2.小さな作業場
工場へ戻ると、油と鉄の匂いが二人を迎えた。
使われなくなった整備区画を仕切った、小さな作業場だった。
壁いっぱいの部品棚。
傷だらけの作業台。
天井から吊った照明の傘は傾いていて、その下だけが、周囲の薄闇から切り抜かれたように明るかった。
「遅かったな」
奥に座っていた老人が顔を上げた。
白い眉の下から、二人の荷物を見る。
レオとガイに修理を教えた師匠だった。指の関節は節くれ立ち、細かな作業は以前ほどできなくなっていたが、工具の音がおかしければ誰より先に気づく。
「診療所に寄ってた」
ガイが籠を背中から下ろした。
「今日は結構拾えたぜ」
「落とすなよ」
「分かってるって」
ガイは籠の底を支え、静かに床へ置いた。
レオは荷物を広げ、電気スタンドを引き寄せる。
ガイは電気ポットを抱え、隣へ座った。
会話が途切れ、工具の音が始まった。
レオは折れた支柱を外し、切れた配線を引き抜いた。
部品棚を一度見て、金属管を一本取る。
切り詰めて合わせると、継ぎ目はほとんど隙間なく収まった。
「よく一発で選べるな」
ガイが言った。
「見りゃ分かるだろ」
「分かんねえから聞いてんだよ」
レオは棚から少し細い管を取り出し、残しておいた切れ端と並べた。
「そっちじゃ細い。締めてもぐらつく」
ガイは二本を見比べ、指で太さを確かめた。
「……ああ、なるほどな」
納得すると、それ以上は聞かなかった。
自分のポットへ向き直り、配線の通り道を確かめる。
大きな身体を丸め、小さなねじを慎重につまんでいた。
「ここ、締めすぎんなよ」
「分かってる」
「お前の分かってるは信用できねえ」
「ひでえな。今日はまだ何も折ってねえぞ」
「今日は、な」
「ミアみてえなこと言うなよ」
老人が笑った。
レオはスタンドのスイッチを入れた。
白い光が作業台に広がる。
ねじも、工具も、ガイの指についた黒い油も、急にはっきりと見えた。
支柱を動かし、明かりが消えないことを確かめる。
ガイのポットからも、やがて湯気が立ち始めた。
「よし。こっちもいけた」
「止まるとこまで見ろよ」
「見てるって」
湯が沸き、電源が切れた。
ガイは水漏れがないか底を確かめてから、満足そうに頷いた。
そのあとは携帯灯。
小型の送風機。
接触の悪くなったスイッチ。
使えないものは分解され、ねじ一本まで引き出しに戻された。
作業台に広がっていたゴミが、少しずつ道具の形を取り戻していく。
「もう二人とも、一人前だな」
老人がぽつりと言った。
ガイが真っ先に顔を上げた。
「聞いたか、レオ」
「聞こえてる」
「やっとお墨つきだ。これで少しは稼ぎが増えるか?」
「売り上げが増えたらな」
「よし、レオ。倍直すぞ」
「お前が倍売ってこい」
「任せろ。口なら動く」
「手も動かせ」
老人は声を立てて笑った。
レオは工具を布で拭いた。
「……こんだけ長くやってりゃ、できるようになるだろ」
「続けりゃ誰でもできるわけじゃない」
老人が言った。
「レオは、どこを直せば動くか、よう分かっとる。ガイは、教えた手順をおろそかにせん。もう安心して任せられる」
ガイの笑みが、少し照れくさそうなものに変わった。
「何だよ。今日はやけに褒めるな」
「たまにはな」
レオは何も言わなかった。
拭いた工具を揃えて置き、犬のおもちゃを引き寄せた。
隣でガイも、例のモーターを取り出す。
「これが動きゃ、ミアも少しは楽になるな」
「貸せ。先に見てやる」
レオは端子を磨き、動作確認用の電源につないだ。
モーターが震え、軸が回り始めた。
「おお!」
「声でけえ」
「回っただろ!」
「見えてる」
ガイは嬉しそうに枠を引き寄せた。
レオはモーターを渡し、おもちゃの修理へ戻った。
外れた線をつなぎ、歯車を交換する。
脚の泥を落とし、動きを確かめた。
欠けた耳に触れて、手を止める。
端材の引き出しを開けると、似た色の欠片があった。
「耳も直すのか」
ガイが言った。
「尖ってる」
「そうだな」
それだけ言って、ガイは枠へ穴を開け始めた。
しばらくして、作業台の上を犬が歩いた。
かた、かた、かた。
小さな足音が、工具の音に交じる。
レオは進む先に手を置き、犬を受け止めた。
もう一度、向きを変えて歩かせる。
今度はガイが、その先へ手を出した。
「結構、歩くじゃねえか」
「当たり前だろ」
「明日、喜ぶぞ」
レオは犬のスイッチを切った。
「……だといいけどな」
小さな声は、換気扇の枠を動かす音に紛れた。
ガイは聞き返さなかった。
******
通路の照明が、夜間用の光へ切り替わった。
家々の輪郭が闇へ沈み、戸口の灯りだけが残る。
工場の外では、仕事を終えた人々が行き交っていた。
器の触れ合う音。
煮炊きする匂い。
子供を家へ呼ぶ声。
「腹減ったな」
ガイが肩を回した。
「これ終わったら飯にしようぜ」
換気扇は、あと覆いをつければ完成だった。
レオは犬をきれいな布の上へ置き、工具を取った。
そのとき、通路の拡声器が鳴った。
短い電子音。
ガイの手が止まる。
老人が顔を上げた。
『下層区域の住民に通達します』
雑音に混じって、平坦な声が響いた。
『上層排水路の流量増加を確認。大規模排水に備え、低所から退避してください』
外の話し声が途切れた。
レオは入口を見た。
露店の主人が、器を持ったまま立っている。
子供を連れた女が、その手を強く握り直した。
壁際に座っていた男が、舌打ちして立ち上がる。
少し遅れて、荷物を引きずる音がした。
上から水が来る。
どこに、それほどの水があるのか。
なぜ、ときおり一度に流れてくるのか。
レオは知らなかった。
搬送管の先も、天井の向こうも、見たことはない。
知っているのは、流れてくる水が黒く濁っていること。
ゴミも、家具も、人間も、同じように押し流すこと。
そして、飲み込まれた者が戻ってくるとは限らないことだった。
掌に、工具の角が食い込んだ。
耳の奥で、記憶の中の水音が膨らむ。
暗い水面。
伸ばした腕。
母の指が、自分の手から抜けていく。
「レオ」
低い声がした。
ガイがそばに立っていた。
何も聞かず、作業台の上の工具箱を閉じた。
「先に、こいつら上げようぜ」
レオは息を吐いた。
「……ああ」
老人は棚の上を空け始めていた。
ガイが床の部品箱を持ち上げる。
レオも修理したポットへ手を伸ばしかけて、隣の犬を見た。
明日、持ってきてやる。
男の子の、少しだけ緩んだ口元を思い出した。
犬を布で包み、棚の高いところへ置く。
「ガイ」
「分かってる」
ガイは部品箱を下ろした。
「ここ片づけたら、診療所だろ」
レオは頷いた。
外では、いくつもの足音が狭い通路を行き交い始めていた。
頭上の拡声器だけが、変わらない声で退避を繰り返している。
レオは一度、天井を見上げた。
黄ばんだ照明の向こうに、黒い配管が重なっていた。
その奥は、何も見えなかった。




