朝チュン
目を瞑ると、白昼夢のようなあの日々が遠く鳴り響く。
『あたし、瀬谷くんのこと大好きだよ?』
思い返せば、ありふれた言葉で僕の心を射止めた彼女夏川 杏南。
大学一年生の猛暑日、蝉せみの大合唱が残響する東京ジャングルの下で、僕たちは付き合い始めた。
バイト帰り、小雨が止むのを待っていたお昼時に、杏南あんながバス停で頬を紅色に染めながら想いを伝えてくれた時のことは、今でも鮮明に覚えている。
『あ...あの!ね?......私と付き合ってくれないかな?』
生まれて初めて誰かに認められた瞬間だった。
今までの人生で、嫌々他人から施されてきた僕にとって、全くもって現実味を帯びない幸福であったことは、言うまでもない。
だが、それが現実だったのだ。その事実がたまらなく嬉しかった。
『瀬谷くんの炒飯おいひぃ!』
変わり映えのない日常と停滞した僕の人生は、杏南あんなの優しさで一変した。
瞳を潤ませ、僕の胸にすり寄ってくる彼女が愛おしくて仕方ない。
『ねえ~!抱っこして?...8時間も会えなくて寂しかったの』
彼女は極度の寂しがり屋で、事あるごとに僕に依存し、頼ってきた。
僕の胸はぐつぐつと沸騰しそうなほど高鳴り、全身に幸せホルモンが循環していく。
『君ってば、本当に優しいね!……私、瀬谷くんがいないと、もうダメかも。ってか他の女の子と浮気したら絶対許さないからね!......本当は女の子の連絡先、全部消してもらいたいくらいなんだよ』
静謐甘美な杏南との何気ない日々は、これからも続くものであるとばかり、僕は妄信もうしんしていた。
幸せはいつも突然、崩れ去る。
今日は珍しく杏南が妹さんと遊びに出かけるとの事で、僕は一人で新宿の街を徘徊していた。
お目当ては杏南が欲しいと言っていたワイヤレスイヤホン。数日後に控えている一周年記念日で、何か渡したいと考えていた僕にとって、今日はまたとない絶好の瞬間だった。
人込みを掻き分け、歩みを進めていくと、街角から聞き慣れた鳴き声がしてくる。
反射的に声の方へ目を向けると、安っぽいピンク色のネオンに照らされ、長身が特徴的な金髪の男に縋りつく杏南の姿があった。
「ねえ~、私の手ぎゅーってして?」
「ったく、しょうがねえなぁ」
「あんっ、わざと胸触ったでしょ~......スケベなんだから」
今まで見たことがないような妖艶な笑みを浮かべ、男の人差し指を舐めている彼女。
僕には決して見せなかった艶めかしい表情。僕が知らない媚びた甘え方。
目の前で何が繰り広げられているのか、全く理解できない。脳は演算を拒否し、心臓は等比級数とうひきゅうすう的に破裂していく。
ぐちゃぐちゃになった頭を律し、目を凝らしてみるが、どこからどう見ても360度夏川杏南そのものだった。よくあるそっくりさんというわけでは断じてない。
「もっと、むぎゅーって...して?」
「やっば!めっちゃガッツクじゃん?そんなに俺のこと好きなのかぁ?」
とろんとした目つきで、人目を気にせず、深い深いキスを交わしている二人。
絡めるように金髪のイケメンに女をさらけ出している杏南の劣情を目の当たりにして、僕は何もできなかった。
勝てない。きっと僕はあの男より彼女に何かを与えられない。本能的にそれが分かっていたからである。
僕の心は、抗いようのない絶望の濁流に吞み込まれ、陰鬱に萎れていく。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。心からの発狂も、声には出せず、街の物陰で様子を窺うだけ。
込み上げてくる吐き気に嗚咽していると、ふいにホテルへ入る直前の杏南と目が合う。
あまりの惨めさに耐えられなくなった僕は、人目も気にせず、全力疾走でその場から離れた。
その刹那、視界が急に狭まり、眼前にスマホのライトが差し込んでくる。
……どうやら失恋の一幕を悪夢として見てしまっていたらしい。
二度損した気分だ。
最悪な寝起きで、不貞腐れながら目を見開くと、時刻は午前3時だった。
眼前には巨大なスピーカーと少し古びたスクリーンが広がっている。
鼻腔を微かに刺激するニコチンの香りとスクリーンから流れてくる知らない歌手の宣伝。
目を覚ますとそこはカラオケだった。全く記憶にないが、新宿で行き場を失った僕の最果ての地がここなのだろう。
散乱した酒を横目に、ふとスマホに目を向けると彼女からの不在着信が60件。ラインやインスタに至っては100件を超えていた。
彼女と一緒に入っているサークルのメンバーからも連絡が来ているので、相当面倒くさいことになっているのは、確実である。
僕がため息を吐くと、頭皮全体に柔らかい感触が広がった。ふと上を見上げると、彼女の妹、夏川 夏目が僕のことを膝枕していたのだった。
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