境界線
「スズリは?」
服の汚れを払いながら、要の問い掛けに首を振る。
それだけで事態を察したのだろう。彼女それきり黙り込み、二階の奥へと消えていく。敷いた布団を片付けるかどうかは、想像で賄うしかない。
ようやく帰ってきた祖父は、哲心を追い越して居間の中へ。背中は無言で来いと語っている。
特に反対する理由もなく、定位置にある椅子へ直行。テレビの世界は既に真っ黒だ。恨めしそうに、二人の姿を映している。
「祖父さん、何か飲むか?」
「コーヒーを。ミルクと砂糖は無しで頼むぞ」
「あいよ」
もちろん、お湯で溶かすのは安いインスタントコーヒー。お湯は沸かさないと不足しそうだ。
なので作業にはどうしても間が開く。ただ待っているわけにもいかない。
「どうすんだ、祖父さんは」
台所に位置を移したまま、肩越しに祖父へ問い掛ける。
彼はしばらく、腕を組んだまま答えなかった。まさか寝ているのでは、と勘繰る哲心だったが、目はきちんと開いている。
何となくヤカンを覗けば、湯気の前兆すら見当らない。
「徳理支部は守りを固めることで決まった。名門派はどうも、本気でワシらを潰したいらしい。二年ぶりの祭りに、招かれざる客は不要だそうじゃ」
「二年前ってとあれか? ヒトクイの大量出現か?」
「左様。……奴らは人間と自然のバランスを取るためだと主張しているが、本音はどうなのやら。せめてファティナ家の当主と連絡が取れればなあ」
「出来ないのか?」
厳哲は首肯し、理由は分からん、と一言付け足す。
大方クラフトの仕業だろう。スズリの不自然な失踪が、仄かに異常性を語っている。
「――まあ、折角作った交流が台無しになったことは置いておこう。一番厄介なのは、連中が徳理市を自由に闊歩しているということじゃ。ワシらが町から出ようものなら、大規模な結界で移動を封じてくる」
「包囲された以上は籠城戦、か。……まさか町中で戦闘はしないよな?」
魔術師は世間からの干渉を好んでいない。基本で考えるなら、徳理市の表で戦闘はしないだろう。
逆説的に、基本を破れば問題はクリアできる。
しかしさすがの厳哲も、孫の追求には抵抗感を示していた。
「一般人を巻き込んでたまるものか。これは中立全員の意思じゃ。――無論、名門派は躊躇などせんがな」
「やっぱりか……要のやつ、ここに残した方がいいかね? あの結界がきちんと起動してるのかどうかは知らんけど」
「いや、問題なく機能しておる。不思議なことに、クラフトには反応せんようだが」
「それは――」
彼の仲間に、神谷家の関係者がいるということ。
言葉を飲み込む哲心に代わって、厳哲はその推論を否定した。
「話を変えるが、クラフトの魔術は見たな?」
「見た。スズリからの説明は半信半疑だったけど、本当に何種類も使うとは……これまで誰を喰ったんだ?」
「分からん。行方不明になっている魔術師も計上に入れねばならんしの。――ただ、楓は犠牲者の一人だったようじゃ」
何となく予想できた結果だが、改めて聞くと言葉が出ない。
確かに妹は死の直前、会話もままならない状態だった。虚ろな焦点と希薄な存在感。人間としての中身が残っていないと、直感したのを覚えている。
厳哲の咳払いで、哲心は過去の情景を棚にしまった。
「そいうわけで、クラフトは領地を自由に通過できる。結界の誤作動についても同じじゃな。残り続けるのは厳しいぞ」
「だったら図書館に移動か?」
「……要君が人質に取られる可能性を考慮すれば、その方が安全じゃろう。学校が終わり次第、こちらで迎えを出す。さすがに奴らも日中は攻撃すまい。夜は知らん」
「じゃあ今夜も危ないか……。なんだったら俺、適当な時間まで起きてようか?」
「いや、ワシが引き受ける。早朝には支部へ向かわねばならんからな」
「爺さん、歳なんだから少し自重――」
と、タイミング良く足音が降りてくる。やはり布団を片付けていたようだ。
居間に入ってくるなり、要は首を傾げて台所へ。入る手前で、歩きが駆け足に変化する。沸かしているお湯の存在は、頭の隅に追いやられていたらしい。
「えっーと、二人とも何か飲むの?」
「俺コーヒー」
「ワシもコーヒー」
はいはい、とカップを用意する要に、哲心は腰を上げて協力する。が、ジェスチャーでさっくり拒否された。
席に戻って、話が続く。
「明日の夜が決戦になるじゃろう。しかし間者によれば、奴らはヒトクイの本体召喚に使う門を確保できていないらしい。上手く動けば、人を逃がす隙はあるかもしれん」
「……確か、オカエリ、って連中に囁かれるんだっけか」
「噂が正しければな。二年前に楓が代役となったように、油断も許されん」
「諦めてくれるのが一番なんだが……」
それで片付くなら苦労はしない。
門に該当する人間を始末できれば一番確実だろう。あるいはこの間にも、調査と執行が始まっているかもしれない。
一方で後ろめたい気持ちもある。該当するのが名門派の関係者であればまだしも、一般人だって確立はゼロじゃない。
「門については、ギリギリまで情報を集めておく。哲心は哲心で、好きにするといい」
「……んじゃあ、門を壊す係りで。確かそっちを消せば、出てきてるヒトクイも連鎖的に消滅するよな?」
「イデア界との接点が断たれるからの。領民を取り戻すのに、唯一とも言える方法じゃな。……ただ、ワシらの方は防衛で手一杯になる。そちらに協力は出来んぞ?」
「分かってる」
「――そうか」
頷く祖父は、何か言葉を飲み乾したようだった。
胸襟を開こうとも、叶う筈のない望み。眦を決した厳哲からは、逆にそんな理解、同情も見て取れる。
「はい」
運ばれてきたコーヒーは、誇らしげに湯気を吐き出している。それがこの時間だけの意地にも見えて、少し笑いたくなってしまった。
と。
「うおっ」
哲心の手から、カップが唐突に落下する。
幸いにもテーブルに落ちただけだった。被害は最低限だが確かにあって、白いワイシャツがコーヒーで染まっている。
「済まん要……あ、布巾頼めるか?」
「う、うん。ちょっと待って」
一瞬の異変に、自身の指先を訝しむ哲心。
しかし感覚はいつも通りだった。外見上もおかしな部分はない。
「……」
一人、厳哲だけが事実を掴んでいる。
「限界のようじゃな」
「? 何が」
「お主の身体が、だ。魔術の過度な使用で、魂が肉体を消滅させに掛かっておる。……このまま以前通りに魔術を使えば、天上の世界へ案内されるぞ」
「……爺さん、もっと直接的に言ってくれるか?」
「魔術師として完成し、死ぬぞ。以上じゃ」
「……」
実感が沸かないにも程がある。
しかし見れば、瞬き程度の時間で指が消えた。死と呼ぶよりも消滅に近い。
内心は騒ついているが、元に戻るのを確認するとホッとした。
「はい、これ」
「どうも」
要の持ってきた布巾で、汚れてしまった部分を拭き取る。
テーブルを濡らしたコーヒーは、酷く罪悪感を駆り立てた。折角入れてくれたのに、と。
要が横にいる間は、さすがに話す気も湧いてこない。反応は想像できるし、両親だって危険な状態にある。彼女を思うなら心配の原因は増やせない。
「――済まん要君、ワシの部屋から支部の見取り図を持ってきてもらえんか? 孫に説明することがある」
「あ、はい」
「頼んだぞ」
もっともらしい理由で、厳哲は要を追いやった。
見取り図の実在については問う必要もない。少なくとも哲心は初耳だ。悩んでいる眉間も、その証拠を語っている。
しかし直ぐに切り替わる面貌。峻厳な形が、内容の真剣さを訴える。
「……魔術師は精神を磨く過程で魔術を習得し、イデア界への到達を目指していく。お主が今陥っている状態は、そのゴール手前まで来た証拠じゃ」
「一応名誉なのか、これ」
「普通はベテランの魔術師に起こる現象じゃがな。一説では、寿命を迎えないと発生しない、とも考えられておる」
「成程……」
嬉しさなんて微塵もない。
いや、意味を理解できないという方が正確だ。魔術師における極北だろうと、それが死に直結するのは納得しかねる。まるで、地上はお前に相応しくない、と言われている気分だ。
しかし、それで行動を止めるのも道理が合わない。
人間なんていずれ死ぬ。訪れる結末を必死に避けようとするなんて、それはそれで滑稽じゃなかろうか。
ましてや今、動くべき瞬間に入った横槍なんて。
「意思に変わりはないか?」
率直な、肉親としての詰問だった。
要を追い出す必要はなかったろうに、と内心で一人ごちる。彼女の存在を意識させれば、考えが変わる可能性は否定できない。
「ああ」
未来すらひっくるめて、頷く方向は決まっていた。
厳哲の言わんとしていることは分かる。が、自分の性格もあるし、ここで守ることを放棄するのも馬鹿馬鹿しかった。
ここで行動しなければ、領地の人々を救えない。それにまだ、消えると決まったわけでもない。
仮に傍観を選んでも、哲心と要は身の危険に晒される。名門派は徳理支部を征圧した後、本格的に領地を簒奪すべくやってくるだろう。今の段階で無事なのは、相手取るだけの価値がないだけだ。遅かれ早かれ、暴力は自然とやってくる。
逃げられないし、逃げたくない。
悔やむものがあるとすれば、要に安心を約束できないことだろうか。
故に彼女へ話す勇気はない。本来ならそうして然るべきだが、情念が束になって妨害している。
理性で抑えるべき、人間の弱々しい感覚。
どれが正しくてどれが悪いのか。何を義務にして、何を願望とするべきか。
探し物に苦戦する要の声が、善悪の概念を忘れさせた。
「……決意が固いのであれば、ワシから言うことは何もない」
「――了解」
言い終えた厳哲は、年齢を感じさせないほど速やかに席を立つ。彼の私室がある方向からは、何やら本の崩れる音が聞こえていた。
言うことは何もない。
その宣言通り、肯定も否定も来なかった。祖父が今夜中に発つのだとすれば、別れの挨拶もしないだろう。
本音で認めているのか、あるいは反対か。十数年の付き合いでも、態度から考えを連想するのは難しい。せめて傾向が分かるくらいだ。
厳哲は今、孫に魔術を教えたことを後悔している。
要を連れて帰ってきた空虚な笑みに、そんな感想を懐いていた。
日常は極めて穏やかに。普段通りのランニングは、戦いの舞台すら飾れない。
既に二人は、既定のルートを回った後だった。
ジャージ姿の足音はいつも以上に統一感が取れている。少女も途中で別れることなく、哲心の家に転がり込んできた。
「しっかしスズリも酷いよねー。あの後、メールしても返事寄越さないんだよ?」
「何かの用で忙しいんじゃないか? 彼女、一応名門の娘だし」
「かもしれないけどさ、挨拶くらいは欲しいんだよね。気になっちゃうじゃん?」
「……まあ、気持ちは分かる」
でしょ? と頷く横顔には、杞憂の類が見られない。
親や哲心が魔術世界の人間とは言え、基本的に要は部外者だ。今日の出来事についても、面倒なことが起ころうとしている、程度の情報しか伝わっていない。――あるいはこの平静さが、信頼の裏返しか。
家の中に戻った二人は、うがい手洗いを済ませそれぞれの部屋へ。
学校の制服に袖を通すと、ようやく朝を迎えた気分になってくる。
居間に入っても出迎える人はいない。厳哲は予定通り、早朝に徳理支部へと向かった。
二人だけの家。これまで、何度か経験したことのある環境だ。
しかし今日という日に限っては、何か特別なものに感じられる。
視線はどこか落ち着かず、この風景を必死に収めようとしていた。死の実感がなかろうと、感情の面では別らしい。
「っ」
姿勢が崩れる。
問題なく床に手を突く哲心だが、転倒した原因は見当らない。床は整理整頓が行き届いており、非常時の客とて迎えられる状態だ。
とするなら、自分の足。
右のズボンを撒くってみると、確かに形が消えている。無造作に置かれた靴下は、投げ捨てられたような侘しさも持っていた。
実体が戻ってきたのは、それから数秒挟んだ後。
誰かが階段から降りてくる。哲心はハッとして、急遽靴下を履き直した。
「さて、準備完了! 朝ごはん作るから、ちょっと待っててね」
「ああ」
後は変哲のない光景。台所へ向かう要に感謝して、読書の世界に沈んでいく。
まな板を打つ音が遠い。それは読書に集中する証か、あるいは聴覚すら消えているのか。
五感もどこか緩慢だ。手にくる文庫本の重みも、何か空気を掴んでいる錯覚に代わる。目には、ちゃんと指先まで映っているのに。
しかしこれが魔術師の目指したモノ。物質を捨て、真実を追求した魂の結果。
故に神は去れと告げる。ここは似つかわしくないから、我々に戻って来いと誘ってくる。
それは正しいことなんだろう。名門派との戦いを乗り切っても、平穏に戻れる理屈はない。何の悪にも手を染めたくなければ、決定的な乖離を得るのが一番だ。
だったら何故、要を置いて行かねばならないのか。
「あ、哲心。あたし委員会の仕事あるからさ、少し早めに家でるね」
「俺も手伝うか? 何するか知らんけど」
「いいよいいよ、大したことじゃないから。それよりもご飯、そろそろだからね?」
今度はしっかりと、明るい声色で哲心は動いた。
ある程度は協力しなければなるまい。おかずを運ぶ彼女の横で、炊きたての白米をよそっていく。
これが最後かと、無言の表情で吐き出しながら。
スズリにとって、これほど陰鬱な朝はなかった。
いつも以上に早い一日。意外を見つめる生徒達も、今はひたすら関わりたくない。
教室は冷たい空気の中に。親友の姿が見つからないことへ安堵して、スズリは指定の位置に腰を降ろした。
学校へは授業を受けに来たわけではない。生贄の埋め合わせが足りないと、クラフトに要求されてやってきた。
昨日の火災もそうだが、まだヒトクイは餓えている。妨害に対して、釣り合いを取るのが難しいレベルに。
だから学校を使う。非道だと認識していようが、その判断に揺るぎはない。
天秤には両親の命と、生徒達の命。
不思議と感情は捨てられた。逆らえば親の命はないと――クラフトの脅しが、これ以上ない効果を発揮している。一番大切なもので脅されるなら、仕方ないと。三桁にも上る人数を、片手に収まる理由で潰そうとしている。
自分の理念に反していることは、目で見る以上に明らかだった。
しかし疑問はない。そういう風に育てられたから、だろう。固執してきた選択方式は、いとも容易く捨てられる過去だったらしい。
でも考えれみれば、それが正しい顛末だ。
スズリはファティナ家を存続させるべく育てられた。大勢を守るのも、両親の命を優先することも同じ。確実に未来へ繋がる方法こそ、幼い頃から叩き込まれた正体。
生かすべきは権力。労を惜しまないのは、体裁の意地に固執するから。
だからこんなに迷いがない。だからこんなに冷徹だ。
「気付いたところで、変えることなど出来ないのに……」
抵抗の意思すら感情に沈めて、鞄から一冊の本を取り出す。
魔導書だ。ヒトクイの誘導、魂の蒐集が記述されており、魔力を流し込むだけで動くらしい。
結界の機能も備えているから、あとは放置で構わないと。そうクラフトは言っていた。
室内に誰もいないことを確認して、スズリは教室を出ようとする。
ふと、廊下に出る直前で足が止まった。
脳裏を過る教室の日常。あれがずっと続いていればと、後悔が覚悟を濁らせる。
――あったとすれば、それが最後の機会で。
しかし彼も誰も、スズリを止める者はいなかった。
目指すのは校舎の裏庭。最中には、胸中を知らない一般の生徒達。せめて登校の時よりも明るく、いつも通りの笑顔を配っていく。
裏庭は直ぐだった。普段から人気の少ないそこは、少女の来訪を拒むように一層暗い。
所定のページを開いて地面に置く。目撃者に注意しようとは考えなかった。この瞬間に見られたとしても、気付いた時にはイデア界へ帰っているだろう。
「そもそもこの時間では、生徒数も少ないですしね」
無意味な独り言は、自分で決めた唯一の我儘だ。
この時間帯なら要と哲心は登校して来ない。悪を自覚するなら、それだけはやっておきたかった。魔術師の方はともかく、親友は巻き込まずに済むだろう。
「――」
魔力を流す。
「あれ? スズリ?」
しかし校舎から聞こえる、親しい人。
驚く頃には、日常との別れが始まった。




