第58話 次は、困っている場所へ
女は、王宮を、出た。
朝だった。
正面からでは、なかった。
来た時と、同じ、南区の裏手を、抜けていく。
誰も、見送りには、来なかった。
それで、よかった。
見送りが要らないほど、王宮は、回っている。
二季前は、彼女がいなくなった途端に、止まった。
今は、彼女が出ていっても、朝の配膳が、いつも通りに、始まっている。
それが、彼女の、望みだった。
「……次は、どこだ」
カイルが、言った。
二季と、少し前と、同じ問いだった。
「……決めていません」
女は、同じように、答えた。
「……」
「……困っている場所です」
「……」
その一言で、すべてが、繋がる。
いつも、そうだった。
街道の先に、朝の光が、伸びていた。
埃っぽい風が、外套の裾を、揺らす。
どこへ向かうとも、まだ、決まっていない風だった。
ミレイユが、地図を、畳んだ。
「……また、名も無い街ですか」
「……たぶん」
「……維持できません、と、私が言う役目も」
「……変わりません」
ミレイユは、少しだけ、笑った。
エルナが、隣を、歩く。
「……ねえ」
エルナが、言った。
「……今回は、何も、遺さないの?」
「……」
女は、少しだけ、足を、止めた。
「……仕組みは」
静かに、言う。
「……遺しません。……人が、理解しました。……維持できます」
「……いつも通りだ」
カイルが、笑った。
「……ですが」
女は、続けた。
「……一つだけ」
「……え?」
「……遺してきました」
エルナが、目を、丸くした。
「……何を?」
「……」
女は、答えなかった。
ただ、王宮の方角を、一度だけ、振り返った。
朝日の中に、白い塔が、小さく見えた。
その、どこか一室の、机の端に。
動かされないままの、椅子が、あるはずだった。
誰も座らないのに、埃だけは、払われている椅子が。
「……人は、仕組みでは、ありません」
女は、静かに、言った。
「……だから、あれだけは」
一拍。
「……遺しても、いい」
「……」
エルナは、それ以上、聞かなかった。
ただ、少しだけ、笑った。
この人が、何を遺してきたのか。
たぶん、聞かなくても、わかった気がした。
「……また、来る?」
二季と、少し前と、同じ問いだった。
あの時の答えは、「必要なら」だった。
「……ええ」
女は、答えた。
けれど、答えは、少しだけ、変わっていた。
「……必要なら」
一拍。
「……それに」
「……戻る場所が、ありますから」
「……」
エルナが、目を、見開いた。
この人が、そんなことを、言うのを、初めて、聞いた。
「……」
女は、もう、振り返らなかった。
ただ、歩いていく。
止まらずに。
――流れは、続いている。
彼女がいなくても。
そして。
遠くの盤の上では。
退いた駒の、次の駒が、静かに、置かれようとしていた。
命令が、また、絶対になる日を、待っている者たちがいる。
けれど、それは。
まだ、少し、先の話だ。
「……」
朝の光の中を、女は、歩いていく。
次の、困っている場所へ。
止まる前に。
崩れる前に。
第2部、ここで一区切りです。
彼女は、また、遺さずに去ります。仕組みは、遺しません。人が理解すれば、維持できるから。
けれど、今回だけは、一つ、遺してきました。「人は、仕組みではないから」。
「また来る?」――同じ問いへの答えが、少しだけ、変わりました。「必要なら。それに、戻る場所がありますから」。
そして――次の駒が、置かれます。命令が、また絶対になる日を待つ者たちの、最初の一手が。
第3部「命令が、また絶対になる日」へ続きます。




