狭き門
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
ノンに送り出されて、藍玉堂の地下の転送陣を使い王都の《青の子》の支部偽装に利用されている菓子店の二階へと移動したルゥテウスは、いつものように一階でせっせと開店準備をしている女性店員二人に軽く挨拶をしてから、ネイラー通りを王城方向に向かって歩き出した。
王都レイドスがある北サラドス大陸南部は、夏季の気候が特徴的で、緯度の高い地帯で高気圧が発達する東のアデン海側からの影響は殆ど受けない。
何故なら、王都から見て北西方向にあるマグダラ山脈から温かい空気が降りて来るからだ。
この山脈の反対側にあるダイレムを始めとするヴァルフェリウス公爵領南西地方は、この空気が西のバルク海から吹く西風とぶつかり、その際に湿気を帯びるので「鬱陶しい蒸し暑さ」となる。
逆に王都側は吹き下ろした温かい空気に抗するものが無い為に、乾いた空気がそのまま大陸南部を吹き流れる形となって、湿度の低い「爽やかな陽気」となる。
大陸南部ではあるが赤道にはそれなりに距離もある為に、この季節……いわゆる大陸南部の「夏」は気温が上がっても30度を上回る事は滅多に無い。
これがもっと大陸中部にあるドレフェス周辺の地方になると、大陸南西……丁度ダイレムの南辺りから北東方向に、まるで大陸に切り込むかのように続くマグダラ山脈との距離が近くなるので、アデン海の高緯度帯で発達した高気圧からの空気が山脈から下りて来る温かい空気に阻まれて、上空に巻き上げられる。
その結果、上空で更に冷やされたその空気が湿度を帯びた状態となって、この季節は雨量が多くなる。
しかし山脈からの温かい空気が地上付近の層でも支配的になるので「蒸し暑く」なり、気温も30度を超える日が続く。
王都よりも北にあるドレフェスの方が酷暑になりやすいのだ。
ちなみに……これが更に北にある領都オーデル周辺となると、マグダラ山脈の北端よりも北方となるので、山脈を源流とする西からの温かい空気は存在せず、東のアデン海側で発達している高気圧からの季節風だけが吹く。
それによって気温や湿度が上がらずに王都よりも過ごし易くなる。
この8月8日も朝からそれ程暑くなるわけでも無さそうで、ルゥテウスの服装も試験があった6月中旬と余り変わっていない。
彼は元々、常人とは違う精神と身体の強靭さを持っているので、この季節に薄着をせずとも汗をあまりかかない。
今日も筆記試験の初日に着ていたような着丈の長い藍色のジャケットと同色のスラックス、そして灰色のシャツに上着と同色の細いネクタイをしていた。
生地は相変わらず上質の亜麻布を使用しているので、一見するとこの季節に上麻生地被服を好む上流社会の人間に見え……なくもない。
彼はいつもカバン等のコンテナを持ち歩かない。服に付いている隠しを適当に異次元と繋げて「荷物」はそこから出し入れしている。
出し入れの際にはその周囲にだけ小さな結界が張られるので、不自然に大きな物が出入りしても怪しまれないようだ。
面接試験開始予定時刻は9時となっていて、どうやら彼は本日最初の組に入れられたようだ。
通常、この「最終試験」とも言える面接試験は軍務省や王都近隣の部隊から現役武官が面接官として派遣されて来る。階級的には概ね大尉もしくは中尉と上級尉官が多く、更にこの士官学校を卒業した者が担当するようになっている。
つまり一兵卒からの叩き上げで進級してきた尉官を面接官にする事は無い。
近年は国際紛争は勿論、国内においても概ね軍事力を振るう機会も無く平和な時が過ぎているので、この士官学校に関わる奉職は現役武官にとっては栄職と言われている。
自身のキャリアにおいて士官学校職員を経由することは決して悪いものでは無く、その任期を終えると概ね一つ上の階級への進級が伴うのが近年の慣例だ。
なので、その部分において「叩き上げ」の熟年士官が排除されているというのは、それ自体が「エリートコース」と目されている一つの理由となっている。
今日の士官学校校門前の環状一号道路及びそれに交差するケイノクス通りには、筆記試験の日のような通りを塞ぐ大混雑には至っていない。
理由としては、まず試験実施時間が有る程度分散されているからである。そしてもっと現実的な理由として筆記試験の時には通行の障害の大きな原因となっていた「貴族の見送り」が殆ど居ないからである。
自らの箔付けの為に安易な気分で受験に臨む上流社会の子弟は、概ね最初の筆記試験で弾かれる。これによって彼らは王立高等教育機関に求められる高い学力水準の現実を思い知らされる事になるのだ。
そういった事情から、本日の士官学校校門前は貴族の子弟を送って来た馬車の数もほんの僅かで、門とその周辺の柵にしがみついて可愛い我が子が見えなくなるまで見送っていたような連中もおらず、ルゥテウスは特に何か気を遣う事も無く校門からすぐ入った所に設置されていた試験受付で受験番号と氏名を告げて、案内係の在校生から試験場所である本校舎(南校舎)を案内された。
本校舎の二階にはその名の通り「面談室」が十部屋用意されている。
普段の学校生活においても教員と生徒が進路や成績について相談するのに使われている部屋で、この十の部屋を使って入学考査の最終面接が実施される。
試験は概ね一人一時間程度で、前述した外部から派遣されて来た20名の現役武官が交代で面接官を担当する。
面接を受ける順番は、主に筆記試験の成績順に日程が組まれるのだが、遠隔地に住む受験生には王都への移動日も考慮されてかなり早目に設定される場合もある。
但し、試験成績が合格点ギリギリの者はやはり優先から外される事が多く、8月の中旬以降に回される可能性もある。
そうなってしまうと、例え面接結果で入学考査の合格者に選ばれても、その通知が遠隔地に対して遅くなってしまうので、自身の合格を知ってから入学式までに再度上京するのが困難になってしまう。
よって、遠隔地……それも王都へ出るのに片道で十日以上掛かってしまうような受験者は合否の結果がもたらされるまで数日から十日程度の間、王都の安宿等に滞在してそれを待つ者も珍しくない。
最終試験の合格発表は士官学校の校門の脇にも掲示されるので、それを直接確認しに行くわけだ。
発表は毎年8月25日と決まっているので、その日は筆記試験日程では無いが再び校門前の環状一号道路が混雑する日でもある。
ルゥテウスは案内係から本校舎二階の四番面談室を指定され、部屋の前の廊下に置かれた長椅子に腰を下ろした。
時刻はまだ8時15分。試験開始にはまだ時間がかなりある。
この面談室が並ぶ本校舎二階は少々特殊な構造となっており、面談室のある区画だけがその部屋を挟むように廊下が二本存在する。
そして面談室には、それぞれの廊下から出入り出来る扉があり、北側の廊下は二階東端部にある職員室に裏側から繋がっている。
つまり、北側……校門側では無く中庭側の廊下は「面接官用」の通路となっており、面接官は受験者と顔を合せる事も無く、職員室から各面談室へ直行出来る仕組みになっている。
面接試験は、面接官が先に専用廊下から入室して一般廊下で待機している受験者を呼び込むという手順で開始されるわけだ。
東西一直線に伸びる面談室前の一般廊下側に用意された長椅子は部屋の前ごとに置かれており、ルゥテウスが左右を見渡すとこの時間から座っているのは彼だけでは無く、他にも四人程が腰を下ろして面接官に呼び出されるのを待っている。
尤も、試験開始予定時刻の二点鐘までは30分以上あり、この時間から待っている者達は早目に到着して予め心を整えておこうと思っているのだろう。
暫くそのままで待っていると、今一人……どうやら受験者が階段を上って来たようだ。
その足音が左側から聞こえ、徐々に自分に近付いて来る事を感じたルゥテウスは、閉じていた目を開いてその足音の主に視線を移した。
今、彼の前を通り過ぎようとしているその受験者は、《賢者の黒》とは明らかに異なる黒髪に白い肌をした貴族と思われる女性だ。
年齢はルゥテウスと同じかやや年下に思える程にまだ「少女」と言えるような顔立ちで通り過ぎる際に、一瞬だが紫色の瞳をこちらに向けて来た。ルゥテウスのような際立ったものでは無いが、美しい顔立ちだ。
ルゥテウスと視線が合うと、その瞳に明らかに何らかの心の動きを浮かべたその少女は、歩様も足音も変える事も無くそのままルゥテウスの右側へ去って行き、四つ先の面談室……八番面談室前の長椅子に腰を下ろした。
彼女の他にもルゥテウスの視界には二人の女子受験者が居るようで、男女比で考えてもそれほど受験者の性別割合に差は無いように思えた。
(ふむ……やはり聞いていたように女性の士官学校志望者は昔に比べてかなり増えているようだな)
それにしても、明らかに貴族と思える服装で、しかも女性だ。「それなり」に何か事情を抱えているのだろうか。
尚武の家に生まれたが相続者が女性である自分だけとか……。逆に長上者が居るので自分の将来を切り拓く為に軍士官を志望しているのか。
これに関して志望動機はいくらでも考えられるが、貴族に関しては自分の生い立ちは棚に上げているルゥテウスにとって……どうでもいい事ではあった。
ただ、何らかの理由で軍人として自立を目指しているとするならば大したものだと……。
珍しく他人……それも女性の事について思案を巡らせているうちに、彼の場所から左側にある階段を上ってくる足音が増え、他の面談室前の椅子も大分埋まって来たようだ。
気が付くと時刻は8時45分。各々の受験者にとって予め待機すべき時間帯に差し掛かって来ていた。間も無く、面談室を挟んだ反対側の廊下から面接官が入って来て受験者の資料等へ大まかに目を通している頃だろう。
やがて9時を知らせる二点鐘が聞こえてきた。この士官学校から「大聖鐘」が据えられている救世主教の大聖堂は徒歩十分以内という至近距離にあるので、聞こえて来るその鐘の音も大きい。
士官学校や官僚学校においては、朝の授業開始(二点鐘)と昼食休憩(三点鐘)、午後の授業終了(四点鐘)はこの大聖堂の鐘の音をそのまま取り入れている。
その間の授業時間の区切りは各校舎で職員が手鐘を鳴らしながら歩き回るという方法を採用している。
ルゥテウスの座る長椅子の正面にある四番面談室の扉が小さく開いて、中から職員とおぼしき女性がサッと上半身だけ姿を見せて
「5121番ですね?」
と確認するかのように話し掛けてきたのでルゥテウスは黙って頷いた。
「ではお入り下さい」
声を出して応答しなかったせいか、女性は多少眉を寄せるような仕草をしたが、ルゥテウスに入室を促した。
ルゥテウスは椅子から立ち上がって女性の開けた扉を更に押し開けて室内に入り、後ろ手で扉を閉めた。
中に入ると、部屋の広さは3メートル四方ぐらいだろうか。今入って来た扉は部屋の右側に設けられており、正面には反対側の廊下に繋がる扉がある。
そして部屋の左側の壁に寄せて幅150センチ程の机が置かれ、それを挟むように装飾も無く質素に見えるが、造りはがっしりとした背もたれ付きの椅子が置かれている。
言うまでも無く机の手前にある椅子は面接受験者であるルゥテウスが座る椅子で、机の向う側の椅子は面接官が座る椅子であり、面接官は既にその椅子に腰を下ろして机の上で手を組みながら、入室してきた彼に視線を送っていた。
「では失礼致します」
と、ルゥテウスを室内に招き入れた女性職員が反対側の扉から退出して行く。彼女はどうやら受験者を室内に招じ入れる為だけに居たようだ。
「受験番号と氏名を言え」
面接官の男はやや緊張した態度でルゥテウスに命じて来た。
「5121番、マルクス・ヘンリッシュです」
ルゥテウスが必要最小限の文字数で返答すると、面接官の男は特にその態度を気にするでも無く手元の書類に目を落として、番号と氏名を確認したのか
「よし。座っていいぞ」
と着席を命じた。
ルゥテウスが無言で着席すると、面接官はその顔を見据えるように少しだけ身を乗り出しながら
「私は本日、君の面接評価を担当するタレン・マーズだ。宜しくな」
と、受験者の緊張を取るのが狙いなのか……穏やかな口調で自己紹介をしてきた。
ルゥテウスはそれを聞いて
(ん……?どっかで聞いたことのあるような……)
と内心で首を傾げ、次の瞬間に自分の記憶の中からその名前を引っ張り出して驚愕した。
(おわっ!こいつ……「偽次男」か!?)
辛うじてその態度を表に出す事無く
「ヘンリッシュです。こちらこそ宜しくお願いします」
と動揺を隠す事には成功した。
(まさか……こいつが偽次男……顔は知らんが名前は一致しているな。確かマーズ子爵家に婿入りして家督を乗っ取ったんだよな)
「どうした?私の顔に何か付いているのか?」
面接官の顔をまじまじと見つめる美しい受験者の視線に落ち着かなくなったのか、面接官タレン・マーズが問い質して来た。
「いえ。失礼。ご覧の通り……視力に問題がありまして」
とルゥテウスは、やや慌て気味に変装で掛けている眼鏡の位置を直した。
「うーん……そうか?検査の結果ではその眼鏡を着用した矯正視力は『問題無し』と判定されているようだが?」
「はい。室内の調光が原因ではないかと思われます」
適当に言い訳をしたルゥテウスの言葉に
「なるほど。そういう事か。私は眼鏡を使用しないのでよく判らんが……」
と、タレンはそれを信じて特に問題にはしないようだ。
(ふぅーむ……「あのエルダ」の息子だから、さぞかし傲慢な性格をしているのかと思ったが……)
ルゥテウスは初めて相対する偽次男……タレンを見て自分が今まで抱いていた印象と違うことに驚いた。
尤も、彼はこれまで公爵夫人であるエルダを自身の目で見た事が無いし、その息子で公爵家の家督相続者とされるデント・ヴァルフェリウスも同様だ。
もっと言ってしまえば、彼が祖父ローレンの死によって不完全ながら覚醒した後に父ジヨームにも会っておらず、その顔すら知らないのだ。
これまでの知性をまるで感じないエルダのイメージから、その二人の息子も典型的な無能で傲慢な貴族の子弟であると決めつけていたルゥテウスは、その考えに多少間違えがあった事を認めざるを得なかった。
「大変失礼致しました。宜しくお願い申し上げます」
ルゥテウスは自身の動揺を言い繕うかのように面接官へ謝罪した。
「ふむ……宜しい。では面接を始めさせて貰うぞ」
タレンはそう告げた。その声色も普通に落ち着いており人格的にもそれ程おかしな部分は見当たらない。
考えてみれば、彼は軍務省から面接官として指名を受けてここに居るはずなのだ。
いくら彼の「実父」が貴族社会の頂点に立ち、且つ武門の名家の出身であろうと、そのような忖度は一切行わないはずの軍務省から士官学校入試考査の面接官に指名されると言う事はそれなりの実績を持って、人格においても評価される必要があるだろう。
彼はその辺の採用基準を満たしたからこそ、自分の目の前に居るのだろうとルゥテウスは改めて認識した。
「ここに君について色々調べさせて貰った報告書がある。どうやら君は筆記試験において優秀な成績を修めているようだな……。
ふむ……。特に数理科と諸法科では極めて優秀な成績を残しているようだ」
「恐れ入ります」
「ただ、それに比べて歴史科……特に近現代史の部分で若干の誤答があるな。
これは珍しいケースだ。普通はもっと古い年代の歴史についての誤答が多いだろうに」
「研鑽至らず誤った解答をしてしまったようです」
「まぁ、それでも合格基準を満たす正答率は出しているようなので左程問題にする事も無かろう。
仮にこの入試に合格した場合は最初の一年目で一般教養として近現代史も履修するはずだ」
タレンはルゥテウスの筆記試験の結果を色々と眺め回しながら感想を述べた。ルゥテウスはそれを無言で聞いている。
「ほぅ……。君はダイレムの出身か」
「はい」
「実家は……飲食業とな。またどうしてそんな家業の子供が士官学校を志望したんだい?」
「はい……私は艦船の操作と運用に興味がありまして」
「ほぅ……そういえばダイレムは港町だったな。私も行った事は無いがダイレムの街の名は知っている」
タレンはダイレム市民からすると領主の次男である。ルゥテウスは一応はこの点に触れておいた方が良いと判断し
「はい。ダイレムは公爵領に属しておりますので面接官殿の事も存じております」
「ほぅ……そうか。私の事も流石に知っているか……」
タレンは苦笑を浮かべた。
この場合、ルゥテウスの言った「公爵領」とはヴァルフェリウス公爵領の事を指し、これは特にそれを「ヴァルフェリウス公爵領」と言い表す必要は無い。
何故なら、「公爵」という爵位で領地を所有しているのは建国以来、ヴァルフェリウス公爵家だけだからである。
そもそも「公爵」とは王室傍系の者が臣籍降下する際に与えられる一代爵位であり、その際には領地の保有は認められない。
よって、この王国で言う「公爵領」とはヴァルフェリウス公爵領以外存在しないのだ。
ちなみに、レインズ王国ではここ100年以上に渡ってヴァルフェリウス家以外の公爵は存在していない。
王室傍系の公爵に叙任されたのは第122代トレトス王の弟、バナロスの長男であるオイネルが母方の姓であるシェロッテを名乗ってオイネル・シェロッテ公爵として一代公爵家の叙任を受けたのが最後である。
シェロッテ家はオイネルの長男シェビルが子爵に再叙任され、以降現代までシェロッテ子爵家として存続している。
しかしシェロッテ家は代々目立った功績は上げていないので、将来はヘンリッシュ家のように平民階級へと没落する可能性がある。
「私の実家では公爵様の御子息が誕生された時とご成婚された際に記念の菓子を販売させて頂いたそうです」
ルゥテウスは、ついこの前にラミアから聞いた話をタレンに伝えると
「そうなのか……。ははっ……ありがたい事ではあるかな……」
苦い顔で笑い続ける。どうやら彼は「公爵の息子」と言われる事に対して何か屈託があるようだ。
「失礼致しました」
とルゥテウスがそれとなく侘びると
「いやいや……気にしないでくれ。私はもうあの家の人間では無いからな」
「なるほど。そういうものなのですね」
どうやら彼はもうマーズ子爵家の当主として精神的には公爵家から独立しているのだろう。
「話を戻すが、君はつまり海軍科を希望しているわけだな?」
「はい。艦船について学ばせて頂ければと」
「卒業後は『軍艦乗り』になる事を希望するわけだな?」
タレンの問いは「海軍士官として任官希望」の事を話している。
「いえ……大変恐縮ではございますが、私は卒業後の任官を望んではおりません。
卒業後は故郷に帰りまして、港湾ギルドで勤めようと思っております」
ルゥテウスの答えは「任官拒否」ということになる。一見するとこの面接試験で任官拒否を表明するのはリスクのある行為かと思われがちだが、実際はそれ程ではない。
その理由として建国以来、王国陸海軍は「トップヘビー型」の軍隊であると言う事が挙げられる。
つまり……士官が多過ぎるのだ。これはどういう事かと言うと、元々王国軍の兵力を確保する際には建国法で「王の徴兵」という有事の際に国王の名において15歳以上の国民を男女問わず徴兵出来るという法律が制定されている。
しかし、この徴兵制度においては実際に法令に基いて兵員を確保する手続きを執る為には王国が「有事」の状態にならなければならず……結果的に建国以来一度も適用されていない。
そういった事情から、兵力の確保は15歳以上の国民からの志願に頼っているのが現状で、軍務省が定める王国軍の規定によって
「『王の徴兵』が実施された際に、可及的速やかに徴兵戦力を有効化させる為に、その徴兵数に対応出来るだけの士官及び下士官の数を平素から確保しておく」
という名目で常備兵としての一般兵卒に対する士官数の割合がかなり高い。
つまり「士官は有り余っている」のである。士官そのものはこの士官学校卒業生の他にも、兵卒から下士官……そして士官に成り上がって来る「叩き上げ」からも供給されており、即戦力としては後者の方が有望であることは言うまでも無い。
よって、タレンのような中間管理職的な「キャリア士官」からすると「下からうじゃうじゃ上がって来られても困る」というのが本音なのだ。
実際、毎年の卒業生の中で任官を希望せずに故郷の諸侯軍に仕官したり、高給な事で有名な大手商会の交易船に乗務する士官学校卒業生も多い。
「ふむ。そうか……。港湾ギルドであれば我が校の卒業生は大歓迎だろうな」
港湾ギルドとは一定規模以上の港湾都市で活動している港湾管理の職能集団で、組織的には冒険者ギルドに似ている。
一応は王国政府……軍務省と交通省、そして財務省の三者が共同管轄しており、これは貴族の領地に属する港湾都市においても管轄権は王国政府にある。
活動内容としては港湾内の水先案内や不審船に対する臨検と禁制品の取り締まり、交易関税の徴収等が主なもので、所属する者は地方公務員に定義される。
近年は特に南サラドス大陸やロッカ大陸側を相手に不法交易を行う者が多い為に、海軍艦艇が外海を監視し、港湾内では港湾ギルドが目を光らせていると言うわけだ。
「しかし君は実家の飲食業……これはレストランかな?……は家業として継ぐつもりは無いのか?」
「はい。実家には『兄』がおりますから」
タレンはマルクス・ヘンリッシュの身辺調査記録を見ながら
「おお。兄上が居るんだな……随分と年齢が離れているようだが。ほうほう……王都の……。おぉ!あの『双頭の鷲』で修行したのか。大したもんだな」
タレンは「双頭の鷲」を知っていた。やはり「名店」と評されるだけあって知名度は高いようだ。
「はい。今ではその兄が父と共に店を営んでおりますので、私は別の道をと思いまして。
どうせならば、故郷の港町に貢献出来るような職に就きたいと」
「そうかそうか。感心な事だな……ん……?おや……?」
ルゥテウスの話を聞きながら彼の身辺調査記録を引き続き眺めていたタレンが
「なんと。君の家は公爵家に繋がる家柄だったのか!」
と驚いたように声を上げた。
「公爵家に繋がる」と聞いたルゥテウスは一瞬、「素性がバレたのか?」と心中で肝を冷やしたが、どうやら彼の言う「公爵家」とはヴァルフェリウス家とは違うようだ。
「なるほどな……立派な先祖を持つと子孫は辛いよな……ははは」
タレンは恐らく自分自身の身の上と重ねているのだろう。その笑い声には多分に皮肉が混じっている。
ルゥテウスは突然話に出て来た「公爵家」という話が何の事か理解できず、タレンの様子も曖昧なので、彼が目にしている自身の身上調査記録を「覗き見て」みた。
(ん……?102代国王の弟……?まさか……ユーキさんの家系は王弟に続いていたのか!?)
ルゥテウスは自分が全く知らなかった「ヘンリッシュ家のルーツ」を突然知る破目になり心中で仰天した。
(そういえば……以前に戸籍を移した時に「250年前に王都から転入」と備考欄に記されていたな……。まさか王弟に連なる家系だったとは……)
珍しく茫然するルゥテウスにタレンが
「おい。大丈夫か?私は何か気に障るような事でも言ってしまったか?」
と、受験者に対して気を遣うように言ったので、ルゥテウスは態度を改めて
「いえ。滅相もありません。大変失礼致しました。まさか自分の家系の事にまで言及されるとは思っておりませんでしたので……」
「そうか。済まなかったな。気分を害したのであれば勘弁してくれ」
「いえ。問題ございません。我が実家は現在においては田舎の港町で生計を立てるしがない飲食店でございます。
自分も含め、家族は出自に対して左程興味を持っておりません」
「そうなのか。私もいい加減に自分の出自に貼り付いた『重過ぎる看板』を下ろさせて貰いたいのだがな……」
タレンは苦笑を浮かべながら自分の出自を厭うように語った。
面接官である彼から、一介の受験者でしか無いルゥテウスにこのような事を語るのは本来であれば有り得ない話だ。
「私には何とも……」
と、ルゥテウスが流石に困惑した表情を見せると、タレンも「余計な話」をしてしまった事に気付いたのか、バツの悪そうな顔で
「いやいや。済まんな。どうも君と話していると不思議だが、余計な事まで話してしまうな……」
「いえ。こちらこそ気も利かず申し訳ございません」
「そうか……まぁ良い。とりあえず話は聞かせて貰った。調査内容に不審な点も無いし、君の様子も極めて尋常だ。これで面接は終わりにしよう。ご苦労だった」
タレンは気を取り直した様子で資料の束を纏めると、ルゥテウスに退出を促した。
「はい。ありがとうございました。失礼致します」
とルゥテウスも立ち上がり、部屋に入って来た時とは違ってタレンに一礼をして元来た扉から退出した。
一般廊下に出ると、既にこの部屋で次に面接を受ける受験者が長椅子に不安そうな面持ちで座っており、部屋から出て来たルゥテウスと目が合った。
「あっ。あなたは……」
(ん……おや……?)
よく見てみると、目の前の椅子に座る女性は先日の筆記試験最終日に頭のおかしな輩に絡まれて、更に案内係の在校生から身柄を拘束されそうになった時に、自分を弁護してくれた女子受験生であった。
「おぉ。先日は世話になった」
ルゥテウスが先日の礼を改めて述べると
「いっ、いえ……そんな……御礼を言われるような事なんて……」
女性はやや薄暗い廊下の明るさでも判るくらいに顔を赤らめて俯けた。
「そうか。お前も筆記試験を突破したのだな。頑張ってくれ。俺は今終わったので先に失礼させて貰う」
「はっ、はいっ。ありがとうございますっ」
女性はピョコっとルゥテウスに頭を下げた。それに軽く手を上げながらルゥテウスは階段に向かって歩き出した。
(ふーむ。色々と偶然が重なるものだな……。まさか面接官があの「偽次男」とは。
しかし話してみると人柄は悪く無いではないか)
ルゥテウスは小さく笑いながら階段で一階に降りてそのまま校門に向かい、案内係に面接試験が終わった旨を報告した。
「それでは後日合否の判定を行った上で指定の場所へ通知をさせて頂きます。また、合否の結果は8月25日に、そこの校門横の外壁にも掲示されますのでそちらで確認されても構いません」
「承知した。では失礼する」
ルゥテウスは校門をくぐって外に出た。時間はまだ10時前で自分の面接は予定よりも若干早目に終わったようだ。
見ると本日この後に面接の順番が割り当てられた受験生が必死の形相で走って門をくぐって行った。どうやら何らかの理由で遅刻しそうなのだろう。
せっかくあの難関であった筆記試験を通過したのに、ここでの遅刻が原因で不合格となってしまったら悔やんでも悔やみ切れないだろう。
一号道路を歩く帰りの道すがら、ルゥテウスはシニョルに念話を飛ばした。
『俺だ。忙しいところを済まないが仕事の手が空いたら返事をくれないか?』
すぐにシニョルから応答があった。
『このような時間にお珍しいですね。何か御用でしょうか?』
彼女はこの時間、千数百キロ離れたオーデルにある公爵屋敷の中の奥館で女執事として使用人の采配を振るっている最中であろう。
使用人にあれこれ指示を出しながら、彼女は脳内でルゥテウスと念話を交わしているのである。
とても今年61歳とは思えない頭の回転の冴えだ。
『ふむ。実はな……。今日は士官学校の面接試験だったのだ』
『あら……確か以前も試験を受けていらっしゃいませんでした?』
『あぁ、あれは筆記試験だ。今日のはその合格者を集めて最終の面接試験があったのだ』
『面接……面談ですか?それで合格者を決めるのですか?』
どうやら統領様にとって面接とは屋敷の使用人を雇う時に自分が行うものと同程度に考えているようだ。
『ふむ。まぁそれでな……俺の面接を担当したのがお前ら主従にもお馴染みのタレンだった』
『えっ!?』
どうやらシニョルはルゥテウスの報告を聞いて絶句しているらしい。
本人の目の前にある仕事に差し支えなければいいのだがと思ったルゥテウスは
『おい。大丈夫か?皿とか落とすなよ?』
と、からかうように言うと
『も、申し訳ございません。タレン様とは……あのタレン様でしょうか?』
シニョルにしては珍しく動揺しているような口調だ。
『他にどのタレンが居るんだ。俺の言っているのは間違いなく「噂の偽次男様」であるタレン・ヴァルフェリウス……いや、今はタレン・マーズか。本人もそう名乗っていた』
『さ、左様でございますか……タレン様が……』
『いや、面接官として会ったから色々話してみたがな。案外まともな奴じゃないか』
『はい……タレン様はご幼少の頃より聡明な御方でした』
『貴族のバカ息子とか、バカ貴族というような雰囲気は微塵も感じなかったな』
『そうでしたか……。あの御方がこの屋敷からお出になられてもう十年程経ちますでしょうかね……。軍にお入りになられてからはご家族とは疎遠な形になっておりましたから……』
『ほぅ……そうなのか』
『兄上であるデント様が御幼少の頃より……その、ご気性の面で公爵様より度々叱責を受けておりましたが、タレン様はそのような事も無く聡明に育たれまして……』
『奥様のお父上……ノルト伯爵様はタレン様に官僚学校への進学を勧めておりましたが、タレン様はそれを振り切るかのように士官学校を繰り返し受験されておりましたわ……』
『ふぅん。確か受験には二回失敗したんだよな?』
『はい。失敗される度に兄上様からは嘲笑されておりましたが、決して諦めるような事は無く勉学に取り組んでおりました』
『なるほど。どうも何となくだがタレンの気持ちが解るな。兄貴である偽長男は本当にバカなんだろう。しかしそんなバカでも長男だから家を継ぐ事が出来る。
一方で自分はこのままではそのバカの兄貴に面倒を見られながら『兄貴のスペア』として一生を送らなければならない事を思って焦ったんじゃないかな』
『わ、私にはその辺りは何とも申し上げかねますが……』
『面接の中で話の成り行きが貴族家の話になってな。どうやら彼は公爵家出身という出自に負担を感じているようだった』
『そうなのですか……ではやはりお屋敷にお帰りになられないのも……』
『ほぅ……タレンは領都の屋敷に帰省したりしないのか?』
『はい。私の知る限り、ご成婚の後は二度程……それも始めの二年、年末のお休みの際にお帰りになられただけでございます。
なので私も、奥様も……タレン様とは十年近くお会いしておりません』
『それはよっぽどの事だな』
『はい。どうやらお子様をお二人儲けていらっしゃると風の便りでお伺いしておりますが、お孫様のお顔すら見せて下さらず、奥様も以前はかなりお嘆きになられておりましたわ』
『まぁ、見たところ彼はもう『ヴァルフェリウスの次男坊』と言うよりも『陸軍大尉のマーズ子爵』と言った風格だった。先の話にもあったが、公爵家とは距離を置きたいのかもしれないな』
『まぁ……そうなのですか……。しかしお父上は現在も王都で軍のご要職にお就きになられていらっしゃいます。同じ軍に籍を置かれているのでしたらお顔を合せられることもあるでしょうに……』
『あのボンクラ公爵はまだ「王都方面軍司令官」だったな。タレンが士官学校関連の役職に就くのであれば、軍務省の直轄となる。そうであるならば余程の事が起きない限り顔を合せることはあるまい』
『そうなのですか?』
『恐らくだがな。タレンはきっと士官学校を出たわけでも無く、ましてや叩き上げでも無い父がヴァルフェリウスの名だけで陸軍大将の地位に居るのが気に入らないのかもしれないな』
『ま、まさかそこまでは……』
『いや、奴は確か俺とは20歳違い……すると今年で35だろ。それで大尉というのならば、その地位にはヴァルフェリウス公爵家に対する忖度は働いていないと思う。もしも公爵家次男という出自が効いているならば、35歳という年齢で佐官になっていてもおかしくない。
そう考えると奴が未だに大尉であると言うのは……貴族出身という出自を全く利用する事無く自身の実力だけで進級を重ねているのではないだろうか』
『ところで……タレン様は店主様の生い立ちについてはお気付きになられていたのですか?』
『いや、奴は俺をダイレム出身のマルクス・ヘンリッシュとしてしか認識していない。俺の身上調査の記録から実家の領内にあった港町を思い出して話の種になっただけだ』
『そうだったのですか……。先程も申し上げましたが、タレン様とはもう十年近くお会いしておりません。叶う事であればお顔を見たいものです』
シニョルにとってはタレンは主人の息子であり、逆に言えばタレンにとってシニョルとは幼少の頃から自分の世話をしてくれた「育ての親」のような存在なのかもしれない。
シニョルは冷徹無比な印象を持つが、公爵屋敷内での暮らしは質素そのもので他の使用人に対しても非常に当たりが柔らかい。
案外、タレンも彼女を「優しい婆や」とでも思っていたかもしれない。
彼女の口ぶりではタレンはとにかく聡明な子供で、逆にその兄のデントはルゥテウスがよく口に出して揶揄する「貴族のバカ息子」を絵に描いたような人物であることを仄めかしているように思える。
『とにかくそういうことだ。済まなかったな。忙しい時間に』
『いえいえ。こちらこそ。タレン様の近況をお聞かせ頂きありがとうございました』
ルゥテウスがシニョルとの念話を終わらせると、丁度四号道路とネイラー通りの交差点に《青の子》の偽装菓子店が見えてきた。
****
8月25日。その日も朝から爽やかな晴天に恵まれていた。
今日はこの二ヵ月の集大成である王立士官学校入学考査の合否が校門脇の掲示板にて発表される。
ルゥテウスはいつも通りノンと役場の食堂で朝食を摂っていた。
「そういえば士官学校の合格発表は今日だったな……」
「いよいよですね」
「そうだな。まぁ、手応えは悪く無かった。恐らく合格はしているだろう」
ルゥテウスは小さく笑った。面接試験に残っていた時点で筆記試験は通過していたわけだから、あの面接で余程拙い事を言っていなければ合格はしているだろう。
最初にトーンズの首脳に士官学校受験の話をした時には、魔導でも使って無理矢理にでも入学してしまおうと思ったのだが、あれだけ大勢の受験者達が自らの将来を懸けて必死になって試験に向かっている姿勢を見て、その考えを改めて自分の持つ実力で合格を目指す事にしていただけに、結果は彼自身にも判らなかった。
「合格されたら……すぐにでも学校に通うことになるのでしょうか?」
「すぐに……と言うか、入学式は確か例年だと9月10日と決まっていたと思う」
「来月の10日ですか……やはりすぐに始まってしまうのですね」
「遠隔地の出身者は大変だと思う。例えばこのキャンプのあるオーデルだって、普通の人間ならば片道で王都まで馬車で10日だ。とてもじゃないが合格発表を確認してから入学、そしてその後の学生生活で必要な物を運んでいたら入学式には間に合わん」
「なるほど……往復で20日掛かってしまうわけですものね。一度帰って急いで準備を一日で終わらせても……王都への到着は9月16日になってしまいますわね」
「だから面接試験で王都に出て行く時点で既に合格した後の生活に必要な物を持ち込んで、どこか宿を押え続けてる奴も多いだろうな。王都にはその為にこの期間だけ部屋代を安くしている宿屋もあるし、学校の裏手には下宿を営む者も多い」
王都の北地区……ケイノクス通りと環状六号通りの交差点よりもユミナ門(北門)寄りの一角には士官学校生が利用する下宿が何軒か営まれている。
構内にある学生寮よりは利用料金が若干高めだが、寮生活の窮屈さを嫌う遠隔地出身の学生にとってはありがたい場所であり、本来であればルゥテウスもこの下宿を利用するのが普通であった。
ルゥテウスは一応、合格を確認した後に王都の五層目……環状四号の外側でどこか賃貸で物件を借りて、そこを登録住所にするつもりであった。
下宿の利用を避けたのは、元々はキャンプから通うつもりであるので、同じ士官学校の生徒に当校風景を見られたく無かったからである。
物件を見付けた後は、その部屋に魔法陣を設置するなり、直接マークするなりしてキャンプから瞬間移動をしてそこを経由するつもりなのだ。
朝食を終えたルゥテウスは、それでもすぐに合否を確認しに行く事は無かった。
校門脇での掲示は8月27にまでの三日間行われる。その三日間の内に行かずとも、更に八月の終わりまでには以前に通知先として登録していた冒険者ギルドの王都南支部にある私書箱に合格結果が届いているだろう。
結局ルゥテウスは、それから二日間……トーンズ国防軍を率いるロダルの相談に乗ったり、ソンマの元素研究の相談に乗ったりして過ごす事になり、士官学校の合格発表を見に行ったのは掲示板が撤去される8月27日……それも午後になっての事であった。
なぜ発表の確認を最終日にまで遅らせたのか……ルゥテウスは筆記試験の時の校門前の混雑ぶりに辟易しており、同じように受験者とその関係者でごった返すであろう発表初日と翌日を避けたのだ。
撤去寸前の時間帯にサッと見に行って自分の合格を確認したら、すぐに校門脇の受付で合格手続きをしようと思っていた。
だが、実際は彼の目論見とは少し違う方向に発表会場の様子が変わっていたのである。
今日のルゥテウスはいつもの着丈の長いジャケットにスラックスと色を合せた装いで色は薄めのグレーとし、中に着る木綿のシャツを上着よりも濃い目の灰色にした上で暗めの赤いネクタイを着けて校門に向かった。
一号道路で灰色の塔の西側を掠めながら、王城裏側の軍関係地域に入って行く。
やはり彼が見込んだ通り、本日の一号道路北側はそれ程人通りが多く無く、平素の軍服を着た者達がまばらに歩いているだけに見えた。
しかし歩を進めて王城裏門前の交差点が見えてくるにつれて、交差点の向う側にある士官学校の校門前に大勢の人だかりが出来て居るのが確認出来、ルゥテウスは心中で舌打ちをした。
(クソっ。もう今日で撤去されるっていうのに何であんなに見物人が大勢居るんだ?)
混雑に遭遇するのが嫌でわざわざ日程を今日にまでずらして来たのに、それが無意味な努力だったと判って気分を大いに害しながらルゥテウスが校門に近寄って掲示板を確認すると……
彼の受験番号……それに氏名までもが明示されていた。受験者が自分の名前を見つけやすいように掲示板には受験番号順に25人分ずつ四列に合格者のみ記載されており、そこに自分の名が無ければ不合格を意味する。
ルゥテウスは掲示板の中から即座に自分の受験番号「5121」番を見付けた。5121番はかなり後ろの方の番号である。
国民受験者総数が5590人であったので願書の締め切り日に提出した彼の場合は当然なのだが……。
彼の番号が記載されていたのは、一番右側の、それもかなり下の方で
「5121 マルクス・ヘンリッシュ 1」
と受験番号、自分の名前の他に「1」という番号が赤い文字で書かれていた。
(ん……?もう組み分けか?何の意味だ……?)
ルゥテウスは首を傾げながらも、自分の名前が掲示板に記されていたので内心ホッとして、校門を入った「いつもの辺り」に設置されていた合格者受付に行って
「5121だ。掲示板に自分の名が載っていたので合格手続きを執りたい」
受付に座っている案内係の女性在校生にそう告げると、その女性は合格者名簿と思われる紙面に目を落としてルゥテウスが告げた番号を探し、やがてびっくりしたような声で
「あっ、あなたがマルクス・ヘンリッシュ?」
と声を上げたので、周囲に居る者達が一斉にその女性在校生と、その机越しに立っているルゥテウスに視線を集めた。
「あっ!?あなた!筆記試験の時のっ!」
続けてその女性が声を高める。その女性在校生は筆記試験三日目にルゥテウスがソルグという精神の均衡を崩した受験生に襲われた際に、それを制止した案内係の班長、イント・ティアロンであった。
ルゥテウスは自分に向かって声を上げた女性を凝視し、過日の件を思い出すと
「あぁ、あの時の」
と短く言った。
「あ、あなたが……マルクス・ヘンリッシュ……。首席合格者の……」
と、尚も驚きの声を上げている。
「ん……?首席……?」
「掲示板の自分の名前の右側に赤い数字が書かれていたでしょう?」
「ん?あぁ……そう言えば……」
「あの数字は今回の入学考査の選抜順位です。赤い数字で書かれている者は上位十人という事よ」
「ふぅん……」
「あまり興味が無いようね」
「無いな」
「そんな……でもまさか……あなたが首席だなんて……」
「そんな事はどうでもいい。手続きを執りたい。手順を説明してくれ」
「あの男……あなたを襲った理由が『試験に対して不真面目な態度が気に食わなかった』って言ってたのに……結局首席なんじゃない……」
イントは相当に驚いているらしい。先日のあの事件の際にもルゥテウス……マルクス・ヘンリッシュの冷静且つ整然とした物言いに圧倒されたのだが、ソルグという加害者の聴取をした際に彼の供述から『見掛け倒し』という印象を抱きかけていたからだ。
よもや首席……それも彼女の手元にある補助資料によればその成績はダントツである。例年にも増して平均正答率がかなり低かった数理科と諸法科でマルクス・ヘンリッシュは満点を取っているのだ。
あの時も彼女は「法令云々」という語り口で彼に圧倒されて言いくるめられてしまった事を思い出して驚きの感情から笑いたくなる程におかしく思い始めた。
「そう……あなたが……ふふふ」
「おい。聞いてるのか。手続きを早くさせてくれ」
首席合格者と聞いて、周囲の者達がザワつき始めた。どうやらこの連中は最終日までなかなか現れなかった首席合格者を待っていた野次馬だったようだ。
野次馬と言っても、校門より中に入れるのは学校関係者だけなので、今彼の周囲に居るその類の者達は殆どが掲示板を見て「今年度の首席入学者の顔」を見てやろうと集まった暇な在校生なのだろう。
8月27日というのは彼らにとって丁度席次考査の終わった翌日に当たるので、彼らも試験が終わった後の息抜きとして、このような好奇心本位の見物に集まっているのだろう。
「ご、ごめんなさい。すぐに書類を用意するわ」
ルゥテウスが美しい顔にあからさまな不快感を湛えて睨み付けて来たので、イントは慌てて机の上に用意してあった用紙を揃え始めた。
すると、突然集まった野次馬の中から士官学生の制服を着た長い黒髪で長身の女子在校生が出て来て
「あなたがヘンリッシュ君?」
とルゥテウスに話掛けてきた。
ルゥテウスがイントの用意する書類を待っているかのように、その女性を無視すると
「ヘンリッシュ君にお願いがあります。私は来年度自治会長のフォウラ・ネルです」
と名乗ってきた。しかし、ルゥテウスは自治会長に用事があるわけでも無いので尚も無視を決め込んでいると
「どうやらかなり変わった性格のようね。私からのお願いというのは入学式で首席合格者として新入生の代表挨拶をして欲しいのよ」
ルゥテウスは漸くフォウラの方に振り向いて
「断る」
と短く言った。
「断るって……この挨拶は首席で合格した者が毎年行っているものなのよ。入学式の直前になって伝えても内容を考えるのが大変でしょうから、今こうして話しているのよ」
「そのような行為が義務化されているという事は法令にもこの学校の校則にも記載されていない。ただの『慣例』であるならば俺がそれに従う義務は無い」
(うわっ……この人……あの時と同じような物言いで自治会長にも口応えしているわ……)
ルゥテウスに渡す書類を揃えながらイントは不安そうに首席合格者と自治会長が睨み合うのを見上げてハラハラした。
「慣例であるならば従うべきだわ。もうこの挨拶は学校創立の昔から行われている伝統なのよ」
「いい加減な事を言うな。俺の知る限り700年前の入学式には新入生の挨拶なんていうものは式目に含まれていない。嘘だと思うなら記録を調べてみろ。
そしてお前の言う事が虚偽であると認められた場合、俺はその行為について然るべき場所に申立てをするが構わんな?」
(でたっ……然るべき場所!)
イントはそのやり取りを聞いて内心おかしくなったが、笑うわけにはいかない。
自治会長はあの時の自分のように、この彼に矢継ぎ早に言い立てられて顔が青褪めている。
「どうしても俺でないといけないと言うならば、俺は入学式を欠席する。この後、学校長の下に赴いて事情を説明し、欠席の許可を貰うつもりだ」
そして再びイントの方に向き直り
「これが手続きの書類だな?いつまでに提出するのだ?」
と再び自治会長を無視して案内係に問いかけた。
「あっ……はい。これで全てです。初登校の際に……もし入学式を欠席するならば……その翌日にお持ちください……」
イントの説明が癇に障ったのか、自治会長が「キッ」という表情で彼女を睨み付ける。
イントは首を竦めながら
「それではヘンリッシュ殿の手続きは以上となります。合格おめでとうございますっ!」
ことさらに声を大きく、そして明るくしてルゥテウスに告げると
「ヨッ!おめでとう!」
「おめでとぉ!」
「首席合格おめでとう!」
等と周囲の野次馬からも祝福の声が上がった。
ルゥテウスは流石にそれらの声に対しては軽く頭を下げて、足早に校門から出て行った。
「あいつ凄ぇな……自治会長に正面切って反論してたぜ……」
「全くだな……あんな見た目は細っこい色男風なのにな……」
「あの子の言い方……たまらないわ……」
「胸がキュンとしちゃったっ!」
後に遺された野次馬達は口々にルゥテウス……首席合格生マルクス・ヘンリッシュに対する無責任な感想を述べていた。
只一人……その場に黙って立ち尽くしていた自治会長フォウラ・ネルは
(おのれ……!おのれ!おのれっ!あの小僧……!ちょっと顔と頭が良いからって調子に乗りやがって……!)
とその外見からは想像もできないくらいに心中でルゥテウスに対して憎悪の言葉を投げ付けながら小さく震えていた。
「あの……会長……」
野次馬の中に居た別の自治会役員の男子在校生が彼女に歩み寄って
「あの……入学式の挨拶……どうしましょうか?」
と困惑した顔で尋ねてきた。
「いいわっ!あんな奴!放っておきなさいっ!挨拶は二番目の子にでもやらせるわっ!」
と女性らしからぬ程に声を荒げながら踵を返して自治会役員室に引き上げて行った。
男子在校生の役員が後を追う。
自分も来月の新年度開始と共に自治会執行役員として運営に参加する事になっていたイントは不安そうに
「彼……大丈夫かしら……」
と呟くのであった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
王立士官学校入学に際し変名を使う。
ノン
25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務める。
主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。
主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。
シニョル・トーン
61歳。エルダの独身時代からの腹心で現在は公爵夫人専属の女執事。
難民同胞を救うためにキャンプの創設を企図し、トーンズ建国に際して初代大統領となる。
タレン・マーズ
35歳。マーズ子爵家当主で王国陸軍大尉。ジヨーム・ヴァルフェリウスの次男。母はエルダ。
士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に養子入りし、後に家督を相続して子爵となる。
王国士官学校入試考査の面接試験において面接官を勤める。
イント・ティアロン
17歳。王立士官学校三回生。次期学生自治会執行役員。
主人公が士官学校の入試を受ける際に案内係を務めた女性。
トラブルに巻き込まれた主人公を加害者諸共拘束、連行しようとして拒絶される。
入試合格発表会場で合格手続き受付も担当した。
フォウラ・ネル
17歳。王立士官学校三回生。次期学生自治会長。
二回生修了時点で陸軍科席次一位。学生の間では「自治会の女傑」として恐れられる。
主人公に入学式の首席合格者挨拶を依頼してにべも無く断られる。