92 これからも。
「はあ、はあ、はあ……。」
苦しくても足を止めるわけにはいかない。すでに約束の時間を過ぎてしまっているのだから。
(猫……、待っててくれよ!)
目指すはあの古びたバッティングセンター。俺が彼女を好きだと覚悟を決めて呼び出した場所。初めて二人で遊んだ場所。
(やっぱり自転車で来ればよかったかな……。)
もうダッシュは無理だ。息が乱れている分、普段のランニングよりも遅いかも知れない。でも、歩いて――というよりも走ってるけど――行くことに意味がある。俺の単なる賭けだけど。
(遅刻なんかするはずなかったのに……。)
部活が終わって家に着いたのは1時前だった。そのときには、待ち合わせは横崎ではなくバッティングセンターだと気付いていた。
そこまでならすぐに行ける……と思ったのが間違いだった。
バッティングセンターは、俺の家から中学を越えた反対側にある。でも中学の学区内だ。いつも自転車で移動している俺は、それが実際にはどのくらいの距離なのか考えたことがなかった。
さらに、服を選ぶのに時間がかかった。
一番ましな服は先週のデートで着てしまった。あとの服はみんななんとなくヨレヨレしていて、あらたまって仲直りしたいときに着ていくにはイマイチに思えた。ようやく多少新しめの黒いポロシャツとジーンズを身に付けたときは、家を出る予定の時間を過ぎていた。
中学校の手前で時計を見て驚いた。そこまでも少し走り気味で来たけれど、まだ目的地までの半分を過ぎた程度で、すでに3時5分前だった。そこから慌ててダッシュした。
部活から帰ってシャワーを浴びて、せっかく爽やかに彼女に会えると思っていたのに、もう汗だく。急いで出てきたからタオルも持っていない。こんな状態では彼女と仲直りできても、近くに寄れないかも知れない。
(いや、それよりも!)
遅刻した俺を待っててくれるのか?
時計を見る余裕も無くバッティングセンターを目指した。ようやくたどり着き、駐車場の上に掲げられた時計は――3時12分。
(猫は!?)
きょろきょろと見回す。すると――。
(猫!)
笑顔で手を振った彼女が走って来た!
(会えた。待っててくれた。)
嬉しくて声をあげて笑いたい。でも、息が切れているし、足が疲れたしで動けない。汗がどっと吹き出してくる。両膝に手を当てて屈み、はあはあと息を切らしていると、目の前で彼女が立ち止まった。
「大丈夫……?」
(ああ、猫の声だ……。)
体中に喜びが広がる。起き上がってなんとかうなずくと、彼女がにっこりと微笑んだ。その笑顔を見たら、何もかもが達成できたような気がした。走って来た甲斐があったと思いながら、深呼吸をする。
「まずは休んだ方がいいね。あっちのベンチで。」
あ……と思ったときには、彼女が俺の背中を押していた。
「あの、俺、汗だくだから、あんまりきれいじゃ――」
「いいの、そんなことは。ほら、歩いて。」
本当はものすごく嬉しい。彼女の小さな手がくすぐったいし。それに、彼女のこんな強引さは、あの雷雨の日を思い出させてくれる。
とりあえずポロシャツで顔の汗をぬぐいながら、駐輪場脇のベンチへ移動。俺が座ると、彼女はちょこちょこと自販機に向かい、スポーツドリンクを買って来てくれた。礼を言って受け取ると、彼女は隣に座り、俺がそれを飲みながら落ち着くのを微笑みを浮かべて見ていた。そんな彼女の行為の一つ一つが嬉しくて愛しい。
「遅くなってごめん。」
一息ついて落ち着いた俺の言葉に、彼女は首を横に振った。
「このくらい全然何でもないよ。あたしの方が、もっとたくさん謝らなくちゃならないの。」
そう言って、彼女は半分俺に体を向けて背筋を伸ばした。
「佐矢原くん、本当にごめんなさい。あたし、佐矢原くんの気持ちをちっとも考えてなかった。それに、ちゃんと事情を聞くこともしないで、偉そうなこと言っちゃって。」
彼女は悲しそうに自分の膝に視線を落とし、それからそっと上目づかいに俺を見た。
「許してくれる?」
可愛らしさに思わず笑ってしまった。
「当たり前だろ?」
気付いたら、右手が彼女の頬に触れていた。
「俺が文句言うためにここに来たと思ってるのか? あんなに走って?」
「それは……そうだけど……。」
まだ彼女に笑顔が戻らない。
頬に触れた右手で彼女を引き寄せてキスしたら? ……なんて一瞬、思ったものの、俺にはこんな場所では無理だ。仕方なく、そっと彼女の頬をつねって手を離した。
「マネージャーのこと、ありがとう。猫が行ってくれなかったら、まだ解決してなかったと思う。」
彼女の表情がふっと緩んだ。
「俺、本当は猫に愚痴って慰めてもらいたかったんだ。だけど、かっこつけて猫を守ってるつもりになってた。考えてみたら、同い年なんだし、猫の方がしっかりしてるところもあるんだから、相談したって良かったんだよな。」
「うん。そうしてほしいな、これからは。」
ようやく彼女がふわりと笑った。そして――。
(おおっ!?)
ベンチに手を突きながら、肩と腕が触れるくらい近くまで移動してきた。
「これで仲直りだね。」
俺の肩のすぐ横で彼女がにっこりと微笑む。
(うっ……。)
予想以上の彼女の行動に、心臓が怪しく騒ぎ出す。
「え、ええと、俺、汗臭いかも。」
照れ隠しで、心とは反対の言葉が出てしまう。
「そんなことないよ。あったかい。」
「そう、か。」
どうしたらいいか分からない。離れるのは惜しいし、肩を抱くことまではできない。緊張して固まっていたら、彼女が口を開いた。
「この場所、すぐに分かった?」
「あ、うん、分かったよ。」
話し出したら少し落ち着いた。彼女と触れている腕がじんじんする。
「ああ、いや、最初は間違えそうになった。横崎のどこかだと思って。だけど、すぐに思い出したから。」
「良かった、覚えててくれて。」
彼女が静かに微笑む。
「もしも間違えて横崎に行っちゃったらどうしようって思ってた。あんな謎かけみたいなことをして馬鹿だったなあって、すごく反省した。思い付いたときは、自分ではちょっとした賭けみたいなつもりだったんだよね……。」
(賭け……。)
俺も同じことをした。
「なあ、猫?」
「ん、なあに?」
(ああ、これだよ……。)
彼女の「なあに?」を聞いたら、仲直りをした実感がしみじみとわいてきた。でも、今、聞きたいのはこれじゃない。
「ここまでどうやって来た?」
彼女は少し驚いたように俺を見上げてまばたきをした。そして、恥ずかしそうに、でも、嬉しそうにうつむいて答えた。
「……歩いて。」
「やった!」
思わず両手をぐっと握りしめた。
(賭けに勝った!)
彼女は覚えていてくれたのだ。あの夜、俺が言ったことを。
――「自転車がなければいいなって思ってる」
二人の距離が近くなるように。もっと近くに行きたい。そう思って伝えた気持ち。それを彼女は覚えていて、ちゃんと応えてくれたのだ。
(俺ってホント、幸せ者だ……。)
俺の気持ちを考えてくれないと、恨んだりもした。でも、それはマネージャーたちに対する彼女のやさしい気持ちから出たことで、俺に対して悪意があったわけじゃない。それに、ちゃんと俺に謝ってくれた。
(そして。)
彼女は俺を想ってくれている。間違いなく。
「猫。」
「ん? なあに?」
そっと呼ぶと、彼女が無邪気に顔を上げた。その穏やかな微笑みにハッとした。
(今ならもしかして……。)
ここは建物の陰。目の前は自転車置き場。人の気配は無い。
(さっきは無理だと思ったけど、やっぱり……。)
緊張が一気に高まる。俺を見つめる瞳。やさしく微笑む唇。
(行ける気がする!)
「何だよ、座ってるだけじゃないか。」
(うわあああああ!?)
聞こえた男の人の声に、一瞬、腰が浮いた。
驚いたまま声の方を見ると、自転車置き場の向こうに野球のユニフォームを着たおじさんがいた。その後ろから同じユニフォームを着た子どもたちがこちらをのぞいている。
「いやあ、悪いね。この子たちが自転車を取りに行きにくいって言うから一緒に来たんだけど。あはははは!」
おじさんはそう言って、子どもたちに「ほら、早く出せ」と言っている。俺たちに遠慮した小学生が自転車を出せなくて困っていたらしい。
「あ、いえ、全然オーケーっすよ。どうぞどうぞ。」
そう言いながら、おじさんの顔にふと見覚えがある気がした。急かされて自転車置き場に散った小学生のユニフォームにも……。
「あ! 池田コーチ!」
思わず立ち上がった。
「お久しぶりっす!」
あいさつされた池田コーチは、「ん?」と言いながら俺を見た。子どもたちも手を止めた。
「あ、俺、直樹っす! 佐矢原直樹。覚えてませんか?」
そう。俺が入っていた少年野球チームのコーチの一人だ。
「おお! 直樹か? 覚えてるよ、佐矢原兄弟の!」
「はいっ。」
「でっかくなったなあ。今、何年だ?」
「高2っす。」
ゆったりした足取りで池田コーチが近付いてきて、笑顔で俺の肩や腕を確かめるように叩いた。
「まだ野球やってんのか?」
「はい、里原高校で。一応、キャプテンやらせてもらってます。」
「そうかー。続けてるのかー。」
池田コーチが嬉しそうに目を細めた。喜んでもらえたことが嬉しくなった。
「お前らの先輩だぞ! 高校野球のキャプテンだぞ!」
コーチに教えられて、子どもたちが恥ずかしそうに俺を見る。そこに憧れの気持ちが込められていて、少し照れくさい。
「そうだ。良かったら、ちょっと打ってみせてくれよ。」
池田コーチが言ってからすぐに、隣に立ち上がっていた鈴宮にも「いいかな、ちょっとだけ」と尋ねた。
「はい」と彼女は笑顔で答え、池田コーチは子どもたちに「お前たちの先輩が、現役高校生のバッティングを見せてくれるぞ〜」と呼びかけた。
「先輩?」
「先輩だって。」
「でけー。」
「高校?」
小学生のささやきが聞こえて、また照れくさい。池田コーチと話しながらボックスに向かうと、「130キロくらい行けるんじゃないのか?」とからかわれた。笑って「いや、無理っすよ」と返し、球速110キロを選んだ。一応、小学生には厳しいであろう速さを選んだのは、現役高校生としてのプライドだ。
「準備運動してないんで。」
へらへらと笑って言いながら、打てなかった場合の保険もかけておく。でも、打席に入りながら、実はものすごく気合が入っている。子どもたちにも彼女にも格好良いところを見せたい!
(よし。)
カキン! と気持ちの良い音と感触がして、一球目が勢いよく飛んでいった。
「おお。」
「すげえ。」
「かっけー。」
子どもたちの感心している声が聞こえる。ちらりと振り返ると、ネットの裏で鈴宮が笑顔で手を叩いていた。
(よっしゃ!)
それからも順調に俺は球を打ち返した。午前中の不振がウソのようだ。次第に子どもたちの歓声が大きくなり、とても気分が良かった。
最後の一球が終わって打席から出るときに、子どもたちの興奮した声が聞こえた。
「俺も高校生になったら、彼女つくって、バッティングセンターでデートする!」
「俺も俺も〜!」
「俺も〜!」
(見てたのはそっちかよ!)
思わずコーチと顔を見合わせて笑ってしまった。
「お前らなあ、野球より、彼女をつくる方が難しいんだぞ!」
池田コーチが笑いながら、子どもたちの頭を順番になでる。
(そうだぞ!)
俺も心の中で言った。
(自分が好きになるだけじゃなくて、相手にも好きになってもらわなくちゃダメなんだから。)
もう一度鈴宮を見ると、気付いた彼女も俺を見た。そして、楽しそうにくすくす笑った。
(それに、自分が好かれているかどうか、簡単には分からないんだから。)
そう。俺の猫みたいな女の子が相手だと余計に。
(でも。)
今は彼女の気持ちは分かっている。だから。
帰り道が楽しみだ!
------ おしまい。
あとがきです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ちゃんと終わらせることができて、ほっとしています。
気持ち良く読み終わっていただけていたら嬉しいです。
この作品は、わたしの二作目『ぴいちゃん日記』の一場面から生まれたおはなしです。
あの中で、主人公・藤野くんが、喧嘩をしたために電話に出てくれないぴいちゃんに「家が近ければ、自転車を飛ばして会いに行けるのに」と思いをはせる場面があります。そこが昔から気に入っていて、夜に自転車で会いに行く男の子を書きたくなりました。そこから、このおはなしでは電話やメールではなく、「直接会う」「触れる」ということをテーマにしようと決めました。
すると、自然に、藤野くんよりも少し行動的な直樹のキャラクターが出来上がり、それに合わせて少しぼんやりした由良のキャラクターが出来上がり、書きたい場面がさらにあらわれて……と、世界が広がって行きました。でも、ちょっとセクハラっぽい場面もあったかも、とも思っています。みなさんは真似しないでくださいね!
書きたい場面は浮かんでくるものの、そこに至るにはストーリーが必要で、まとまった文章を書くにはまとまった時間も必要で……。思い付いたメモばかりが貯まる日々が多く、章ごとに中断という形をとりながら、ようやく完結させることができました。
連載開始からの期間がこれほど長くなったのは初めてです。当初からお付き合いいただいた方には、重ねてお礼を申し上げます。長い間、ありがとうございました。
今回も、読みに来てくださるみなさまに励まされて、無事に書き上げることができました。
膨大な数の作品の中から「これを読もう」と思っていただけたことが、とても嬉しいです。
本当に、本当に、ありがとうございます。
次は、『 Love letters 』に新しいおはなしを追加したいと思っています。
くすっと笑えて、ほっとするようなおはなしにしたいです。まだ少し先になりそうですが。
またご縁がありましたらお会いしましょう。
最後になりましたが、みなさまにも、楽しく、HAPPYなことが、たくさんありますように!
虹色