41-炊事係
誰もいない街の中で一つだけ物音が聞こえる建物がある。暗い夜の街で煉瓦の建物が並ぶそこにだけ、明かりが灯っている。そのドアの向こうには瓦落多の並ぶ置棚が聳え、奥にある机には黒い動物面を被った獏が古い椅子に腰掛け古書を眺めていた。
揺らぐ橙色の光も届かない棚の隅には、影に溶け込む黒猫が金色の目を光らせている。
二階からドアの開く音が聞こえ、獏は本から顔を上げた。二階には匿っている白花苧環と浅葱斑がいる。続いて聞こえた階段を下りる音に、背凭れに体を預けながら不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたの? おやつ?」
「貴方と一緒にしないでください」
机に置かれたティーカップとチョコレートの箱に目を遣り、白花苧環は溜息を吐いた。罪人が優雅にティータイムを嗜むことに苦言を呈する気力も薄れてきた。
「少し外で体を動かしてきます」
「外って……」
「街からは出ません。この建物の外です。狭い部屋の中では体を碌に動かせないので、鈍ってしまって」
両脚を潰され暫くベッドから動けずにいたため、その言い分は理解できる。だが命を狙われている可能性のある彼をこの店から出しても良いのか悩む所だ。
「一人じゃ心配だね……」
鈍っていると言うなら、その状態で誰かに出会してしまった場合に対抗できるのかが心配だ。
「なあ獏。ボクも一緒に行っていい? 街の探検、楽しそう」
白花苧環の後ろからひょいと顔を出した浅葱斑は、うずうずと足を動かす。浅葱斑ももうずっと二階の倉庫を漁っているだけなので、退屈していたのだろう。元気な彼がいるなら、白花苧環一人で行かせるよりは安心だ。
「わかった。何か異常があったらすぐ戻って来てね。それと街の端には絶対近付かないで」
「街の端? 何かあるのか?」
「端は崖みたいになっててね、落ちると死ぬと思う」
「崖なんだ……」
きょとんとする浅葱斑の横で白花苧環が僅かに目を伏せた。花の頃に崖に生えて毟られた彼には、良い場所とは言えない。
「端の向こうは真っ暗で何も見えないけど、何かが引き摺り込もうとするから、覗き込もうとか考えないでね。実際に腕を引き千切られて引き摺り込まれた人がいるから」
「ひえっ……!? ぜ、絶対近寄らない!」
白花苧環の服を引いて言い聞かせる浅葱斑を見ると安心する。こうまで怯えていれば好奇心で近付くこともないだろう。動じていない白花苧環を止めることもできる。
獏は席を立ち、細い硝子の筒を用意した。中に小さく砕いた石を入れる。
「何かとは何なんですか?」
「さあ……誰か知ってる人がいればいいんだけど、今の所は僕にも何だかわからない」
正体のわからないものに不安があるのは当然だ。白花苧環は小首を傾ぐが、答えはあげられそうにない。
「わかりました。危険なら近付きません。ですが何処に端があるのかわからないので、それだけ教えてもらっていいですか?」
「二箇所なら大体言えるけど、この店が街の中央にあるとは限らないし、街が円形とも限らない。距離が一定じゃないなら、何処に端があるのかはっきり言えない」
「……そうですね。建物の影を頼りにしてみます」
「僕はあそこに近付くと具合が悪くなるから、端で問題は起こさないでね」
「牢に使われる街なので何かあるとは思ってましたが」
「それとは関係なさそうだけど……。――はい、できた。この常夜燈を持って行って」
夜燈石を光らせた硝子の筒を差し出され、白花苧環は反射的に受け取った。
「オレも自分のを持ってますが」
「この街は暗いし霧もあるし路地が複雑だから、迷子にならないように常夜燈が共鳴するよう細工してるんだよ。道がわからなくなったらこの店の常夜燈に反応して導いてくれるから、こっちを持って行って」
「わかりました。迷子になれば傘を回して戻ればいい気もしますが」
「そうかそれができるのか……」
力を制限されていない変転人の方が今の獏より便利なようだ。傘で移動できることを失念していた。
「もう他に言うことはないですか? なければ行きます」
「君はもう少し危機感を持ってほしいけど……まあいいや。気を付けてね」
浅葱斑にも常夜燈を渡し、二人は頭を下げて店を出た。開いたドアから暗い外が見える。夜目が利く獏には、利かない視界がどうなっているのか想像はできない。夜目が利かない人間はどのくらい先までなら見えるのだろうか。
二人が出て行ったドアを暫し見詰め、足元に気配を感じて視線を落とす。
「…………」
黒い悪夢の毒芹が黒猫に跨って歩いていた。
「乗りこなしてる……」
悪夢に重さはないので猫の体に負担はないだろうが、一度悪夢に憑かれていたからだろうか順応している。
「君は外に出ちゃ駄目だからね」
まだ頭に蒲公英を載せている悪夢は丸い体をびくりと跳ねさせて俯くような仕草をした。外に付いて行こうとしていたらしい。何てわかりやすいのだろう。
「そういえば端にあるあの闇の動き、ちょっと悪夢に似てるかな……」
悪夢だとすれば、獏に感知できないはずがない。故にあれは悪夢ではないが、形や動きは似ていた。
足元でくるくると回る悪夢と黒猫を踏まないように椅子に座り、ぼんやりと天井を眺める。この街については未だに謎だらけだ。
「お暇ですか?」
白やピンク色の一口大の物が幾つも転がった皿を手に台所から出て来た灰色海月は、退屈そうな獏に声を掛けた。手紙の投函はないので、獏には暇なことだろう。空のカップにも紅茶を注ぐ。
「これは?」
「メレンゲを焼いた物です。卵黄を使うと、白身が余ってしまうので。ピンクは苺味です」
白いメレンゲを一つ抓んで口に入れると、すぐに溶けてなくなってしまった。
「何だか儚い御菓子だね。でも美味しい。黒い点が付いてるけど、これは?」
「目です。口も描けば顔がわかりやすいですか?」
何だか食べにくくなってしまった。目が合うと口に入れにくい。
灰色海月は台所へ戻り、残りのメレンゲにも目を描き入れる。今度は口も描いた。
見詰めてくるメレンゲを抓んで動物面の奥からじっと見ていると、徐にドアが開く。随分早い帰りだと思ったが、ドアから顔を出したのは白花苧環でも浅葱斑でもなく、見知らぬ女性だった。ヴェールを纏った青い頭には二本の角が生えており、一目で獣だとわかった。
「…………」
メレンゲを皿に置き、女を注視する。白花苧環がここにいると知れてしまったのかと肝を焼く。下手なことを言わないよう、相手の言葉を待った。
女は物珍しそうに棚を見渡し、黒い動物面の獏を見つけて動きを止めた。
「貴方がここの罪人さんですか?」
「そうだけど、君は?」
女は丁寧に頭を下げる。
「お初にお目に掛かります。私は宵街の地下牢で罪人さん達の食事作りを任されている、螭と言います」
「食事作り……? そんな人が何でこんな所に?」
「炊事係だからです。地下牢ではない所にも罪人さんがいらっしゃると小耳に窺いまして。一度も食事を届けてないので、もしや餓死などしていないかと心配したのですが、御無事で良かったです」
にこりと微笑む螭を、獏は黙って見詰めた。地下牢のことはよく知らないが、食事を作る専門の獣がいるらしい。本当にそれだけの理由でここに来たのなら白花苧環の件とは関係がなさそうだが、何か探ろうとしている可能性はまだ否定できない。白花苧環を連れ戻そうと、まずは油断させる作戦かもしれない。
「えっと……この街は時間が止まってて、食事の必要がないんだよ。だから食事は用意してもらわなくても大丈夫だから」
「まあ! そうなんですか?」
何も知らなかったようで驚いた顔をする。小耳に挟んだと言っていたが、誰にも確認せずに来たようだ。
「それは早とちりを……。道理で私には知らされてなかったはずですね」
しゅんと俯く姿は、本当にそれだけの用で来ただけのように見えた。演技だとしたら侮れない。
「罪人の食事は全部君が一人で作ってるの?」
「はい。と言っても罪人さんはそんなに大勢はいませんので。配膳も地霊の皆さんがやってくれますし」
「地霊?」
「宵街にいる下級精霊です。主に変換石などの採掘をしてくださってるのですが、配膳のお手伝いに何人かお借りしています」
「へぇ……精霊を使役してるんだね。宵街のことはあんまり知らないから、そういう話は興味深いな」
「あら。宵街に棲んでおられなかった方なのですね。見た所、人間と変わりない容姿のようですし、人間に紛れられて羨ましいです。私はこの通り角がありますので」
「宵街って何のためにあるのかと思ってたけど、君みたいな獣には利点があるんだね」
「うふふ。機会があれば御案内しますよ」
「僕は罪人だけどね」
「あら、そうでした。忘れていました」
口元に手を当て、にこにこと笑う。これも演技だとすればもう何も信じられなくなりそうだ。
「ところで、御名前は聞いても宜しいですか?」
「獏だよ。知らずに来たの?」
「ええ。罪人さんがいらっしゃると聞いただけですので。地下牢から離れた所に牢があるなんて、思ってもいませんでした」
「この街は蜃って獣が創ったそうなんだけど、詳しくは知らなくてね。どういう場所なのか……知らない、かな」
滅多にない折角の宵街からの来訪者だ、ついでに何もわからないこの街のことを何か聞ければと思ったのだが、このおっとりとした女性が知っているとも思えず尻窄みになってしまった。白花苧環のことを探っている様子もなく、人当たり良く話しているだけだ。台所から灰色海月が覗いているが、表情を見るにおそらく彼女も螭とは初対面だ。少し心配そうに警戒して、生成した武器である輪を腕に付けている。
螭は獏の背後にある窓から外の壁を見、辺りに視線を巡らせた。
「蜃が創った街……と言うなら、もしかしたら神隠しに使った物でしょうか?」
「! 神隠し……?」
「ええ。それを罪とし地下牢行きになりましたから。ただ……牢に入れられる前に殺されたようですが」
「それって……誰に?」
「あら、興味がお有りで? でもこの先は、話してはいけないことになっています。拷問は遠慮したいので、御理解お願いします」
口元に人差し指を当てて苦笑する。拷問されると言うなら、無理に聞き出すわけにもいかない。宵街には拷問を伴う秘密が多いらしい。
「じゃあ、蜃ってどんな人だったの?」
「どんな……と言われると、宵街には棲んでらっしゃらなかったので少し姿を見ただけですが、獏さんと同じくらいの歳の男の子の容姿をしてましたね。椒図さんが仲良しだったので、椒図さんなら詳しく知っていると思いますが」
「! 椒図はどんな人なの?」
小さな悪夢が筆談でその名前を書いていた。蜃と椒図と先代の獏が会っていたと。おそらくこの中で唯一化生していない獣だ。蜃が獏を殺した手掛りが掴めるかもしれない。
「あらあら。私はお喋りが好きなので話してしまいますが、罪人さんとこんなに楽しくお話していても良いのかしら」
「…………」
少し食い付き過ぎてしまったかもしれない。浮かしそうになる腰を落ち着け、獏は紅茶を啜った。彼女は地下牢の炊事係で、獏は罪人なのだ。あまり楽しく会話していて良い存在ではないだろう。
「こちらのピンクや白の可愛らしい物は何ですか?」
獏が黙ってしまったので、螭は机にあった菓子に目を遣った。先程からちらちらと視線を向けていたことには獏も気付いていた。気になっていたのだろう。
「それはメレンゲを焼いた御菓子らしいよ」
「まあ、御菓子なんですね! お一つ戴いても?」
「どうぞ」
微笑んで皿を彼女の前へ遣る。好意的に接する利はある。この螭は物を知っている。情報を引き出すためなら菓子の一つや二つ喜んで差し出す。
螭はメレンゲ菓子を一つ抓み、繁々と見詰めてゆっくりと口に入れた。
「甘くて美味しいです。どちらで買われた物なんですか?」
「買った物じゃなくて、クラゲさんが作ったんだよ。さすがに御菓子を自由に買いに行くことはできないからね」
「クラゲさん……? ああ、そちらで覗いておられる方ですか?」
台所から様子を窺っていた灰色海月は小さく頭を下げた。螭が何の目的でこの街に来たのか読めないので余計なことはしないようにと隠れていたが、いることに気付いていたようだ。
「うん。僕の監視役をしてもらってるんだ」
「監視役ですか。確かに宵街から離れたここを牢とするなら、見張りは必要ですものね。どうしてそうまでして違う牢に入れているのかわかりませんが……何か理由でも?」
「へぇ、地下牢で働く獣でも知らされてないんだね。僕は椒図のことをもう少し聞いてみたいかな」
「あら、情報交換ですか? そういうものはもっと均衡を見ると宜しいですよ。獏さんは知りたいことを述べていますが、私は何気なく訊いただけで、どうしても知りたいことではないので。獏さんも地下牢にいれば、椒図さんと会うこともあったかもしれませんね」
にこりと微笑むが、和やかな空気が一変し突然壁を作られたようだった。人当たり良く話しているがやはり罪人に対して見えない壁がある。
「僕もどうしてもって程ではないけどね。少し興味があっただけで。でも君の発言から、椒図は地下牢にいることがわかった」
「……その程度も御存知なかったのですね」
「知るはずないね。僕は宵街に棲んでないんだから。少しの情報も与えたくないなら、もう少し慎重に言葉を選ぶべきだったね。お喋り好きが仇となったかな?」
「あらまあ。なかなか面白い人ですね。食事の心配だけでここに来ましたが、貴方と出会えて良かったです。罪人さんでなければ、良い友人となれたかもしれません」
「そう? つまり僕とは友人になれないってことだね」
「そう聞こえましたか? それなら仕方ありませんね。あまり御邪魔するのも良くないので、私はこれでお暇しますね」
「うん。興味深い話を聞かせてくれてありがとう」
螭は一礼し、踵を返して店のドアに触れた。
「椒図さんとは……仲良くなれるのではないでしょうか」
ドアを開け、螭は外へ出る。閉まるドアを見詰め、獏は目を細めて息を吐いた。
「……息が詰まりそうだ」
冷めた紅茶を飲み、椅子に凭れ掛かる。
螭が戻って来ないことを確認し、灰色海月は台所からそっと出た。ドアの方を見、緊張で止めていた息を吐く。
「マキさんを捜しに来たのかと思ってしまいました」
「だよねぇ。でも収穫もあったし、悪くはなかったかな」
棚の陰に隠れていた悪夢も、黒猫に乗ったまま様子を窺う。隠れていてくれて良かった。この悪夢を見られたらどう説明すれば良いのかわからない。
「椒図のことも少しわかりましたね」
「うん……。けど僕が会うのは難しいね。たぶん椒図は罪人だ」
「そうなんですか……?」
「螭とは友人になれなくて椒図とは仲良くなれるなんて言い方をしてたから。罪人同士なら、ってことでしょ」
獏は宵街への立ち入り自体を禁じられてはいないが、この街から出ることは許されていない。願い事の依頼があったとしても、普通の人間の願い事のために宵街へ行く必要はない。
地下牢にいる椒図は獏ほど自由ではなく外へは一歩も出られないだろう。そんな状態で会うことは叶わない。仲良くなれるのだとしても、なれるはずがない。
「ねえクラゲさん。罪人って刑期はないの? 僕は特別だからかもしれないけど、聞いたことがなくて」
人間の法律とやらには詳しくないのでその辺りのことは漠然とした知識だが、人間の世界には服役する期間があるはずだ。烙印を捺される時、獏にはその辺りのことは聞かされなかった。烙印の痛みで覚えていないだけかもしれないが。
灰色海月は小首を傾げながら黙考する。
「……わかりません。マキさんとアサギさんなら何か知ってるかもしれませんが」
知らないことが多く、申し訳なさそうに睫毛を伏せた。獏に責めるつもりはないのだが、最近は答えを知らないことが多く気にしているようだ。
「クラゲさんが悪いわけじゃないから。罪人嫌いの白いマキさんや、宵街にあんまり滞在しないアサギさんも知らないかもしれないしね」
「ではスミレさんなら知ってるでしょうか?」
「あんまりここに呼ぶのも良くないけど……」
考え倦ねていると、再びドアが開いた。緊張が走ったが、現れた白い姿に安堵する。
「おかえり、マキさん。体の調子はどう?」
白花苧環の後ろで浅葱斑がぐったりしているのが気になるが、まずは白い彼に尋ねてみた。こちらは息を切らせることもなく平常通りだ。
「アサギに少し手合わせをしてもらいましたが、やはりまだ動きが鈍いですね」
「あれで鈍いのか!? 嘘だろ!?」
浅葱斑がぐったりしている理由がわかり、獏は苦笑した。鈍いとは言え人並み以上には動けているらしい。
「手合わせって、まさか街を爆破してないよね?」
「罪人の牢は破壊しませんよ。オレもアサギも素手です」
初めて会った時に散々店の中の物を破壊したのは誰だったかと獏は無言で白花苧環を見たが、彼は無視した。
「ボクは素手の戦闘なんて初めてなんだけど……素手で戦う機会なんて普通あると思う?」
尤もな言い分だった。武器が爆弾と言うこともあり、至近距離で戦うこともない。
「ないんですか?」
「ないよ! ああせめて飛べたら攻撃が当たらないのに……飛べないなんて人間は不便だ!」
歩けるだけで凄いことだと思っている白花苧環は、人間の体が不便だと思ったことなどなかった。元々飛べる蝶ならではの考え方なのかもしれない、と首を傾ぐ。
元気そうな二人の姿を確認できて獏は安心する。店の外で螭と遭遇する可能性もあったため、杞憂に終わって良かった。
「落ち着いてアサギさん。今度手合わせを頼まれたら僕が相手するよ」
「獏ぅ……最初からやってほしかった……」
泣きはしないが泣きそうな顔をする浅葱斑の肩を、黒猫に乗った悪夢が長く伸ばした触手でぽんぽんと叩く。浅葱斑はびくりと跳び上がった。
「ねえ二人共。螭って知ってる?」
突然飛び出した名前に二人はぴたりと口を噤んだ後、思い出すように口を開いた。
「確か……地下牢の炊事係の人ですよね? あまり会う機会はありませんが」
「ボクは知らない。地下牢なんて行かないもん」
「その人がさっきここに来て、少し話をしたんだ」
その言葉で二人の顔色が一変した。このタイミングで来ると言うことは、白花苧環を捜しに来たのではないかと。
「オレのことですか?」
「僕もそう思ったんだけど、罪人に食事を作るのが仕事だから、僕に届けたことがないって心配で来たらしい。それを鵜呑みにしていいのかまだ迷うけど……探りを入れる様子はなかったよ」
「そうですか……何も痕跡がなければいいんですが」
店の中を見渡し、自分のいた痕跡がないか確認する。視認できる限りでは何もない……と思う。
「それとは別に聞きたいことがあるんだけど、罪人って刑期はあるの?」
二人は再び考えるように首を傾げた。
「罪人は一生牢の中でいいと思いますが」
「ボクも知らない。罪人に関わることなんてないもん」
獏は灰色海月を一瞥する。知らなくても気にしていない二人を見てほしい。白花苧環は手本にしなくても良いが。
「じゃあ椒図は知ってる?」
罪人嫌いで興味もない白花苧環と、罪人と関わることがないと言う浅葱斑に訊いても答えはわかりきっているが、念のために訊いておく。案の定浅葱斑は首を捻り、横に振った。だが白花苧環は首を振らなかった。
「罪人の椒図ですか?」
「えっ!? 知ってるの!?」
「! ……はい、少しなら……」
まさか白い彼の方が知っているとは思わず、思わず獏は立ち上がってしまった。あまりに勢い良く立ち上がったので白花苧環は身を引き、舌打ちした。驚くと舌打ちをするのか。
「罪人に興味ないんじゃなかったの? こっちがびっくりしたよ」
「興味はありませんが、狴犴の弟なので、名前を耳にする機会があっただけです」
「狴犴の弟なの!?」
「っ! ……あまり大声で驚かさないでください。刺しますよ」
「ご、ごめん……。僕の方が驚いてると思うけど、狴犴の弟が罪人なの……?」
不快な顔をする白花苧環に頭を下げながらも、事実の咀嚼を試みる。つまり狴犴は弟を地下牢に入れたと言うことだ。
「罪状までは知りませんが、地下牢にいることは確かです。会ったことはありませんが。椒図がどうかしたんですか?」
「あ……いや、螭が椒図の名前を出してたから、気になって……。蜃と仲が良かったらしくて」
「だったらそれは相当昔の話ですね。貴方が化生するより前かもしれません。その辺りに地下牢に入れられたと聞きました」
「椒図と話せる機会ってあると思う?」
「罪人同士が会話ですか? 牢から出られなければ不可能では? ……ああ、それで刑期の話ですか」
話が繋がり腑に落ちる。刑期については狴犴から何も聞いた覚えがない。記憶が失われていなければ、だが。
「化生前の僕が蜃と椒図と会ってたらしいって悪夢の毒芹も言ってたし、どうにか接触できないかと思ってるんだけど……」
「化生前でも罪人と交流があったんですね。生まれ変わっても性根は変わらないと言うことですか」
「先代を悪く言わないでよ。小さな女の子だったって話なんだから」
「姿は幼くても中身はそうとは限らないでしょう? 鵺もそうです」
「鵺は……そうだね」
妙に納得する例を出されてしまった。今頃宵街でくしゃみでもしているかもしれない。
「貴方が椒図に会うことはできないと思いますが、伝言程度なら頼めるかもしれません」
「伝言?」
「獣を地下牢に差し向けることはできませんが、変転人なら動かせるんじゃないですか?」
白花苧環が言いたいことはすぐにわかった。思わず失笑が漏れてしまう。
「スミレさんに行かせるってこと? 信用してないって言ったと思えば、人使いが荒いねぇ」
「他に適任がいるんですか?」
「地下牢って誰でも入れるの?」
「誰も好んで地下牢に入りたいとは思わないですが、許可を取れば入れます」
「許可って……狴犴に? 危険じゃないの? あんまり危ない橋は渡らせたくないな」
「鵺も許可が出せると思いますが、警備は手薄なので無断でも侵入できると思います。食事の配膳を変転人にやらせていた時もあるので、罪人に襲われることはないと思いますが」
「いや、罪人が危ないって言ってるんじゃなくて。狴犴の弟なんでしょ? 狴犴の耳に入ったら危なくないかなって。それに……警備が手薄って、どういうこと?」
「変転人を置いても獣には太刀打ちできないので獣の手が必要なんですが、警備をしたがる獣がいないんです。狴犴は地下牢には入りません。配膳を担当してる地霊とも会わないです」
「地霊って喋れるの?」
「……喋ってる所は見たことがないです」
狴犴に関しては白花苧環の言葉に偽りはないだろう。それでも黒葉菫を行かせるのは躊躇ってしまう。拷問を執り行う睚眦がいるからだ。その拷問を見せられて怖がっていた黒葉菫を行かせても良いものか。睚眦に関しては白花苧環も苦言を呈している。
獏が黙考に入ると、面を被っているとまるで置物のようだった。顔が見えないと眠っているのかもわからない。
「罪人の癖に心配性ですね。そんなに心配しなくても、危なければ傘で離脱できますよ」
「え? 傘が使えるの?」
「罪人の首には、貴方のように力を制限する烙印と首輪が付けられます。地下牢の罪人は皆、鉄の檻の中です。罪人以外は力を使えます。これでも心配ですか?」
宵街や地下牢のことを全く知らない獏のために言葉を加えてくれたことに気付き、そのことに関しては獏は微笑む。
「傘が使えるなら、少し安心かな。僕は宵街のことやそこに棲む人達のことはよく知らないから、どうしても警戒が強くなってしまう。よく知る君が大丈夫だって言うなら、信じるよ。スミレさんが嫌がったら無理強いはしないけど」
「嫌がりそうですね」
「それがわかってて候補に挙げるんだから、本当に性格が悪いよね。罪人と同じくらい黒も嫌いなの?」
「……そういうわけではないですが」
手に提げたままの常夜燈を机に置き、話を切り上げるように白花苧環は階段に向かった。孤立していたが故に人との接し方に迷っているように見えた。罪人以外には穏和だそうだが、それはおそらく接し方に迷い距離を取っているのだろう。
「悩みがあるなら聞くよ」
「突然何なんですか。気持ち悪いです」
「ふふ。今度は度数の低いお酒でも飲みながら話す?」
「は? オレは酒は飲めません」
可笑しそうに笑う獏に、眉を顰めて一蹴した。
「この前、クラゲさんが入れたウォッカを飲んだでしょ?」
「は……? あれ……酒だったんですか……」
どうやら気付いていなかったらしい。酒を飲んですぐに倒れたので獏は面白いものが見られたと思っていたが、飲めないのなら無理は良くない。
「弱いお酒も飲めないの?」
「オレがと言うより、元が植物の変転人は皆そうです。植物は酔いませんが、人の体を与えられたことで、それまでになかった内臓や脳の感覚に慣れずに過度に影響を受けるそうです。慣れれば普通の人間ほどの反応にもなるようですが」
「それは知らなかった……」
「なので酒の摂取は慎重にと言われてます」
「へえ……それは大変な弱点だね……」
「は……? 弱点?」
「自覚ないんだね。無色無臭のお酒があるんだから、知らない内に飲まされないようにね」
漸く意味を理解したのか、白花苧環は獏の動物面をがしりと掴んだ。
「ちょっと! 乱暴は良くないよ!」
「植物の変転人に共通する体質なので弱点だと考えたことがなかったです……植物以外には弱点になるんですね。頭に衝撃を与えたら忘れますか?」
「頭割られて記憶喪失になってた人の言うことじゃないよね!」
面を割らんばかりの力を籠める白花苧環の手に、悪夢が二本の触手を長く伸ばして掴んだ。止めようとしているらしい。手を掴んだまま触手を縮め、丸い体が引き上げられる。
触手を使い熟す悪夢に白花苧環は眉を顰めた。だが白い手を引き剥がす力はないのか、ぶら下がっているだけだった。
「何なんですかこの悪夢は……」
「仕留めたいなら余所見は駄目だよ」
「は」
白花苧環の腕を掴んで捻り、机に押し付けた勢いで机を跳び越え白い体を一蹴りした。
「っぐ」
「本気なら頭を蹴る所だけど、君も本調子じゃないみたいだからね。これで許してあげる」
「…………」
押さえ付けられた腕を軸に体重を預け、白花苧環は脚を振り上げた。
「――っ!」
腕を押さえていた獏は狭い店内で躱すことができず、もう一方の腕で蹴りを受けた。
「加減してあげてるのに、平気で頭を狙ってくるよね……」
「罪人に舐められるのは御免です」
「またベッドの上に行きたいの?」
「貴方が行けばいいです」
どちらも引こうとしない剣幕に、ぐったりとしていた浅葱斑はあわあわと灰色海月の後ろに隠れた。灰色海月にも二人に対抗する力はないが、二人との付き合いは浅葱斑より長い。心の中で奮起させ、彼女は二人の腕を掴んだ。
「ここで手合わせはやめてください」
二人は黙って灰色の彼女に目を遣り、ばつが悪そうに横目で互いを見た。
「……うん。そうだね。また店の物を壊されたくないしね」
「気に障ることを言わなければ、何もしませんよ」
「君の機嫌を窺うのは難しいんだけど」
「機嫌を取ってほしいわけではないです」
また口喧嘩が始まりそうな雰囲気だったが、突然開いたドアの音でハッと口を噤んだ。こんな店の入口近くで口論していては、宵街からの客に白い姿が見られてしまう。
白花苧環は身を引いて掌に指を掛けるが、ドアから顔を出した青年に少し肩の力を抜いた。
「取り込み中ですか……? 帰ります」
中の様子を見てドアを閉めようとする彼を慌てて呼び止める。
「待ってスミレさん! 取り込んでないから」
もう一度ドアを開け、黒葉菫は恐る恐る顔を覗かせた。獏と白花苧環が争っていたので巻き込まれない内に逃げようと思ったが、呼び止められれば返事をしないわけにはいかない。
「元気になったんだな、苧環……」
「はい。御陰様で。丁度良かったです。貴方に頼みたいことがあります」
早速話を切り出した白花苧環を獏は慌てて制した。黒葉菫が何も用がなく都合良く現れるとは思えない。宵街の通達がなければ暇があれば訪ねてくるような彼だが、今は違う。宵街でいつも通りに過ごせと言ったばかりなのだ。
「何かあったの?」
黒葉菫はドアを閉め、距離を取ったまま口を開いた。
「大したことじゃないです。ウニの耳にも通達のことを入れておいた方がいいと思ったので、少し捜してました」
「仲間を見に行ったまま戻ってないの?」
「こういうことは前にもあったので心配はしてないですが、もしかしたらこっちに来てないかと。……来てないみたいですね」
「確かに知らないよりは、知ってる方がいいよね」
「それより俺に頼みたいことって何ですか? また願い事ですか?」
「あー……それは……」
言い澱む獏の代わりに、白花苧環はすぐに話してしまう。本当に言動が早い。
「地下牢にいる椒図に会ってきてください」
「え」
当然黒葉菫は固まって困惑する。
「偵察……ですか?」
恐る恐る獏の方へ顔を向ける。偵察はしなくて良いと以前言った獏に、話が違うと訴えたいようだ。
「僕はあんまり気が乗らないんだけど、マキさんが大丈夫だって言うから……」
「……地下牢には行ったことがありますが、椒図……という人に会ってどうするんですか?」
一先ず話を聞こうとしてくれるのは、黒葉菫の良い所だ。逆らえないだけかもしれないが。
「椒図は蜃と仲が良かったみたいでね。何か話が聞けたらいいなと思って。僕の化生前の先代も何か関わりがあったらしくて」
「蜃ですか……。前から気にしてましたが、漸く知れる機会が来たってことですね」
「そうなんだけど、危ないことはしてほしくないんだ。睚眦もいるだろうし」
「睚眦の巡回は頻繁にはないので避けることはできます。罪人との面会は禁じられてないので、怪しまれることもないと思います。ただ……気分の問題ですね」
「気分……」
好き好んで地下牢に行く者はいないと言うが、気分と言われると納得する。
「もう少し嫌がるのかなって思ったけど、意外と冷静だね」
「狴犴に会いに行けと言われたら断りますが、知らない罪人なので悪名も高くないと思ったんですが」
「狴犴の弟らしいけど」
「断ってもいいですか……」
突然気分が落ち込んだ。もはや気が滅入る要素しかない偵察に腰が重くなるばかりだった。
あまりの切り替わりように獏は苦笑した。こうなることはわかっていた。勇ましく飛び出して行く必要はない。
「うん、いいよ。無理にとは言わない。スミレさんにだけ危ないことをさせたくないしね。きっと別の機会もあるはず」
「……はい」
「この悪夢の毒芹は椒図を良い人だって言ってたから、頼んでも大丈夫なのかなと思っただけだから」
机上に置物のように座っていた黒い塊は、名前を出されたので立ち上がった。変な置物だと思っていた黒葉菫は、置物が動き出してびくりと硬直した。
「その黒いのは何ですか?」
「この子が悪夢の毒芹だよ。悪意はないから安心して」
「よくわかりませんが、悪夢に関しては貴方を信じるしかないので、悪いものではないと信じます」
頭に蒲公英の花を載せている奇妙な悪夢は、黒葉菫に対して頭を下げるような仕草をした。意思が疎通できるらしいと黒葉菫は驚く。山で見た好戦的な悪夢とは確かに別物のようだ。
先に頼みたいと言い出した白花苧環を黒葉菫は一瞥するが、感情の読めない瞳でじっと見ているだけだった。話を聞く限り椒図のことを知りたいのは獏の方だったが、関係のない白花苧環が先に話を切り出したことが気になった。話にはない部分で白花苧環とも何か関係があるのかもしれない。二人の利害が一致したための稀有な事態なのだろう。それを断ることは少し心苦しかったが、突然言われても心の準備はできない。
「ありがとう。引き留めてごめんね。ウニさんにも宜しくね」
「はい。失礼します」
「何かあったら、いつでも来てね」
踵を返し店を後にする至極色の背を見送り、白花苧環は何も言わず階段を上がった。
「機嫌悪そうだねぇ」
呟かれた言葉には聞こえない振りをして、白花苧環は部屋に入りドアを背に白い睫毛を伏せた。
(匿われている借りの返し方がわからない……)
宵街に戻れる身なら自分が椒図と会うこともできたのに、それもできない。黒葉菫に頼むことしかできずに歯痒かった。獏は柔和に接してくるが、罪人との交流は白には難しいものだった。




