↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/2

2.小さな作業場

 工場へ戻ると、油と鉄の匂いが二人を迎えた。


 使われなくなった整備区画を仕切った、小さな作業場だった。


 壁いっぱいの部品棚。


 傷だらけの作業台。


 天井から吊った照明の傘は傾いていて、その下だけが、周囲の薄闇から切り抜かれたように明るかった。


「遅かったな」


 奥に座っていた老人が顔を上げた。


 白い眉の下から、二人の荷物を見る。


 レオとガイに修理を教えた師匠だった。指の関節は節くれ立ち、細かな作業は以前ほどできなくなっていたが、工具の音がおかしければ誰より先に気づく。


「診療所に寄ってた」


 ガイが籠を背中から下ろした。


「今日は結構拾えたぜ」


「落とすなよ」


「分かってるって」


 ガイは籠の底を支え、静かに床へ置いた。


 レオは荷物を広げ、電気スタンドを引き寄せる。


 ガイは電気ポットを抱え、隣へ座った。


 会話が途切れ、工具の音が始まった。


 レオは折れた支柱を外し、切れた配線を引き抜いた。


 部品棚を一度見て、金属管を一本取る。


 切り詰めて合わせると、継ぎ目はほとんど隙間なく収まった。


「よく一発で選べるな」


 ガイが言った。


「見りゃ分かるだろ」


「分かんねえから聞いてんだよ」


 レオは棚から少し細い管を取り出し、残しておいた切れ端と並べた。


「そっちじゃ細い。締めてもぐらつく」


 ガイは二本を見比べ、指で太さを確かめた。


「……ああ、なるほどな」


 納得すると、それ以上は聞かなかった。


 自分のポットへ向き直り、配線の通り道を確かめる。


 大きな身体を丸め、小さなねじを慎重につまんでいた。


「ここ、締めすぎんなよ」


「分かってる」


「お前の分かってるは信用できねえ」


「ひでえな。今日はまだ何も折ってねえぞ」


「今日は、な」


「ミアみてえなこと言うなよ」


 老人が笑った。


 レオはスタンドのスイッチを入れた。


 白い光が作業台に広がる。


 ねじも、工具も、ガイの指についた黒い油も、急にはっきりと見えた。


 支柱を動かし、明かりが消えないことを確かめる。


 ガイのポットからも、やがて湯気が立ち始めた。


「よし。こっちもいけた」


「止まるとこまで見ろよ」


「見てるって」


 湯が沸き、電源が切れた。


 ガイは水漏れがないか底を確かめてから、満足そうに頷いた。


 そのあとは携帯灯。


 小型の送風機。


 接触の悪くなったスイッチ。


 使えないものは分解され、ねじ一本まで引き出しに戻された。


 作業台に広がっていたゴミが、少しずつ道具の形を取り戻していく。


「もう二人とも、一人前だな」


 老人がぽつりと言った。


 ガイが真っ先に顔を上げた。


「聞いたか、レオ」


「聞こえてる」


「やっとお墨つきだ。これで少しは稼ぎが増えるか?」


「売り上げが増えたらな」


「よし、レオ。倍直すぞ」


「お前が倍売ってこい」


「任せろ。口なら動く」


「手も動かせ」


 老人は声を立てて笑った。


 レオは工具を布で拭いた。


「……こんだけ長くやってりゃ、できるようになるだろ」


「続けりゃ誰でもできるわけじゃない」


 老人が言った。


「レオは、どこを直せば動くか、よう分かっとる。ガイは、教えた手順をおろそかにせん。もう安心して任せられる」


 ガイの笑みが、少し照れくさそうなものに変わった。


「何だよ。今日はやけに褒めるな」


「たまにはな」


 レオは何も言わなかった。


 拭いた工具を揃えて置き、犬のおもちゃを引き寄せた。


 隣でガイも、例のモーターを取り出す。


「これが動きゃ、ミアも少しは楽になるな」


「貸せ。先に見てやる」


 レオは端子を磨き、動作確認用の電源につないだ。


 モーターが震え、軸が回り始めた。


「おお!」


「声でけえ」


「回っただろ!」


「見えてる」


 ガイは嬉しそうに枠を引き寄せた。


 レオはモーターを渡し、おもちゃの修理へ戻った。


 外れた線をつなぎ、歯車を交換する。


 脚の泥を落とし、動きを確かめた。


 欠けた耳に触れて、手を止める。


 端材の引き出しを開けると、似た色の欠片があった。


「耳も直すのか」


 ガイが言った。


「尖ってる」


「そうだな」


 それだけ言って、ガイは枠へ穴を開け始めた。


 しばらくして、作業台の上を犬が歩いた。


 かた、かた、かた。


 小さな足音が、工具の音に交じる。


 レオは進む先に手を置き、犬を受け止めた。


 もう一度、向きを変えて歩かせる。


 今度はガイが、その先へ手を出した。


「結構、歩くじゃねえか」


「当たり前だろ」


「明日、喜ぶぞ」


 レオは犬のスイッチを切った。


「……だといいけどな」


 小さな声は、換気扇の枠を動かす音に紛れた。


 ガイは聞き返さなかった。


 ******


 通路の照明が、夜間用の光へ切り替わった。


 家々の輪郭が闇へ沈み、戸口の灯りだけが残る。


 工場の外では、仕事を終えた人々が行き交っていた。


 器の触れ合う音。


 煮炊きする匂い。


 子供を家へ呼ぶ声。


「腹減ったな」


 ガイが肩を回した。


「これ終わったら飯にしようぜ」


 換気扇は、あと覆いをつければ完成だった。


 レオは犬をきれいな布の上へ置き、工具を取った。


 そのとき、通路の拡声器が鳴った。


 短い電子音。


 ガイの手が止まる。


 老人が顔を上げた。


『下層区域の住民に通達します』


 雑音に混じって、平坦な声が響いた。


『上層排水路の流量増加を確認。大規模排水に備え、低所から退避してください』


 外の話し声が途切れた。


 レオは入口を見た。


 露店の主人が、器を持ったまま立っている。


 子供を連れた女が、その手を強く握り直した。


 壁際に座っていた男が、舌打ちして立ち上がる。


 少し遅れて、荷物を引きずる音がした。


 上から水が来る。


 どこに、それほどの水があるのか。


 なぜ、ときおり一度に流れてくるのか。


 レオは知らなかった。


 搬送管の先も、天井の向こうも、見たことはない。


 知っているのは、流れてくる水が黒く濁っていること。


 ゴミも、家具も、人間も、同じように押し流すこと。


 そして、飲み込まれた者が戻ってくるとは限らないことだった。


 掌に、工具の角が食い込んだ。


 耳の奥で、記憶の中の水音が膨らむ。


 暗い水面。


 伸ばした腕。


 母の指が、自分の手から抜けていく。


「レオ」


 低い声がした。


 ガイがそばに立っていた。


 何も聞かず、作業台の上の工具箱を閉じた。


「先に、こいつら上げようぜ」


 レオは息を吐いた。


「……ああ」


 老人は棚の上を空け始めていた。


 ガイが床の部品箱を持ち上げる。


 レオも修理したポットへ手を伸ばしかけて、隣の犬を見た。


 明日、持ってきてやる。


 男の子の、少しだけ緩んだ口元を思い出した。


 犬を布で包み、棚の高いところへ置く。


「ガイ」


「分かってる」


 ガイは部品箱を下ろした。


「ここ片づけたら、診療所だろ」


 レオは頷いた。


 外では、いくつもの足音が狭い通路を行き交い始めていた。


 頭上の拡声器だけが、変わらない声で退避を繰り返している。


 レオは一度、天井を見上げた。


 黄ばんだ照明の向こうに、黒い配管が重なっていた。


 その奥は、何も見えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。