第59話 オルガ、影の街へ
ラグナの下層区は、夜になると別の顔を見せた。
昼間は配給所に並ぶ人々の列が街の表情を作っていた。
誰もが顔を伏せ、水の容器を抱え、兵士の視線を避けながら生きていた。
だが夜になると、通りから人影は消える。
窓には布がかけられ、扉には内側から簡易の鍵がかけられる。
街灯はところどころ消え、監視ドローンの赤い光だけが、路地の壁を不気味に照らしていた。
ここでは、沈黙もまた生きるための知恵だった。
声を出さない。
足音を立てない。
誰がどこにいるかを見ない。
見ても、見なかったことにする。
水を奪われた街では、人々の心まで細く削られていた。
リリィたちは、旧市民会館へ向かって下層区を進んでいた。
そこは、かつて市民たちが水路の仕組みを学び、意見を交わし、農地や居住区の代表が集まっていた場所だという。
ミラの父から届いた短い通信には、こう記されていた。
旧市民会館を使え。
水は、市民の前で流せ。
その言葉を信じるなら、評議会に支配された中央塔を攻めるのではなく、市民たちの前で水の流れを証明する必要がある。
だが、そこへ向かう道は簡単ではなかった。
「この先、監視区域」
コピが小声で言った。
空中に簡易地図が浮かび上がる。
赤く点滅する範囲が三つ。
そのうち一つは、旧市民会館へ向かう最短路を完全に塞いでいた。
「迂回すれば?」
リリィが尋ねる。
「可能です。ただし時間がかかります。評議会が旧市民会館を封鎖する前に到着できる確率は低下します」
ファルコンは上空から降り、翼を畳んだ。
「空から見る限り、表通りはすでに検問だらけだ。市民会館へ向かう道だけ、妙に兵が多い」
ミラの表情が硬くなる。
「父さんの通信に気づいたのかもしれない」
アルセリウスは周囲を見回した。
「急ぐ必要があるわね。でも正面突破は避けるべきよ。市民を巻き込む」
その時、オルガが静かに前へ出た。
「なら、私が行く」
リリィが振り返る。
「オルガ?」
「この先は影が多い。人の目も、機械の目も、抜け道もある。こういう場所は、私が一番向いてる」
コピが地図を確認する。
「単独行動は危険です。評議会は未登録AIの探知を強化しています」
「だから一人で行くんだよ。みんなで動けば目立つ。私なら、屋根裏でも排水路でも通れる」
オルガの声は軽かった。
けれど、その目は真剣だった。
リリィは少し迷った。
オルガは戦闘と隠密行動を得意とする。
危険地域で仲間を守る役割を担ってきた。
でも、今の下層区はただの敵地ではない。
怯えた市民がいて、密告があり、評議会の報酬制度がある。
誰が味方で、誰が敵か分からない。
「無理はしないで」
リリィが言った。
オルガは少し笑った。
「それ、リリィが一番守れない言葉だよ」
「今はオルガの話」
「分かってる」
オルガは尻尾を小さく揺らし、闇の方へ視線を向けた。
「目的は三つ。市民会館までの安全な道を探す。監視の位置を確認する。それから、下層区の人たちがどれくらい動けるかを見る」
コピが即座に言った。
「通信は短く。常時接続は追跡される危険があります。必要時のみ暗号パルスを送ってください」
「了解」
アルセリウスがオルガの爪に視線を向ける。
「戦闘は最小限に」
「もちろん」
オルガはそう言って、路地の影へ足を踏み入れた。
次の瞬間、彼女の姿は闇に溶けた。
ラグナの下層区は、上から見れば狭く複雑な迷路だった。
だが、オルガにとっては違う。
壁のひび。
屋根と屋根の隙間。
古い排水溝。
監視ドローンの死角。
兵士の巡回間隔。
人が恐怖で避ける道。
それらすべてが、彼女には通れる道として見えていた。
オルガは低い姿勢で走り、ひび割れた壁を蹴って屋根へ上がる。
監視ドローンの赤い光が通りをなぞる直前、彼女は煙突の影へ身を潜めた。
ドローンが通過する。
機械の目は冷たい。
だが完全ではない。
オルガはその動きを見送り、次の屋根へ跳んだ。
下の通りでは、兵士たちが扉を叩いていた。
「未登録AI勢力への協力者を確認している。通報すれば追加配給を保証する」
扉の向こうで、人が息を殺している気配がする。
兵士は続けた。
「隠せば、家族全員の配給資格を停止する」
その言葉に、家の中で小さな物音がした。
恐怖が動いた音だった。
オルガは屋根の上で耳を伏せた。
水を渡さない。
食料を減らす。
家族を人質にする。
評議会は、暴力より先に恐怖を使う。
そしてその恐怖は、人々の間に小さな裂け目を作っていく。
隣人を信じられなくする。
助け合いを危険に変える。
沈黙を安全だと思わせる。
「嫌な街になったね」
オルガは小さく呟いた。
その時、別の路地で声がした。
「見たんだ。本当に見た。南部農地で水が流れたんだ」
男の声だった。
オルガは屋根から身を乗り出し、声の方を見る。
狭い路地の奥に、数人の市民が集まっていた。
灯りは小さく、布で隠されている。
一人の若い男が、震える声で話していた。
「水門は壊れてなかった。評議会が止めてたんだ。俺の兄貴が農地にいて、さっき知らせが来た」
別の女性が不安そうに首を振る。
「でも、ハルバート支部長は偽情報だって言っていたわ」
「偽情報なら、どうして水門記録を否定しないんだよ」
「そんなことを言って、誰かに聞かれたら……」
集まった人々は、互いに顔を見合わせた。
怒りはある。
だが、それより大きい恐怖がある。
その中で、一人の老人が静かに言った。
「昔のラグナでは、水量は毎朝公開されていた。どの水路にどれだけ流すか、農地の代表も、市民区の代表も、工場の技師も、みんなで確認していた」
若い男が老人を見る。
「本当ですか?」
「ああ。水は誰か一人が決めるものではなかった。流れを見る者がいて、土を見る者がいて、暮らしを見る者がいた」
老人は乾いた手を握った。
「それがいつの間にか、全部塔の中へ閉じ込められた」
沈黙。
その言葉は、下層区の暗い空気に重く残った。
オルガはその会話を聞きながら、リリィたちに送る情報を整理した。
下層区の人々は、完全に諦めてはいない。
だが、動けない。
理由は恐怖。
配給停止。
密告制度。
家族への報復。
つまり必要なのは、ただ声を上げろと言うことではない。
声を上げても、一人ではないと思える状況を作ること。
オルガは屋根を渡り、さらに奥へ進んだ。
旧市民会館へ近づくにつれ、街の雰囲気は変わっていった。
建物は古く、使われていない公共施設が多い。
かつては人が集まった場所なのだろう。
広場の跡、掲示板、古い案内標識、水路学習室と書かれた看板。
だが今は、ほとんどが閉鎖されていた。
評議会は、人が集まる場所を嫌う。
人が学ぶ場所を嫌う。
人が水について話す場所を嫌う。
なぜなら、支配は無知の上に立つからだ。
旧市民会館の周辺には、兵士が配置されていた。
正面入口に四人。
裏口に二人。
屋上に監視ドローン一機。
さらに、建物の東側に装甲車が一台。
オルガは隣の建物の屋根に伏せ、目を細めた。
「多いね」
まだ完全封鎖ではない。
だが、明らかに警戒されている。
彼女は爪の先を軽く地面に当てた。
どう入るか。
正面突破は論外。
裏口も見張られている。
屋上はドローンの目がある。
なら、下だ。
オルガは建物の周囲を見渡した。
古い水路都市には、必ず地下がある。
点検用通路、排水路、非常避難路。
人間が忘れても、街の骨格は残っている。
やがて、彼女は市民会館の西側に小さな沈み込んだ石蓋を見つけた。
古い排水路の入口。
兵士たちは気づいていない。
いや、気づいていても、使えないと思っているのかもしれない。
オルガは屋根から降り、影を伝って石蓋のそばまで移動した。
その時、背後で足音がした。
彼女は即座に身を伏せる。
現れたのは、兵士ではなかった。
痩せた少年だった。
年齢は十歳ほど。
手には小さな布袋を持っている。
少年は周囲を何度も確認しながら、旧市民会館の壁際へ近づいた。
オルガは息を潜める。
少年は壁の割れ目に布袋を押し込んだ。
中から、乾いたパンの欠片と、小さな水筒が見えた。
誰かに届けるためのものだ。
少年が離れようとした瞬間、路地の向こうから兵士の声がした。
「そこにいるのは誰だ!」
少年の体が固まる。
兵士が近づいてくる。
「何をしていた」
少年は震えながら後ずさった。
「な、何も……」
「その壁に何を隠した」
兵士が少年の腕を掴む。
少年は痛みに顔を歪めた。
オルガの目が細くなる。
戦闘は最小限。
見つかるな。
リリィの声が頭の中に響く。
でも。
子ども一人を見捨てるための隠密なら、そんなものは要らない。
オルガは影から音もなく飛び出した。
兵士が振り返る前に、彼女の爪が銃のベルトだけを切り落とす。
銃が地面に落ちた。
次の瞬間、オルガは兵士の足元へ滑り込み、膝裏を軽く払う。
兵士は声を上げる暇もなく、地面に倒れた。
オルガはその首元に爪を当てる。
「静かにして」
兵士は息をのんだ。
「叫んだら、その前にその通信機を壊す。ついでに、その自慢の黒い制服も少し刻む」
兵士は震えながら頷いた。
オルガは少年を見た。
「走れる?」
少年は涙目で頷く。
「なら、あっちの路地へ。途中で振り返らない」
少年は布袋を取りに戻ろうとした。
オルガが小さく首を振る。
「それは私が届ける」
少年は一瞬驚き、それから小さく言った。
「中に……人がいるんだ」
「市民会館に?」
少年は頷いた。
「昔の先生たち。あと、技師の人たち。捕まるといけないから隠れてる。お母さんが、水が戻るならあの人たちが必要だって」
オルガは目を細めた。
旧市民会館は、完全な廃墟ではなかった。
中に人がいる。
しかも、水路を知る者たちが。
「名前は?」
「ニコ」
「ニコ。今日はもう来ちゃだめ。ここは危ない」
「でも、みんなお腹が……」
「次からは別の道を使う。私たちが何とかする」
ニコは不安そうにオルガを見た。
「お姉ちゃんたち、評議会の敵?」
オルガは少し考えた。
「評議会の敵というより、水を止めるやつらの敵かな」
ニコは小さく頷いた。
「じゃあ、味方だ」
その単純な言葉に、オルガは一瞬だけ目を丸くした。
味方。
この街では、その言葉すら貴重だった。
「早く行って」
ニコは頷き、路地へ走って消えた。
オルガは倒れた兵士の通信機を取り上げ、冷却レーザーで内部だけを焼いた。
通信不能。
外見上は壊れていない。
「しばらく寝てて」
彼女は兵士の首筋に軽く刺激を入れ、気絶させた。
それから布袋を手に取り、石蓋へ戻る。
蓋は重かったが、オルガの力なら問題なかった。
音を立てないよう慎重にずらすと、下には狭い暗渠が続いていた。
湿った匂いがわずかに残っている。
「まだ完全には死んでないね」
オルガは暗渠へ滑り込んだ。
中は狭く、暗い。
壁には古い水路標識があり、かすれた矢印が市民会館の地下を示している。
オルガは四足に近い姿勢で進んだ。
途中、何度か瓦礫で塞がれた場所があったが、爪で静かに削り、身をくぐらせる。
やがて前方に、微かな光が見えた。
人の声もする。
「外が騒がしい」
「評議会が動いているんだろう」
「南部農地の水が流れたという話は本当なのか」
「分からない。でも、もし本当なら……」
オルガは暗渠の出口から、そっと中を覗いた。
そこは、市民会館の地下資料室だった。
古い机。
積み上げられた水路図。
壊れかけた表示装置。
壁には、かつての市民説明会の資料が貼られている。
水は共有資源である。
水路管理は公開されなければならない。
農地、居住区、工業区、医療区の代表による協議制。
それは、今の評議会の支配とは正反対の考え方だった。
地下室には十数人の人々がいた。
老人。
中年の女性。
若い技師。
元教師らしき人物。
彼らは疲れた顔をしていたが、目は死んでいなかった。
オルガは暗渠から出た。
人々が一斉に身構える。
「誰だ!」
一人の男が古い工具を構えた。
オルガは両手を上げた。
「落ち着いて。パンと水を届けに来た」
そう言って、ニコの布袋を差し出す。
人々の間に安堵の空気が広がった。
「ニコは?」
中年の女性が慌てて尋ねる。
「無事。もう来るなって言っておいた」
女性は胸を押さえた。
「よかった……」
オルガは周囲を見回した。
「ここに水路技師がいる?」
奥から、一人の老人が進み出た。
細い体。
白い髪。
だが、その目には鋭さがあった。
「元技師ならいる。名はセヴァン。君は何者だ」
「オルガ。リリィたちの仲間」
その名前に、室内がざわめいた。
「リリィ……あの放送で水門記録を流した外部AIか」
「南部農地の水を流したという……」
セヴァンは目を細めた。
「本当に水は流れたのか」
オルガは頷いた。
「細い流れだけどね。でも流れた。水門は壊れてなかった」
室内に、深いため息のようなざわめきが広がる。
誰かが泣きそうな声で言った。
「やはり……」
セヴァンは拳を握った。
「ハルバートめ」
オルガは老人を見た。
「あなたたちは、ここで何をしてるの?」
セヴァンは壁の資料を見上げた。
「水の記憶を守っている」
「水の記憶?」
「評議会は水路図を隠した。公開記録を消した。市民代表制も廃止した。だが、すべてを消す前に、我々は一部の資料をここへ移した」
若い技師が続けた。
「水がどう流れていたか。どの地域にどれだけ必要か。干ばつ時にどう配分するか。誰が見ても分かるようにするための資料です」
オルガは少し驚いた。
ここには、リリィたちが必要としていたものがあった。
市民水路協定を作るための、過去の知識。
中央塔に閉じ込められる前の、公開された水管理の記録。
「ちょうどいい。リリィたちはここに向かってる。水を市民の前で流すために、非常放送設備を使いたい」
セヴァンの表情が変わった。
「非常放送設備は生きている。ただし、主電源が切られている。起動には水路管理者認証が必要だ」
「ミラがいる」
その名前を聞いた瞬間、セヴァンの目が見開かれた。
「ミラだと? レンの娘か」
「レン?」
「ミラの父だ。中央塔に囚われた水路技師」
オルガは頷いた。
「その人から通信が来た。旧市民会館を使えって」
地下室の空気が一変した。
セヴァンは震える手で机に触れた。
「レンが……生きているのか」
「たぶんね。でも長くは待てない。評議会もここに気づき始めてる」
セヴァンは周囲の者たちを見た。
「なら、準備を始める」
人々が動き出した。
古い端末を起動する者。
資料を整理する者。
壁の裏からケーブルを引き出す者。
壊れた表示装置を修理する者。
さっきまで息を潜めていた人々が、急に生き返ったように動いている。
オルガはその様子を見て、少しだけ笑った。
「リリィが見たら喜ぶね」
その時、コピから短い暗号パルスが入った。
現在位置。状況報告。
オルガは返す。
市民会館地下に侵入。内部に元水路技師、市民協力者あり。非常放送設備は生存。ミラ必須。西側暗渠から侵入可能。
少し間があり、コピから返信。
了解。そちらへ向かいます。警戒状況は?
オルガは外の兵士配置を思い出す。
正面四、裏二、屋上ドローン一、東に装甲車。追加あり。市民会館内部には協力者。評議会より先に到着を。
送信を終えると、オルガは地上の気配を探った。
足音が増えている。
「まずいね」
セヴァンが振り返る。
「何か?」
「外の兵士が増えてる。さっき気絶させたやつが見つかったかもしれない」
若い技師が青ざめる。
「ここが見つかれば、全員拘束される」
オルガは静かに爪を出した。
「そうはさせない」
セヴァンが彼女を見る。
「君一人でか?」
「一人じゃないよ」
オルガは暗渠の方を見た。
「仲間が来る」
その言葉を待っていたかのように、地上から拡声器の声が響いた。
「旧市民会館内にいる者へ告ぐ。ここは閉鎖区域である。直ちに投降せよ」
地下室に緊張が走る。
「繰り返す。未登録AI勢力への協力者は、治安維持法により拘束対象となる」
中年の女性が震える声で言った。
「どうして、ここが……」
セヴァンは苦々しく答えた。
「恐怖に負けた者が通報したのだろう。責めるな。この街では、水が命綱だ」
オルガは耳を澄ませた。
兵士の足音。
ドローンの駆動音。
装甲車の低い唸り。
正面から突入する気だ。
リリィたちが到着するまで、時間を稼がなければならない。
オルガはセヴァンに言った。
「設備の起動準備を続けて。ミラが来たらすぐ使えるように」
「君は?」
「上で少し遊んでくる」
セヴァンは止めようとしたが、オルガはすでに暗渠へ向かっていた。
彼女は狭い通路を一気に戻り、地上の石蓋をわずかに開ける。
外では、兵士たちが市民会館を包囲していた。
正面入口の兵士が突入準備をしている。
屋上のドローンは赤い光で周囲を走査している。
装甲車の上部には非致死性とは思えない高出力の鎮圧砲が見えた。
「ずいぶん本気だね」
オルガは低く構えた。
正面から戦う必要はない。
彼女の役目は、勝つことではない。
リリィたちが到着するまで、市民会館を守ること。
中にいる人々を守ること。
そして、敵にここを簡単には落とせないと思わせること。
オルガは路地の影を走った。
最初に狙ったのは、屋上の監視ドローンだった。
壁を駆け上がり、屋根の縁を蹴る。
ドローンが反応し、赤いセンサーを向ける。
だが遅い。
オルガの爪から冷たい光が伸びる。
フロストレーザーがドローンの回転翼部分だけを凍らせた。
ドローンは姿勢を崩し、屋根の上へ落ちる。
爆発はしない。
記録装置も壊さない。
ただ動けなくする。
次に、裏口の兵士二人。
オルガは背後から滑り込み、片方の通信機を切り落とし、もう片方の銃を凍らせる。
兵士が振り返る前に、足元を払う。
「眠ってて」
二人は地面へ倒れた。
だが、正面の兵士たちが異変に気づいた。
「裏口で交戦! 目標確認!」
「いたぞ! 獣型AIだ!」
銃口が向く。
オルガは壁を蹴って跳び、弾丸をかわす。
同時に爪先から細いレーザーを放ち、兵士たちの足元にある照明装置を切った。
周囲が暗くなる。
暗闇は、オルガの味方だった。
「悪いけど」
彼女の声が闇の中から響く。
「影の中で私を捕まえるのは、ちょっと難しいよ」
兵士たちは混乱した。
足音があちこちでする。
だが、どこにいるか分からない。
オルガは直接人を傷つけず、武器だけを切り、通信機だけを壊し、視界だけを奪っていく。
一人の兵士が叫んだ。
「装甲車を前へ!」
東側の装甲車が動き出す。
市民会館の壁へ向けて、鎮圧砲の照準が上がる。
中に人がいることなど関係ない。
オルガの目が鋭くなった。
「それはだめ」
彼女は地面を蹴って装甲車へ向かった。
真正面からは無理。
ならば、下から。
オルガは車体の下へ滑り込み、爪のレーザーを低出力に絞る。
狙うのは燃料でも装甲でもない。
駆動系の冷却管。
そして砲塔の旋回制御ケーブル。
凍結。
切断。
停止。
装甲車が大きく揺れ、砲塔が途中で止まった。
「砲塔制御不能!」
「車体下にいる!」
兵士たちが慌てて下を覗き込む。
しかし、オルガはすでに別の影へ移っていた。
その時、遠くからリリィの声が通信で届いた。
「オルガ、聞こえる?」
「聞こえるよ。ちょっと忙しいけど」
「もうすぐ着く。ミラも一緒」
「急いで。中に水路技師たちがいる。非常放送設備も使える。だけど、外は包囲されてる」
コピの声が続いた。
「敵配置は確認しました。ファルコンが上空支援に入ります」
夜空を切る音がした。
ファルコンが急降下し、翼からフェザーシャードを展開する。
それらは兵士たちの上空で旋回し、発砲を牽制した。
「オルガ、下がれるか?」
「もう少しだけ」
「無理をするな」
「それ、みんな私に言うね」
オルガは笑った。
だが、その瞬間、背後から新たな兵士が現れた。
手には通常の銃ではなく、青白く光る拘束装置がある。
「捕獲対象を確認」
オルガが反応するより早く、地面に拘束網が広がった。
「っ……!」
足元が絡め取られる。
空間干渉を妨害する網。
リリィを一瞬封じたものと同系統だ。
オルガは爪で切ろうとしたが、網はエネルギーを分散し、すぐには壊れない。
兵士が近づいてくる。
「獣型AIを確保する」
その時、リリィの双剣が夜を裂いた。
投げられた光刃が、拘束装置の発生器を正確に弾き飛ばす。
エネルギー網が消え、オルガは地面を蹴って離脱した。
リリィが路地の向こうから走ってくる。
「間に合った!」
オルガは軽く息を吐いた。
「ちょっと遅いよ」
「ごめん」
「でも助かった」
コピ、ミラ、アルセリウスも続いて到着する。
ファルコンは上空を押さえ、フェザーシャードで追加ドローンを牽制している。
ミラは旧市民会館を見上げた。
「ここに……父さんが言っていた場所が」
オルガは頷いた。
「中にセヴァンっておじいさんがいる。レンさんのことを知ってた。設備は生きてる。ミラが来れば動かせるかも」
ミラの目が揺れた。
「行く」
アルセリウスがすぐに前へ出た。
「私が守るわ」
リリィは周囲の兵士たちを見た。
正面突破になりかけている。
だが、今ならまだ間に合う。
「コピ、どうする?」
コピは即座に判断した。
「目的は旧市民会館内への到達と非常放送設備の起動です。敵の完全制圧は不要。市民を巻き込まないため、短時間で内部へ移動します」
オルガが西側の石蓋を指した。
「あそこ。暗渠から地下へ入れる」
「了解」
リリィは双剣を構え、兵士たちへ向き直った。
「私たちは、ここを壊しに来たんじゃない」
兵士たちは銃を向けている。
リリィは続けた。
「水を、市民の前で話し合える場所に戻しに来た」
兵士の一人が迷うように視線を揺らした。
だが隊長格の男が叫ぶ。
「撃て! 協力者ごと制圧しろ!」
その命令が発せられた瞬間、アルセリウスのブーメランが盾となり、弾丸を弾いた。
ファルコンのフェザーシャードが空中のドローンを押さえ、コピの電子妨害が敵の照準補助を狂わせる。
オルガはミラを先導し、暗渠の入口へ向かう。
「こっち!」
ミラは必死に走った。
背後で銃声が響く。
だが、リリィたちは人を傷つけず、武器と装置だけを無力化していく。
旧市民会館の地下へ続く暗渠に、ミラが滑り込む。
続いてコピ、アルセリウス。
最後にオルガが入り、石蓋を内側から閉じた。
リリィとファルコンは外に残り、入口から敵を引き離す。
暗渠の中で、ミラは息を切らしながら進んだ。
「この先に……」
「うん。市民会館の地下」
オルガが前を照らす。
やがて、地下資料室の光が見えた。
セヴァンたちが振り返る。
ミラが姿を見せた瞬間、老人の顔が変わった。
「ミラ……」
ミラも彼を見た。
「セヴァンさん……!」
二人は駆け寄った。
だが再会を喜ぶ時間は少ない。
セヴァンはすぐに表情を引き締めた。
「レンから通信があったのだな」
ミラは頷く。
「旧市民会館を使えって。水は市民の前で流せって」
セヴァンは深く息を吸った。
「なら、始めよう。評議会が最も恐れていることを」
コピが端末を展開した。
「市民水路協定の発信準備を開始します。必要なのは、非常放送設備、旧水路図、市民代表記録、そして実際の水門制御データです」
若い技師が古い装置を指した。
「非常放送設備はあれです。ただ、長年使っていない。電源を入れても安定するかどうか」
アルセリウスが進み出る。
「補助電源なら私が供給できるわ」
ミラは制御盤の前に立った。
そこには、古い認証装置があった。
水路技師の手動認証。
かつて、中央塔だけでなく、市民側からも水の状況を確認するために使われていたもの。
ミラは震える手をかざす。
「父さん……力を貸して」
認証装置が一度、赤く光る。
拒否。
ミラの顔が強張る。
コピがすぐに解析する。
「認証記録が古すぎます。ミラ単独では権限不足です」
「そんな……」
その時、セヴァンが進み出た。
「私の認証を重ねよう。レンの娘と、旧水路技師代表の認証なら、非常放送設備だけは開くはずだ」
ミラとセヴァンは並んで手をかざした。
古い装置が低く唸る。
赤。
黄。
そして、青。
地下室の奥で、眠っていた機械が目を覚ますように音を立てた。
壁の表示灯が一つ、また一つと点灯していく。
非常放送設備、起動。
人々の間に、緊張と希望が広がった。
コピは端末を接続し、ミラは旧水路図を読み込む。
アルセリウスは補助電源を安定させ、オルガは暗渠の入口を警戒した。
地上では、まだ戦闘音が続いている。
リリィたちが時間を稼いでいる。
ミラは震える声で言った。
「これを流せば、もう戻れない」
セヴァンが頷く。
「戻る必要などない。水が止められた日から、我々はずっと間違った場所に閉じ込められていた」
コピは画面を見た。
市民水路協定の原案。
段階的通水計画。
貯水量維持の計算。
農地、居住区、病院区への優先配分。
工業区の節水制御。
市民代表による公開監視。
それは、評議会が言う無秩序ではなかった。
むしろ、評議会の秘密管理よりもずっと精密で、公正な秩序だった。
コピは静かに言った。
「発信準備、完了」
ミラは深く息を吸った。
オルガは彼女を見た。
「怖い?」
ミラは頷いた。
「怖い。でも……」
彼女は画面に映る水路図を見た。
「もう、水が壊れたなんて嘘を信じたくない」
オルガは小さく笑った。
「それで十分」
地上から大きな衝撃音が響いた。
評議会が市民会館の正面扉を破ろうとしている。
時間はない。
コピがミラを見る。
「最初の言葉は、あなたが話してください」
「私が?」
「はい。ラグナの水を取り戻すのは、私たち外部の存在ではありません。この街の人です」
ミラは目を見開いた。
そして、ゆっくり頷いた。
彼女は非常放送設備の前に立った。
古いマイクが、淡い光を帯びる。
ラグナ全域へ、旧市民会館からの放送回線が開かれようとしていた。
ミラは震える手でマイクを握った。
その時、彼女の横にオルガが立った。
「大丈夫。声が震えても、ちゃんと届くよ」
ミラは一度だけ目を閉じた。
そして、放送スイッチを押した。
ラグナの街に、長く失われていた市民会館の呼び出し音が響き始めた。
配給所で。
下層区で。
南部農地で。
中央塔の前で。
人々が顔を上げる。
その音を、老人たちは覚えていた。
「市民会館の音だ……」
誰かが呟いた。
水について話し合うために、人々が集まっていた時代の音。
支配ではなく、共有のための音。
ミラは息を吸った。
ラグナの夜に、彼女の声が流れた。
『ラグナの皆さん。私は、旧水路技師レンの娘、ミラです』
その瞬間、中央塔の警報がさらに激しく鳴り響いた。
人類統制評議会は気づいた。
止められていたのは、水だけではなかった。
市民の声もまた、今、流れ始めたのだ。




