42-遭遇
青い空が広がり、穏やかな波がゆっくりと寄せる。傍らに空の弁当箱を置いて黒い岩場の陰に座り、黒い小柄な少女はじっと海を眺めていた。
岩場に溜まった海水に、棘のある黒い塊が沈んでいる。それをずっと眺めていた。
何をするでもなく、ただ見詰めているだけ。何かを思っているわけでもなく、ぼんやりとしているだけだ。偶にこうして、見ていたくなる。戻りたいと思っているわけではないのだが。
「どぉわっ……とぉ!?」
海の音以外は何も聞こえなかった背後から、突然人の声がした。何と言ったのかはわからなかった。
黒い少女は振り返り、声を出した少女と目が合う。橙色の短い髪の少女は大股を開いて、隣の緑の髪を二つに結わいた少女に抱き付いていた。
「あ……はは、驚かせるつもりはなかったんですよ」
緑の髪の少女に捕まりながら脚を閉じようとし、橙の髪の少女は再び足を滑らせた。
「た、たす……たすけて……」
状況を理解した黒い少女は立ち上がって橙の髪の少女を助け起こした。橙の少女は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます! ちょっと話し掛けようと思ったら滑ってしまって……」
申し訳なさそうに笑う橙の少女に、黒い少女は首を傾げた。何か用があるようだが、二人の少女には見覚えがなかった。
「あの、違ったらすみません。無色の変転人ですか……?」
その一言で黒い少女はハッとした。宵街の中ならともかく、人間の街で変転人と出会うことは滅多にない。
「有色の変転人?」
「そう! そうです! 良かったぁ、無色の人で合ってた!」
橙と緑の少女は顔を見合わせ安堵の表情を浮かべた。
「私は紅花で、こっちは蕨って言います」
「私は黒色海栗」
蕨にも毒性はあるが、この緑の少女は無色ではないらしい。蕨は灰汁を抜くと食べられる山菜のため、有色になったのだろう。
「宵街で無色の人の傘回しに巻き込まれてしまって、帰れなくて困ってたんです」
宵街以外で有色を見るのは初めてだが、事情があったようだ。限りなく普通の人間に近く獣の手伝いをすることもない有色には移動する傘は与えられない。通常、有色は宵街から出られない。
「その無色の人は?」
「慌ててたので、あっと言う間に見失ってしまって……。通達の所為だと思います」
「通達?」
「狴犴様の通達です」
「狴犴の……?」
黒色海栗は首を傾ぐ。そんな話は初耳だった。宵街から離れていた数日の内に出されたものかもしれない。
紅花と蕨は顔を見合わせ、こちらも怪訝そうな顔をした。変転人なら皆聞いていることだと思っていた。
「白花苧環さんを見つけ次第連れて来いって通達なんですけど、聞いてませんか……?」
「その時、宵街にいなかったかもしれない。苧環の呼び出し?」
「そうだったんですね。何か、只の呼び出しじゃないみたいで、ピリピリしてます。怖いって言うか……。拷問にかけられた人もいるとかいないとか……」
只の呼び出しなら珍しくないことだ。獣は雑用等をよく変転人に頼む。だが拷問までするような呼び出しは聞いたことがない。
「苧環、悪いことしたの?」
「そんなことはないと思うんですけど、詳しくは知らされてないので何とも……」
言いにくそうに顔を伏せる紅花の頭を、蕨は軽く小突いた。
「ベニちゃんは苧環さんのことになると私情が入るから」
「だって! あの優しい苧環さんが悪いことするなんて考えられないよ!」
「しー! 獣様に反すること言うと拷問されるかもしれないよ」
「それは嫌だけど……」
不満そうに口を尖らせる紅花は居心地悪く足を動かしまた少し滑った。
「苧環の知り合い?」
平素話し掛けられれば黙っているわけにもいかないので返事をするが、紅花は白花苧環のことを知っているようなので黒色海栗は珍しく自分から質問をした。
途端に紅花が満面の笑みで食い付いた。
「もしかして海栗さんも苧環さんのファンですか!?」
「ファン?」
「苧環さんファンクラブにようこそ……」
片手は足を滑らせないように蕨に獅噛み付き、もう片手を誘うように広げる。
「ベニちゃんが一人で言ってるだけだから、気にしなくていいですよ」
勢い余ってまた滑りそうになる紅花の腕を掴んで下がらせながら、蕨は慣れているようでまた彼女の頭を小突いた。
足場の悪い岩の上で会話をしていると紅花が何度も滑ってしまうので、場所を移すことにした。黒色海栗は弁当箱を拾ってもう一度海に目を向けてから岩場をひょいと跳ぶ。その後を足元を確認しながら紅花と蕨は付いて行く。舗装された道まで行くと、漸く普通に歩くことができた。
「海栗さんにとって苧環さんってどんな人ですか?」
紅花はにこにこと尋ねる。足元ではなく会話に集中できるようになった。
「良い人」
「ですよねぇ! 優しくて良い人! しかも格好いい……完璧すぎて怖いくらい」
「皆もよく怖がってる」
「たぶんですけど、その怖いとは別ですね。苧環さんを恐れる人は確かに多いですけど、好意的に思ってる人も多いですから」
「紅花は好意的な方?」
「そうです。好意的です。実は私と苧環さんは同じ日に変転人となり宵街に来たんです。私の方が少し早かったんですが、服や傘作りは有色が先にいたとしても通常は無色が優先されるのに、苧環さんは私の方が先だからと譲ってくれたんです。一瞬で惚れました」
「苧環、優しい」
「ですよね!」
惚れるかどうかは別として、服と傘を作ってもらう体験は黒色海栗も覚えている。獣によって人の姿を与えられた生物はそれまで服を着ることはなかったので、最初は裸の状態だ。人の姿を与えた獣が自ら宵街へ連れて行くこともあるが、その場に放置されることも多い。必要以上に情を移さないためだ。放置された新しい変転人は、宵街から迎えが来る。迎えは無色の変転人が行い、黒色海栗の迎えには黒葉菫が来た。フードの付いた長い外套を被せられ、宵街で変転人の服や傘を作る狻猊という獣の所へ連れて行かれる。そこで迎えの変転人とは別れ、服が出来上がるまで待機部屋でじっと待つことになる。黒色海栗は一人で待っていたのだが、搗ち合うこともあるらしい。
「だから私は苧環さんは悪いことはしないと思うし、しても何か理由があると思うんです。狴犴様の考えはわからないですけど、もし苧環さんを拷問するなら、私が許しません!」
「ベニちゃん」
蕨にまた頭を小突かれ、紅花は口を尖らせた。
「許さなくても、変転人は獣様に何もできないよ」
「それはわかってるけど……苧環さん全然見つからないみたいだし、だったら逃げてるってことだよね? 逃げるくらい嫌がるって相当だよ。苧環さんは強いし、誘拐はないよね? 海栗さんはどう思います?」
少し遠くなった海を見ていた黒色海栗は、不満げな紅花を見る。
「逃げてるなら、苧環は良い人だから味方する」
「海栗さん……! 苧環さんファンクラブとして苧環さんを守りましょう!」
紅花は目を輝かせながら黒色海栗の手を握り、ぶんぶんと振った。
「ファンクラブはしないけど。でも紅花みたいな味方がいるのは、いいことだと思う」
「海栗さん……、何だか目から油が出そうです」
「人間は目から油は出ないんだよベニちゃん」
何を言っているのか黒色海栗にはわからなかったが、油があれば料理ができると思った。
「海栗さんは苧環さんが何処にいるかわかりますか? 連れて行くのは私には無理ですけど、宵街でそのお姿を見られないのはちょっと……辛いので、会いに行けるなら行きたい……」
「重症だなぁ……」
本気で落ち込む紅花を放っておくことはできず、蕨も宥める。
狴犴の通達のために彼の居場所を訊いたのではないと想像はできたが、今日会ったばかりではまだ信用するには早い気がする。黒色海栗はよく考えて答えた。
「わからない」
きっと宵街の中はもう探し尽くされているだろう。ならば人間の街か、獏のいる街にいるに違いない。どちらにいるにせよ、下手なことは言えない。こういう時は何も言わなければ安全だ。
「宵街に戻るなら、連れて行く」
襤褸を出さない内に掌から黒い傘を抜いて開き、二人を見る。二人は彼女に声を掛けた目的を思い出した。そうだ帰ることができずに困っていたのだった。
「ありがとうございます海栗さん! このままここで枯れてしまうのかと思いました」
「紅花はきっと油を売れば生きられる」
「海栗さんも冗談言うんですね」
蕨は笑うが、何が冗談なのかと黒色海栗は小首を傾いだ。目から油が出るなら集めて売れば良いと思ったのだが、何か違うのだろうかと。
黒い傘をくるりと回すと、一瞬の内に海から宵街へ視界が移り変わった。
もう二度と戻れないのではと途方に暮れていた紅花と蕨は、見慣れた石段と酸漿提灯に安堵した。
「助かりました! 海栗さんが何か困ったことがあったら、今度は私が助けますね! 苧環さんファンクラブの同志として」
「ファンクラブじゃない……」
「海栗さんを困らせたら駄目だよベニちゃん。名前も今は出さない方がいい」
「あっ、そうだった……」
当初よりは落ち着いたが通達の所為で不安が伝染し、皆神経質になっている。白花苧環の名前を出すだけで空気が変わってしまうほどに。
「海栗さんも気を付けてくださいね」
「それじゃ海栗さん、また機会があれば!」
手を振る二人に、黒色海栗は小さく頭を下げた。石段を下り横道に入る背中を見送る。
それに背を向け、宵の空の下、黒色海栗は石段を登る。暫く行った先の横道に入り、不揃いな街灯が石壁に打ち付けられた細い道を進む。蔦の絡まる箱が積まれたような石の一つを覗き、殺風景な中を見渡した。ここは黒葉菫の棲む家だ。
「スミレ……?」
中は暗く、人影はなかった。弁当箱を返しに来たのだが、どうやら黒葉菫は留守のようだ。台所に弁当箱を置いてもう一度家の中を見回す。殺風景な家の中に、蔦が少し入り込んでいる。宵街に生える蔦は人間の街に生える蔦とは少し違い、何処でもすぐ生え鉄線のように丈夫だ。小さな花が咲くこともあるらしいが、黒色海栗はまだ見たことがない。
作ってもらった弁当の礼を言いたかったが帰ってくる気配もないので、黒色海栗は踵を返した。留守なら仕方がない。
「!」
振り向いた入口にいつの間にか、黒葉菫より背が低く、黒くない人間が立っていた。
見たことのない人形のような白い少女だった。少女は黒色海栗を無感動な瞳で凝視し、部屋の中を見渡した。彼女も黒葉菫に会いに来たのかもしれない。白花苧環以外の白に知り合いがいるとは知らなかったが、わざわざ家まで来るのだから仲は良いのかもしれない。
「スミレはいないよ。留守みたい」
「……そう。貴方は?」
「黒色海栗」
「私は白花曼珠沙華」
「曼珠沙華……」
「異名が多いから、皆好き勝手呼んでるわ」
白花曼珠沙華は無表情を崩さず、掌から柄の長い剣のような槍のような物を引き抜いた。
「…………」
ここで武器を持つ理由が黒色海栗にはわからなかった。
曼珠沙華の異名――剃刀花から着想した武器をくるりと回して構え、白花曼珠沙華は黒色海栗に向かって刃を光らせた。
「何……」
困惑する黒色海栗に、白花曼珠沙華は剃刀を振り下ろした。黒色海栗は咄嗟に躱し、家の外へ飛び出す。掌からボウガンを取り出し、走りながら振り返る。薄暗い中で目立つ白い少女は仄かな街灯の間を追い掛けてきた。
宵街を縦に走る石段を数段飛ばしで飛び降り、何故攻撃してくるのかわからないまま転びそうになりながら逃げる。石段を踏み外さないように確認しながら下りる黒色海栗とは違い、白花曼珠沙華は慣れているのか足元を見ずに距離を縮める。
「……っ」
剃刀が石段を穿ち、脚を掠る。寸前で避けるが、体勢を崩して石段を転げてしまう。飛び掛かる白花曼珠沙華に倒れた姿勢のままボウガンを撃ち、白い腕に黒い棘が刺さり怯んだ所で再び起き上がって横道へ入った。
白花曼珠沙華は腕から黒い棘を抜き投げ捨てる。有毒な無色の変転人はその武器に自らの毒を仕込む。例外なく黒い棘には毒が仕込まれていて激痛が走るが、無色には毒耐性があるため動きは鈍くなれど止めるには至らない。
黒色海栗が入った横道に駆け込み、辺りを見渡す。
「……?」
不揃いな街灯が並ぶ道を奥へ走るが、黒い人影が見当たらなかった。立ち止まって耳を澄ませても音が聞こえない。何処かに身を潜めて隠れたらしい。若しくは――傘を回して逃げた。
「…………」
ここから離脱したのなら、捜し回るのは無意味だ。白花曼珠沙華は軽く辺りを歩いて石壁の間を確認し、深追いはせずに踵を返して去った。
蔦の絡み合う薄暗がりの中から、黒色海栗はほんの少し顔を出して白い少女が戻ってこないことを確認し胸を撫で下ろした。暗がりの中では白は目立つが、黒は溶け込む。
頭を引き、後ろで息を潜めて様子を窺っていた二人の少女を振り返る。
「ありがとう」
物音を聞き付け様子を見に来た紅花と蕨だ。咄嗟にこの横穴に引っ張り込んでくれた。
「全然状況はわからないけど、助けなきゃと思ったので」
「こんなに早く借りが返せるとは思いませんでしたが……」
黒色海栗は常夜燈を取り出し、横穴の奥を照らした。下層にこんな穴があるとは知らなかった。随分深そうだ。
「うわ、痛そう……手当てしなくても大丈夫なんですか?」
常夜燈で照らされた脚からは血が出ている。白花曼珠沙華の剃刀を掠ったからだ。棘と同じように刃に毒は仕込まれているが、掠った程度なら平気だ。
「耐性があるから、たぶん大丈夫。洗って手当てする」
「水と救急セット取って来ます」
穴の入口を塞ぐ蔦を分けて外を確認し、蕨は姿勢を低くしながら走って行った。
「ワラビーの家は近いから、すぐ戻って来るよ」
「ここは誰かの家?」
暗い横穴には明かりはなく、黒い土と蔦で覆われている。家具も何も無い。もし住人がいるなら、鉢合わせた時の言い訳を考えておかねばならない。
「ここは家ではなくて、只の穴です。昔の採掘場だと思います。今はもうこの穴は掘られてないので誰も来ないですよ。この辺りに棲んでてもこの穴には全然気付かないくらいで」
「何で穴があるってわかったの?」
「は……恥ずかしながら……転んで穴に突っ込んでしまいまして……」
「紅花らしい」
「ら、らしい?」
何だか引っ掛かる言葉だったが、紅花は首を傾げながら穴の奥を見た。小さな常夜燈では奥まで照らせない。
「地下牢に繋がる穴があるって噂を聞いたことがあるんですけど、もしかしたらこの穴がそうかもしれないです。ちょっと中に歩いたことがあるんですが、こんな感じで何もない穴が続いてるだけだったんですが……もっと歩かないといけないのかも。罪人がいる地下牢と繋がってるとしても、壁とか扉とかあると思いますが……。さすがにそのまま繋がってるわけはないと……」
口を閉じると、しんと静まり返った。何の音も響いてこない。
代わりにがさりと蔦が鳴り、蕨が戻って来た。
「水を汲んで来ました」
瓶に入れた水を受け取って脚の傷に流し、救急箱を手に取り黒色海栗は自分で処置を施していく。無色は獣のために危険なことも行う。万一のために傷の手当ての仕方は教わっている。
ガーゼを貼って手当てを終え、黒色海栗は小さく頭を下げて立ち上がった。横道の入口は屈まないといけないほど小さいが、中は立ち上がれる余裕がある。何度かそのまま足踏みし、問題なく歩けることを確認してもう一度蹲んだ。
「狙われたのは私だから、二人は私と一緒にいない方がいい」
蔦の外を確認し、黒色海栗は外に出る。紅花と蕨も顔を出すが、不安そうだ。
「何で襲われたんですか……?」
「それは、私もわからない……」
「も、もしかして、苧環さんと知り合いだから、拷問に連れて行こうとしてる……とか?」
「…………」
「狴犴様は何を考えてるんでしょうか……」
不安そうな紅花の頭を、常のように蕨は小突いた。宵街の中で獣に疑問を持つことは許されない。紅花まで拷問にかけられかねない。
「滅多なことを言うものじゃないよ」
「ご、ごめん……」
「狴犴様が襲わせたかはわからないんだからね」
「……それもそうだね」
白花曼珠沙華が独断で襲ってきた可能性は勿論ある。目的も何もわかっていないのだから、憶測で獣を疑うわけにはいかない。
黒色海栗は周囲を警戒しながら立ち上がる。
「戻って来たら危ないから、もう行く」
「もっと力になれれば良かったのに……」
「大丈夫」
「お気を付けて……」
心配そうな顔をする二人と別れ、黒色海栗はまずは距離を取った。二人を巻き込むわけにはいかない。
もう一度中層の方へ向かうのは危険だろう。暫く下層に潜むことにした。人間の街に行っても知り合いはなく、金もない。一時的になら傘を回して人間の街に逃げることはできるが、金がなければ食べ物も買えない。獏の所へ行くことも考えるが、もし白花苧環がいた場合、黒色海栗が逃げ込んだことで居場所が割れてしまったらと思うとそれもできない。白花曼珠沙華の目的がわからない以上、下手な動きはできない。
こんな時に相談できる黒葉菫はいない。きっとまた鵺の手伝いをしているのだろう。一人で何とかしなければならない。
(もしまた危なかったら、さっきの横穴に隠れよう……)
石壁から石段を見上げ、人影がないことを確認して下へ走った。最下層には行ったことがないが、無色は中層に近い位置に棲んでいるため下に逃げるしかない。
酸漿提灯の並ぶ石段に蔦が増えてくると、やがて唐突に石壁がそそり立っていた。石段が石壁に吸い込まれるように途切れている。蔦の茂る石壁に手を突き、左右に目を遣る。ここが最下層なのだろうか、壁が続いていた。その横道には街灯が少なく、暗くてよく見えない。
(ここなら、黒は紛れられるかも……)
数歩石段を戻り、辺りを見渡してみる。箱を積んだような石壁は見えるが、物音はせず人の気配もないように思う。石段に蔦が伸びているので、あまり人が通らないことは確かだ。人がいないことは今は良いことだが、不気味な場所だった。
この石壁は何処まで伸びているのだろうと見上げると、鮮やかな炎の色と目が合った。
「!?」
慌てて数段駆け上がり距離を取った。黒い外套を羽織った人影が壁の上で脚を組みながら見下ろしている。顔はよく見えないが、黒いフードからは燃える炎のような色の髪が覗いていた。
体の陰で黒い棘を抜いて指に構える。赤髪は少なくとも無色の変転人ではないと思うが、異様な雰囲気があった。黒衣を纏っているので、遠くからでは暗がりに紛れて見えなかった。
「そんなに警戒するなよ」
頭上から降る声に、体が強張ってしまう。警戒するなと言われても無理だ。襲ってきた白花曼珠沙華と関係のある者かもしれない。
「誰……?」
「待ち伏せてたわけじゃない。君がここに来ただけだ。だから俺は何もしない」
「…………」
油断させるための口車かもしれない。棘は仕舞わない。
「こんな所に人が来るのは珍しい。……良い場所だと思ったのに」
「ここに棲んでるの?」
「俺のことが聞きたいなら、まず君からだろ?」
赤髪は石壁から飛び降り、黒色海栗は更に石段を上がって距離を取った。
「まあ、俺は君を知ってるけどな」
「え……?」
「話すのは初めてだが」
「私は知らない」
「だろうな。顔を合わせるのは初めてだ」
「……私、そんなに有名人?」
一瞬沈黙があり、赤髪は腰を折って笑い出した。
「――ははっ、有名人かどうかは知らない。偶々見掛けただけだ」
「…………」
何がそんなに可笑しいのか、馬鹿にされているようであまり良い気はしない。もう一歩距離を取り、目は逸らさない。
「じゃあ情報交換をしよう。――俺は獣だ。この情報と、君がここに来た理由を交換しよう」
その情報では釣り合わないとすぐにわかる。黒色海栗は普段は寡黙だが、嫌なことは嫌と言える。
「獣かどうかなんて、察しはつく。情報交換になってない」
「じゃあ……別にいいか。ここで騒がなければどうでもいい」
あっと言う間に興味を失い、赤髪は踵を返して壁に沿って去ろうとする。本当に偶々ここにいただけで、危害を加えようだとかは思っていないらしい。
ここに来た理由と言うなら、上層に棲む獣がこんな寂れた最下層に来る理由も謎だ。石壁の陰に隠れていく黒衣を見失いそうになり、黒色海栗は石段を数段下りて様子を窺った。黒衣はすぐに視界から姿を消し、何処へ行ったのかわからなくなってしまう。石段を下まで下り、去って行った道を覗く。人影はもうなかった。
「そんなに俺が気になるか?」
「!?」
背後から声を掛けられ、慌てて棘を構えて飛び退いた。そこには去ったはずの赤髪がポケットに手を突っ込みながら立っていた。去って行った背後を一瞥するが、そこには何もいない。いつの間に移動したのか、全く見えなかった。暗くてよく見えない、なんて話ではない。転送で移動したのなら、獣なら杖が必要だ。両手をポケットに入れているなら杖なんて握れない。
「はは。今のは少し揶揄っただけで、他意はない」
「…………」
赤髪は笑いながら石段の端へ寄り、道を空けた。
「どうぞ。何もしないから上に戻れ」
「上には……」
唇を噛んで俯く。白花曼珠沙華から逃げるために最下層まで来たのに、また上へ戻るのは躊躇う。この赤髪は白花曼珠沙華と関わりがあり、彼女の所へ追い込むためにここにいるのかもしれない。あまり考えることが得意ではない黒色海栗は、この場を打開する方法を思い付かず、棘を構えることしかできなかった。
「そんなに俺が怖いか? 元々何かに警戒してたようだが、そっちか? 既に誰かに襲われたか?」
「!」
「図星か」
「やっぱり……白花曼珠沙華と関係が……」
「白? やっと口を開いたと思えば、白か……」
赤髪は石壁に凭れ掛かり、何かを思い出すように腕を組んで暗い空を見上げた。
「俺は白は嫌いだ。一緒にするな」
「……?」
「そいつとは関係ない。懲らしめると言うなら手を貸してやってもいいくらい、俺は白が嫌いだ」
獣に『ハズレ』と言われている白なら、嫌われるのも当然なのだろうか。獣とあまり交流があるわけではないが、ここまで嫌っている獣には初めて会った。
「お……お前の手は借りない!」
棘を構えながら、黒色海栗は石段の端を駆け上がった。壁に背を預けて腕を組んでいる状態なら、すぐには動けないはずだ。横を擦り抜ける余裕はあるはずだ。振り返らずに数段飛ばしで石段を上がり、一度だけ振り返る。赤髪は黒色海栗の方は見ずに、腕を組んだまま小さく手を振っていた。
本当に何もせず、赤髪は黒い少女を見送った。
警戒して動けない少女のために背を預け腕も組んでわざわざ隙を作ったことに、彼女は気付かない。
「……あの子は戦うことには向いてないな。可哀想に」
少女の姿が見えなくなり、赤髪は漸く腕を解いてとんと壁を押した。石壁の陰に立て掛けていた杖を拾い、その黒衣は闇に溶けるように姿を消した。




