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第20話 漂う不穏

       -20-


 地域の中でも特に診療科目の多いこの総合病院を訪れる人は多い。


 広いエントランスを進むと、ホテルのフロントと見紛うほど洗練された受付が見える。


 開放的な吹き抜けの空間、待合所には四人掛けの長椅子が何列も並ぶ。


 目的の場所はエントランスの脇にあった。


 病棟から喫茶室へ行くのには自然と衆目の前を通らねばならない。


 浅田さんが置かれる状況を憚り人目を気にするのは当然である。


 彼は、何度も後ろを振り向いては車椅子を押している私に文句を言った。


「おい、こら、バカ、止めろ! 俺は自力で動ける」


 聞こえていないふりで顔を澄まし車椅子を進める。


 とはいえ、車椅子は確かに浅田さんの腕力で動いている。


 だから彼の主張はもっともなことで、ハンドルに軽く手を添えているだけの私の行いはただの意地悪でしかなかった。


「いえいえ、なにを仰います。この私をこき使うと言われた以上はそうして頂きませんと。それに、こうして日曜日まで看病に参った私の面目も立ちませんので」


 私はしゃあしゃあと言い返した。


「何の面目だよ。おい、手を放せ! 介助なんていらん。そもそもお前は何もしてないじゃないか」


「おい? お前?」


「あ、いや、菜月……」


「菜月?」


「あ、はい、菜月さん」


「菜月、さん?」


「おいおい、もういいだろう、勘弁してくれよぉ」


 私が笑って、浅田さんが笑う。


 彼はすっかりと私を甘えさせてくれていた。


 浅田さんは人に元気を与える人だ。それに比べて私は……。


 表面上は共に笑っている。


 一緒に居て、会話をして。


 だけど、実際には何の役にも立っていない。


 看病するつもりで訪れているのに、こうして怪我人に励まされている。


 本当にこれでいいのだろうか……。


 心の中では色々な思いが渦巻いていた。


 彼が進ませる車椅子。


 大きな背中を見つめる。


 この人の背中は広い。


 この人は何故こんなにも強いのだろうか。


 ――彼は、大学卒業を間近に次々と不幸に見舞われた。


 ある日突然、父親が借金を苦に自ら命を断った。その後、母親も心労がたたり病没する。


 それまで順風の道を歩んできた彼の人生は一気にどん底に落とされた。


 彼は手が付けられない程に荒んだらしい。


 行き着くところまで落ちた彼を救ったのは山本さんだった。


 浅田さんは父親の親友に咎められ、無理やり今の会社に連れてこられた。


 社長は当初、彼の能力を生かす為に経営や企画を任せようとしたそうだ。


 だが、彼は機械をいじっている方が性に合うといって開発部に居座ってしまった。


 そうして今に至る。


 浅田さんが、花火大会の日にチラリと見せた暗い影の正体は、彼が歩んできたそのような辛い過去の残影だった。


 浅田さんは、不幸な過去を他人に見せないように生きている。


 どうして忘れたようにして暮らせるのか。


 尋ねると彼は、別に隠しているわけでも話したくないわけでもないよ、と話して飄々とした。


 人はわが身の不幸を自慢話のように語る時がある。


 不幸から抜け出せない者は殊更に自分はこんなに可哀そうだと主張する。


 そんなことは無意味だよ、と、きっと浅田さんならそう言うだろう。


 彼は過去に頓着しない。


 私は、どうだ。


 私は、浅田さんのように強くなれるのだろうか……。


 ふと、浅田さんが言った言葉が頭をよぎった。


 同情していて気持ちが良いのは自分だけだと彼は言った。


 私はその言葉を、何となく聞いていて、聞き流していた。


 確かに、彼の言う通りかもしれない。


 私はやはり愚かな人間だった。


 私は自身を憐れんでいる。


 同情している風でいて実は自分を慰めているのではないのか。


 待合所を通り過ぎエントランスに差し掛かる。事実に向き合わねばならない、と顔を上げたときだった。


「あら、佐藤さん?」


 朧げに横手に捉えた声を背に残す。


 後ろに通り過ぎていったその声には聞き覚えがあった。


「佐藤さん、佐藤元取締役!」


 再び強く呼び止められてハッとする。


 振り向き見た先には、大きなお腹をした葵さんの笑顔と気まずそうに俯く夫の姿があった。


 私は立ち止まって池上夫妻に会釈を返した。


「誰? 友達?」


 止まった車椅子。浅田さんが後ろを振り向いて聞いてきた。


「あ、ああ、こちらは、前に勤めていた会社の社長さんと奥様です」


「こんにちは佐藤さん。こちらの方は? どなた?」


 穏やかな葵さんの様子が余計に不気味だった。


 思わず肩に力が入る。――怖い。


「あ、はい、こちらは今の会社でお世話になっている方です」


「そう、今お勤めの会社の方」


 葵さんは上品に微笑むと、はじめましてと頭を軽く下げた。


「そうそう、この前にお会いしたあの男性は? 今日はご一緒では?」


 来た、と思った。


「い、いえ、今日は――」


 緊張して言い淀んでいると葵さんが想定外の行動に出る。


 驚いた。彼女が私に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい、佐藤さん」


「え?」


「あの時はごめんなさい。私もどうかしていました。マタニティブルーっていうのかな。ちょっと心が不安定になってしまっていて。私ね、ずっと謝りたかったの。本当にごめんなさい。ここでお会いできてよかったわ。この通り、反省しています」


 戸惑う私を置き去りにして話す。


 葵さんの言葉は謝罪の言葉だった。


 彼女は私に向かって深々と頭を下げた。


 拍子抜けするとともに少しホッとした。


「い、いえ、どうかお気になさらないでください」


「そう、ありがとう。そういって下さると嬉しいわ。では、私達はこれで」


「はい、失礼いたします」


「あ、そうそう佐藤さん」


「……はい」


「この前の彼は、恋人じゃないのよね? では、こちらの方が恋人?」


 葵さんが、含むように笑って尋ねてきた。


 ぬらぬらとした笑顔に緊張させられ次の言葉に詰まった。


 緊迫を帯びた嫌な間が出来る。


「残念ではありますが」


 焦っていたところに浅田さんの大きな声が割って入った。


 彼の声を聞いて葵さんの口元がキュッと引き締まる。


 浅田さんの綻ぶ顔にほんの一瞬ではあるが、葵さんの険のある視線が飛んだのを私は見逃さなかった。


 悪い予感に息が詰まる。


「初めまして。私は浅田竜也と申します。佐藤とは同じ会社でして、私は機械やなんかを扱っております」


 浅田さんの溌剌とした笑顔が硬直した空気を破った。


 丁寧な物腰で話し浅田さんは頭を下げた。


 私は彼の様子に違和感を抱いた。


 彼は腰の低い態度を見せ「申します」だの、「扱っております」だのと、普段とはまるで違う言葉遣いと態度を見せていた。


「そうでしたの、様子を見て、てっきり恋人同士かと思って。やだ、私ったら下世話なことをすみません」


 葵さんは一変して温厚な顔を作って返事した。


「いえいえ、私も……。その、お恥ずかしながら、この歳まで縁もなく独身で。今からでも奥様のような素敵なお嫁さんがいただけたら、この上ない幸せではございますが、その……面目ありません。ご主人のように綺麗な奥様がいて、それにお子様まで。まったくもって、羨ましい限りです」


 浅田さんは葵さんに向けて穏やかに微笑んだ。


 そんな彼につられたのか途端に葵さんの表情も緩む。


「いやですわ、お上手ね」


「ほんと、羨ましいです。実は私も……その……好いている女性はいるので……」


「あら、そうでしたの?」


 葵さんの目に好奇の色が浮かぶ。


「あ、いや、でもお恥ずかしながら、情けない事に片想いなのですが……」


「あらら、やだ。そうですの。それで?」


「いやいや、だから本当は佐藤とこうしているところを見られ、万が一噂にでもなってしまったらホントはダメなんですがね、あはははは」


「そう、それは大変。意中の方に見られでもしたら一大事ですね」


 屈託のない笑顔で池上夫妻を褒めちぎり、明け透けに自分の恋愛事情を話す浅田さんに、葵さんもペースを崩されてとうとう噴き出してしまった。


「佐藤さん、いいお友達がいるのね」


 葵さんは上機嫌で私の方を向いた。


 笑顔の妻の横で夫の優斗もどことなしかホッとしているようだった。


「意中の方も良いとは思いますけど、すぐ近くにも良い方はいるわ。一度お考えになっては如何かしら」


「えええ、佐藤ですかぁ……どうせなら、奥様のような淑女のような妻を持ちたいのですが……まぁ私もガサツ者ですし、どうしようかなぁ、手短なところで済ませちゃいますかこの際、あははは」


「ほんとに面白い。やっぱりこの方が良いわよ佐藤さん。高木健太さんでしたっけ、あの人はダメ。だってほら、私、この間の入院の時にちょっと小耳に挟んだのですけど、あの方はほら、ご存じない? 何年か前にあったストーカー殺人事件、あの時の関係者なのよ。あの方は今も被害者の女の子の面倒をみてるって聞いたわ。そんな可哀そうな女の子が頼りにしている男性を奪うなんてやっぱりそれはダメよね」


 彼女は健太君の事情をサラリと話した。


 あの事件が……そうか、そういうことだったのか。


 それにしても何で?


 葵さんは、事件と彼らを当たり前のように結びつけた。


 健太君と詩織さんの関係性を承知しているように話した。


 それに、健太君の氏名まで。


 ――調べたの? なんで?


 腑に落ちない。疑問が次々浮かんだ。


 葵さんと浅田さんの会話は和やかに二言三言と続いていたが、私の耳は会話の中身を捉えてはいなかった。


 この日の彼女は穏やかではあったが、そのことが殊更に不穏を醸し出しているように思えていた。


「それでは失礼いたします。浅田さんもどうぞお大事にしてくださいね」


「はい、ありがとうございます!」


 浅田さんが、どうも、と頭を下げた。


 葵さんは満面の笑みを浮かべながらその場を去った。




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