05 Pluie noire
ゼンマイをくるくると回して指を離すと、円筒形の部分がゆっくりと回り、柔らかな音を奏でる。
……降り注ぐ雨音に混ざって。
今日も一日中雨だった。
今年の立夏の雨は長引く。
いつもなら、雨が止む頃なのに。
ずっと、雨、雨、雨。
雨
『エル、大丈夫ぅ?』
暗い雲に包まれ、重く息苦しい空気がのしかかる。
オルゴールの音でも全然楽になれない。
「エル。そろそろ、お風呂に入ったら?」
遠くからフラーダリーの声が聞こえる。
階段の下から呼んだんだろう。
「わかった」
聞こえるように返事だけ返して、オルゴールを眺める。
去年の今頃はアレクが来てくれた。
でも、今年は帰れないらしい。
忙しいから。
……帰ってくるんじゃなかった。
養成所に居る時はあっという間に進む時間の流れが、家では何故かゆっくりと進む。
会いたくて帰ったはずなのに。
一緒に居られて嬉しいはずなのに。
なのに……。
『エル……』
オルゴールが弾く最後の一音を聞いてから立ち上がる。
行かないと。
雨
お風呂から出ると、フラーダリーが台所のテーブルに突っ伏して寝ていた。
こんなところで寝るなんて、相当、疲れてるんだろう。
あぁ、本当に。
……帰ってくるんじゃなかった。
俺が帰ると、フラーダリーは俺の為に無理をする。
出来ることも手伝えることも増えてるのに、俺がここに来たばかりと同じように何でもしようとする。
俺が帰れば、負担が増えることぐらい、簡単に予想出来るのに。
なのに……。
フラーダリーが、何度も手紙で帰って来てと言うから。
俺もフラーダリーに会いたいから。
結局、帰って来てしまった。
ブランケットを取って来て、フラーダリーにかける。
テーブルの上には、料理の本とメモ。
―知ってる?
―あの子、料理なんてほとんどできなかったのよ。
そうは思えなかった。
俺がこの家に来た時、家の台所には様々な料理道具が揃っていたし、フラーダリーは慣れた手付きで料理をしていたから。
綺麗に整頓されたキッチンの前に立つ。
一度沸騰した形跡のあるポットに、挽きたての豆。横にはお菓子。
俺が来たら、すぐにコーヒーを淹れてくれるつもりだったんだろう。
お湯を沸かし直す。
―あなたが来る半年ぐらい前から、急に料理を習い始めたのよ。
―自分には向いてないって、何度も落ち込んでたわ。
フラーダリーが作ってくれる料理は、何でも美味しいのに。
―努力家だもの。
知ってる。
何でも頑張り過ぎるって。
だから、料理を始めた理由も明らかだった。
―あなたを引き取る為よ。
子供を引き取る為。
沸騰したお湯を止めて、二人分のコーヒーを淹れる。
―家庭料理ぐらい食べさせてあげたいって。
―養成所に入れるのなら関係ないじゃないって言ったんだけど。
―母親らしいことをしてあげたいって、張り切ってたのよ。
そんなに前から俺を引き取る為の準備してたなんて知らなかった。
何度か魔法研究所の一員として砂漠に調査に来ていたのは知っていたし、その度にラングリオンに来ないかって誘われていたけど。
本気だなんて思ってなかったから。
……あの日。
本当に、ラングリオンに行くと決める日まで。
それがすごく遠い昔に感じるほど、ラングリオンに慣れてしまった。
出来上がったコーヒーをテーブルに並べて、フラーダリーの向かいに座る。
フラーダリー。
ごめん。
フラーダリーが望む子供じゃなくて。
母親になる為の努力を無駄にさせて。
本当だったら、ちゃんとした家族になっていたはずなのに。
なのに、俺は……。
「!」
急に、びくっと体を震わせて、フラーダリーが顔を上げた。
「エル?」
目が合う。
こんなに近距離で。
フラーダリーが柔らかく微笑む。
「ごめんね。寝てしまっていたのか。……ブランケット、ありがとう」
頷く。
「コーヒーも淹れてくれたんだね。良い香りだ。ありがとう」
頷く。
「あ……。ちゃんと乾かさないと、風邪をひいてしまうよ」
フラーダリーが立ち上がって、タオルで俺の頭を拭く。
平気なのに。
前に断った時に、すごく悲しそうな顔をしたから。
断れない。
……でも、今はこれが丁度良い。
だって、鼓動が早い。
顔も赤いに違いない。
まともに声も出せない。
こんなに真っ直ぐ目を合わせて話をしたのなんて、いつぶりだろう。
あの微笑みを正面からちゃんと見たのだって、いつぶりだろう。
「来月は帰って来る?」
無理。
「研究会の活動が忙しいから」
「テスト後も?」
無理。
「テストの結果は手紙で伝えるよ」
「わかった。誕生日には帰ってくる?」
無理。
「忙しいから」
「残念だな。お祝いは何が良い?」
要らない。
「欲しいものがあったら言うんだよ」
充分、もらってる。
「今度、会えるのは年末かな」
頷く。
年末には帰らなくちゃいけない。
帰らない理由が思いつかないから。
ただ。
「ごめんね。年末年始は少し忙しくなりそうなんだ」
「平気」
王都の年末年始は、毎年、守備隊が臨時の隊員を募集するぐらい忙しい。魔法部隊の活動も忙しいから、フラーダリーもほとんど家に居ない。
「年始のお祭りは、また皆で遊びに行くの?」
「たぶん」
年始はイベントが満載だ。
毎年、カミーユとシャルロと遊びに行ってる。
後は、ユリア、マリー、セリーヌと一緒になることも多い。
他にも、色んな人と顔を合わせる。
「楽しそうだね。夜には、ちゃんと帰るから。朔日はガレットデリュヌを食べようね」
「ん」
あの、甘いお菓子。
一年の始まりに家族と食べるもの。
フラーダリーが頭からタオルを外す。
立ち上がろうとすると、後ろから抱きしめられた。
え……。
「ごめんね。傍に居てあげられなくて」
一緒に居たい。
けど。
こんなの、無理。
「平気だよ。もう、子供じゃないから」
「子供だよ」
違う。
もう、嫌だ。
聞きたくない。
「……寝る」
ようやく、フラーダリーが俺を離す。
「おやすみ、エル」
「おやすみ」
……もう、限界。
雨の音が聞こえる。
雨に覆われる。
雨。
背中に感じた柔らかい感触や温もりに匂いから息遣いまですべての余韻が離れない。
雨
子供の頃から何度もされてきたことだとは思えないぐらい、今はもう……。
雨
振り返って抱きしめたかった。
触れた瞬間何をするか解らなくて髪の毛一本にすら手を伸ばせない。
雨
フラーダリーが望んでいるのは子供だ。
俺は望みを叶えてあげられる立場だ。
なのに出来ない。
雨
傍に居たくてたまらない。
一緒に居られない。
触れたい。触れられない。
雨
愛してる。
望まれてない。
雨
雨。
響いて。
響いて……。
どこにも逃げられない。
雨




