67.祝杯
キーンコーンカーンコーン。周囲に鳴り響くのは、工場のものとは違う鐘の音。懐かしい、講義の時刻を告げる音。
横を走り去る男性は、寝癖のついたままの髪で、よれたTシャツも気にせず、走りにくそうなサンダルを鳴らして急ぐ。
「__戻れた、の?」
そう言う鏡花の手には、学生時代に愛用していた、お父さんに買ってもらった大きめのトートバッグがあって。スマホを取り出せば、表示されている日付は、三年前を示していた。
通知はない。他の三人は、無事に戻れたのだろうか。まだ、連絡できる状況ではないのかもしれない。一覧を遡り、すぐに止めた。
先に、やることがある。少しぎこちない動きで、カレンダーアプリを開く。今日の講義は終わったところで、急ぎの課題もないらしい。
「それなら……」
鞄を肩にかけ、紐をしっかり握り込む。人々の合間を縫いながら、徐々に速度を上げ、目の前が開けると思い切り走り出す。
体が軽い。三年の差か、単純に健康的な生活をしていた時期だからか。転移直前では考えられない足取りで、ひた走る。
向かう先は、ただ一つ。父の待っている、未だ賑わう、鏡花の家の工場だ。
「お父さん!!」
工場の裏手。大型機械用搬入口の隣にある、小さな扉。そこを開ければ、いつだって父は、工場全体を見守りながら作業をしているはずで。
怪我がないよう、開け閉めはゆっくり、確実に。それでも声は弾ませ、視線は慌ただしく、思い出の中の顔を探して。
「鏡花?」
驚きに、少し丸められた目を向けられて。掠れたところのない、暗い色のない、柔らかな声で名前を呼ばれて。
随分遠く、忘れかけていた声に、鏡花が破顔する。が、目の前の父は、慌てて帰ってきた娘が、異世界から帰ってきたなどつゆ知らず。
「授業は終わったのか? 走ってくるなんて珍しいじゃないか」
何かあったのか、と真っ先に心配してくれる声に、涙ぐみながら。
「うん……。あのね、お願いがあって……」
でも、その前に。最初に言わないといけないとが、あったのだった。鏡花は作業着の汚れなど気にせず、他の従業員の目も気にせず、父に抱きつく。
大きな、随分大きな胸に顔を埋めて、言うのは。
「ただいま、お父さん」
「よくわからんが……、おかえり、鏡花」
背に回された手は、しっかりと鏡花を抱きしめ返した。
◇
品の良い、ゆったりとしたピアノ曲が流れる店内。他のテーブルとは区切られた、視線を気にしなくて良い一番奥のスペースに、鏡花、御門、京の三人は座っていた。
真白いテーブルクロスの上には、カトラリーが四人分。最も通路に近い席は当然、輝夜の席だ。
「うわ、御門くん、めっちゃ機嫌いい。怖」
「まあな」
遅れてやってきた輝夜は、両の手にグラスを二つずつ持っており。三人の前に並べてから、笑ってテーブルについた。
「輝夜くん、ごめんね、変なお願いして」
「全然。時間掛かるけど、それでいいなら」
四人がいるのは、輝夜の経営する店だ。以前の輝夜が持っていた店より、小さいが高級感のある店になっている。
時を遡ってから丸一年。ようやく、それぞれの状況も落ち着き、ゆっくりと話をする機会を設けられたのだ。
当然、人に聞かせられない話題ばかりなので、輝夜が料理を作り、運んでは一緒に食べる、という変わった形式になっている。普通やらないが、今日は記念だからと鏡花が無理を通したのだ。
食前酒に手を付ける前に、京がまずは、と口を開いた。
「眞金さん、お父さんは?」
「無事に治ったよ」
「よかった。おじさん、治ったんだ」
「安心して飲めるね」
「ついでに俺の評判も上々だ」
意地悪い言い方だが、御門も本気で心配していてくれたのだろう。まだ学生の御門は、知識があっても治療に手を出すことはできない。
研修医として同席し、この病気では、と横で医者に耳打ちすることが精一杯であった。お陰で、スムーズに治療が進み、御門も鋭い学生として名が売れたのだから、一石二鳥である。
「で、京くんの分厚い資料は?」
「いや、眞金さんから工場のこと聞いてて気になったから……」
「摘発したのか」
「他にも色々やってたみたいだし、僕の事業ともぶつかりそうだったから」
その間、京は工場を合併した会社について調べていたらしい。色々と裏でやっていたらしい会社を調べ、摘発したようだ。
「更にお酒が美味しくなるね」
目配せする輝夜は、京が店に連れて来た重役の会話を聞いたりしていたらしいので、最初から狙ってやったのだろう。
戻ってきてから、輝夜の魅力は以前より更に増している気がする。重役がうっかり、口を滑らせたのかもしれない、と鏡花は目を伏せた。
なんにせよ、良い心象のある会社ではない。不安が一つ消えた、とすっきりした心地だった。
「ひとまず、話はこのくらいでいいか」
「だね、まだ時間はたっぷりあるし」
各々、自分のグラスを掲げる。戻ってきてから、都合よく変えられたことも、前と同じだったことも、予想外の悪いこともあったけれど。
当初の目的は果たし、無事に、四人揃うことはできたのだ。
「これからも色々あるだろうけど」
「罰が当たるかもしれないけど……」
「無事に再開できたことに」
「ひとまずの幸運に」
「乾杯」
グラスが、澄んだ音を立て。静かなジャズに溶けていった。
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