君に届く声
ウカがこの部屋を訪れるようになって、どれくらいの日が経ったのだろう。この部屋では時間の感覚は掴めない。ただ、ウカはほとんど日を置かずに現れていたはずだ。
(……ウカが、来ない)
それが、ここしばらく、姿を見せない。
日に日に生ぬるく、そして雨のこぼれる部屋の中で私は膝をかかえて過ごした。頭に浮かぶのは、過去のことだ。
遠い過去、近い過去。そしてすべて最後は、盲目の彼女につながる。彼女の笑顔、涙、声、愛しているとつぶやいた唇の動き。
そして彼女と食べた、食事の数々。
浅ましいことだ。こんなになってなお、私は愛と欲に縛られている。
そして私はウカのいうとおり、この部屋から出たいと……そう切望するようになっていた。
ウカへの恐怖心がそう思わせたわけではない。
思い出が私の心をふるわせたせいだ。外へ出ればきっと、私は捕まる。どれだけ殺しても捕まらないなど、そんなことは夢物語だ。
すでに幾度か危ない橋を渡ってきた。すでに警察にはマークされているだろう。外に出れば、捕まる。捕まればおそらく罪は重い。
だとしても、出たい。彼女に会いたい、一度だけでも、彼女と言葉を交わしたい。
懺悔をすべきはウカに対してではない。彼女に対してだ。
「そろそろ君もここから出るころだ」
まるで私の心を読んだようにウカが姿を見せたのは、そのしばらくのちのこと。
「もう、こっちに縛られる必要はない」
いつものように壁の向こうから、ウカが姿を見せる。いつもと異なるのは食事の香りがないことである。彼女の手に乗せられているのは、一枚の白い皿。それだけだ。
いつもなら食べ物が乗っているはずのそこに、今は何もない。
私はそれを、ぼうっと見上げた。
「どうせ、俺は生きかえった所で……外に出たところで、ろくな人生を歩めないのに、ウカは残酷で、優しいな」
「神が人間の思惑通りに動くものか」
ウカの耳は相変わらず壊れたままだが、体は元気そうである。はねるように私の前に座ると、空の皿を差し出す。
「私は理を崩そうとしていると、言ったろう」
「言った」
「飯を食って欲しいと言ったろう」
「言った」
「私は神だとも、最初から言っている。頼むから食ってくれと、食わねば死ぬとずっと言っている、これは私の我が儘だとも」
「言った」
「私は嘘を吐かない。そう言ったろう」
ウカは喉の奥で笑い声をあげる。無邪気なまでの声だった。
「それはウカ。全て、本当のことか」
「当然だ。私は嘘は吐かないよ。それに、私は君が人を殺す様子を幾度も見ていた」
ウカは私の手のひらをつかむ。以前、彼女は私の手をとって、清浄なものだと言った。思えば彼女は、一度も私に対して怯えることをしない。
「そして君が死ぬ時も見ていた。君は、私の目の前でぶら下がったのだよ……なあ。そろそろ思い出せ、斉藤。君はどこで首をくくった?」
ウカは私の手を撫でる。その手は、縄を持ち、首に通した。その縄の先はどこにあっただろう。そうだ、神社の、古い木の枝である。
目の前には、古い狐の像があった。
「君が私の目の前で死のうとしていた。その時、思ったのだ。人間は何か願いがかなうたびに、私が施してもない御利益とやらの礼にくる。私はもう何百年もそんな物を見てきた」
「ウカ」
「しかし私は、自分に施された恩に、どう礼をする?」
彼女は私の手に、皿を乗せた。
真っ白い、ただの丸い皿だ。食べ物の欠片も乗っていない。
「ウカ、これは……」
「君は私に恩を施した。君は私に言っただろ……ここで壊れていい命じゃないだろうと」
ウカは私の顔を真っ直ぐに見つめながら言う。
そうだ。狐の像を壊した男を私は殺した。そして、血塗れの手で私は狐の像に、壊れた耳を乗せてやった。
しかし、それはけして、恩を施すためのものではない。
かわいそうに。と思ったのだ。ただ、それだけだ。
「そうだ。私も、同じことを君に思った」
だから救うことにした。とウカはいう。
「どうやって……救うんだ」
「君の胃には、現世の食べ物が」
ウカの指が私の腹をつつく。ぼろぼろになったシャツの下、腹だけは元気である。それは、ウカの持ってくる食べ物を、食べていたおかげである。
「なあ、君は、黄泉戸喫というものを知っているか」
「よもつ……」
「遙か遙か昔のことさ。私の母上様は、冥界の食い物を口にして、二度とこちらの世に戻れなくなった。黄泉で造られたものを食った、それだけでな」
ウカが持たせてくれた白い皿は、空のはずなのにひどく重い。震える私など気にせず彼女は続けた。
「その世界の食い物で、神も人も縛られるのさ。たかが、胃を満たすだけの物の癖に、食べ物というのは随分と厄介なものだ」
「ウカ、まさか」
「これがすべての私の秘密だ。仏とは仲が悪いが、いうなれば私は君の唯一の蜘蛛の糸」
「お前は、ウカは……俺に、だから、食べ物を」
私の胃に詰まった食べ物は、すべてすべて現世のものだった。一口喉をすり抜けるたびに、私は一歩、一歩と現世へと近づいていく。
食べてくれと懇願するウカの声を今更に思いだし、私の声が震えた。
「なあ斉藤。私は納得のできない死は許さない。もう一回死ぬならそれでもいい。もう一回死んだ時に、もう一回、会おう。その時は、黄泉の国の食い物をたんと食わせてやる」
そして彼女は私の持つ皿の上に、何かをおいた。
「返してあげよう」
からり。と重い音とともに乗せられたそれは、一本のナイフ。持ち手が茶色ににじんでいる。鈍いモスグリーンに輝くそのナイフは、私が常々懐に入れていたものだ。ここへ来て初日から、消えていた。
すでにその存在さえ忘れていたことに、私は愕然とする。
「……最初の日、あれほど必死に探していたではないか。もう、いらない?」
ウカは楽しげにそういって、ナイフを撫でる。
「では、食べられるものに変えてあげよう」
白い指がその上をすり抜けると、そこにあったのはナイフではない。
ただ、白く美しい丸い石である。
「この、石は」
石を手にすると、それは儚いほどに小さい。
「おめでとう。君にとって最初の食べ物だ」
ウカは言った。
「おめでとう。君にとって最後の食べ物だ」
私は思いだした。
かつて私が生まれて100日目。歯固めのために用意された石は、母が神社から譲り受けたものだった。
もちろん石を見たことはない。両親や祖父母が、まだ赤子の私の口に差し入れいれたものにすぎない。
しかし、ひどく懐かしいのだ。
魂の奥底で、この味を知っていると何かが叫ぶのだ。
石をじっと見つめる私に、彼女は膝を進める。
そして。
「……たんと召し上がれ」
と、ウカは笑った。
軽く小さなその石を、震える手で口へと運ぶ。前歯で軽くかみしめれば、不思議と海の味がする。
「……うん」
かみしめた石を、皿に戻す。ウカは満足したように、その皿を壁の棚に飾る。
「うまいな」
見上げたそこに並ぶのは、49枚の皿だった。
とたん、まるで地鳴りのような音が響く。
続いて、地面が揺れた。まるで貧血のような揺れだ。その揺れは、壁にかけられた皿を次々に地面に落とす。かしゃん、かしゃんと音を立てて割れる皿の向こう。破片が滝のように舞い上がる向こう。ウカが私を見つめている。
その仮面の奥、彼女の優しい声が聞こえた。
「……いってらっしゃい」
「……お帰りなさい」
ウカの声が右の耳から聞こえた。と、同時に左の耳からは懐かしい声が聞こえる。
は。と目を開ければ、背と喉に、激痛が走った。
「……っ」
顔には、まるで春の雨のような滴れが幾筋も落ちる。頬は生ぬるい暖かさに包まれている。
「……な……に」
声を上げると同時に、私は噎せた。飛び上がりそうになるのを、白い何かがとどめる。
それは、手だ。真っ白で温かな手が私の目を包んだのだ。
その白さは、あの部屋の白さと同じ色である。あの部屋と、同じ温度である。
「だめ、まだ起きないで。もう少し、ゆっくり……そう、息を吸うの。ゆっくり……そう……」
私の目を押さえた人が優しくささやく。その声を聞いて私は泣きそうになる。それは今一番、聞きたい声だった。
「……さあ、目を開けて」
私の目からゆっくりと、手がはずされた。おそるおそる瞳を明ければ、目の前にあったのは白く細長い指である。その左の手にはうっすら残った古傷。
そして薬指には、銀色の円が見える……それは、かつて珈琲屋で捨てたはずの、銀のリングであった。
続いて見えたのは女の顔。その瞳は、静かに伏せられている。しかし、閉じられた瞼の隙間から、まるで雨のような涙がいく筋もこぼれおちているのだ。
「私がここにきたとき、ちょうど、何かが落ちる音がしたの」
盲目の人である。彼女は私の頭を膝に乗せて、冷たい境内の地面に腰を落としている。
柔らかいスカートが、そして彼女の足が土に汚れていた。春の雨が降ったのだ。そうだ、今は春である。まだ、春なのだ。
地面に情けなく落下した格好の私からは、天が見える。真っ黒の空に浮かぶ曖昧なおぼろの満月。遠くに流れていく灰色の雨雲。そして彼女の上に大きく腕を広げて広がる、桜の木。
白色の花びらが開いている。ひとつひとつは薄い花びらだというのに、集まれば圧巻だ。それは天を覆うほどの、桜だ。
私はその枝に紐をかけたのだ。
紐をかけたとき、私の目に映るのはモノクロの世界だった。これほどまでに見事な桜の花が見えてはいなかった。しかし今、私には桜の花が見える。
春だ。と、私は今更ながらにそう思った。
「……聞こえてきたのよ。あなたのうめく声と、落ちる紐の音と、桜の散る音と、泣く声と」
「どうして……」
「小さな……女の子、たぶんね。冷たくて、小さな手のひらが私をここに引いて、そして」
彼女の目に、涙がふくりと膨らんだ。それは、はたり。はたりと音を立てて私の顔へと降り注ぐ。
桜の木の下に、狐の像があった。耳が不自然に、くっついている。ボンドのようなもので、くっつけられた跡だろう。つん、と尖った瞳にゆるやかにほほえむ口。
その目は確かに私を見ている。
ただいま。と、私は心の中でウカにささやいた。
狐は何も語らない。ただ、笑った気がした。それはウカの、微笑みだ。
「話がしたい。君に」
「私もあなたの声が、聞きたいと思ってたの」
「よかった」
おそるおそる差し出した手のひらに、ふれた彼女の頬は暖かい。
「君に、すべて」
長い話をしよう。
私はそういって、彼女の肩を抱く。私の上をすぎていくのは、様々な記憶と様々な思い出だ。
胃は不思議なまでに満ちている。腹が満たされたせいで、腹の奥底にかくしていた秘密があっさりと押し出されて舌先に乗る。
私はしっかりと彼女を見つめた。彼女もまた見えないで私を見つめている。
はらはらと舞い落ちる桜の下、私の長い懺悔がはじまった。