真実を確かめたがっている。


「市民会館へ安全に向かう道が必要だ。代表者を集める。水の話し合いを始めるなら、場所がいる」


コピはすぐに理解した。


「空路で安全経路を表示するのですね」


「ああ。監視の少ない路地、避難用通路、暗渠の入口。全部つなぐ」


ファルコンは翼から残った小型ドローンを放った。


それらは街の上空へ散り、小さな青い光を点滅させる。

ドローンは危険な道ではなく、安全な道を示した。


下層区の人々へ。

農地代表へ。

病院区の医師へ。

元水路技師たちへ。

市民会館へ向かうための道を。


コピはその情報を放送に乗せた。


『旧市民会館へ向かう市民代表のため、安全経路を表示します。武器を持たず、集団で移動してください。目的は暴動ではありません。水路協定の確認です』


ミラも続けた。


『お願いです。壊しに来ないでください。話し合うために来てください。水を、もう一度みんなで考えるために』


広場の市民たちは顔を見合わせた。


そして、一人、また一人と動き始めた。


盾を構える兵士たちの前で、彼らは武器を持たずに歩き出す。


「市民会館へ行く」


「水路協定を聞く」


「水門記録を見せてもらう」


兵士たちは止めようとした。


だが、人数が多い。

しかも彼らは暴れていない。

ただ歩いている。


子どもを連れた母親。

杖をついた老人。

作業着の技師。

病院の看護師。

農地から来た若者。


その流れを、簡単に暴動とは呼べなかった。


中央塔の上で、ハルバートは広場の映像を見ていた。


彼の表情から、初めて余裕が消えていた。


「空を使ったか」


側近が慌てて言う。


「中継点を破壊しますか?」


ハルバートは冷たく答えた。


「当然だ。市民会館へ向かう流れを止めろ。空の中継を落とせ」


「しかし、市民が多数移動中です。強硬手段を取れば……」


ハルバートは側近を睨んだ。


「流れは早いうちに止めなければならない。水も、人も、情報も同じだ」


彼は中央塔の制御卓に手を置いた。


「ファルコンを撃ち落とせ。空路を断て」


命令が下された。


中央塔の上部で、対空兵器が再び起動する。


ファルコンはその動きを空から見ていた。


コピが警告する。


「ファルコン、中央塔があなたを主要妨害対象に設定しました」


「分かっている」


「撤退を推奨します」


「まだだ」


ファルコンは翼を広げた。


下では、市民たちが歩き始めている。

旧市民会館へ向かう小さな流れが、街のあちこちで生まれている。


この流れを守らなければならない。


彼は空に浮かび、中央塔を見据えた。


「水を止めても、声を止めても、人はいつか道を探す」


夜風が翼を揺らす。


「そして風は、壁では止められない」


赤い照準光がファルコンを捉えた。


だが、彼は逃げなかった。


ラグナの空に生まれた新しい道。


その空路を守るため、ファルコンは中央塔へ向けて飛び出した。

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