第一話 世界最古の怪物は、今日も退屈している
この世界には、ダンジョンが存在する。
今からおよそ三十年前。
世界各地に、何の前触れもなく出現した正体不明の地下迷宮。
地中深くへと続くその迷宮には、未知の生物、希少な鉱物、そして現代科学では到底説明のつかないエネルギー資源が眠っていた。
人類はそれらをダンジョンと呼び、内部に生息する異形の生物を魔物と名付けた。
そして、ダンジョンに潜り、魔物を討伐し、内部に眠る資源を持ち帰る者たちを――探索者と呼ぶようになった。
当初こそ、ダンジョンは人類にとって未知の脅威でしかなかった。
しかし、長年にわたる研究と攻略の結果、その存在は少しずつ社会に受け入れられていった。
今や探索者は、世界的な人気職業の一つである。
テレビでは探索者たちの活躍が連日報道され、動画配信サイトにはダンジョン攻略の生配信が溢れ返っている。
実力と人気を兼ね備えた一流探索者ともなれば、その知名度は一流の芸能人にも匹敵するほどだ。
ダンジョン攻略は一大エンターテインメントとなり、探索者を目指す若者も年々増加している。
そんな、ダンジョンという未知が日常に溶け込んだ現代日本。
東京某所。
高級住宅街の一角に、周囲の邸宅とは一線を画す巨大な屋敷があった。
広大な敷地に整えられた庭園。
手入れの行き届いた植木。
そして、外部からの侵入を許さないように設計された堅牢な門構え。
誰が見ても、相当な資産家の住まいだと分かる場所である。
その屋敷の一室。
大きな窓から差し込む昼下がりの日差しを浴びながら、一人の少女がソファに腰掛けていた。
白い髪。
透き通るように白い肌。
宝石を思わせる赤い瞳。
小柄な体躯に、十歳にも満たないと思わせる幼い顔立ち。
どこからどう見ても、アルビノの幼女である。
ただし。
「……暇」
少女――一色雅は、心底退屈そうに呟いた。
その声は、見た目に反して妙に落ち着いている。
まるで、何百年も生きてきた老人のような声音だった。
「何か面白いことはないの?」
「そう言われましても……」
向かいに座る女性が、困ったように微笑む。
一色紫苑。
黒髪を後ろでまとめた、二十代半ばほどの女性だ。
仕立ての良いスーツを着こなし、背筋の伸びた佇まいには一切の隙がない。
彼女は雅の世間的な保護者であり、身の回りの世話を担う人間でもある。
そして何より、雅という存在を理解している数少ない人間の一人だった。
「先日、新宿ダンジョンで大規模な攻略作戦があったそうですが」
「興味ない」
「……まだ何も説明していませんが」
「どうせ、人間が何匹か集まって、穴の中にいる虫を殺したのでしょう?」
「虫、ですか」
「違うの?」
「まあ……魔物という呼称が一般的ですね」
「呼び方なんてどうでもいいでしょう」
雅は手元のティーカップを傾けた。
紅茶の香りが、静かな室内に広がる。
ちなみに、彼女は紅茶の味を理解している。
苦味も、甘味も、香りも。
人間と同じように感じ取ることができる。
ただ、それだけだ。
食事も、睡眠も、呼吸も。
彼女にとって、それらは生きるために必要な行為ではない。
すべては娯楽、あるいは長年の習慣に過ぎなかった。
「それで、攻略作戦がどうしたの?」
「どうやら、国内でも有数の探索者たちが参加したそうですよ。攻略の様子は配信もされていたようです」
「ふぅん」
「かなりの盛り上がりだったそうですが」
「人間が集まって騒いでいるだけでしょう?」
「……そうですね」
紫苑は苦笑する。
雅にとって、人間がどれほどの偉業を成し遂げようと大した意味はない。
彼女の尺度で見れば、現在の人類が誇る技術も、魔法も、探索者たちの能力も、すべて児戯に等しい。
そもそも、彼女は人間がダンジョンと呼んでいるものに対してすら、特別な興味を抱いていなかった。
三十年前に世界各地へ出現した地下迷宮。
人類にとっては未知の脅威であり、同時に新たな可能性でもあるそれらは、雅にとっては少しばかり興味深い玩具程度のものだった。
「そういえば、雅様」
「何?」
「今朝、屋敷の近くで不審者が目撃されたそうです」
「殺せば?」
「警察に通報しておきました」
「そう」
雅は興味を失った。
不審者が何者であろうと、どうでもいい。
自分の生活圏に踏み込んできたところで、特に何かをするつもりもなかった。
踏み潰すほどの価値すら感じないのだから。
「……雅様」
「何?」
「もう少し、他人の命に関心を持っていただけると助かります」
「どうして?」
「どうして、と言われましても……」
「私にとって、あれらは虫と大差ない。虫が死んだところで、いちいち悲しむ理由がある?」
「人間ですから」
「それは人間側の都合でしょう」
雅は小首を傾げた。
本当に不思議そうな顔だった。
「私に人間の都合を押しつけないで」
「……そうですね」
紫苑は小さく息を吐いた。
この少女に倫理観を求めること自体が間違いなのだ。
彼女は人間ではない。
人間の形をしているだけの、遥か昔から存在する何か。
世界がまだ現在の姿をしていなかった頃から存在し、幾度もの文明の興亡を見届け、数え切れないほどの神秘を踏み越えてきた怪物。
上位存在。
それが、一色雅の正体だった。
人間の尺度で測ることなどできない。
人間の常識で理解することもできない。
そして、その力は――この世界に存在する大抵のものを、文字通り指先一つでどうにでもできるほどのものだった。
もっとも。
当の本人は、そんなことを気にする様子もない。
「ところで、紫苑」
「はい」
「今日の夕食は何がいい?」
「……雅様が決めてください」
「そう。じゃあ、肉」
「承知しました。何かご希望はありますか?」
「柔らかいやつ」
「かしこまりました」
実に平和な会話だった。
少なくとも、屋敷の中では。
◆
その日の夕方。
東京都内に存在する、とあるダンジョン。
その第七階層で、異変が起きていた。
「おい……嘘だろ」
先頭を歩いていた男が、目の前の光景を見て呆然と呟いた。
彼らは中堅クラスの探索者パーティーだった。
今回の目的は、第七階層で採取できる希少鉱石の回収。
普段と変わらない、ありふれた探索のはずだった。
しかし、階層に足を踏み入れた瞬間から、彼らは違和感を覚えていた。
魔物がいない。
本来ならば、そこかしこを徘徊しているはずの魔物が、一匹も見当たらないのだ。
「第七階層の魔物が……全滅してる?」
「いや、待て。おかしいだろ」
仲間の一人が周囲を見回す。
壁面には無数の亀裂が走り、床には巨大な何かが這いずったような痕跡が残されていた。
ところどころ、岩盤そのものが抉り取られている。
だが、不思議なことに、魔物の死骸らしきものは一つも見当たらなかった。
血痕すらない。
まるで、最初から何も存在していなかったかのように。
「おい、これ……本当に魔物がやったのか?」
「分かるわけないだろ!」
「じゃあ、何が起きたんだよ!」
誰も答えられなかった。
ただ一つ、彼らにも分かることがある。
これは、普通ではない。
探索者としての経験が、これ以上先に進むなと警告していた。
「……撤退するぞ」
リーダーの男が判断を下す。
「えっ、でも、まだ目的の鉱石が――」
「諦めろ。ここにいたらマズい」
その直後だった。
『――おい』
声が響いた。
男たちは一斉に動きを止めた。
誰もいない。
周囲を見回しても、仲間以外の姿は確認できない。
「……今の、誰だ?」
『何をしている』
再び声が響く。
今度は全員が聞いていた。
耳から聞こえたわけではない。
頭の中に、直接声を流し込まれたような感覚。
「な、何だ……!?」
『ここは私の寝床だ』
その瞬間。
空気が変わった。
いや、空気だけではない。
世界そのものが、何かに押さえつけられたような感覚。
探索者たちの身体が、ぴたりと動かなくなった。
呼吸が止まったわけではない。
心臓が止まったわけでもない。
ただ、動くという現象そのものを許されなくなった。
指一本動かせない。
声を出すことすらできない。
魔力を練ろうとしても、何も起きない。
彼らがこれまで培ってきた技術も、経験も、装備も。
そのすべてが、何の意味も持たなくなっていた。
「ぁ……っ」
声にならない声が漏れる。
恐怖。
それは、単純に強大な敵を前にしたときの恐怖とは違っていた。
敵意を向けられているわけでもない。
攻撃されているわけでもない。
ただ、そこにいる何かが、自分たちとはあまりにも違う。
生物としての格が違う。
本能が理解してしまったのだ。
自分たちは、決してこの存在に逆らうことなどできないのだと。
『……勝手に踏み荒らすな』
声には、怒りすらなかった。
まるで、自分の部屋に入り込んだ虫を見つけたときのような、面倒くさそうな声音。
そして。
『……まあ、いい』
唐突に、声が消えた。
同時に、探索者たちの身体は自由を取り戻す。
「はっ……! はぁっ……!」
「な、何だったんだ、今の……!」
全員がその場に崩れ落ちた。
呼吸を整えることすら難しい。
しばらくの間、誰も口を開けなかった。
やがて、リーダーの男が震える声で告げる。
「……撤退だ」
誰も反対しなかった。
「今すぐだ。二度とここには来るな」
その言葉に、仲間たちは無言で頷いた。
彼らはまだ知らない。
あの声の主が、決して自分たちを敵として認識してすらいなかったことを。
◆
同時刻。
一色家。
「雅様」
「何?」
「先ほど、ダンジョンで何かされましたか?」
ソファに寝転がり、クッションを抱えていた雅が顔を上げる。
「少し寝床を整理しただけ」
「……寝床?」
「うん。邪魔なものがたくさんいたから」
「…………」
紫苑は嫌な予感を覚えた。
「もしかして、魔物を?」
「そう」
「どの程度ですか?」
「全部」
「…………全部?」
「うん」
あまりにもあっさりとした返答だった。
「第七階層の魔物を、すべて片付けたということですか?」
「そう言っているでしょう?」
「……あそこ、現在は探索者協会の管理下にあるダンジョンですが」
「知ってる」
「でしたら、もう少し穏便にお願いします」
「魔物を片付けただけでしょう?」
「その片付け方の問題です」
雅は不思議そうに首を傾げた。
「全部消した方が早いと思ったのだけど」
「そういう問題ではありません」
「面倒くさい」
紫苑は額に手を当てた。
この少女にとって、人間社会のルールなど、道端に落ちている小石と大差ない。
気に入れば拾う。
邪魔なら蹴飛ばす。
そして、興味がなければそのまま通り過ぎる。
それだけのことだ。
「……雅様」
「何?」
「お願いですから、探索者協会に目をつけられるようなことはしないでくださいね」
「どうして?」
「説明が面倒だからです」
「あなたが説明すればいいでしょう」
「私にも限度があります」
「そう」
雅は興味なさそうに頷いた。
そして、テーブルの上に置かれていた紅茶を手に取る。
すっかり冷めていた。
「紫苑」
「はい」
「明日は外に出たい」
「どちらへ?」
「どこでもいい。退屈しない場所」
「……承知しました。では、少し遠出をしましょうか」
「うん」
雅は微笑んだ。
それは、見た目だけならば年相応の無邪気な笑顔だった。
しかし、紫苑は知っている。
この少女が笑うとき、必ずしも良いことが起きるわけではない。
むしろ、その逆であることの方が多い。
何しろ。
この世に存在する大抵のものは、彼女にとって壊しても構わないものなのだから。
◆
その夜。
探索者協会本部。
地下に設けられた緊急会議室には、国内のダンジョン管理を担当する幹部たちが集められていた。
大型モニターには、問題のダンジョンで撮影された映像が映し出されている。
壁面の亀裂。
抉られた岩盤。
そして、魔物が一匹も存在しない第七階層。
「報告します。第七階層の魔物は、現在も一切確認されていません」
担当者が淡々と報告する。
「原因は?」
「不明です」
「魔物同士の縄張り争いという可能性は?」
「ありません。周辺階層の魔物にも異常は確認されていません」
「では、ダンジョンコアの異常は?」
「そちらもありません。むしろ、異常なほど安定しています」
「……意味が分からん」
幹部の一人が眉間に皺を寄せた。
ダンジョン内で魔物が大量発生することはある。
逆に、何らかの理由で魔物が減少することもある。
だが、今回のように一つの階層から魔物が完全に消失するなど、前例がなかった。
しかも、ダンジョンそのものには何の異常も見られない。
「もう一つ、報告があります」
担当者が資料をめくった。
「現場にいた探索者たちが、全員同じ証言をしています」
「何だ?」
「声を聞いた、と」
「声?」
「はい。『ここは私の寝床だ』と」
会議室に沈黙が落ちた。
誰かが小さく息を呑む。
「……ダンジョンの主か?」
「可能性はあります」
「新種の知性型魔物ということか?」
「それも否定できません」
「待て。そもそも、魔物が全滅した理由は?」
「分かりません。ただ、現場の痕跡を見る限り、通常の戦闘が行われたとは考えにくいかと」
「ならば、何らかの特殊能力か?」
「その可能性もあります」
誰もが資料を睨みつける。
正体不明。
能力不明。
危険度不明。
分かっていることは、ただ一つ。
何かがいる。
そして、それは探索者たちを圧倒するほどの力を持っている。
「……調査隊を編成しろ」
沈黙を破ったのは、会議室の上座に座る男だった。
「まずは遠距離からの観測を行う。対象の位置と行動を特定し、可能ならば接触を試みる」
「危険ではありませんか?」
「だからこそ、慎重に調査する必要がある。放置しておける問題ではない」
その判断に、異論はなかった。
もっとも。
彼らはまだ知らない。
自分たちが調査しようとしている存在が、そもそも調査される側にいるような存在ではないことを。
そして、その存在は明日。
何食わぬ顔で、東京の街を散歩する予定であることを。
――人類が未知の脅威に頭を悩ませている、その一方で。
当の脅威は、明日の昼食に何を食べるか考えているだけだった。




