1.底街
天井の奥で、重いものが動いた。
鉄と鉄が擦れ合う、腹の底に響く音だった。
レオは手元の基板から顔を上げた。
「ガイ、そこ離れろ」
「あ?」
「落ちてくる」
ガイが脇へ退いた直後、頭上の搬送口が開いた。
黒い穴から、ゴミが一斉に吐き出される。
割れた容器。錆びた鉄板。中身のこぼれた袋。
それらが廃棄物の山へ叩きつけられ、濁った水と埃が跳ね上がった。遅れて落ちてきた金属の筒が、ガイの立っていた場所へ突き刺さる。
「……おいおい。今日はずいぶん気前がいいな」
ガイが太い眉を上げた。
「頭に当たってたら、飯の味も分かんなくなってたな」
「その前に死ぬだろ」
「お前が教えてくれるから大丈夫だって」
「毎回見てると思うなよ」
レオは口元を覆う布を引き上げた。
舞い上がった埃が、頭上の照明を濁らせている。
地下都市の最下層。
底街と呼ばれるこの場所には、光が十分に届かない。
高い天井を太い配管が這い、その隙間に黄ばんだ照明がまばらに灯っていた。何本かは切れたまま、残ったものも、ときおり息切れするように瞬く。
光が触れるのは、積み上がったゴミの頂だけだった。
山と山の間には闇が溜まっている。足元の黒い窪みが、浅い水たまりなのか、踏めば底が抜ける穴なのか、目を凝らしても分からなかった。
レオは靴先で足場を確かめ、次の一歩を置いた。
どこかで水滴が鉄板を叩いている。
湿った空気には、錆と油と、腐ったものの臭いが混じっていた。布で鼻を覆っても、息をするたび、舌の奥にまで臭いがまとわりつく。
「さて、と」
ガイが両手をこすり合わせた。
「今日の飯代、探しますか」
底街には毎日、上層からゴミが流れてくる。
誰かが食べ残したものも、着なくなった服も、動かなくなった機械も。長い搬送管を転がり落ちて、最後にはこの場所へ積み重なる。
レオ・グレン、十七歳。
生まれてからずっと、この薄暗い街で暮らしている。
上から捨てられたものを拾い、壊れていれば直す。直らなければ、使える部品だけを外す。
そうして売った金で食料を買い、次の日もここへ来る。
それが、レオと幼馴染のガイの日常だった。
「レオ、こいつは?」
ガイが白い電気ポットを持ち上げた。
大きな手で泥を払うと、ひびの入った外装が現れた。
レオは受け取り、底を返した。蓋を開け、中の臭いを確かめる。
「持って帰る」
「直りそうか?」
「たぶんな」
「いいねえ。今夜は一品増やせるか?」
「売れてから言え」
「売れるって。湯が沸くんだぞ」
「まだ沸かねえよ」
ガイは笑い、ポットを背負い籠へ収めた。
短い赤茶色の髪に、薄い埃が積もっている。百九十センチ近い大男で、隣にしゃがまれると、それだけで足場が狭くなる。
ガイ・ベルク、十八歳。レオよりひとつ年上の幼馴染だ。
昔から、面倒事に出くわしても、まず冗談が口をつく男だった。
レオは潰れた箱をどけ、その下から電気スタンドを引き抜いた。
支柱は折れていたが、照明部分は割れていない。
袋へ入れようとすると、鋭い金属片が袖に引っかかった。
それを外して顔を上げたとき、隣でガイが別の板に手をかけるのが見えた。
「待て」
レオはガイの腕を押さえた。
板の縁から、錆びた釘の先が突き出していた。
「そっち持つな。刺さる」
「お。助かった」
「手ぇ怪我したら、誰が荷物運ぶんだよ」
「心配するとこ、そこか?」
レオは答えず、釘を工具で倒した。
ガイが笑う気配がしたが、無視した。
しばらくして、廃品の向こうから声が上がった。
「……あった!」
「何が」
「これだよ、これ!」
ガイが割れた機械の外装を抱えて戻ってきた。
その中心に、小さなモーターが残っている。
「ミアに頼まれてた換気扇。これなら使えねえか?」
レオは外装を受け取り、軸を回した。
滑らかに動く。
端子の腐食も浅かった。
「……この型、よく見つけたな」
「前に見せてくれただろ。軸が長くて、ここが四角いやつ」
「そこだけ覚えてたのかよ」
「見つかったんだからいいだろ」
ガイは歯を見せて笑った。
「診療所の奥、ひでえ空気だったからな。これで少しはましになる」
「動くか、まだ分かんねえぞ」
「そこはお前の出番だ」
「簡単に言うな」
「頼りにしてんだよ」
レオはモーターを外し、汚れを拭った。
ほかの廃品とは分けて工具袋へ入れる。
ガイはもう、羽根に使えそうなものを探し始めていた。
レオも屈みかけて、足元に茶色いものを見つけた。
ゴミの隙間から、小さな犬の顔が覗いていた。
引き抜くと、片耳の欠けたおもちゃだった。
腹のスイッチを押しても動かない。
蓋を開けてみる。配線が一本外れ、歯車の歯が欠けていた。
「直りそうか?」
ガイが聞いた。
「ああ」
レオは犬を回収袋へ押し込んだ。
******
廃棄区画を出ると、路地は急に狭くなった。
鉄板を継ぎ足した家々が、互いにもたれかかるように並んでいる。頭上には電線と洗濯物が渡され、もともと乏しい光をさらに遮っていた。
戸口から漏れる灯りを踏むように、二人は進んだ。
壁の下半分には、黒ずんだ汚れが帯になって残っている。
レオの腰より少し高い。
前に水が来たとき、そこまで浸かったのだ。
その上にも、さらに古い跡があった。
ガイが荷物を持ち直した。
「ミアんとこ、寄ってくよな?」
「ああ」
「換気扇の話、しとくか」
「動いてからにしろ。期待させて駄目でしたじゃ、めんどくせえ」
「そりゃそうだな」
角を曲がったところで、女の声が聞こえた。
「先生……! 誰か……!」
診療所の戸口へ、子供を抱えた女が駆け込もうとしていた。
片手で戸を押しているが、下端が床に引っかかり、開ききらない。
ガイは籠を下ろすと、すぐに駆け寄った。
「貸してくれ」
戸を少し持ち上げ、そのまま押し開ける。
「ミア!」
「こっちへ!」
奥から少女が出てきた。
銀灰色の短い髪。淡い緑色の瞳。
くたびれた白衣の袖をまくりながら、ミア・ローレンは寝台を示した。
レオよりひとつ年下の十六歳で、この診療所の助手をしている。
「ゆっくり下ろして。頭は私が支えるから」
男の子は五つか六つほどだった。
細い腕が寝台へ落ちたとき、レオはその手首を見た。
皮膚に、黒い斑点が浮いていた。
《黒斑病》。
母親が震える声で説明している間に、医師が奥から出てきた。
ミアは短く状況を伝え、指示を受けると薬棚へ向かう。
レオは通路の椅子を壁へ寄せた。
診療所には寝台がいくつも並んでいたが、その間を照らす灯りは二つしかなかった。壁際の患者は薄闇に沈み、咳の音で初めてそこにいると分かる。
窓はない。
小さな通気口に吊られた布も、ほとんど揺れていなかった。
薬棚の前で、ミアが瓶を傾けた。
底に残った量を確かめ、唇を結ぶ。
「足りねえのか」
レオが声を落とすと、ミアは振り向いた。
「……今、使う分はある。でも、あの子だけじゃないから」
棚には、空いた場所がいくつもあった。
「補充は」
「まだ返事が来ないの」
ミアが瓶を持ち直すと、まくった袖が肘の上までずれ、腕の内側があらわになった。
肘の近くに、薄墨を落としたような痕が残っていた。
レオは昔から、その痕を知っている。
ミアも幼い頃、黒斑病にかかった。
高熱が続き、もう助からないと言われた。
それでも生き延びた。
医師は奇跡だと言ったが、黒い痕までは消えなかった。
ミアは子供のもとへ戻り、瓶を脇の台に置いた。
そのとき、母親の視線が、袖口から覗く黒い痕に留まった。
「あなたも……?」
「小さい頃に、かかりました」
ミアは隠さず答えた。
「治ったんですか」
「はい」
母親の顔に、すがるような色が浮かんだ。
「じゃあ、この子も……」
ミアはすぐには答えなかった。
寝台の脇へ屈み、男の子の額に触れる。
「助けられるよう、先生と一緒に手を尽くします。私も、この子についています」
母親を見上げる声は、穏やかだった。
「苦しそうになったり、何か変わったりしたら、すぐ教えてください」
レオは壁へ背を預けた。
底街では、人が病気で死ぬことなど珍しくない。
昨日まで物を売っていた店が閉まる。
いつも同じ場所に座っていた人間がいなくなる。
理由を知ったときには、もう寝床まで片づけられていることもあった。
珍しくないからといって、目の前で苦しむ声まで聞き流せるわけではなかった。
「……それ」
小さな声がした。
男の子が、レオの回収袋を見ていた。
犬の頭が覗いている。
「いぬ……?」
レオは袋からおもちゃを出した。
「これか」
男の子が頷く。
「うごく?」
「今は動かねえ」
レオは犬の腹を見た。
外れた線と、欠けた歯車。
どう直すかは、もう分かっていた。
「直したら歩く」
男の子の目が、少し開いた。
「にいちゃん、なおせるの?」
「ああ」
「すごいね」
レオは口を閉じた。
男の子はまた犬を見た。
伸びかけた指が、途中でシーツの上へ戻る。
「……明日」
レオは言った。
「直して持ってきてやる」
男の子が顔を上げた。
「ここに?」
「ほかのどこに持ってくんだよ」
「さわってもいい?」
「お前にやるんだから、好きにしろ」
乾いた唇が、わずかに緩んだ。
「やくそく?」
「……ああ」
レオは犬を袋へ戻した。
母親が礼を言ったが、どう返せばいいか分からず、軽く顎を引くだけにした。
戸口へ向かうと、ミアに呼び止められた。
「レオ、手」
「何だよ」
「切れてる」
見ると、手の甲に細い傷ができていた。
「こんなの放っときゃ――」
「汚れたままにしないで」
静かな声だった。
ミアは洗浄用の道具を持ってきて、椅子を示した。
「はい、そこ座って」
レオはガイを見た。
ガイは真顔で頷いた。
「座っとけ。俺もそれで怒られた」
「お前は毎回だろ」
「だから言ってんだよ」
レオは諦めて腰を下ろした。
ミアは傷を洗い、手早く処置を済ませた。
「道具を使う手なんだから、大事にして」
「分かったよ」
「ガイも」
「俺、今日は何もしてねえぞ?」
「今日は、ね」
ガイが困った顔で笑った。
そのやり取りの間だけ、診療所の張り詰めた空気が少し緩んだ。




