【第3話:群れの匂い】
森の静けさの中、圭はじっと身を伏せていた。
食後の満腹感は消えつつあり、代わりにじわじわとした警戒心が胸の奥を満たしている。
(さっきの気配……絶対に何かいた)
音は風に紛れ、木々の揺れにまぎれている。
だが、獣のような“視線”だけは消えない。
「……!」
次の瞬間、圭の左手ががっしりと掴まれた。
振り返ると、目の前にいたのは、自分と同じような体格の、しかし目つきの鋭いゴブリンだった。
髪は乱れ、牙はむき出し、顔には乾いた血の跡すらある。
「おい、何やってやがる。おまえ、群れのもんじゃねえな」
……しゃべった。
低く濁った声だったが、言葉ははっきりと通じた。
その事実にまず驚き、次に恐怖が押し寄せてきた。
「……ちょっと、道に迷ってしまって……」
「言い訳はいい。こっちへ来い」
有無を言わせぬ口調。
そう言いながら、ゴブリンは腕を強く引いた。
圭は抵抗しようとしたが、力の差は歴然だった。
ずるずると引きずられ、森の奥へと連れて行かれる。
「やめろって! どこに連れていく気だよ!」
「群れに決まってんだろ。勝手にうろつかれても困るんだよ」
「俺は、仲間になったつもりなんて——」
「黙れ。喋っていいのは、強い奴だけだ」
その言葉に、圭は息をのんだ。
◇
森の奥、陽の届かぬ場所。
大きな倒木をくり抜いたような洞窟の前に、十体近くのゴブリンたちがいた。
焚き火を囲み、肉を焼き、時折吠えるように笑っている。
圭の体は自然とこわばった。
「おい、新入りだ」
腕を引いたゴブリンが叫ぶと、周囲の視線が一斉に圭へと集まった。
そのどれもが、値踏みするような目だった。
生き物を見る目ではない。獲物を見る目だった。
「ほう、変わった顔してんな。どこで生まれた?」
「名は? 喋れんのか?」
「おい、オレと替わるか? 部屋、空いてたろ」
「そいつが生き残れたら、な」
嘲るような笑い声が響く。
圭は、一歩も動けなかった。
身体は震えていたが、それ以上に心が沈んでいた。
(これが、“社会”か……)
人間の世界でも、こういう空気はあった。
職場、学校、部活。
力のある者が上に立ち、声の大きい者が秩序を握る。
その縮図がここにもある。もっと原始的で、もっとむき出しな形で。
「おい、新入り。名前はあるか?」
声をかけてきたのは、焚き火の前にいた中でも、体の大きなゴブリンだった。
片目に傷があり、毛皮を肩からかけている。
明らかにこの群れのリーダー格だ。
圭は、僅かに唇を開いた。
「……黒川……圭」
「……へぇ、変な名だな。まあいい、今日から“クロ”だ。言いたいことがあっても、力で言え。わかったか?」
圭は、喉が乾くのを感じながら、ゆっくりとうなずいた。
この世界では、そうするしかないのだ。
焚き火の匂い、焼ける肉の香ばしさ。
その中に、濃厚な“獣の匂い”が混じっていた。
群れの匂い。
それは、安心ではなく——緊張の始まりだった。