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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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35/124

35-疑念


 誰もいない静かな街で、灰色海月は冷蔵庫に顔を突っ込んでいた。冷気の中からティーカップを一つ取り出しそっと見下ろす。柔らかな黄色が艶やかに輝いている。

「遂にプリンを作ることができました」

 丁重に盆に載せて運んだそれを、古い革張りの椅子に座る獏の前に差し出した。色形は様々なティーカップに固まったプリンが並んでいる。

「そういえば作ったことなかったね」

「緊張してしまうので。カラメルはたくさん焦がしました」

「うん……焦げ臭いと思ったら……」

 読んでいた古書を置き、ティーカップを覗き込む。好きな物に対して緊張するのは微笑ましい。どれも美味しそうに見えた。

「マキさんは食べるでしょうか?」

「体が起こせればいいけど……ちょっと容態を訊いてみようか」

「プリンなら飲めると思ったんですが」

「飲める……?」

 固形物のプリンを飲むとは? と動物面の奥で眉を顰めながら獏はもう一度、七客のカップを見下ろした。固さが定かではないが、液体ではないことは確かだ。

 獏と灰色海月が二階へ上がると、ドアが開け放たれたままの奥の物置部屋が目に入った。がたがたと物音がする。ドアの陰からひょこりと覗き込むと、目立つ青い頭の少年が物色していた。

「何か面白い物は見つかった?」

「何に使うかわからない物も多いけど、何があるんだろってわくわくは楽しいな」

 心底楽しそうに浅葱斑は瓦落多を漁っている。誰もいない街の中で早速暇を訴えた彼に、倉庫の物色を許可したのだ。暇を潰せそうな玩具でも発掘できれば良いと思ったのだが、物色自体を楽しんでいる。

「――あれ? お茶でもするんですか?」

 何気なく振り向いた浅葱斑は、灰色海月の持つ盆を見上げた。下から見ると何が入っているのか見えないが、お茶をするにしてはカップが多い。いやプリンでも多い。

「プリンを作りました」

「わ、凄い! 食べる食べる」

 何も言っていないが、浅葱斑は目を爛々と食べる気満々だった。

「少し静かにね」

 獏は口元に人差し指を当て、浅葱斑が口を噤んだことを確認して白花苧環のいる部屋のドアを開けた。狴犴(へいかん)に頭と両脚を潰されてから数日が経ったが、白花苧環は変わらずベッドに横になっている。

 白い彼はベッドの上で目を閉じていたが、ドアの開く音でぱちりと開いた。首だけを動かして部屋に入ってきた者を見る。

「マキさん、体の調子はどう?」

 罪人嫌いの彼を一応は気遣い獏はあまり部屋へ入らないが、彼は声を掛けると素直に口を開く。

「安静にと言われたので動いてませんよ。動かないのは得意なので。根でも生えそうです」

 獏は苦笑しながら、それは植物ジョークだろうか? と考える。彼は元は花だ。花は動かない。

「痛むとか……違和感があるとか、どう?」

「動かすと多少は痛みますが、動かないと体が鈍りそうです」

「ちょっと動いてるし……。もう動けるの?」

「上手く歩けるかはわかりませんが、動きますよ。試してみますか?」

「変転人は普通の人間より治癒力が高いらしいけど……早くない? 両手を切断されたクラゲさんはかなり掛かってたよね」

「そうですか? 早い……としたら、獣の力が入ってるからでしょうか?」

 ぽつりと漏らした一言に、灰色海月はハッとした。それは弱味として宵街で彼から聞いていたことだった。

「獣の力? 僕が使っ」

「駄目です。それは弱味です」

 慌てて口を挟んだ灰色海月だったが、何か言い掛けていた獏の言葉で、獏も生命力だとかと力を注いでいたことを思い出した。弱味は秘密だ。彼女はしまったと口を塞いだ。その仕草で、うっかり口を滑らせたことは瞭然だった。

「本当に貴方は素直ですね」

 困ったように苦笑するが、白花苧環は怒ることはなかった。こんな体になって、最早隠すこともないだろう。元より弱味だとは思っていない。あの時は情報を交換するためにそのように話しただけだ。

「弱味なの? それは聞きたい」

 獏が楽しそうにするのでそれは不快だったが、白花苧環は潰れていた頭部に手を遣って傷口が閉じていることを確認し口を開いた。

「花の時にオレの頭が潰れ両脚が千切れてたことは知ってましたよね」

「うん。噂になってるらしいね」

「そのまま人の姿を与えられると、頭は潰れたままで、両脚は欠損します」

「! ……やっぱり勝手に補われることはないんだね……」

「それを補うために狴犴はオレに力を使いました。皮肉ですね。力を使った狴犴だからその部位を知っていて、正確に潰すことができた。そして力が与えられたから、こんなに早く治癒できた」

 自嘲するように薄らと口元を歪める。

「悪夢に足を折られた時はもう少し治りが遅くなかった?」

「治癒力が上がったと言うなら、貴方もオレに力を使ったんでしょう? その所為ではないですか? それに以前のあの時は安静にしてませんし」

 納得はできるが、人間である変転人にこんなに獣の力を注いでしまって良かったのか今更獏は心配になった。

「二種類の獣の力が入って、君は大丈夫なの? 何処か変な所とかない?」

「今の時点では特に何もないです」

「ならいいけど。……クラゲさん。プリンもいいけど、飲み物も欲しいな」

「……え? は、はい」

 突然話を振られた灰色海月は返事が遅れつつも頷いた。プリンの載った盆を机に置き、すぐに階下へ行く。

 階段を下りる音を耳に、獏は床に膝を突いてベッドに動物面の顔を寄せた。声を抑えながら呟く。

「狴犴の力が入ってるなら、僕の力は使わなければ良かったかも……」

「……クラゲには聞かれたくないことですか」

 唐突な指示だったので、席を外させたのだろうことはすぐに察することができた。浅葱斑はドアの横で大人しく聞き耳を立てているが、聞き取れてはいなさそうだ。

「この話は……誰にもしたことないから」

「それをオレに?」

「さっきクラゲさんが弱味だとか言ってたから、少し信用する」

 白花苧環は弱味だと思っていなかったが、話を遮ることになってしまうので黙っておいた。

「こんな話したくないんだけど……見世物小屋にいた時、む…………夢魔って言われてたのは覚えてる?」

「はい」

「そこまで知ってしまったならと思って話すけど、元々僕は悪夢を食べるくらいしかできない普通の獏で、非力だった。けど名を間違えて呼ばれ続けた結果、僕の力が変異した」

「…………」

「平たく言えば、力が強くなった。暫くは僕自身も全然気付かなかったんだけどね……。獣は名に力が籠もるから。元々強い獣もいるけど、名が通ると力を増す」

「……夢魔の力が使えるようになったんですか?」

「さすがにそれはないよ。変換されて変異してる。だから純粋な獏とも最早言えないんじゃないかな……って思うから、君に力を使ったことで君の体の中で異なる力が喧嘩しないかと少し心配」

「ああ……そういうことですね。さっきも言った通り、今は何もないです。人間に飼われるほど弱いはずなのに今の貴方の力の強さが腑に落ちませんでしたが、その時は非力だったんですね」

「……うん。檻の鍵を締め忘れてた時に何とか逃げた。……何年いたんだろ……」

 ぽつりと零された一言に白花苧環は微かに目を見開いた。力が変異するほどなのだから数日ということはないだろうと思ったが、何年も人間の見世物になっていたらしい。気が狂いそうだ。年を経ても外見にはあまり差は出ないので、いつまでも変わらない老いない姿に余計に見世物になったのだろう。

 変転人も人間とは言え外見にあまり変化は出ない。宵街にいなければ捕まる可能性があるのだと知り、力の無い有色の変転人が街から出されない理由がわかった気がした。無色は何処へでも行ける傘を持たされ人間の街にも行けるが、有色に傘は与えられない。無色だと特別な力があるため、何かあっても抵抗することができる。

「それにだけは、同情してあげます」

「できれば忘れてくれるとありがたいけどね」

 獏が立ち上がると、ドアが開く音がした。灰色海月が新しい盆にティーポットとカップを載せて部屋に入ってきた。

「普通の紅茶です」

「うん。ありがとう」

 身を起こそうとする白花苧環を手伝い、まだ痛みは僅かにあるのだろうと表情で察するが、もうここまで動けるとはと驚愕する。獣でももう少し掛かりそうなものだが、病院での処置が適切だった御陰もあるのだろうか。

「ねえマキさん。記憶の方はどう? 何か思い出した?」

「……いえ。報告書を渡した後は抜け落ちたままです」

「そこが綺麗に抜けてることが気になるよね。頭が遣られてたし記憶障害の可能性はあるけど、狴犴に消されてるとしたら嫌だよね。消されたか閉ざされたかにもよるけど、閉ざされたなら僕が抉じ開けることはできるよ。君次第だけど」

 白花苧環は渡されたカップを見下ろした。もし狴犴が故意に閉じたものなら、それは白花苧環には知られたくない、若しくは知らない方が良いということだ。後者だった場合、抉じ開ければ狴犴の気遣いを無下にすることになる。それは避けたかった。殺されかけてもまだそんなことを思えるのかと自嘲するが、狴犴の力が体の中にある所為かもしれない。

「もう少し様子を見てください」

「うん。わかっ――」

 かたんと階下でドアが開く音がした。反射的に口を閉じ、耳を澄ませる。店の中に誰かが入って来た。白花苧環を探しに来た者かもしれない。こんな所まで探そうと思う者はそういないと思うが。

「クラゲさんはここにいて。宵街からの探りだったら、何処かの空き家に避難して」

「わかりました」

 盆を置き、灰色海月は灰色の傘を抜きながら頷いた。

 入って来た誰かが階段を上がろうとしない内に獏は一人で階下へ行く。台所を覗いている黒い背がすぐに目に入った。

「やあ。何か用かな?」

「……あ」

 振り向いた顔にはしっかりと見覚えがある。やや困ったような顔をしている。

「ここに……苧環は来ませんでしたか……?」

 探りを入れに来たようだ。この街を思い浮かべる者など、そうはいない。


「来てないよ。スミレさん」


 白と黒は相反する。いつもは罪人の獏に対して従順だが、白を匿う獏に従うかはわからない。誰の味方をするのか――黒葉菫は自分より強い者には逆らわないようにしている。ならば力の程は定かではないが獏よりも立場が上の狴犴に味方をする可能性は高い。今の時点では彼を信用できない。

 黒葉菫は一度目を伏せた後、警戒するように周囲を見渡して獏へ近付いた。獏の動物面を見下ろし、逡巡しながら口を開く。

「それなら……良かったです。少し……相談? してもいいですか」

「相談……? 願い事ってこと?」

「相談って願い事になるんですか? だったら……どうしよう」

 本当に困っているようで眉を寄せる。相談とは、想定外の言葉だ。

「いいよ、普通に聞く。君にはたくさん御世話になってるしね。いきなり来るから改めて願い事なのかと思っただけだよ」

「……そうですか」

「とりあえず、座る?」

 椅子を出して勧めると、黒葉菫は疲れたように腰掛けた。獏も革張りの椅子に腰を下ろす。

「クラゲはいないんですね」

「ん? 少し休んでるだけだよ」

 灰色海月がいないことを怪しまれただろうか。只の確認だろうか。慎重に言葉を選ばなければと気を引き締める。

「……俺も詳しいことは知らないんですが、苧環を見つけたら連れて来いと通達があって」

「…………」

「何か急ぎの用でもあるのかと……。罪人嫌いの苧環がここに来るわけないとは思ったんですが、苧環が来たことがある場所が、ここくらいしか心当たりがなかったので」

「でもここには来てないね。急ぎの用だったら、もし見掛けたら伝えておくよ」

「いや、それが……」

「?」

 何か様子がおかしい。獏は面の奥で眉を顰める。

「苧環と話したことのある有色が拷問にかけられたらしくて」

「え……」

 黒葉菫の声は微かに震えていた。拷問と言うなら、以前彼が見たと言う拷問官の睚眦(がいさい)が執り行ったのだろう。

「只事ではないですよね……? 只の急用で拷問は……」

「拷問にかけられた人はどうなったの?」

「わかりません。俺も噂で聞いただけなので……。俺も苧環とは結構話したので、いつ白羽の矢が立つか……」

「それ不味いんじゃ……。……あ、ウニさんは? ウニさんも少し話してた」

「あいつは今別件でいないです。個人的な件ですが、仲間を見に行くと言ってました」

「海……かなぁ」

「普段あまり話さないので、ウニはたぶん除外されると思います。苧環と会っても話さないだろうと思われるかなと」

「それならいいけど……」

「身を守るためにも苧環を捕まえた方がいいのではと思ったんですが、俺では捕まえられないです」

 変転人の中ではトップクラスの戦闘力を持つ白花苧環は、大抵の変転人では歯が立たない。複数人で掛かれば捕まえられるかもしれないが、複数で連携を取ることは普段しない。連携を取れるほどの見知った仲間は少ない。

「鵺は、黒なら大丈夫だろうと言ってました。白とは相反する存在なので」

「鵺にも相談したの?」

「偶々擦れ違ったので、気に懸けたみたいです。もし何かあっても庇ってあげると言ってました」

「それは良かった。鵺がいるなら頼もしいね」

「そうですね……振り回す人がいなくなると困るからだと思いますが」

 妙に納得する言葉だった。

「でも鵺がいるなら、僕に相談に来なくても良かったんじゃない?」

「一応耳に入れておいた方がいいかと……」

「もしマキさんがここにいたら、どうするつもりだったの?」

 その答えに偽るか本音を吐露するか、判断材料は表情や声や仕草しかないが獏は静かに促した。指の覗き窓で覗くことはできるだけ避けたい。普通の人間を覗くのは、人間を信用していないからだ。獣が人の姿を与えた変転人は、信用したいから覗かない。勝手に感情を覗かれるのは嫌がるだろうから。

 黒葉菫は少し考えた後、素直に本音を話した。

「貴方だったら苧環を捕まえられると思うので、捕まえてもらって宵街に連行したかもしれません。……でも、苧環は怖い……所もありますが、罪を犯すようなことはしないと思うので……拷問の話とどうしても繋がらなくて、ただ捕まえて連れて行くのも……」

 心配そうに一度振り返る。

「……違うのかもしれないと思ってて」

 誰かの気配があるわけではないが、誰かに聞かれていないかと不安なのだろう。黒葉菫は落ち着かない様子だ。

 白花苧環がここにいると言っても、彼は否応無しに捕まえて連れて行きはしないだろう。その不安げな顔は演技ではないと思う。

「その通達を出したのって誰?」

「狴犴です」

「君の言い方だと狴犴が間違ってるって言ってるみたいだけど」

「あっ……いえ、ちが、違います」

 慌てて否定するが、拷問に疑問を抱いていることには変わりない。獏はふふと笑った。

「僕を誰だと思ってるの? 罪人が狴犴を良く思うわけないでしょ。君が何を言おうと、ここでは自由だよ」

 黒葉菫は目を丸くし、獏の面を見詰めた。この街は全てが牢だ。牢の中にいれば安全なのだ。

「何も怖がらなくていいよ。不安なら、僕が食べてあげる」

 首を傾けながら微笑む獏は、この暗がりの中では光に見えた。獏の善行は黒葉菫も何度も見た。本物の言葉だ。


「相変わらず甘言が上手いですね」


「……え?」

 ゆっくりと階段を下りて現れた白い姿に、黒葉菫は思わず立ち上がった。椅子が倒れ、床を叩く大きな音で我に返る。

「苧環……!」

「ちょっとマキさん! 何で出て来るの? 普通に歩いてるし……」

 壁に手を突きながら石膏で固められた脚を重そうに引き摺ってはいるが、二足で立って歩いていることに驚く。必要かはわからないが、獏は慌てて彼の体を支えた。

「どういうことですか……」

 混乱する黒葉菫を余所に、階段から灰色海月もそっと顔を出し、見知らぬ青い頭も覗く。

「スミレがただオレを捕まえに来ただけなら、出て行かないつもりでした」

 白い頭に溶け込みそうな白い包帯を巻いていることにも気付いた。怪我を負った白花苧環を匿っているのだと、黒葉菫はすぐに察した。

「怪我……睚眦に拷問されたのか……?」

「その辺りの記憶はありませんが、おそらく違います。狴犴に遣られました」

「え……苧環は狴犴のお気に入りなんじゃ……」

「そういう風に見られてるんですね。狴犴はオレのことは只の実験体としか見てないのではないですか?」

「どういう意味だ……?」

「欠損状態の花だったオレが、人の姿を与えて欠損なく姿を保てるのか。その実験のために変転人にされました。それが何を意味するのか、花の感情が邪魔をして未だ答えは出せませんが。両脚が欠損して歩けなくても、花は元より歩けませんからね。歩けることの方が不思議なくらいです。同じ植物だったスミレなら、少しはわかるでしょうか?」

 何を聞かされているのか理解するのに少し時間は要したが、ゆっくりと咀嚼する。

「狴犴は酷い奴だ……と言わせたいのか?」

「そう言うわけではないです。オレはただ、理由が知りたい。どんな粗相をすればこんな目に遭うのか。怪我も治りきらない今はまだ捕まりたくないです」

 黒葉菫はもう一度考える。考えて、息を呑んだ。

「それで白が、嫌う罪人に助けを求めたのか……?」

「それは浅葱斑がここへ連れて来たので、成り行きではありますが」

「そこまでして捕まりたくないって言うなら、無理に引き摺って行かない……し、俺には引き摺れない」

「安心しました。両手は無事なので、引き摺られるなら抵抗する所でした」

「手が無事って……変転人だったら真っ先に狙われかねないのに」

「確実に殺せると思ったか、嫌がらせでしょうね」

 壁に手は突くが支える獏に凭れ掛かるように爪先を階段に向ける。

「……まだ歩くのは早かったかもしれません」

「だろうね」

「脚が上がらない」

 階段を前に白花苧環は立ち尽くすしかできなかった、下りる時は引き摺っても足を下ろすことができたが、登るには足を上げなければならない。二階は見えているのに遠い。

「抱えて行こうか?」

「貴方にだけは抱えられたくないです」

 とは言え女性の灰色海月と小柄な浅葱斑に抱えさせるわけにもいかない。

「俺が持ち上げようか……?」

 その場にいた全員を見回し、適任は自分ではと黒葉菫は遠慮がちに手を挙げた。一応白花苧環より身長も高い。獏に匿われているが罪人に助けを求めることは変わらず不快なのだろう、白い彼らしさに黒葉菫は少し安心した。

「ではお願いしまっ……いっ」

 両脚が潰れていたのだから、抱き上げられればそれは勿論両脚に負荷が掛かり痛むだろう。これに懲りたら考えるより先に足を動かさないことだ。

「胴は無傷なんだし、この場合は肩に担ぐのが正解なのかな」

「何が正解でもいいです……早く下ろしてください」

 なるべく振動を与えないように階段を上がるが、顔を一瞥すると歯を噛み締め耐えている。その姿を見ると、このまま宵街に連行、なんてことは考えられなかった。白花苧環もそのまま連行される可能性は考えていただろう。それでも敢えて身を任せたのは、信用を得るためだ。信用するのだから信用しろと言いたいらしい。それに両手が無事なら黒葉菫が撃つ前に刺せる。

 ベッドに白花苧環を下ろすと、彼はぐったりとしていた。治癒力が高いと言っても、完治にはまだ時間が掛かりそうだ。

「さっき言ってた浅葱斑って言うのは、そこでこそこそしてる奴か?」

 一人だけ部屋に入らずにドアの陰から様子を窺っていた青い頭の少年は一度頭を引っ込めた後、恐る恐る顔を出した。

「そうですけど……?」

「有色……?」

「偶に間違えられるけど、灰所属だ」

 容姿に灰色と呼べる色はないが、傘だけは灰色だ。

「獏、あの黒いのは信用してもいいんです?」

「黒いのは黒葉菫さんだよ。今の所は問題ないと思うけど」

「黒葉菫……。苧環のことは通達があったみたいだけど、ボクは? 何か言われた……?」

 狴犴の足の下から白花苧環を救出したので、当然姿は見られているはずだ。白花苧環と話をしただけで拷問にかけられた有色がいるなら、攫った浅葱斑は何をされるかわからない。

 皆は黒葉菫に注目するが、彼は首を捻った後に横に振った。

「何も聞いてない」

「じゃあボクはお尋ね者じゃないってこと? 見られてなかったんだ! 良かったぁ」

 安堵の笑みが零れるが、白花苧環はふと疑問に思った。後でこうして通達を出すくらいだ、わざと逃がしたわけではないだろう。狴犴の足下からどうやって意識のない重い白花苧環を助けたのか聞いていない。

「オレは覚えてないので状況がわかりませんが、どうやってオレを運び出したんですか?」

「ああそれ? ボクは小型だけど爆弾を使うんだ。簡単に言うと手榴弾だけど、今回は煙弾を使った。それで煙幕を張った。だって傷付ける爆弾だと苧環も一緒に傷付くだろ?」

 その爆弾は体内生成された武器ではなさそうだ。体内生成された物なら、壊れると自身の体にも傷が付く。爆弾は壊れる物だ。そんな物を体内生成するはずがない。白花苧環の糸や黒葉菫の銃弾と同じように、変換石で出力した武器だ。

「変転人がどんな力を使うか狴犴は把握してないの?」

 何にせよ力を使ったのなら、その力の特徴で特定されてしまうのではないだろうか。

「把握はしてません。変転人を管理してるわけではないので。直接見るか、誰かから聞いてない限りは知らないはずです。力どころか、名前も全ては知らないですよ」

 その言葉で浅葱斑は一気に青褪めた。

「呼び付けるくらいだからボクのことは勿論知ってるよ! 力は……どうなのかな!? 狴犴の前で使った記憶はないような……」

「呼び付けられてたなら一番に怪しまれますね。ですが探してないなら、気にしなくてもいいのでは? わざと対面すれば何かしらあると思いますが」

「急にまた不安になってきた……苧環でさえ怖いのに……」

「ああ、怖いから距離を取ってたんですか」

「いや……そういうわけじゃ……」

「慣れてるので気にしなくてもいいです」

 白花苧環は気不味そうに目を逸らす浅葱斑から目を逸らさない。このままでは浅葱斑が気の毒だ。獏は苦笑しながら軽く手を挙げて発言した。

「その話は置いておいて。スミレさんまでここに長く留まってたら、さすがに怪しまれるかもしれない。スミレさんは宵街に戻った方がいい」

 狭い店内が大所帯になることも避けたいが、白花苧環と関わりのあった者が宵街から姿を消してしまうと目に付いてしまう。調べられれば共通の関わりのあるこの街が怪しまれる。

「戻って大丈夫でしょうか……?」

「宵街には鵺もいるし、下手に離れるより安全じゃないかな。それに僕達は宵街には行けない。クラゲさんは自由に動けるけど、監視役がそう頻繁に出歩くわけにもいかない。だから宵街の動向をスミレさんに見ていてほしい」

「え? 偵察……ですか?」

 不安そうな顔で眉を顰める。獣に勘付かれずに身辺を探る自信はない。

「探れって言ってるわけじゃないよ。何かこっちに都合の悪いことが起こりそうなら知らせてほしいってだけだよ。危険にわざわざ首は突っ込まなくていい。僕達の味方をしてくれればいい」

 言われた言葉を時間を掛けて咀嚼する。つまり宵街でいつも通りに普通に過ごしてほしいと言うことだ。それならいつも通りにすれば良いだけだが、こんなことになっていつも通りでいられるのだろうか。

「……わかりました。やってみます。何かあれば報せに来ます」

「指切りでもする?」

「指を切られるのはちょっと……」

 一歩下がる黒葉菫にくすくすと笑い、獏は持ち上げた小指を下ろした。

「あまり留まらない方がいいみたいなので、もう宵街に戻ります」

「少し待ってください」

 踵を返しかけた黒葉菫を呼び止めたのは白花苧環だった。灰色海月が置いたティーポットに手を掛ける。

「オレの所為で迷惑を掛けたので。緊張で喉が渇いたのではないですか? 一杯くらい淹れさせてください」

 返事を待たずに空のカップに紅茶を注ぐ。相変わらず行動が早い。

「一杯くらいなら……」

 その程度の時間なら許されるだろう。息が詰まりそうだったのは確かなので、渡された紅茶で喉を潤した。やや冷めていたが、美味しい紅茶だった。

「落ち着きましたか?」

「少しは……」

 紅茶一杯で気持ちが落ち着くなら苦労はしないが、気遣いは素直に受け取る。宵街に戻ると気が休まりそうにない。

「それでは、戻ります」

「うん。行ってらっしゃい」

 獏は小さく手を振り、灰色海月は頭を下げる。黒葉菫も軽く頭を下げ、今度こそ店を出た。

「……あ。スミレさんにもプリン食べてもらえば良かったね」

 黒葉菫が去った後に机に置いたプリンを思い出し、獏は残念そうに言った。

 突然の来訪者に気が張り詰めてしまったが、灰色海月も気を取り直して皆にプリンのカップを配る。

 獏はベッドの脇に椅子を置き、感情の読めない白花苧環を一瞥した。

「さっきスミレさんに淹れた紅茶、刻印したよね」

「何のことですか?」

 白花苧環はカップに視線を落としたまま答えた。表情は変えない。

「さっきの僕のした約束、契約として僕と紐付けたでしょ。スミレさんが裏切らないように」

「…………。黒を何処まで信用していいのかわかりません。予防線ですよ」

「ふふ……白の癖にエゲツナイことするね」

 プリンにスプーンを入れ、くつくつと笑う。

「代価を貰わない限り、僕の契約は終わらないよ。他人の心を毟らせるなんて、白なのに悪い子だ」

「どうとでも言ってください。オレは罪を犯してるわけじゃない」

「ふふ……」

 自分の信じることが悪ではないと信じることが一番厄介だ。正しいかどうかは別として、理想へ手を伸ばす執着心が強い。何せ悪だと思っていないのだから、止まろうとしない。他人が何を言おうと御構い無しだ。歪んでしまった白は手に負えない。

 自分に契約を紐付けられればすぐに気付く。気付かれても問題ないと思ったのか、御せると思ったのか。

 利用されるのは嫌いだが、黒よりも罪人を信じた行動には面白いと思う。獏はスプーンを口に運び、楽しそうに笑った。


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