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第56話 沈黙する農地

夜のラグナは、昼よりも静かだった。


けれど、その静けさは安らぎではない。


街路には最低限の灯りしかなく、配給所の前には空になった容器を抱えた人々が、疲れ切った表情で座り込んでいた。

監視塔の上では赤い光がゆっくりと回り、空には評議会の巡回ドローンが低い音を響かせながら飛んでいる。


水源都市。


そう呼ばれる街のはずなのに、夜気は乾いていた。


リリィたちは、ミラの案内で下層区へ向かっていた。


大通りを避け、古い建物の裏を抜け、使われなくなった排水路の脇を進む。

ファルコンは上空から監視ドローンの位置を確認し、オルガは先行して物音を探る。

コピは周囲の監視網に干渉し、リリィとアルセリウスはミラを守るように歩いていた。


「この先に、圧力調整弁があるの?」


リリィが小声で尋ねる。


ミラは頷いた。


「昔は、下層区と農地側へ水を分けるための調整設備だった。今はほとんど使われていないことになってる」


「ことになってる?」


「実際には、まだ動いてる。評議会が水の流れを細かく制御するためにね」


ミラの声には、怒りを抑えたような硬さがあった。


「水を止めるにも、完全に止めるだけじゃだめなの。少しだけ流して、完全には死なせない。人々が反抗できないくらい弱らせる。でも、すぐに暴動が起きないくらいには生かす」


オルガが低く言った。


「嫌なやり方だね」


「この街では、それが秩序って呼ばれてる」


ミラの言葉に、リリィは何も返せなかった。


第一部で出会った荒廃した土地は、ただ苦しんでいた。

水がなく、土が乾き、命が消えかけていた。


けれどラグナは違う。


水はある。

施設もある。

技術もある。


それなのに、人の手によって水が止められている。


自然が壊れているのではない。

自然と人の間にある流れが、意図的に断ち切られている。


それが、この街の苦しみだった。


やがて一行は、古い石造りの建物の前に着いた。


低い壁に囲まれた小さな施設。

入り口には錆びた看板がかかっている。


**第七圧力調整所**


文字はかすれていたが、建物そのものはまだ生きていた。

壁の奥から、低い振動音が聞こえる。


ミラは周囲を確認し、端末を取り出した。


「ここから入る」


彼女が認証装置に端末をかざすと、扉の表示が一瞬だけ揺れた。

だが、すぐに赤い警告が浮かび上がる。


**権限不足。**


ミラは唇を噛んだ。


「やっぱり、また権限が削られてる」


コピが横から端末を接続した。


「認証記録を確認します。ミラの技術者権限は、三日前にさらに制限されています」


「三日前?」


リリィが聞き返す。


ミラは顔をしかめた。


「配給所で、兵士に反論した日」


オルガの目が細くなった。


「見せしめだね。水だけじゃなく、仕事も奪う」


コピは指先を動かし、認証装置の信号を解析した。


「強制解除は可能です。ただし、警報が中央塔へ送信される可能性があります」


ファルコンが上空から通信を入れる。


「周囲に巡回ドローン二機。三分後に死角ができる」


アルセリウスが扉に手を添えた。


「なら、警報を出さずに入る必要があるわね」


コピは静かに頷いた。


「旧式の保守用回線が残っています。ミラの端末と私の解析を組み合わせれば、正規点検として偽装できます」


ミラは驚いたようにコピを見た。


「そんなこと、できるの?」


「できます。ただし、あなたの過去の点検記録が必要です」


ミラは一瞬だけ迷い、それから端末を差し出した。


「使って」


コピは端末を受け取り、ミラの点検記録を読み込んだ。


古い記録。

手書きの修正。

父から受け継いだ技術メモ。

水圧の癖。

弁の反応時間。

配管ごとの振動音の違い。


そこには、ただの数値ではないものが残されていた。


この街の水を知る人間の記憶。


コピは一瞬、画面を見つめたまま止まった。


「これは……非常に精密な記録です」


ミラは少し目を伏せた。


「父が教えてくれた。水路は数字だけじゃ分からないって。音とか、揺れとか、匂いとか……そういうのも全部見るんだって」


コピは静かに頷いた。


「あなたのお父様は、優れた技術者です」


ミラは答えなかった。


けれど、その横顔は少しだけ揺れていた。


やがて、扉の認証ランプが赤から黄へ、そして青へ変わった。


小さな音とともに、扉が開く。


「入れます」


コピが言った。


リリィたちは、暗い調整所の中へ足を踏み入れた。


内部はひんやりとしていた。


壁には太い配管が走り、床の下から水の振動が伝わってくる。

制御盤の一部は古びていたが、まだ稼働している。

天井には点検用の小さな照明が並び、ところどころで青白く明滅していた。


ミラは中央の制御盤へ向かい、端末を接続する。


「ここから、水門の状態を確認できるはず」


コピも隣に立ち、自分の端末を展開した。


「中央塔との接続が弱まるまで、あと四十二秒」


ファルコンから通信が入る。


「外の巡回ドローンが通過した。今なら三分ほど余裕がある」


オルガは入り口付近に立ち、耳を澄ませた。


「足音はない。でも油断しないで」


リリィは制御盤に浮かび上がる水路図を見つめた。


そこには、ラグナの地下を巡る水の道が表示されていた。


貯水施設から伸びる主水路。

市民区へ向かう生活水路。

工業区へ送られる冷却水路。

そして、街の外へ広がる農地へ向かう用水路。


本来なら、青い線が網のように広がっているはずだった。


だが、画面に映る多くの線は灰色に沈んでいた。


停止。

制限。

遮断。

手動封鎖。


リリィは目を見開いた。


「こんなに止められてるの……?」


ミラは奥歯を噛みしめた。


「下層区だけじゃない。農地側も、ほとんど水が行ってない」


「農地って、ラグナの外にある?」


アルセリウスが地図を拡大する。


「南側の外縁農地ね。昔はラグナの水で穀物と野菜を育てて、周辺都市にも食料を送っていた場所よ」


コピはデータを読み取った。


「現在の供給量は、設計時の十八パーセント以下。これでは作物維持は困難です」


「でも、食料配給は行われているんだよね?」


リリィが尋ねる。


「はい。しかし配給元は評議会管理倉庫に集中しています。農地の自立生産は意図的に低下させられている可能性があります」


オルガが苦々しく笑った。


「水を止めて農地を弱らせる。食べ物も自分たちからもらうしかなくする。完璧な支配だね」


ミラは震える声で言った。


「南の農地には、まだ人が残ってる。みんな、いつか水が戻るって信じて、畑を捨てずにいる」


リリィは画面の灰色の線を見つめた。


水が止められている。


それは、ただ畑が乾くという意味ではない。


土が死ぬ。

作物が消える。

人々が街へ流れ込む。

配給所に並ぶ。

水と食料を握る者に従うしかなくなる。


水を止めることは、未来を止めることだった。


「コピ、農地側の水門を少しだけ確認できる?」


「可能です。ただし開放は危険です。水量変化を中央塔に検知されます」


ミラがすぐに言った。


「開けなくていい。状態だけ確認したい。もし主水門が完全に壊されていたら、別の経路を探さないといけないから」


コピは頷き、旧式回線から水門の情報を引き出した。


画面に、新たな表示が浮かぶ。


**南部第一用水門:閉鎖。機械状態、正常。**

**南部第二用水門:閉鎖。機械状態、正常。**

**南部第三用水門:閉鎖。機械状態、正常。**

**外縁農地補助水路:閉鎖。機械状態、正常。**


ミラが息をのんだ。


「壊れてない……」


リリィが彼女を見る。


ミラは目を見開いたまま、画面を見つめていた。


「壊れてなかったんだ。ずっと、壊れたから水が来ないって言われてた。修理には資材が足りないって。だから我慢しろって」


コピの声が静かに続いた。


「記録上、南部農地への水門閉鎖は、評議会発令によるものです。理由は、水資源保護および治安上の危険区域指定」


ミラの手が震えた。


「嘘だった……」


その声は小さかった。


けれど、その中には、長い間押し殺してきた怒りと悲しみが混じっていた。


「みんな、壊れたって信じてた。だから直るまで耐えようって。父も、きっと直せるって言って……それで、中央塔に抗議して……」


リリィはミラの肩にそっと手を置いた。


「ミラ」


ミラは唇を噛みしめた。


「水門は壊れてなかった。壊されていたのは、私たちの方だったんだね」


その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。


その時、コピの端末に警告が走った。


「中央塔との接続が戻ります。あと十五秒」


ミラは慌ててデータを保存しようとする。


「待って、農地側の記録を全部……!」


「保存中です」


コピの指が素早く動く。

水門状態、閉鎖命令、流量記録、配給政策との相関、中央塔の署名情報。


それらが暗号化され、複数の記録媒体へ分散保存されていく。


「残り五秒」


ファルコンから通信が入る。


「外に新しいドローン。予定より早い」


オルガが扉に向かう。


「見つかった?」


「まだ。しかし警戒レベルが上がっています」


コピは最後のデータを保存し、接続を切断した。


「完了。痕跡を最小化しました」


ミラは深く息を吐いた。


だが、安心するには早かった。


施設の外で、機械音が近づいてくる。


ファルコンが低く言った。


「巡回ドローン二機。いや、三機。さらに地上部隊が来ている」


オルガが爪を出した。


「どうする?」


リリィは一瞬考えた。


ここで戦えば、評議会にミラの協力が知られる。

逃げるだけなら、証拠を持ち帰ることはできる。

だが、農地の状況を直接見なければ、次の一手は決められない。


「農地へ向かおう」


リリィは言った。


ミラが驚く。


「今から?」


「うん。水門が壊れていないなら、農地の人たちに知らせないと。水がない理由を、ちゃんと伝えなきゃ」


アルセリウスが頷く。


「真実は、早く届けるべきね。評議会に先に動かれたら、証拠を消されるかもしれない」


コピが施設の裏側を表示する。


「旧点検用通路があります。南部農地方面へつながっています。老朽化していますが、通行可能です」


オルガが笑った。


「こういう道は得意だよ」


ミラは少し迷ったが、すぐに顔を上げた。


「案内する。父と何度か通ったことがある」


リリィたちは、調整所の奥にある狭い扉を開いた。


そこには、低い地下通路が続いていた。

古い配管に沿って伸びる点検路。

壁には苔の跡があり、かつてここにも湿り気があったことを示している。


今は乾いている。


リリィたちは身をかがめながら、その通路を進んだ。


背後で、調整所の正面扉が乱暴に叩かれる音が聞こえた。


「評議会だ」


ミラが小さく言う。


オルガが最後尾で扉を閉めた。


「急ごう」


通路の中は暗かった。


コピの端末が淡い光を放ち、足元を照らす。

ファルコンは翼を畳み、狭い通路を慎重に進む。

オルガは耳を澄ませ、追跡音を確認していた。


しばらく進むと、空気が変わった。


乾いた土の匂い。

枯れた草の匂い。

遠くから吹き込む夜風。


出口が近い。


ミラが古い鉄扉を押し開けると、外の空気が流れ込んできた。


そこに広がっていたのは、沈黙する農地だった。


月明かりの下、広大な畑が広がっている。


だが、そこに緑は少なかった。


乾いた畝。

ひび割れた土。

倒れた支柱。

水のない用水路。

枯れかけた作物。


ところどころに人家の灯りが見える。

畑を捨てずに残っている人々がいるのだろう。


けれど農地全体は、まるで息を潜めているようだった。


リリィは、その光景に言葉を失った。


第一部で見た荒れ地と似ている。


でも、違う。


ここは、本来なら水が届く場所だった。

命が育つはずの場所だった。


自然に見捨てられたのではない。

人の手で沈黙させられた農地だった。


「ここが……南部農地」


ミラの声はかすれていた。


「昔は、夜でも水の音がしてた。用水路に蛍がいて、朝になると畑に霧が出て……」


彼女は言葉を止めた。


その記憶と、目の前の現実があまりにも違いすぎたからだ。


アルセリウスが土を手に取り、指の間で崩した。


「表面は乾いているけれど、完全には死んでいないわ。深いところにはまだ微生物の反応がある」


リリィの胸元の自然回復型結晶が、淡く光った。


彼女は畑の中央へ歩み出る。


「少しなら、回復できるかもしれない」


リリィが結晶に手を当てると、柔らかな緑の光が広がった。


光は土の表面に染み込み、枯れかけた草の葉をわずかに起こす。

ひび割れた地面の一部が、ほんの少しだけ柔らかさを取り戻した。


ミラが息をのむ。


「すごい……」


だが、コピは冷静に分析した。


「効果範囲は限定的です。水分供給がなければ、持続回復は困難です」


リリィも分かっていた。


結晶の力で、一時的に癒すことはできる。

でも、水が巡らなければ、土はまた乾く。


自然回復型結晶は奇跡の道具ではない。

循環を助ける力であって、循環そのものの代わりにはならない。


リリィは光を止めた。


「やっぱり、水が必要なんだ」


その時、畑の奥から声がした。


「誰だ」


低い声。


リリィたちが振り返ると、数人の農民が立っていた。

手には鍬や古い作業道具を持っている。

武器と呼ぶには弱い。

けれど、彼らは警戒した目でリリィたちを見ていた。


その中の一人、白髪混じりの男性が前に出る。


「ミラか」


ミラは驚いたように顔を上げた。


「ダレンさん」


「こんな夜に何をしている。しかも、見慣れない者たちを連れて」


ミラは説明しようとしたが、言葉に詰まった。


リリィが一歩前へ出る。


「私たちは、この農地の水が止められている理由を調べに来ました」


農民たちの表情が険しくなる。


「水が止まっている理由など、分かっている」


ダレンと呼ばれた男性が言った。


「水門が壊れた。修理の資材がない。評議会はそう言っている」


ミラが首を振った。


「違う。水門は壊れてない」


農民たちがざわめく。


ミラはコピが保存した記録を映し出した。


南部第一用水門、正常。

南部第二用水門、正常。

南部第三用水門、正常。

閉鎖命令、人類統制評議会ラグナ支部。


農民たちは、画面を見つめた。


誰もすぐには信じられないようだった。


「嘘だ……」


若い農夫がつぶやく。


「そんなはずない。だって、修理待ちだって……」


別の女性が震える声で言った。


「私たちは、ずっと待っていたのに」


沈黙が落ちた。


その沈黙は、配給所で見たものと似ていた。

けれど、少し違う。


そこには、恐怖だけではなく、裏切られた痛みがあった。


ダレンは画面を睨みつけたまま、低く言った。


「証拠は本物か」


コピが答える。


「中央塔の署名情報と水門状態記録を含んでいます。改ざんの可能性は低いです」


「AIの言葉を信じろと?」


その言葉に、空気が硬くなった。


リリィはダレンを見た。


彼の目には、敵意だけでなく疲れがあった。


外部から来る者。

支援を名乗る者。

新しい技術を持ち込む者。


きっと、この農地は何度も期待させられ、裏切られてきたのだろう。


「すぐに信じなくていいです」


リリィは言った。


ダレンが眉をひそめる。


リリィは続けた。


「私たちは、皆さんの代わりにこの農地を救うとは言いません。そんなことはできないから」


農民たちは黙って聞いていた。


「でも、水が止められていることは確かめました。水門は壊れていません。なら、次に必要なのは、ここにいる人たちが真実を知って、どうするかを選ぶことです」


ダレンは厳しい声で言った。


「選ぶ? 反抗すれば配給を止められる。子どもがいる家もある。年寄りもいる。選べと言われても、失うものばかりだ」


「分かります」


「分かるものか」


ダレンの声が少し荒くなった。


「外から来た者に、この土地の何が分かる。水を待ちながら種を蒔き、芽が出る前に枯れていくのを見続ける気持ちが分かるのか」


リリィは言葉を失いかけた。


でも、目を逸らさなかった。


「全部は分かりません」


彼女は正直に言った。


「でも、この土がまだ死んでいないことは分かります」


リリィは地面に膝をつき、土に触れた。


「この土は、まだ生きようとしています。水が戻れば、もう一度芽を出せる。皆さんが守ってきたから、完全には死んでいない」


ダレンの表情がわずかに変わった。


アルセリウスも続けた。


「畑を捨てなかったことには意味があります。表層は乾いていても、深層の微生物反応は残っています。再生は可能です」


ミラがダレンを見た。


「ダレンさん。お願い。もう少しだけ信じて。私も、父も、この水路がまだ生きてるって信じて調べてきた」


ダレンは長く沈黙した。


遠くで、乾いた風が用水路を吹き抜ける。


やがて彼は、ゆっくりと鍬を下ろした。


「……何をするつもりだ」


その問いに、コピが答えた。


「まず、小規模な試験通水を行います。中央塔に検知されにくい補助水路を使い、短時間だけ水を流します。目的は、土壌の吸水状態と水路の損傷確認です」


ミラが驚いてコピを見た。


「そんなことできるの?」


「完全な開放は危険ですが、点検信号として偽装すれば、短時間の圧力変動は隠せます」


オルガが笑った。


「ただし、邪魔が入る前に終わらせる必要があるね」


ファルコンが上空へ飛び立った。


「周辺警戒は任せろ」


ダレンは農民たちを振り返った。


彼らは不安そうだった。

だが、その目の奥には、消えかけていた何かが戻り始めている。


希望。


あまりにも危うく、壊れやすいもの。

それでも、人を立たせるもの。


ダレンは静かに言った。


「補助水路なら、古い開閉弁が畑の東にある。昔は手動でも動かせた」


ミラが頷く。


「案内して」


一行は、畑の東側へ向かった。


そこには、半分土に埋もれた古い開閉弁があった。

金属部分は錆びていたが、完全には壊れていない。


オルガが周囲の土を掘り、アルセリウスが弁の状態を確認する。

コピは制御信号を偽装し、ミラは手動開閉の手順を思い出しながら装置に触れた。


「昔、父と一緒に回したことがある」


ミラの声は震えていた。


「重いけど、動くはず」


リリィは彼女の隣に立った。


「一緒にやろう」


ミラは頷いた。


二人で弁に手をかける。


錆びついた金属は、最初はびくともしなかった。

オルガが横から力を貸し、ダレンも無言で加わった。


農民たちも、一人、また一人と近づいてくる。


「押せ」


「ゆっくりだ」


「急に開けるな。水路が割れる」


誰かがそう言った。


それは、久しぶりに農民たちが水路のために声を合わせた瞬間だった。


ぎぎ、と鈍い音がする。


弁が動いた。


コピが端末を見つめる。


「圧力変動、許容範囲内。中央塔への偽装信号、維持しています」


ミラが息を止める。


さらに弁が回る。


そして。


暗い用水路の奥から、音がした。


最初は、かすかな響きだった。


石の底を何かが撫でるような音。

次に、細い流れが見えた。


月明かりを受けて、銀色に光る水。


それは、ほんのわずかな量だった。


大地を一気に潤すには足りない。

枯れた畑をすぐに蘇らせるほどではない。


けれど、確かに水だった。


農民たちが息をのむ。


ミラは目を見開き、声も出せずにその流れを見つめていた。


水は用水路の底をゆっくりと進み、乾いた土に触れた。


じわり、と土の色が変わる。


リリィの胸元の結晶が淡く光った。


彼女は手をかざした。


緑の光が、水とともに土へ広がっていく。


枯れかけていた小さな芽が、わずかに起き上がった。


それを見た農民の女性が、口元を押さえた。


「水だ……」


別の若者が膝をついた。


「本当に、流れた……」


ダレンは、ただ黙って水路を見ていた。


その目には涙があった。


「壊れていなかったんだな」


彼はつぶやいた。


「俺たちの水路は……まだ、生きていたんだな」


リリィは、その言葉を聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。


これは勝利ではない。


ほんの短い試験通水。

評議会に見つかれば、すぐに止められるかもしれない。

水量も少なく、農地全体を救うには程遠い。


それでも、この瞬間は大きかった。


水が流れると、人の心も動く。


沈黙していた農地が、わずかに息を吹き返した。


だが、その希望は長くは続かなかった。


ファルコンから緊急通信が入る。


「評議会部隊が接近。車両二台、ドローン四機。こちらへ向かっている」


コピの端末にも警告が表示された。


「中央塔が圧力変動を検知した可能性があります。偽装信号が破られました」


ミラの顔が青ざめる。


「そんな……早すぎる」


オルガは前に出た。


「来るなら迎えるしかないね」


リリィは水路を見た。


まだ水は流れている。

細く、弱く、それでも確かに。


ここで逃げれば、農民たちは見せしめにされるかもしれない。

戦えば、評議会はさらに強硬になるかもしれない。


判断しなければならない。


リリィは、ダレンと農民たちを見た。


「皆さんは隠れてください」


ダレンは首を振った。


「この畑は、俺たちの畑だ」


「でも危険です」


「危険だからと黙っていた結果が、これだ」


ダレンは水路を見た。


「水があると知ってしまった。もう、知らなかった頃には戻れない」


農民たちも、恐れながらも頷いていた。


リリィはその顔を見た。


第一部で学んだこと。


世界は数人では救えない。

外から来た者だけでは、本当の再生はできない。


立ち上がるのは、その土地に生きる人々自身でなければならない。


リリィは静かに頷いた。


「分かりました。でも、無理はしないでください。私たちは、皆さんを守るために前に出ます」


コピがドローンを展開する。


「防御配置を取ります。目的は敵の無力化。農民への被害を最小限に抑えます」


オルガの爪に冷たい光が宿る。


「久しぶりに、ちゃんと暴れられそうだね」


ファルコンが夜空から降下し、翼からフェザーシャードを展開した。


「ドローンは任せろ」


アルセリウスの腕部から、エネルギーブーメランが静かに浮かび上がる。


「水路の防衛線を作るわ」


リリィは双剣を抜いた。


デュアルソード・リターンエッジが、月明かりの中で淡く輝く。

胸元の自然回復型結晶は、流れる水に呼応するように緑の光を放っていた。


遠くから、車両の音が近づいてくる。


黒い制服。

強いライト。

評議会の紋章。


水を止めた者たちが、流れ始めた水を止めるために来る。


リリィは、用水路の前に立った。


背後には、細く流れる水。

その向こうには、畑を守ろうとする人々。


彼女は静かに剣を構えた。


「この水は、誰かを支配するためのものじゃない」


車両のライトが、リリィたちを照らした。


評議会の兵士たちが武器を構える。


リリィは一歩も退かなかった。


「命を巡らせるためのものだよ」


沈黙していた農地に、再び水が流れ始めた。


そしてその流れを守るための、最初の戦いが始まろうとしていた。


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