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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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40-拠り所


 誰もいないはずの街の中、一つ灯る古物店に灰色海月は困った顔をしながら戻って来た。瓦落多の並ぶ棚の間を抜け、手に持った手紙から顔を上げる。奥の机に獏の姿はなく、ちりちりと小さなベルを鳴らした。この店の中にいれば壁を隔てていても大騒ぎをしていても耳に届く不思議な呼鈴だ。

 鳴らしてすぐに二階から階段を下りる足音が聞こえてくる。

「……あれ? 一人?」

 ひょこりと壁から顔を覗かせ、とんと床に下りる。動物面の顔を灰色海月の周囲に向け、獏は首を傾げた。

 そのことに灰色海月は顔を曇らせた。持っていた手紙を獏へ差し出し、申し訳なさそうに頭を下げる。

「何度思念を辿っても、差出人に会えません」

「会えないっていうのは、嫌なことを思い出すね……」

 灰色海月はその時にいなかったので知らないが、以前も差出人に会えないことがあった。その時は差出人が死んでいたのだが、その時と同じならこの手紙の差出人はもう存在しない。白花苧環なら思念の残滓を辿れるだろうが、生憎彼はまだ眠っている。

「投函されたポストには行けた?」

「はい。ポストには行けます」

 以前の件では白花苧環が手紙の回収を横着した所為でポストにも行けなかったが、今回はポストに行けるだけまだ良い。受け取った手紙の宛名には黄緑色のインクで拙く『ばく』とだけ書かれている。封を開けると、押花が貼られた一枚の紙が入っていた。押花は小さな白い花が密集しており、随分時間が経っているのだろう茎は茶色くなっている。

「白紙……だね。これは何の花だろ。クラゲさんはわかる?」

「いえ。わかりません……」

 海にいた灰色海月には陸地の植物は難しいかと、二階にいる浅葱斑に尋ねてみることにした。蝶なら花にも詳しいだろう。

 茎しか固定されていない花が風で飛びそうなので一旦封筒の中に戻し、階段を上がった。

 眠っている白花苧環を今度は一人にしないようにと浅葱斑に付いてもらっている。ドアを開けると、椅子に座っていた浅葱斑が退屈そうに振り向いた。

「見張り交代?」

「違うけど。これ何の花かわかる?」

 封筒からペラペラに押された花を取り出して見せる。浅葱斑は至近距離でじっと凝視した後、ぱっと顔を明るくさせた。

「わかった。それは毒芹(ドクゼリ)だな」

「これが毒芹? 名前は知ってるけど見るのは初めてだよ」

 強い毒を持つ花だ。何故こんな物が入れられていたのか、悪戯だとすると少し質が悪い。

「それ手紙? 今から願い事を叶えに行くんですか?」

「そのつもりだったけど、差出人に会えないみたいでね」

「ふぅん。何処かに隠れてるんですかね?」

「隠れてるとしたら、思念で辿れない? クラゲさん」

「隠れてるだけなら辿れます」

「だよねぇ。無駄足になるかもしれないけど、ポストまで様子を見に行ってみようか。僕が出向くなんて初めてだよ」

 白花苧環が勝手にしたことだが今は黒葉菫と契約が結ばれている状態だ。その状態があれば街の外へは出られる。鵺がいればそれでも止められるだろうが、灰色海月は手作りのポストの手紙も持って来てしまうほど違いを理解していない。灰色海月はまだ二人の契約のことを知らないが、話せば納得するはずだ。

「行くんですか? どういう風の吹き回しですか?」

 予想ではここで止められると思ったのだが、灰色海月に止める言動はなかった。どうやら差出人を見つけられなかったことを気にしているらしい。

(まあ契約が無くても首輪さえ嵌めてれば宵街に感知されることはないけど……)

 そのための監視役の灰色海月なのだ。今回は自分の未熟さの責任を取るために外出を許可するようだ。どういう理由であれ、外に出してもらえるならそれで良い。

「花が入れられてたのは初めてだから。毒草を入れる奴がどんな顔をしてるのか見てやろうと思って」

 何か仕返しでもしそうな風に、獏は不敵に笑う。

「それじゃアサギさん、マキさんのことをよろしくね」

「甘い物が欲しいです」

「では用意します」

 てきぱきと灰色海月は部屋を出るが、本当に用意してもらえるとは思っていなかった浅葱斑は目を輝かせて獏を見た。元が蝶なので甘い物を欲する時もあるだろう。仕方なく獏は待つ。

 程無くして灰色海月は盆にティーポットとカップを載せて戻って来る。カップに注いだ物は今まで嗅いだことのない香りだった。

「新しい紅茶?」

「ローズティーです。薔薇のジャムを入れた紅茶です。アサギさんは蝶なので、お好みで追い蜂蜜してください」

「わー! 何これ薔薇だ! 蜂蜜そのまま吸ってもいい?」

「構いません」

 人の姿を与えられたとは言え、別の生物だった名残はあるのだなと獏は改めて思った。蜂蜜を吸う人間は初めて見る。

「蜂蜜ってさ、蜂から御零れを貰うみたいで背徳感あるよね」

「そんな言葉初めて聞くよ」

 喜んでいるので、もう留守番を任せて大丈夫だろう。獏は眠る白花苧環を一瞥した後、灰色海月を促して部屋を出た。彼の表情は変わらず険しい。悪夢の靄は漏れていないので大丈夫だとは思うが、漏れないように押し込めているなら厄介だ。抑え切れずに一気に吐き出されると困る。

 外套の襟を開けて重い首輪を嵌められ、店の外へ出る。念のために店の外を見渡して異常がないか確認し、灰色の傘がくるりと回された。見知らぬ侵入者の所為で警戒しなければならない。白花苧環がいるため、鵺に相談するわけにもいかないので面倒なことだ。

 一瞬で切り替わった視界には穏やかな緑が広がった。疎らに家が見える。車一台ほどしかない幅の道端に、茂る草の中で所々剥げて汚れたポストがぽつんと立っていた。平地だが、山も近い。

「確かにポストはあるけど、人はいないね。天気もいいし、少し周辺を捜してみようか」

「はい」

 天気が良いと眩しいが、灰色海月には明るい方が捜しやすいだろう。車も人も通らない長閑な道をとぼとぼと歩く。

「只の散歩になりそうだね」

 見通しが良いので人がいればすぐに気付くはずだ。草は茂っているが、倒れている人間を覆い隠すほどではない。辺りに目を向けながらも道端の草から一本千切り、指先でくるくると回して弄ぶ。

「何の草ですか?」

雌日芝(メヒシバ)だよ。人間は雑草と呼ぶ」

 放射状に伸びた細い穂を裂き、皮一枚繋げた状態でぶら下げる。それを繰返し、穂をゆらゆらと揺らした。

「何をしてるんですか?」

「ふふ。簪だよ」

 灰色海月の髪に茎を挿し、しゃらしゃらと揺れる穂に笑う。頭に挿されては見えないので灰色海月は頭を揺らすが、視界に入ってこない。頭を傾けても見えないので、抜いて獏の頭に挿した。よく見えた。

「いっ、茎刺さってる! 頭じゃなくて髪に挿すんだよ」

 きっと簪が何なのかわかっていないのだろう。無理もない、現代で簪を挿す人間は少ない。

「こっちの方が可愛いです」

 道端の蒲公英(タンポポ)を毟り、獏の黒い頭に載せる。黄色がよく映えた。

「あれ? ちょっと待って」

 草叢に花を摘みに入ろうとし、ふと気配を感じた。微かだが悪夢の気配だ。

「どうかしましたか?」

 草叢に足を踏み入れたまま動きを止めた獏の頭に更に蒲公英を増やしながら、灰色海月は首を傾いだ。

「頭がお花畑です」

「それは別の意味に聞こえるけど……微かだけど悪夢の気配がする」

「悪夢ですか?」

 灰色海月はまだ悪夢を見たことがないのを思い出し、軽く説明をした。通常悪夢の靄は獏にしか視認できないが、成長すると獏以外にも見ることができる。だが触れることはできないと。

「見つけても近寄らないでね」

「はい」

 灰色海月には悪夢の気配を感じることはできない。ゆっくりと草叢の奥へ進み、獏の後を追う。

 気配は微かなので人間も近くにいるだろうと大きな影を探したが、予想に反して人間の姿はなかった。代わりに草叢に隠れるくらいの小さな黒く丸い体で、二本の足のような物を生やして地面に立つ何かがいた。目鼻は無いが、草叢を分けると見上げるような仕草をする。

「悪……夢?」

 靄から成長して形を成し、完全に宿主から独立している。なのに小さい。サッカーボールよりも小さい。こんなに小さい物を見たのは初めてだった。

 観察しているのか襲って来る様子もなく、目は無いが見詰め合うように数秒動きを止めた。警戒心の無い小鳥が鳴きながら頭上を飛んでいく。

 黒い塊が手のように触手を一本生やしたので獏は構えるが、触手は近くの蒲公英を千切って黒い体に載せるだけだった。

「もしかして……真似してる?」

 何故そんなことをするのか行動の意図は読めなかったが、敵意は感じなかった。だが意思は感じた。

 黒い塊は今度は丸い体を凹ませ――いや開いたのか、口を開くような動きをするので、獏はまた構えた。と言っても街の外では杖を使うことはできない。素手を構えることに何の意味があるのだろうかと思うが、防御はできるはずだ。

 黒い塊は体の中から枯れた花を取り出し、触手に持って獏の方へ翳した。

「それ……手紙に入ってた花と同じ……? もしかして君が手紙を出したの?」

 黒い塊は花を体へ仕舞い、頷くような仕草をした。体を傾け過ぎて落ちた蒲公英を拾ってまた載せる。

「悪夢から手紙なんて初めてなんだけど……」

 悪夢の宿主からなら手紙が来ることもあるだろう。だが独立した悪夢に手紙を投函するなんて複雑な工程ができるとは思えなかった。捕食される悪夢が獏に手紙を出すとは、通常なら不快な気持ちになるだろう。だが不思議とこの悪夢は他の悪夢とは違うような気がした。

 認められて安心したのか、近くの蒲公英を更に千切って黒い体に盛っている。

「ふ……ふふ。面白い悪夢だね」

 悪夢に『面白い』なんて感情を抱くのは初めてだ。悪夢なんて美味しそうか不快かばかりなのに、この悪夢には何故かそれを感じなかった。最早これは本当に悪い夢なのかも怪しい。こんな愛嬌のある悪夢に出会ったのは初めてだ。

 声で会話はできなさそうだが、手紙を出したのなら宛名の文字を書いたはずだ。もしかしたら筆談なら可能かもしれない。

「あの緑のインク……たぶんだけど、草の汁かな? ちゃんとインクとペンを渡したら話せそうだね」

「持って来ますか?」

「うん。お願い」

 微笑ましく笑っていると、黒い塊は触手を二本にし、腕を広げるように上げながら獏にぽてぽてと走った。

「えっ? 何!?」

 油断していたので草に足を取られ躓きそうになるが寸前で堪えた。

「抱擁を求めてるのでは?」

「何で!?」

 獏が逃げるので黒い塊もぴたりと動きを止め、腕のような触手を体に仕舞った。両足を前方に突き出し、ぽてんと体を地面に落とす。座ったようだ。

「…………」

 動かなくなったので、灰色海月はくるりと灰色の傘を回した。彼女が戻って来るまで獏と悪夢は見詰め合いながら待つ。微動だにしないので、悪夢の頭の蒲公英に蝶が留まる。

 長閑な景色の一部となっている悪夢から目を離さずにいると、眠気を誘われる。

「持って来ました」

 暫しの後に戻って来た灰色海月は羽根ペンとインク瓶、そして白紙を獏に渡した。

 敵意はないと言っても相手は悪夢だ。充分に距離を取り、うんと腕を伸ばして指先でそれらを悪夢へ押し出した。悪夢は触手を一本生やし、羽根ペンを握る。使い方もわかるようだ。

「僕の言ってることはわかる?」

 一拍置いた後、悪夢は頷く仕草をする。人間の脳から排出された物なのだから、言葉は理解できるようだ。

「じゃあまず……そうだな。君は何者なの?」

 漠然とした質問だが、どう答えるのか興味がある。悪夢と答えるのだろうか。

 悪夢は力強く書き始めるが、厚みのある紙なので突き破ることはない。


『どくぜり』


 書かれた言葉に獏は眉を寄せた。偶然なのか、手紙に入っていた花と、体から取り出した花と同じだ。

『へんてんびと』

 次に書かれた文字を見て、ざわりと心が騒いだ。

「……変転人……?」

 悪夢は頷くような仕草をした後、ぽんぽんと触手を叩き合わせた。どうやら変転人の毒芹から生まれた悪夢のようだ。

 悪夢が自我を持つだけでも異常だと言うのに、宿主の人格を吸収しているらしい。

(通常は悪夢が宿主に取り憑いてるけど、これは逆に宿主が悪夢を乗っ取った……?)

 こんな奇妙な現象は初めてだ。

「……クラゲさん、毒芹って人を知ってる?」

「知りません」

「アサギさんなら知ってるのかな……」

「どういうことなんですか?」

「毒芹って変転人から排出された悪夢の可能性が高い。こんなに大人しい悪夢なら、宿主も生きてるんじゃないかな」

 だが悪夢は体を左右に振った。否定しているようだ。

『しんだ』

 文字に起こし、答えを明確にする。こんなに大人しい悪夢でも宿主を殺してしまうようだ。

『ばく あいたかった』

「僕に?」

『もういちど』

「え……? 会ったことがあるの?」

 悪夢は頷くが、名前にも心当たりはない。擦れ違っただけなのだろうか。顔がわからないので確証が持てない。

『たんじょう おめでとう』

「……?」

「誕生日なんですか? それはおめでたいです」

「ええ……今日だったかなぁ……?」

 年齢も曖昧にしか覚えていないのに、誕生日などはっきりと覚えているはずがない。なのにこの悪夢は知っているのか。化生の瞬間に出会っていたのだろうか。――いやそれはない。それはもう百五十年ほど昔の話で、人間である変転人はそんなに長くは生きられない。そこでふと気になることがあった。

「君はいつから悪夢なの?」

『ずっとむかし』

 昔という言葉の定義は主観的だ。どれほど遡れば良いのかわからない。

『うまれるまえ』

「生まれる前? 君が?」

『ばく』

「僕が……生まれる前? 化生前……ってこと?」

 悪夢はこくんと頷いた。

 化生前が存在するなら、それは死を迎えたことがあるということだ。獏は一度睫毛を伏せるが、今は死について考える時ではない。

「……先代と知り合いってこと? そんなに長く悪夢は生きてられるの……?」

『もうすぐしぬ もっとおおきかった』

「年月を経て、ここまで小さくなった?」

 こくんと頷く。小さくなる過程で悪夢の毒気も抜けていったのかもしれない。悪夢を放置すると暴れ出すが、更に放置するとこんな風になるのか。稀有な例かもしれないが、どんな思いで今まで存在し続けたのだろう。

『うわさきいた あえるとしった うれしい』

 ペンを置き、今度はその場で両触手を広げた。

「やっぱり抱擁を求めてますよ」

「そうなの……?」

「先代と仲良しだったんじゃないですか?」

「うーん……化生前の記憶はないからね……」

 そればかりは申し訳ない。人間だって死ねばそこで記憶は終わる。獣も同じだ。死ねば基礎的なこと以外の記憶は失われる。先代の記憶を引き継ぐ場合も稀にあるようだが、獏はそうではない。毒芹に覚えはない。

「化生前の獏はどんな人だったんですか?」

 危険はなさそうなので灰色海月も質問してみた。悪夢を見るのは初めてだが、これが獏の見る世界なのだと少し獣の視点に入ったようで緊張する。

 悪夢は片手を下ろし、ペンを握った。書き終わると再び両触手を上げる。

『とてもやさしい ちいさなおんなのこ よくあそんだ だいすき』

「大好きって言ってますよ。やっぱり抱擁を求めてます」

『わたしをにんげんにしてくれた』

 追加で書かれた文字に、灰色海月は目を丸くした。

「私と同じ……」

 それなら慕う気持ちはわかる。人の姿を与えてくれた獣は親のようなものだと白花苧環は言っていた。毒芹にとってもそうだったのだろう。死んでからも会いたいと思うほどに。

 獏は少しだけ距離を詰め、悪夢に指を伸ばした。二本の触手はそっと白い指に触れて撫でた。少し擽ったい。

「ねえ……獏がいたのにどうして悪夢に喰われたの?」

 触手はびくりと動きを止めた。丸い体の二箇所から黒い靄が少し漂う。まるで泣いているようだった。

 ペンを握り、叩き付けるように紙に何度も書き殴る。

『きらい きらい きらい しん きらい きらい』

「しん、って……」

 今度は思い出すようにゆっくりとペンを動かした。何本も線を引き、文字を作る。


『蜃』


「…………」

『きらい きらい ばくころした だからきらい きらい』

 書き殴り、ペンを紙に投げ付けて悪夢は転がった。蒲公英が落ちて散らばる。丸い体で触手をばたばたと動かした。

「先代が……蜃に殺された……?」

 その後で毒芹が悪夢に喰われたのなら、助けられなかったことに筋は通る。死んでから化生するまで個人差はあるがある程度の空白の期間がある。その空白の時間の中で毒芹は悪夢に喰われた。

 もう一度紙に書かれた文字に目を落とし、獏は眉を顰める。化生前の殺された記憶は今は無い。だが蜃という名前は知っている。獏を閉じ込めている誰もいない街を創った獣だ。何の因果か反吐が出る。

「……理由はわかる? 先代が殺された理由」

 悪夢は転がりながら起き上がり、羽根の乱れたペンで叩き付けるように書いた。

『うらぎったって。さかうらみ ばくわるくない ぜったいわるくない』

「裏切った……? 先代の僕は何をしてたの……?」

『よくしらない しんと しょうずと あつまってた』

「しょうず?」

『椒図』

「誰だろ……知らない人……」

『こんぺいとうくれた すこしいいひと』

 甘い物に釣られるのは灰色海月と似ていると思った。化生前だと明治初期か江戸時代だろう。金平糖は高価な物のはずだ。

「椒図も獣だよね?」

 悪夢は頷く。獣が三人で集まって何をしていたのか。蜃は罪人だと聞いているが、その蜃も死んだと言う。死んだのが獏の化生前なのか後なのかで違ってくるが、後ならば化生していてはその頃の記憶はない。残るは椒図だが、名前は聞いたことがない。

「クラゲさんは椒図って知ってる?」

「……いえ。知らないです。力になれなくてすみません」

「大丈夫、気にしないで」

 灰色海月は変転人になってまだ日が浅い。知らないことの方が多い。それは責めることではない。浅葱斑か黒葉菫なら知っているかもしれない。

「鵺は僕より長生きだから、もしかすると先代が蜃に殺されたことを知っててあの街に閉じ込めた……?」

 街のことは知らないと言っていたが、獏と蜃の関係については何も言っていない。知っていて閉じ込めたのなら、性の悪い罰だ。

 何を言っているのかと不思議そうに悪夢は黒い体を傾け、傾け過ぎて丸い体はぽてんと転がる。暫く考えるように動きを止めるが徐々に動揺を感じ取ったのか、悪夢は慌てて起き上がりそろそろと獏に近付いた。恐る恐る触手を伸ばし靴の先に触れ、見上げる仕草をする。心配しているようだ。

「……君はずっとここにいたの?」

 ふるふると悪夢は丸い体を横に振った。ポストに投函する噂を聞いて何処からか探しに来たと言うことか。

「僕はずっとここにはいられない。罪を犯したからね。牢に戻らないといけない。君を放っておいていいのか難しい所だけど……危害を加えないなら僕も何もしないよ」

 悪夢は獏を見上げたまま黒い体からもう一本触手を生やし、紙とペンを引き寄せる。

『いく』

「何処へ?」

『わたしはもうすぐしぬ ついていく みとってほしい』

「悪夢を牢に持ち込めって? そんなこと……」

 できない、と言おうとして、悪夢があの街に存在しても宵街は感知しないことを思い出す。迷子の黒猫が見ていた白昼の悪夢について宵街は何も言ってこなかった。

『いきたい わたしのねがいごと』

 願い事と言われれば、叶えないわけにはいかない。獏は苦笑し、小さな悪夢を撫でた。

「わかった。その体じゃ契約はできないけど、願い事は叶えるよ」

 悪夢は擽ったそうに丸い体を振り、ぴょんぴょんと跳ねた。顔が無いのに感情は手に取るようにわかる。

「でもね、一つだけ約束して。僕は悪い夢は処理しないといけない。だから、君がもし悪いことをしようとしたら、僕は君を食べなくちゃいけない。それでもいい?」

『いい。ばくにたべられるなら うれしい』

「嬉しがらないで……わざと悪いことをしちゃ駄目だよ」

 こくこくと体を縦に振って頷くが、少し不安だ。許可が出たのが余程嬉しかったのか、足のような短い二本の触手でスキップを始めた。器用な悪夢だ。

「クラゲさん。戻ろう」

 散らかした紙とボロボロになった羽根ペンとインク瓶を拾う。

 悪夢は触手を一本伸ばし、獏のズボンを握った。変転人の頃の記憶がはっきりとあるらしい。灰色海月が取り出した傘の意味を理解している。

 灰色の傘がくるりと回されると、一瞬にして視界は夜になる。霧の掛かる暗い煉瓦の街が広がり、悪夢は見渡すように体を揺らした。

「ここが牢だよ」

 一軒だけ明かりの灯る建物を指差す。

「この店の中以外は誰もいない。僕はこの街に閉じ込められてるんだ。街の中だったら自由に出歩いてもいいんだけど、迷子になるといけないから君は店から出ちゃ駄目だよ」

 悪夢がしっかりと頷くので、とりあえずは信じることにした。この体の大きさなら万一何かあってもすぐに処理することができる。

 重く冷たい首輪を外してもらいながら、紹介をしておく。

「この街にいる罪人は僕だけで、こっちのクラゲさんは僕の監視役だよ」

 店に入り、瓦落多の並ぶ棚の間を歩く。悪夢は物珍しそうに眺めている。先代の獏の頃に生きていたのなら、懐かしい物もあるだろう。

 机に紙やペンを置いて二階に上がると、白花苧環はまだベッドで眠り、浅葱斑は退屈そうに蜂蜜を舐めていた。

「あっ、おかえり獏。何で頭に蒲公英咲いてるんですか?」

「あれ? まだ載ってる?」

 頭に手を遣ると、確かにまだ載っていた。蒲公英を抓むと、悪夢は触手を長く伸ばしてそれを取った。気に入ったのか、丸い体に載せる。

「ぎゃ!? なっ、何だよそれ!?」

 椅子の上に両足を引き上げて跳び上がる。浅葱斑も悪夢を見るのは初めてだ。

「悪夢なんだけど、只の悪夢じゃなくて危害を加えない大人しい子だから連れて来た」

「悪夢……? 獏がそう言うなら大丈夫なんだろうけど……」

 顔が無いので不気味にしか見えなかった。黒い玉に黒い棒が生えているだけのように見える。

「こっちがアサギさんで、寝てる方はマキさん――」

 紹介をしながらベッドの上を見ると、騒いだ所為か白花苧環の瞼が震えている。ゆっくりと白い睫毛が持ち上がり、薄らと目を開いた。

「マキさん!」

 その声に皆は一斉に白い彼へ目を向けた。

「大丈夫? 具合はどう?」

「ぁ……う、」

 突然口元を押さえる。背を丸めて顔を逸らした。

「クラゲさん、バケツ持って来て!」

「は、はい!」

 スカートの裾を持ち上げ、物置部屋へ駆け込む。

 急いで白花苧環にバケツを差し出すと、背を丸めながら抱えた。バケツに顔を突っ込むが、吐く気配はない。

「……あ、そうか……。ここじゃ食べないから、吐く物がないんだ……」

「どうしましょう……?」

「落ち着く飲み物とか……用意できるかな?」

「わかりました。作ってみます」

 灰色海月は急いで階下へ下りていく。浅葱斑はおろおろとしながら邪魔にならないように壁際に避けた。悪夢も踏まれないように端に移動した。

 白い背に手を置いていると、少し落ち着いたようだ。バケツから顔を上げ、息を整える。

「……醜態、を……」

「誰もそんな風に思ってないよ。心配してるだけだから」

「記憶……」

「思い出したの? 苦しいなら無理に話さなくてもいいよ」

「オレは……使い捨て……」

「……え?」

「オレが死んでも……また植えればいい……」

「何……? 狴犴(へいかん)が言ったの?」

「全てを思い出したわけでは……ないと思います……。ただその言葉が……深く刺さって……」

「それが記憶に蓋をしてた原因なんだね」

「植物の変転人は……死ぬと種を遺すようです……」

「種……? 殺してもまた生まれさせられるってこと……?」

「だと……思います……」

「獣の化生みたいなものか……。それで簡単に殺そうと……酷いな……」

 ゆっくりと息をする背をゆっくりと撫でる。状況を察したのかただ真似をしているだけなのか、悪夢もベッドに上がり触手で背中を摩った。車のワイパーのようだった。

「……今、何で背を撫でてるんですか……?」

「悪意のない悪夢だよ」

「は……?」

「そうだ。悪夢も植物だよね。種があるんじゃない?」

 植物の変転人である毒芹が死んだのなら、白花苧環の言うことが正しければ種が遺っているはずだ。それを植えれば毒芹をもう一度人の姿にすることができる。

 悪夢は獏を見上げる仕草をし、体を横に振った。

「……種が遺るって知らないと拾えないよね……」

 況してや死んだ直後なら悪夢にも理性はないだろう。この小さな悪夢がどんな姿をしていたのか、少しだけ興味があったのだが。

 開きっぱなしのドアからティーカップを一つ手にゆっくりと戻ってきた灰色海月は、バケツから顔を上げている白花苧環の姿を見て一先ず安堵した。

「飲み物、持って来ました」

 もう大丈夫だろうと確信が持てたのか白花苧環はバケツを置き、灰色の彼女に向き直る。背を撫でていた何だかわからない物が視界に入り白い眉を寄せた。山で見た悪夢はもっと大きく粗暴だった。悪意のない悪夢だとか言うゴム鞠のような黒い塊は、確かに襲って来ることはなかった。どうにかしようと思ってもこちらからは触れることができないのだから、獏に任せておくしかない。悪夢をよく知る獏が野放しにしているのなら、言う通り悪意はないのだろう……。

 灰色海月からカップを受け取ると、中身は琥珀色ではなく白かった。てっきりまたハーブティーでも持って来るのだろうと思っていた。

「これは……?」

「ホットミルクです。蜂蜜とウォッカを入れました。体が温まって落ち着いてよく眠れると思います」

「何度眠らせる気なんですか」

 今し方起きたばかりですぐに眠るはずがない。馴染み深い蜂蜜と聞き、安心はした。

「ウォッカが何かは知りませんが……」

 ハーブの一種なのだろうかと、こくりとミルクを飲んだ。喉を通る熱ですぐに芯が熱くなる感覚があった。

「な……ん……」

 眠そうな目をしたかと思えば、糸が切れたようにふらりとベッドに倒れた。獏は中身がまだ残っているカップを慌てて掴む。

「マキさん!?」

「やりました。落ちました」

 試しに残ったミルクを少し飲んでみるが、蜂蜜の甘味と共に成程すぐに体温が上がる。結構な量の酒を入れたようだ。

「ちょっと入れ過ぎかなぁ……」

「私はお酒はわからないので見誤りました」

「でもまあ眉間に皺は寄ってないし、もう少し寝かせてあげよう」

 険しい表情ではなく穏やかに眠っているように見える。記憶を思い出した直後の混乱もあっただろう。目が覚めるまで寝かせてやる。焦らなくても良い。

「ねえアサギさん」

 壁際で様子を窺っていた浅葱斑は白花苧環の酒の弱さにぽかんとしながらも獏を見た。同じ物を飲んでも獏は平然としている。

「何ですか……?」

「毒芹って人を知ってる?」

 何か情報が得られないかと、白花苧環はいつ起きるかわからないので浅葱斑に尋ねてみた。毒芹が生きていた頃から生きている変転人はいないだろうが、話くらいは小耳に挟んでいないだろうかと。

「手紙に入ってた花ですか? ……人?」

「変転人で、聞いたことない?」

「聞くも何も……毒芹は人にしてはいけない決まりがあります」

「え? 何それ」

「宵街の決まり事みたいだな。ボクも詳しいことはわかりませんが、獣から聞いたことがあります」

「宵街の……だったら、僕が知らなくても不思議じゃないのか……」

 宵街に棲んだことのない獏には、そんな話を耳にする機会はなかった。

「いつ頃からある決まりなのかはわかる?」

「それもよくは……ただ、ボクが変転人になるよりは前のはずです」

「アサギさんは何歳なの?」

「二十六歳です」

「道理で詳しい……」

 旅をして宵街にいないことも多いらしいが、黒葉菫よりも変転人歴は長いらしい。

「褒められてる? やったー」

 中身は一番子供のようだが、変転人歴が長い分、感情が豊かになっていると言えば納得もする。灰色海月や白花苧環よりも表情はずっと豊かだ。

「この悪夢が変転人の毒芹だって言うんだよ。だから何か知ってたらと思ったんだけど」

「この黒いのが!? だとしたらボクより年上……」

 悪夢は何故か踏ん反り返るような仕草をした。踏ん反り返り過ぎて後ろに転がった。

「でも変転人だと思ったら、怖くなくなってきた。握手でも――あれ?」

 触手を握ろうとすると、するりと擦り抜けた。その手を悪夢が握る。

「ど、どういうこと……?」

「僕以外は悪夢に触れることはできないよ。悪夢から触れることはできるけど」

「ひえぇ……」

 その性質があるということはやはりこれは紛れもなく悪夢だ。転んで落ちた蒲公英を拾って体に載せる愛嬌はあるが、過去には人間を襲っている。

 この小さな悪夢から目は離せないが、獏は面の奥で金色の瞳を冷たく細めた。

(……蜃が僕を殺した……。それだけは理由が知りたい)


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