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夕焼けの散花  作者: 智枝 理子
Ⅸ.落ちる雫と蛍火
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06 Pluie verglaçante

 体が重い……。

 まだ、雨が降り続いてる。

 全然眠った気がしない。

 頭が上手く働かない。

 けど、ようやく家を出られる。

「もう行くの?」

 頷く。

「傘は?」

 首を振る。

「雨避けのマントだけで大丈夫?」

 頷く。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 行こう。

 足早に家の門を出る。

『あれぇ……?』

『エル、どこに行くんだ?』

 節句の休みが終わったから、養成所に行かなくちゃいけないんだけど。

 無理。

『朝から、サボるのぉ?』

 

 濡れた道。

 体中に刺さる雨。

 繰り返す雫と波紋。

 

 頭がぐらぐらする。

 真っ直ぐ歩いてる気がしない。

 ……吐きそう。

 

 いつものアパート。

 いつもの扉。

 ノックを鳴らす。

 少し、待って。

 扉が開く。

「エル」

「キアラ」

 良かった。まだ起きてた。

「どうしたの?今日は平日だったと思うけれど」

「平日だよ」

「なら、行くべきところがあるでしょう?」

「……だめ?」

 キアラがため息を吐く。

「困った子ね。どうぞ」

 

 キアラの部屋に入って、マントを脱ぐ。

「いつもずぶ濡れで来るんだから」

 キアラがタオルを出して、俺の頭にかぶせる。

 だって、全然止まない。

 まとわりつくようにずっと降ってる。

「何かあったの?」

「別に、何も」

「酷い顔よ。夜遊びでもしてるの?」

「してない」

「コーヒーでも飲む?」

「要らない」

 キアラが俺の頬に触れる。

「体が冷えてるわ」

「温めて」

「しょうがない子なんだから……。いらっしゃい」

 

 むせ返るような濃厚で強い薔薇。

 アンブレット。

 ジャスミン。

 イランイラン。

 パチュリ。

 ……他には、なんて言ってたかな。

 雨の音も匂いも消し去るほどに広がった香りに微睡んで沈んでいく。

 

「養成所に行かないの?」

「行きたくない」

「フラーダリーは知っているの?」

「知らない」

「連絡する?」

「しないで」

「フラーダリーと何かあった?」

「何も」

「いつまで居るの?」

「雨が止むまで」

「今年は長引きそうよ」

「なら、ずっと居る」

「困った子ね」

 どこにも行けない。

「忘れさせて」

「そんなに忘れたいことがあるの?」

 忘れたい。

「雨は嫌いなんだ」

 良いことなんて、一つもない。

 

 ※

 

 コーヒーの香り。

 キアラが淹れるコーヒーは、いつも濃くて苦い。

「ねぇ。そろそろ何があったか話してくれても良いんじゃない?」

「別に、何もない」

「何も?」

「雨で……。出かけることもなかったから」

「ずっと家に居たの?」

 頷く。

「フラーダリーと?」

 頷く。

「そう。ずっと二人で居たの」

 ずっと。

 ずっと二人だった。

 朝食を食べて。勉強をして。家のことを手伝って。ランチを食べて。雨だから出かけられないねと外を眺めて。フラーダリーが書類仕事をしている横でバイオリンの練習をして。夕食の準備を手伝って。夕食を食べて。勉強をして。お風呂に入って。また勉強して、寝る。

 その、繰り返し。

「少し寝た方が良いわ」

「眠れない」

 頭が締め付けられるように痛くて目が回るほどぐらぐらするのに。

「重症ね」

「早く大人になりたい」

「そう思ってる限り、ずっと子供よ」

「子供じゃない」

「じゃあ、子猫?」

「猫じゃない」

「可愛い子」

「そんなに子供が好き?」

「まさか。子供なんて欲しくないわ」

「……欲しくないの?」

「あら。エルは欲しいの?」

「欲しい」

「私にそれは望まないでね」

「なんで?」

「子供が出来ない体だから」

「え?」

 出来ないって……。

「そろそろ寝なくちゃ」

「キアラ、」

「エルも寝ましょう」

「眠れない」

「仕事に行くなら、寝なきゃダメよ」

 仕事には行くつもりだ。

 けど、眠れるかどうか……。

 キアラが俺の頭を撫でる。

「大丈夫よ。あなたが寝るまで待っていてあげる」

 キアラは優しい。

 

 ※

 

 物音が聞こえて、目を開く。

「あら。起こしちゃった?」

 キアラの腕を引く。

「行かないで」

「もう。甘えるのが上手いんだから」

 違う。

 キアラが、甘やかすのが上手いんだ。

「フラーダリーにも甘えれば良いじゃない」

「出来ない」

「私には出来るのに?」

「好きじゃないから」

「はっきり言うわね」

 ……違う。

 キアラは何を言っても怒らないから、何でも言い過ぎてしまう。

「ごめん。好きだよ。キアラに会いたいから会いに来たんだ」

「ふふふ。可愛いことを言うのね」

 一緒に居ると落ち着くし、嫌なことを忘れられる。

「フラーダリーにも言ったらどう?」

「無理」

 好きだなんて言えるわけがない。

「そろそろ仕事に行かなくちゃ」

「……行くの?」

「エルのせいで遅刻だわ」

「遅刻しよう」

「なぁに?まだ構って欲しいの?」

 さっきの……。

「寝る前に話してたこと、教えて。子供が出来ないって、どういう意味?そういう診断を受けたってこと?」

「大人になったら教えてあげるわ」

「医者になる勉強はしてる。診断結果を教えて。今なら治療可能かも」

「困った子ね。じゃあ、言い方を変えるわ。私は子供を産んではいけないの」

「……なんで?」

「そのままよ。世の中には、そういう人も居るの」

「人権侵害だ」

「ふふふ。お医者さんの次は法律屋さん?あなたは本当に優秀な子ね」

「はぐらかさないで」

「どうするの?今日は仕事に行く?それとも、ここで寝てる?」

「行く」

 勝てない。

 

 ※

 

「エルロック。お前、なんでこんなところに居るんだ」

「仕事に来たんだよ」

「今すぐ、養成所に戻れ」

「なんで」

「フラーダリーが探してる」

「え……?」

 なんで?

 たった一日、サボっただけなのに。

「学生が行方不明になったら大問題だ。守備隊も動いてる」

 守備隊まで?

「勉強が好きなんだろ?」

「好きだよ」

「だったら、すぐに帰れ」

「いつでも雇ってくれるって言ったのに」

「学生をやめる気になったらだ」

 やめるつもりはないけど。

「俺がここに居ること……」

「誰にも言うわけないだろ。お前を雇ってるなんて知られたら店が潰れる」

「……ごめん」

 学生を雇ったら、雇用主が罰せられる。

「いつまで居るんだ」

「雨が止むまで」

 店長がため息を吐く。

「もっと頭の良い奴だと思っていたが、見込み違いか」

「ルールには抵触してない」

「勉強を優先する約束だろ」

 それは、そうだけど。

「成績は落とさない。雨が止んだら帰るよ」

 店長がため息を吐く。

「しょうがない奴だな」

「マティーニのバリエーションを教えて」

「……本当に。しょうもない奴だな」

 やった。

 

 ※

 

 今、何時だろう。

 仕事が終わった後も朝日は見られなかった。

 ずっと夜みたいに暗くて微睡む香りも混ざって時間の感覚がどんどん狂っていく。

 

「はい、どうぞ」

 コーヒーが香る。

 いつも、終わった後はキアラが濃いコーヒーを淹れてくれる。

 目が覚めそうだ。

 勉強でもしようかな。

 それか、例のテストの作成を進めるか……。

 勉強道具を出そうとすると、キアラが俺の手を止めた。

「帰らないのなら、ちゃんと寝た方が良いわ」

「眠くなったら寝るよ」

「自分の体を大切にして。ここには良い医者なんて居ないのよ」

 ……エンドだから。

「子供を産んではいけないって、どういうこと?」

「あなたには関係ないわ」

「教えてくれたら寝る」

 キアラがため息を吐いて、俺の隣りに座る。

「長くなるわ」

「聞きたい」

「じゃあ、それは片付けて。寝る準備をして」

「わかった」

 勉強道具を鞄に仕舞う。

「私の生まれはラングリオンの田舎なの。法の守りが市民全員に行き渡っていないようなろくでもない場所よ。可愛い女の子を領主が攫っても誰も文句を言わないような、ね」

 信じられない。

「どこ?」

「さぁ。どこかしら」

 言いたくないらしい。

 人権侵害が横行してるんだ。

 ……そんな場所があるなんて。

「領主に攫われた女の子はピアノと出会ったの。ピアノの才能を開花させた彼女は、他の人よりもちょっとだけ良い生活が出来たわ。領主の娘と一緒に勉強したり、ピアノの練習をしたり、領主一家の為にピアノを演奏したり、歌を歌ったり、ね」

「ちっとも良い生活なんかじゃない」

「良いじゃない。タダで勉強出来たのよ」

「タダじゃないだろ。搾取された結果だ」

「芸は大事よ。お金があれば人生なんていくらでも取り戻せるもの」

「嘘だ」

 キアラが笑って俺を撫でる。

「そう思うのなら、今の自分を大切にすることね」

―無垢で未来ある子供だから無限の価値があるのよ。

 ……過去は戻らない。

「成長した彼女は、そのまま領主の妾になったわ」

 妾……。

「……好きだった?」

「特定の一人を好きになったことなんてないわ。私のことを好きな人は、平等に皆、大好きよ」

 いつも、キアラはそう言う。

「それで?」

「領主が不在時、妾は姦通罪で罰せられることになったの」

「公妾なのに?」

「法律上、公妾なんてものは存在しないわ。正妻は愛人をいくらでも訴えられるのよ」

 滅茶苦茶だ。

「それで?」

「昔、子供を産めなくなる病気が流行ったの、知ってる?」

「知ってる」

 習った。

「その病気を利用した薬があるのは知ってる?」

「知らない」

 そんなの。

 研究を禁止された発禁レシピに違いない。

「処刑されるか、薬を飲んで子供を産めない体になるか、選べって言われたわ」

「何を根拠に……」

「そういう場所なの」

 法的根拠のない処刑に、法で禁じられている薬の強制なんて。

「私は薬を飲んで子供を産めない体になった。だから、私はもう子供を産んではいけないのよ」

 不妊の理由は、不妊にする薬のせいだったのか。

「不当な裁判に従う必要なんてない」

「なら、続きはもう良い?」

「教えて」

 まだ、続きがあるなんて。

「その後、戻って来た領主は不妊薬の責任を取って、彼女に賠償金をたくさん払ったの。勝手な裁判や勝手な判決って、領主としてもかなりまずいことだったらしいわね」

「当たり前だ」

「正妻は離縁されて第二夫人が正妻になったわ」

「は?公妾はダメなのに、第二夫人は許されるのか?」

「元々、正妻の侍女って立場だったかしら。でも、それなりの身分の方だったから待遇は第二夫人よ。子供も領主の嫡子として大切にされていた。正妻の許可を得た奥さんという扱いね。そして、お金を貰った彼女は領主一族と縁を切って王都まで逃げて来た」

 身分による扱いの違い。

「それで?」

「これで、おしまいよ」

 終わり?

「説明になってない」

「説明?」

「キアラが子供を産んではいけない理由」

「だって、不妊になったからお金を貰ったのよ?今更、返せと言われても困るでしょう」

「言われるわけがない。賠償金は不当な裁判と不妊薬を強制したことに対するものだ。不妊の解消を目指しても何の問題もない」

「そういうものよ」

「はぐらかさないで」

 ちゃんとした理由があるはずだ。

 産んではいけないって、キアラが思っている理由が。

 キラアがため息を吐く。

「しょうがないわね……。その薬って、必ず効くわけじゃないのよ」

 確実な効果があるものじゃないらしい。

 研究を禁じられた非合法な薬なんて、そんなものか。

「キアラには効かなかったってこと?」

「そう。どういうわけか、私は子供に恵まれたの」

 恵まれた?

「相手が誰かなんてわからないわ。色々あったから。でも、子供が出来たなんて、領主にばれるわけにはいかないでしょう」

「なんで?」

「第一夫人と共謀して領主から賠償金を巻き上げたって筋書きも出来るわけだもの」

「は?なんだそれ」

 意味がわからない。

「エルは、私の話がすべて本当だと思ってくれる?」

「もちろん」

「嘘かもしれないわ」

「信じるよ」

「本当に?私は領主を誑かした悪魔だったのよ」

「あり得ない。無理矢理攫われたんだろ?自分の意志で来たわけじゃない」

「第一夫人の座を乗っ取ろうとしていたの」

「不可能だ。第二夫人が居たんだから」

「夫人に危害を加えたわ。毒を使おうとしたって」

「自由な生活がないのに毒なんてどこで手に入れるんだ」

「ふふふ。不思議でしょう。でもね。事実なんていくらでも都合良く繋ぎ合わせることが出来るの。誰かの利益の為にね。私がいくら説明しようと関係ない。私の言葉なんて、ないに等しいのよ」

 ……弱い立場だから。

 より強い立場の人間の意見しか通らないんだ。

「だから、私は薬で不妊になった事実を変えてはならないの。もう、あの場所には帰りたくないもの。だから、少しでも遠くにって……。王都を目指したの。でも、辿り着く前に産むことになった。そして、子供は殺すしかなかった」

「なんで?」

「双子だったのよ」

「双子?」

 ……だから、何?

「理由になってない」

「エルは知らないのね。双子は、同じ魂の片割れを持って生まれるのよ」

「同じ魂の片割れが同じ世界に存在するなんてあり得ない」

 魂の片割れは必ず死者の世界にある。

 だから、肉体を離れた魂は死者の世界に旅立つのだ。自分の片割れを目指して。

 そして、やって来る片割れと一つになることがないよう、死者の世界に居た片割れは新しい命として生まれる。

「でも、ラングリオンでは昔から言われてるわ。生まれた瞬間に双子の片方は間引かなければいけないって」

「間引くって……」

「同じ世界に、一つになれる魂が存在してはいけないのよ」

「そんなの間違ってる」

「偉い人に、どちらを殺すか選べって言われたわ」

「人殺しなんて犯罪だ」

「誰が訴えるというの?この国に存在を認められていない子供なのよ」

 生まれたばかりで、何の手続きもしていない赤ん坊。

「殺すのは母親の役目よ」

 そんな……。

「一日、待ってくれるって言ったわ。でも、選べなかった。選べなかったから、二人とも殺したの」

 キアラの細い指が俺の首に触れる。

「抵抗もしなかったし、叫び声も上げなかったわ」

 指先が震えてる。

「子供は、どこに?」

 手を降ろしたキアラが遠くを見る。

「お花畑に埋めたわ。王都の近くよ。とっても綺麗な場所だった」

 根源の神に還った魂は、二度と生まれることはない。

「だから、もう、子供なんて欲しくないのよ」

 嘘。

―どういうわけか、私は子供に恵まれたの。

「もし、キアラが産んだ双子が本当に魂の片割れ同士だったなら、根源の神に帰るために生まれて来たんだよ」

「なぁに?慰めてくれるの」

「泣いていいよ」

「嫌よ。恥ずかしい」

「泣いた顔が見たい」

「馬鹿」

「忘れさせてあげる」

「……馬鹿」

 

 


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