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透明街の人喰い獏 (第一幕)  作者: 葉里ノイ


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36/124

36-家出


 霧の掛かる誰もいない透明な街には、明かりの漏れる古物店の賑やかな声だけが響いていた。

 白花苧環と浅葱斑を匿いながらも、獏に科せられた善行は怪しまれないように通常通り行おうとするが、そういう時に限って手紙の投函が暫く無い。

 暇を持て余し、獏は白花苧環のいるベッドへチェスのセットを持ち込んだ。罪人嫌いの彼を気遣ってあまり部屋へは入らないようにしていたが、大怪我をしてからは多少は獏を認めていると思う。あまり身動きができないため仕方なく大人しくしているとも取れるが。

「マキさんはチェスって知ってる?」

 被った動物面で表情は見えないが、声は楽しそうに弾む。

「は?」

 対して白花苧環は拒絶するような声を上げた。

 それも気にせず獏は机にチェス盤を置き、黒と白の駒を突き出して見せる。

「知ってる?」

「……知りません」

 無視しようと思ったが、獏が目を逸らそうとしないので渋々答えた。玩具だろうか。玩具とは子供が遊ぶ物だと認知している。子供だと言われているのか獏が子供なのか、どちらにせよ興味はない。

「ルールを教えるよ。手と頭を使う遊びだよ」

「手と……頭?」

 手はわかるが、頭はすぐに理解できなかった。黒と白の小さな置物が複数、同じ形の物も幾つかある。自身の頭に手を遣りながら白花苧環は眉を顰めた。

「傷は塞がってますが……」

「え?」

 獏は素っ頓狂な声を出した。白花苧環は不思議そうに獏を見る。

 言っている意味を先に理解した獏はふるふると肩を震わせた。

「マキさんって……何でも力で解決しちゃ駄目だよ……ふっ、ふふ……」

「?」

「頭の中身を使ってね……ふふっ……」

 白花苧環も漸く意味を理解し、駒を一つ抓んで獏の面に投げ付けた。

「知らない物は仕方ないです」

「ほらすぐに手が出る! 今のはマキさんが悪いからね!」

「…………」

「不貞腐れないでさ。ちゃんとルール教えるから。マキさんも暇でしょ?」

 盤上に黒と白の駒を並べていると、階下でちりちりとベルの音がした。

「あれ? クラゲさん手紙拾いに行ってたんだ……じゃあチェスは後でね」

 ぱたぱたと忙しなく部屋を出て行ってしまう獏の背を見送り、白花苧環は置いて行かれたチェスセットに目を落とした。手と思考の遊びなら、怪我をしている白花苧環でも暇が潰せるというわけだ。ルールは知らないが、白と黒に分けられ対面する駒を見ていると、相反する変転人の白と黒を見ているようだった。

 階下へ下りた獏は椅子に座りながら、灰色海月が連れて来た手紙の差出人――少年を見る。大きなリュックを背負っている。軽装なので登山ではないだろう。

「お前が……獏か?」

「そうだよ。願い事を叶えてあげる獏で間違いない」

 灰色海月は少年へ椅子を出し、台所へ入って行く。

 少年は椅子に座り、正面から怪しい動物面を見る。全く目を逸らさない。

 獏は灰色海月から受け取った願い事の手紙を読んで顔を上げた。大きなリュックに納得した。

「家出がしたいんだね」

「そうだ……です。家出を手伝ってほしいです」

 突然敬語を話し出したのは、願いを叶える獏だと認めたからだろうか。お願いをする立場なのだからと。

「ふぅん。君くらいの歳だとよくありそうなことだけど。家族と喧嘩でもしたの?」

「言わないといけないんですか」

「いいよ、言わなくても。話の流れで訊いてみただけ」

「……訊かないんですか」

「聞いてほしいの?」

「いえ」

 何かをすれば理由を訊かれるものだと少年は思っていた。特に悪いことをした時は。家出はおそらく悪いことだろうと思う。黙って家を出るのだから。だが少年には黙って出ることしかできなかった。

 机上に紅茶を置かれ、湯気の立つそれを見詰める。眠くなりそうな温かさだ。

「それで、どう手伝ってほしいのかな? 出掛ける足があるなら、家を出るのは誰でもできるけど」

「出たはいいんですが、行く所がないです」

「友達や知人の家は?」

「家出と知ったら家に連絡されると思います。そもそも俺なんて泊めないです」

「そっか。じゃあ住む所を探さないとね。家を借りるとなると君の歳だと保護者が必要になると思うけど……君は何歳?」

「十六です」

 友達や知人が泊めない理由も訊かない。必要な最低限の質問しかしない。何も話さなくて良いことに少年は安堵するが、こんなに何も訊いてこない者は初めてだった。

「十六だと働くこともできるけど、やっぱり保護者の問題があるね」

「住所とか知られるのは避けたいです」

「うん。そうだよね。家出なのに家はバレたくないよね。何も考えずに家を出ちゃったんだね」

「空き家とか公園とか……考えてたんですけど」

「成程。でも何日もってなると難しいね」

「ここに来て思ったんですが、ここに家出ってできませんか?」

「え?」

「テレポートみたいに一瞬で来ましたが、ここは見たことのない場所ですし、絶対家の近くじゃないことはわかります。どの建物も電気が消えてて、誰もいなさそうですし」

「ああ……そっか。そうなるか……」

 確かにこの街には、この店の中以外には誰もいない。何処も空き家だ。少年の言う通り、家出には打って付けだ。だが獏に与えられた牢屋であるこの街に住まわせるわけにはいかない。

「ここには住めないよ。考える間留まることはできるけど、普通の人間はね……」

「何でですか?」

 いつも理由を訊かれることを嫌だと思っていたのに、自分から訊いてしまった。少年はそのことに気付き、少し俯いた。そんな胸中も知らず獏は気にした風もなくすぐに口を開く。

「ここは君の言う通り、誰もいない。時間も流れない。永遠に時間が止まってる場所なの。睡眠も食事も必要ない。それが飽き飽きするくらいずっと続く。君のいた世界とは切り離されてると考えてくれればいいけど、だから電話も繋がらない」

 少年は携帯端末を取り出して画面を見た。圏外になっている。

「あれ? 端末は持って来たんだね。それで場所を特定されたりしない?」

「!」

 それは考えていなかったのか、少年は慌てて端末の電源を切った。圏外になるこの街の中では特定などされないが、監視されていた場合、この街に来た時点で突然足取りが途絶えたことになる。

「家出をして、何かしたいことはある?」

「したいこと……?」

「ただ生きるためだったらここにいても問題ないだろうけど……あ、ここにいていいってわけじゃないからね? 他に何かやることがあるなら、ちょっと考えないと」

 少年は黙って紅茶を見下ろした。家を出たい気持ちだけで家出をして、その後何をするか考えていなかった。何か考えを出すために紅茶を一口飲んで落ち着こうとする。

「……家から出たいとしか考えてなかったです。どうしても、あそこから離れたかった。何処か見つからない遠くに行きたかった」

「遠く……か。保護してくれる人がいれば一番いいけど。少し外を歩こうか」

「まさか家に……!」

「違うよ。君の家からは離れた所を歩く。僕は願い事がないとここから出してもらえなくてね。こんな誰もいない所じゃなくて人間のいる所を見ないと、いい考えも浮かばないな」

「……閉じ込められてるんですか?」

「そうそう。幽閉されてるの」

 冗談のように笑うので一気に胡散臭くなるが、少年には気にしている余裕はなかった。自由がない、という意味では似ているとだけ思った。

 傍らに立っていた灰色海月は首輪を取り出し、外套の襟の釦を外す獏を見下ろす。

「代価の話もしておこうかな。願い事を叶えた後に貰う代価だよ」

「はい。知ってます」

「代価にも触れた噂を聞いたんだね。話が早くて助かる。君の心の柔らかい所をほんの少し戴くから、そのつもりでね」

「……はい」

 重く冷たい首輪を付けられ、垂れた短い鎖に触れる。相変わらず不快な感触だ。

 白花苧環と浅葱斑を置いて街を出ることになるが、浅葱斑がいればいざと言う時は逃げることができる。白花苧環も両手は無事なので、傘を出すことは可能だ。

 契約の刻印を施すなら黒葉菫ではなく白花苧環に施した方が何かあった時に便利なのだが、それはしない。彼はそれを嫌がるだろう。罪人の獏に監視されるのは。それに獣の力が入った特殊な体になっている彼なら、飲む前に刻印に気付くかもしれない。黒葉菫は気付かなかったようだが、信用されていないと知ったら何と言うだろう。

 少年を促して店の外へ行き、灰色海月が灰色の傘をくるりと回す。次に目を開けた時には薄暗い知らない家の中にいた。

 窓には蔦の葉の影が映り、硝子は割れている。足元には埃が積もり、靴の先を少し動かすだけで床に跡が薄らと付く。

「クラゲさん、ここは?」

「先程空き家と言ってたので、家からは離れた所にある空き家の中です」

 もう随分誰も足を踏み入れてなさそうだ。棚の中身はまだ残っているが、隙間はある。必要な物は疾っくに取り出して、ここにある物はいらない物なのだろう。

「君が望んでた空き家だけど、どう? 電気も水道も使えないけど住めそう?」

 雨風を一時的に凌ぐ程度なら充分だろう。だが長期に渡って住むとなると無理だ。今は誰も来ないが、いつか取り壊される可能性もある。少年は首を振った。

「窓が割れてるってことは、割った人がいるってことだしね。ちょっと危ないね」

「次は公園に行ってみます」

 もう一度くるりと傘を回す。人通りのある舗装された道へ忽然と現れるのは目立ってしまうので、木々の茂る中へ現れる。比較的大きな公園だ。丁度桜の咲く頃で普段より人がいるものの今は朝も早く疎らだ。人々は桜の方に目が向くこともあり、御陰で動物面と首輪を付ける獏は目立たずに済んで安心した。

「あの街にいると季節がわからなくなるけど、春なんだね」

「ピンクの木がたくさんあります」

「あれは桜の木だよ。夢見草(ゆめみぐさ)、なんて異称があるけど、夢のように美しく儚いなんて、美しい夢ばかりだといいのにねぇ……」

 舞う白い花片の中で獏はふふと笑った。

「さて……公園だと屋根がないけど、屋根のある休憩所はあるのかな? 水道はあるけど、どう?」

「…………」

 どうと言われても、休憩所なら人が来る。人に会いたくないのに人の集まる場所で生活はしたくない。公園は思ったよりも見通しが良く、身を隠すには不向きなのかもしれない。どの場所も一時的に留まる程度なら良いと言えるが、長期はやはり無理だ。

「一度家の居心地を知ってしまうと外は難しいよね」

 獏は桜の木々の間を歩き、辺りを見渡す。公園は人々が訪れて憩う場であり、住むようにはできていない。

 獏と灰色海月が歩き出すので、少年も付いて行く。家出とはこんなに難しいものだったのかと焦燥が脳裏を過ぎる。

「っ……!」

 溜息を吐いた口元を前触れ無く後ろから手で押さえられ、少年は目を見開いた。突然のことに頭が真っ白になった。誰かはわからないが、大人の男の力で後方へ引き摺られる。

「――もう、勝手に契約者を連れて行かないでよ」

 先を歩いていた獏は後方の異変に気付き、片足を軸にくるりと踵を返す。地面を蹴り、花片を舞わせ一跳びで距離を詰めた。少年の後ろにいる男の頭に軽捷に手を突いて背後へ下り、脇腹を蹴り飛ばした。それでも口に当てた手が剥がれないので、腕を掴んで捻り上げる。

「ぐっ……!」

「何? 知り合い?」

 少年は獏の背後へ身を隠し、襲ってきた男の顔を確認する。見覚えはなかった。

「……知らない人です」

 少年を一瞥し、獏は逃れようと踠く男の腕を強く捻った。

「君は? この人を知ってる人?」

「何だお前は!? 警護の奴か!?」

「警護? それはしてないかなぁ」

 背後で少年がびくりと硬直した。警護をしないのなら急襲してきた男に突き出されると思ったのだろう。

 警護は頼まれていないが、願い事の契約者を連れて行かれるのは困る。折角の食事の機会を失うことになってしまう。

「だったらその手を離した方がいい。素人が首を突っ込むもんじゃねぇ」

「へぇ。君は何の玄人なの? 教えてくれたら離してあげる」

 細腕一つで男の動きを止める獏も只の素人ではない。男は今にも折れそうに軋む腕を早く離してほしい気持ちが勝ってしまった。

「……そいつは最近絡んでくる組の一人息子だ。何が目的か知らないがわざわざ人の島に来て、こっちは手間が省けるけどな」

「ふぅん……悪いけど、僕の方が終わるまで大人しくしててくれるかな」

「ぐっ……あ!」

 鈍い音が鳴り、男はその場に崩れた。どれだけ屈強でも、腕が折れれば痛い。痛覚があるのだから当然だ。痛覚は脳に与える危険信号だ。獏を危険なものとして恐れ、近寄らなくなれば良い。黒い動物面の下で無感動な金色の瞳を男に向ける。獲物の横取りは許さない。

「さ、次に行こうか」

 ぱっと微笑んで振り向いた獏に少年は体が跳ねてしまったが、腕を押さえて丸まる男を見下ろし、逆らわない方が良いと結論を出した。助けてくれたことはありがたいことだったが、腕を折ったことには恐怖が勝ってしまった。

「怖がらせちゃったかな? ごめんね。――っと」

 優しい声の後に、獏は少年を突き飛ばしながら姿勢を低くした。同時にガンと金属が擦れる音が響く。獏の頭はがくんと揺さぶられ、倒れないように靴底を地面に押し付けた。

「僕が避けたら誰かに当たるでしょ」

 厚い金属の首輪に銃弾を当てて弾いた獏は、弾が飛んで来た方向へ跳ぶように駆ける。もう一発発砲され、地面を蹴って幹を踏み、銃を構える男の頭部を蹴り付けた。着地からすぐに体勢を整え、足を上げ手から銃を弾く。

 足を下ろしながら人差し指と親指で輪を作り周囲へぐるりと手を回すと、まだもう一人隠れていた。落ちた銃を蹴り、また跳んで姿勢を低くして隠れていた男の銃も蹴り飛ばした。

 その足で少年の許へ戻り、三人の男をもう一度見回す。

「クラゲさん、公園から離脱する」

「はい」

 灰色海月は急いで灰色の傘を開いた。

「今度僕の邪魔をしたら、殺すよ」

 くるりと傘が回されると三人の姿は忽然と消え失せ、男達は何が起こったのか理解できず目を見張るしかできなかった。まるで桜のように夢を見ているようだった。ただ最後に呟かれた言葉は、脳に深く貼り付いて消えなかった。

 三人が次に現れたのは、寂れたビルの屋上だった。

「地上は安全かわからないので、上に移動してみました。次の場所が決まったら言ってください」

「いい判断だよ、クラゲさん」

 地上からは見えないように柵からは離れ、嘗ては何か花でも植えていたのだろう今は何もない花壇の縁へ腰掛ける。

「大体状況は掴めたけど、島だとか面倒臭いねぇ」

「…………」

 少年は俯き、獏とは目を合わせない。少年が隠したかったのはこのことだろう。一般人から歓迎されない組織のボスの一人息子である少年は、その組織の(しがらみ)から逃げたかった。だが逃げた所で、他の組織に狙われてしまう。一人で逃げて隠れ続けるのは不可能だ。

「敵の島の範囲ってわかる?」

「……わからないです」

「さっきの男の言い訳を信じるなら、積極的に仕掛けてるのは君の組織の方だよね。だったら君の組織が引けばいいと思うけど。君の組織ってどうなってるの?」

「…………」

 言いたくないことだとは獏もわかっている。最初に言おうとしなかったのだ、こんなことになっても言いたくはないのだろう。友達や知人が家に泊めないと言った理由もこの所為だろう。

「言いたくないみたいだから無理には訊かないけど、一つだけ訊いてもいい?」

「…………」

「現ボスがいなくなったら、次のボスは君なの? 君がボスになったら、逃げなくても組織を解散するなり何なりできそうだけど」

 少年は暫く口を噤んでいたが、やがて疲れたように獏からは少し離れて花壇の縁に座った。

「……俺がボスになっても、周りの大人が実権を握ると思う。親父のやることに反対してる人なんていないから……」

「縁を切ったとしても、周りの人は目に見えない縁なんて見ないからね。血の繋がりは一生付き纏う。人間が見るのは、夢と都合だけ」

「逃げられない……ってことですか」

「力の無い人間は、逃げることも難しい。だから誰かに頼ればいい。僕に頼った君は正しいよ」

 少年は、何を考えているのかわからない獏の黒い動物面を見た。口元だけは露わになっているので、微笑んでいることはわかる。そんな優しい声で言葉を掛けてくれる人は初めてだった。年端も行かない頃から周囲の人間は少年と距離を取り、皆恐れて近付こうとしなかった。触れてはいけない腫れ物のように扱われてきた。地元では有名で、高校は家から離れた所へ行ったが、同じ中学校出身の知らない生徒に噂を広められ居場所はなくなった。家のことばかりで、彼自身がどんな人間なのかは誰も見てくれなかった。頼るなんて、考えたこともなかった。

 獏へ手紙を出したのは、気紛れのようなものだった。壁に向かって落書きするような感覚でポストに入れただけだった。宛先の住所も自分の住所も書かなかった手紙はきっと廃棄されて終わりだろうと思っていた。誰かに届いたことは最初は不安だったが、灰色の女に導かれて不思議な街へ連れられた時は高揚した。ここには何かがいると、少年のことを知らない真っ新な人がいるんだと思った。それなら何か手を貸してくれるんじゃないかと思った。

「頼れば……逃げられるんですか?」

「色々あると思うけど、君は未成年だし保護してもらえるんじゃないかな。家出の手伝いって願い事だから、それを頼んであげるくらいはしてあげるよ。どのくらい遠くがいいかな……少し不便があってもいいなら、島とか行ってみる?」

「し、島!?」

「あ、ごめん。デリケートな言葉だったね。他に何て言えばいいんだろ……有人島? 水に囲まれた陸地?」

「あ……ああ……そっちの……」

 獏はふふと笑い、屋上から辺りを見渡した。背の高いビルが何本も見える。都会から島へ移住するのは大変だろうが、人口の少ない島へ行けば、少年を知る人間はいないだろう。

「クラゲさん、地図ってある?」

「持って来ます」

 灰色海月はすぐに灰色の傘を回して姿を消す。

 暫し待つと灰色海月は両腕に地球儀を抱えて戻って来た。

「まさか地球儀を持って来るとは思わなかったけど」

 店の古物ではあるが地面に地球儀を置き、くるりと回して日本を正面に向けた。

「どの辺りの有人島がいい? きっと何処も海の幸は美味しいよ」

 そう言われると突然旅行のような気分になってくる。不思議な言葉だ。

「南の方がいいです。寒いのは苦手だし……」

「わかった。じゃあ南の辺りの有人島に連れて行って、クラゲさん」

「はい」

「どの島かここで決めないんですか?」

「地図を見てもどんな人がいる島かわからないでしょ? クラゲさんに適当に探ってもらって、良い感じの所に行く。後は任せて。食べたい魚でも考えて待っててよ」

 笑いながら適当なことを言うので少年は心配になるが、そんなことは余所に傘は回される。

 瞬きの一瞬で現れたそこは、小さな島だった。背後に穏やかな海が広がっている。

「君はクラゲさんとここで待ってて。ぐるっと回って良さそうならすぐに契約を結んでくる」

 ととんと跳びながらすぐに建物の陰へ消えて行く獏を堤防から見送りながら、何だか訪問販売にでも行くみたいだと少年は思った。無表情で地球儀を抱える灰色海月を一瞥するが、殆ど喋らないので場の空気が重い。

「……凄く強い人ですね」

 独り言のように呟くと、灰色海月は少年に目を遣りはにかむように地球儀を抱いた。

「はい。強くて優しい人です」

 口元が微笑んでいる。自分のことのように嬉しく思っているようだ。そういう人が近くにいるのは、少年には素直に羨ましかった。

「手紙を出して良かったです」

「そう言われたのは初めてです」

「そうなんですか? こんなに凄い人なのに……」

「御礼を言う人はいます。でも貴方のように言われると、最善だったようで良かったと思います。残念な結果になることもあるので」

「残念……? 願いが叶わなかった……とかですか?」

「願いが叶っても、それが幸せとは限らないんです」

「…………」

 願い事をする他の人間がどんな人間だったのか少年には知る術はない。叶っても不幸になるのなら、何故願うのだろうか。

 背後の海を振り返り、波の打つ音に耳を傾ける。島へ目を向けていても誰も人が通らないが、人はいるのだろうか。眠くなりそうなほど穏やかな海には船が見えるが。

 ぼんやりと海を眺めていると、人間の歩く音ではない間延びした地面を蹴る音が聞こえてきた。

 振り向くと、動物面の獏が跳びながら戻って来た。

「若い人手不足だから簡単に居候の許可が出たよ」

「本当ですか!?」

「うん。君の家のことは伏せておいたよ。保護だとか言えば勘繰りそうだしね。少しは詮索されるかもしれないけど、適当に話を合わせておいて」

「はい。ありがとうございます」

 少年は深く頭を下げた。獏は少し困ったように苦笑する。改まって感謝をされると何と言うか気恥ずかしい。

「それじゃあ、願い事は叶ったってことで、約束の代価だけど」

「はい」

「家族の記憶を食べてあげようか?」

「え……」

 年端も行かない頃から嫌で仕方がなかった家の記憶。いつまでも何処までも引き摺るしかないと思っていた運命を無かったことにできるなら、何も後ろめたいこともなく生きていけるのだろうか。

 一つの提案として口にした獏だったが、すぐに少年の双眸に光が宿ったことに眉を寄せてしまった。記憶を無くしても、事実が無くなるわけではない。少年が記憶を無くしたことで、忘れてしまった家族を自ら探してしまうかもしれない。

 人差し指と親指で作った輪を少年に向ける。やはりその思考には辿り着いていない。少年の心はあまりに純粋だった。

「記憶を……家族の記憶を食べてください」

「本当にそれでいいの?」

「はい」

 少年の顔には初めて笑みが浮かんだ。家族の記憶がある内はその笑顔は封じられてしまうのかもしれない。ならばその先に何があろうと、記憶を無くすことが今の少年にとっては幸せなことなのだろう。それを否定することはしない。

「わかった。少しじっとしててね」

 少年の双眸を手で覆い、獏は動物面を外した。その表情が微かに曇っていることに灰色海月は気付いた。だが何も言わなかった。

 今までの家の記憶を全てなので、いつもより長く口付けた。その間少年は固まったまま動かなかった。

 食事を終えた獏は口を離して小さく咳込む。烙印が僅かにピリリと痛む。面を被って少年から手を離し、背を向けてもう一度咳をした。

 いつもより長かった所為だろうかと、灰色海月は慌てて獏の背を摩った。

「大丈夫ですか?」

「悪夢が……少し口に入った……」

「! 烙印は痛みますか?」

「少し……。でも大丈夫、ちゃんと消化できてる悪夢だから……少し残ってたのが入ったみたい……けほっ」

「悪夢を食べると咳が出るんですか?」

「そういうわけじゃないけど……急に口に入るとね……。餅が喉に詰まる感じ」

「それは大丈夫ではないです」

 灰色海月は慌てて獏の背中を叩いた。詰まった物を吐き出さなければならない。

「いたっ、く、クラゲさん? 表現が悪かったかな? 固形物が詰まったわけじゃないから、だっ、たっ、大丈夫だよ」

「そうなんですか?」

 思い切り叩かれてしまった背中を摩りながら、獏は少年に向き直った。背中がじんじんと痛むが、灰色海月に悪気はない。

「気分はどう?」

 と訊いても、家の記憶を食べられたことは覚えていてもどんな家だったのかは全く覚えていない。何故食べられたのかも理解はしていないだろう。ただ獏に何らかの願い事をし、代価として記憶を食べられ、今から新しい生活を始める、ということだけ覚えている。

「わからないです……すっきりしたような気分ですが……穴が空いてしまった所は、何があったのかわからなくて少しモヤモヤします」

「慣れるしかないね」

 食べた記憶を美味だと感じたということは、負の感情が強かったのだ。それを除けたのだから、表面上は幸せなのだろう。

「それじゃあ、君の新しい家に案内するね」

「はい」

 誰もいない坂を上がり、少年は新しい生活の拠点に向かった。少年の新しい居場所は老夫婦の家で、二人は温かく少年を迎え入れた。突然マレーバクの面に首輪を付けた妖しげな人物が訪ねて警戒されなかったのかと疑問は残るが、少年は獏に頭を下げて笑顔を向けた。

 ドアが閉められると、獏はすぐに興味を無くしたように踵を返す。

「今回の代価は働きに見合った美味しい食事だったな。いつもこの程度だったら豪勢でいいのに」

 誰もいないことを確認し、灰色海月は灰色の傘をくるりと回す。今日はよく移動して疲れた。だがその分良い食事ができて満足そうな獏を見ると、疲れも気にならない。

 石畳の地面に戻り、誰もいない街を見渡して店の中に入る。留守の間も何も異常はなかったようだ。

 灰色海月は地球儀を置き、また何か作るのか台所へ入る。獏は二階へ確認に行った。

 短い廊下の奥の物置部屋のドアは開け放たれたまま、中には誰もいなかった。浅葱斑が物色しているはずだったが、疲れて休んでいるのかと閉まっている部屋のドアを見る。そちらはそっとしておいて、今は白花苧環に譲っているが獏の部屋であるもう一つのドアを開いた。

「……あれ?」

 ベッドの上に座り顔を上げた白花苧環と目が合う。その前に浅葱斑が椅子に座って背を丸めていた。

「アサギさんもここにいたんだね」

「あ、獏! ……あれ?」

 振り向いた浅葱斑も獏と同じように疑問の声を上げた。

「海の匂いがする。海に行って来たんですか?」

「そんなにわかる? でも硝煙の臭いじゃなくて良かった」

 腕を上げて鼻を寄せるが、面の鼻が当たるだけで匂いはわからなかった。

「硝煙とは、また死人を出したんですか?」

 白い眉を寄せるので、獏は慌てて首を振って弁解する。今回は誰も殺していない。腕は折ったが。

「銃を撃つ人間がいただけで、殺してないよ。僕もクラゲさんも無傷だし」

「善行って、おっかないんだな……。もっと平和的なものかと思ってました」

 浅葱斑は身震いする。それは獏も思っている。ただ願いを叶えるだけで何故撃たれなければならないのかと。

「チェックメイトです」

「あー! ボクが見てない間にズルした!?」

「しないですよ」

 白が不正をするはずがない。獏も見ていたが、白花苧環はただ自分の番に自分の駒を動かしただけだ。

「アサギさんがチェスを教えたの?」

「そうですよ。様子見に来たらチェス盤があったので。でも最初から知ってたんじゃないですか? 苧環、強いです」

「へえ。アサギさんはマキさんが怖くなくなったんだね」

「まだちょっと怖いですけど、両脚がまだ痛いみたいなので、だったら逃げられる気がして」

 笑いながら白花苧環を見ると、彼は笑っていなかった。何が面白いのかと首を傾ぐ。

「この距離なら然程動かず首を絞めることくらいできますが」

「あ……あわ……」

「脅かしちゃ駄目だよマキさん」

 浅葱斑は音を立てないように椅子を引き、ゆっくりと獏の後ろに隠れた。完全に目が怯えている。折角花に近寄ってきた蝶を何故怖がらせるのか。わざと距離を取らせているようにも見える。

 獏は二人が仲良く興じていたチェスを見下ろす。白花苧環が先手の白を打っていたようだ。

「黒はもう少し動けたかな。これだけ見ると力の差は多少あるけど、僕には及ばないかな。スミレさんならいい勝負してくれると思うよ」

「は? 慣れれば貴方くらい負かしますよ」

「へえ。それは楽しみだ」

 悪に対して短絡的に力を振るうので、もっと考えずに駒を動かすかと思えば、終盤は少し見たがきちんと考えて打っていた。行動は早いが、状況判断は別段の悪手ではないことはわかっている。きちんと立ち止まって考えると強いのかもしれない。良い暇潰しの遊び相手ができたのではないかと、獏は不敵に笑った。黒葉菫もなかなか良い手を打つが、彼は攻められると守りに入るのが早い。やや臆するのが欠点だ。慎重なのは良いことではあるが。白花苧環はおそらく、守るより攻めの威勢が良い。

「暇だし今から少しやってみる?」

「望む所です。這い蹲らせてあげます」

「チェスで這い蹲る状況って何?」

 駒を盤上から下ろし、黒白の駒を綺麗に並べ直す。こんな奴だが、相手がいることは良いものだと思った。


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