89 五重塔
……祐介は目を覚ました。見れば、相変わらずの五色荘の薄汚れた天井なのだった。祐介は上半身を起こして、無理に立ち上がると、重い窓を開いた。爽やかな風が流れ込んでくる。
眠い瞼を開いて見れば、青みを帯びた空に巨大な入道雲は黒い影をつくり、彼方から差し込む黄金色の光に包まれて、彼岸寺の五重塔は、まるで燃え上がっているように輝いているのだった。
見下ろせば、並んだ瓦屋根もまた、朝焼けの優しい光を受けて、きらきらと輝きを放っていた。それなのに、参道は静かで人影がなかった。
祐介は、ふと月菜のことを思った。姉、祖父を亡くし、兄も窃盗犯として逮捕された。これから一人で何かと大変だろう。何か良い言葉をかけられなかったのか。あれから、祐介は月菜に暖かい言葉をかけ続けたが、月菜にはついに笑顔が戻らなかった。いつか、また月菜に笑顔が戻る日が来る。必ず来ると信じたい……。
祐介は、あれからしばらく捜査に携わっていたが、今日で一旦、東京に帰る予定だ。また東京で別の事件が起きたのだ。探偵というものは忙しい。
といっても、五色村の事件も、まだ捜査が落着したわけではないから、何かと群馬県警の根来警部に呼びだされるのだろうけど。
とにかく、昨日まで根来警部も粉河刑事も忙しそうだった。おそらく、今日も相当忙しいのだろうから、あの二人は見送りには来ないだろう。
すみれさんも、雑誌の取材とかで、慌ただしく帰ってしまった。
いつもそうなのだ。帰る時は必ず一人だ。祐介は悲しげに笑った。なんだか、いつになく、寂しさが込み上げてきた……。
その時だった。ノックもなしにドアが大きな音を立てて開いた。祐介は驚いて振り返る。ドアの先には、相変わらず、丸眼鏡の向こうに小さい目を見開いている胡麻博士の顔があった。
「羽黒さん。東京に帰りますよ!」
祐介はその言葉が、なんだか無性に嬉しかった。
「そうですか。一緒に帰りますか」
「何を言っているんですか。羽黒さん。当たり前じゃないですか。もう、あなたと私は友人じゃないですか。あなたは一期一会という言葉を知らないのですか」
一期一会なら一度きりではないか、と祐介はつまらなく思いながらも、実際には胡麻博士との付き合いは、しぶとく続きそうに感じられた。
「一体、何を見ているのですか」
胡麻博士は、ずかずかと部屋に立ち入りながら、訝しそうに尋ねてきた。
「朝焼けです」
「朝焼け……」
胡麻博士は、目を瞬かせながら彼岸寺の五重塔を見つめた。
「月菜さん、どうなりますかね……」
「羽黒さん!」
胡麻博士は、祐介の方に向き直った。
「五色村には、私の教え子の百合子君がいるから大丈夫ですよ! 百合子君が、必ず月菜さんを励ましますよ」
そう言って、胡麻博士は、ぎこちない笑顔を多分に押し付けがましく見せつけてきたのだった。それが、妙に頼もしくて、祐介は嬉しかった。
祐介は、少し安心して、再び五重塔を見つめた。そしてもう一言。
「一日が始まりますね」
「ええ、一日が始まりますよ。私たちには、まだまだ明日も明後日もあるのですから、こんなところでじっとしていてはいけませんよ……」
胡麻博士はそれから、ふふっと笑って、祐介に言った。
「……さあ行きましょう、明日へと!」
五色村の悲劇 巫女の霊媒がもたらす殺人の物語 完




