01 Rue du Chat à bouche en croissant
王国暦五九八年 コンセル三十日
コンセルの三十日とリヨンの朔日は連休だ。
荷物をまとめて、アレクと一緒に外泊届を提出して、養成所を出る。
「無事に合格出来て良かったね」
丸一日かけた会長からの挑戦状。あれは、本当に大変だった。
次の日にはすぐに合格の結果が届いて、更に、午前中の時間を使って、会長が一つ一つの問題の解説をしてくれた。
俺たちがやるにはまだ早い内容のものもあったけど、決して解けない内容じゃない。アレクが言っていた通り、正々堂々とした勝負だったと思う。
最も、古代語だけは解説せずに、後期できちんと学ぶようにって言われただけだったけれど。
本当に、皆が居てくれて良かった。
「養成所は楽しいかい」
楽しい。
毎日、たくさん勉強出来て。
新しいことがあって。
色んな人間が居る。
「良かった」
アレクが微笑む。
良かった。
俺も、そう思う。
※
アレクと一緒にフラーダリーの家へ。
ただいま。
「おかえり、エル。アレクも、送ってくれてありがとう」
送ってくれて?
どういう意味?
「今日は、これから城に戻らなくちゃいけないんだ」
これから?
泊まって行かないってこと?
「すまないね。明日は、カミーユとシャルロが遊びに来るんだろう。私は迎えに来られないから、三人で養成所に戻るんだよ」
養成所ぐらい一人でも行ける。
「わかったね?」
一緒に行かなきゃだめらしい。
頷くと、アレクが俺の頭を撫でた。
「アレク、気を付けてね」
「すぐに陛下の近衛騎士が出てくるので、問題ありませんよ」
玄関からアレクを見送ると、門に騎士が立っているのが見えた。
アレクは忙しい。
わざわざ送ってくれなくても大丈夫なのに。
まだ、俺が王都を一人で歩けないと思ってるんだろう。
「エル」
フラーダリーを見上げる。
「元気だった?」
見ての通り。
風邪も引いてないし、体調も崩してないし、怪我もしてない。元気でやってる。
「良かった。ランチを食べたら出かけようね」
出かける?
「成績が良かったご褒美だよ。欲しい物を買ってあげる」
そんなの要らない。
だって、養成所で学ぶことも、期末テストで良い結果を出すことも、俺がやらなきゃいけないことだ。
「何か考えておいて。思い付かなかったとしても、街を歩いていたら、きっと良いものが見つかるよ」
欲しい物なんてないけど。
出かけるのは楽しそうだ。
※
頑丈な城壁に囲われた大陸屈指の城塞都市・アヴェクノーヴァ。
皆、王都って呼ぶから、あまり本当の名で呼ばれることはないらしいけど。計画的に都市造りが行われた王都は、分かりやすい構造をしている。
噴水のある中央広場を中心に、東へ行けばイーストストリートで、その先には王都の出入口である東大門がある。同様に、西に行けばウエストストリートと西大門へ、南に行けばサウスストリートと南大門へと続く。
サウスストリートから東側はイースト、西側はウエストと呼ばれる地区で、中央広場から北はセントラルと呼ばれる地区だ。
広場から北に伸びるノーヴァストリートを真っ直ぐ行けば王城があり、王城から北が貴族街。そっちは一般人には全く用のない場所だから、セントラルと言えば、主にノーヴァストリートの辺りを指す。セントラルは、この通りを軸に、主要な建物が左右対称に建てられているからだ。
西の錬金術研究所と東の魔法研究所、西の音楽堂と東の闘技場。ウエストストリートから北西に斜めに入る学生通りを進んだ先にあるのが養成所で、イーストストリートから北東に斜めに伸びる官庁通り先にあるのが王立図書館、といった具合に。
ラングリオンより前にあったアルファド帝国の知識も受け継ぐ巨大な図書館には、何度か行ったことがある。一生かかっても読み尽くせないほどの本が保管されてる場所だ。
なのに、誰でも自由に利用出来て、王都に居住、あるいは長期滞在者なら本を借りることまで出来る。
養成所の図書館を一通り見たら、また行ってみようかな。
フラーダリーと一緒に中央広場に出る。
「中央広場の三方には、守備隊の宿舎があるんだよ」
フラーダリーと広場を見回す。
「北東にあるのは、王都守備隊一番隊。主にセントラルを守る守備隊だ。南西が二番隊でウエストを守ってる、南東が三番隊でイーストを守ってるんだよ」
どこも大きな建物だ。
「守備隊の宿舎がすべて中央にあるから、中央から離れるとどんどん治安は悪化する。だから、エンドには近づいてはいけないよ」
エンド。王都の外れのことだ。特に行く用事はない。
あれ?
セントラル、ウエスト、イーストに割り振られてるなら、この中央広場は?
「中央広場の管轄は曖昧なんだ。一応、西側は二番隊、東側が三番隊になっているけれど、気付いた隊か通報を受けた隊が行くことになっているよ」
一番隊は?
「管轄に関係なく、困ったことがあれば必ずどの隊も動いてくれるよ。市民を守ることが役目だからね。ただ、今は守備隊同士の仲があまり良くないから、中央広場の揉め事は通報を受けないと出て来ないって言われているんだ。だから、出かける時は十分、気を付けるんだよ」
俺が初めて絡まれたのも中央広場だったっけ。こんなに混雑してる場所なのに、一番対応が遅い場所になってるなんて。
北西には市場もあるのに。
「市場は一番隊の管轄だね」
市場はセントラルに入るらしい。
「じゃあ、ウエストに服でも見に行こうか」
服?
養成所は制服で活動するから、私服なんて不要だ。
でも、フラーダリーが見たいなら行こう。
※
王都は、すべての通りに名前が付いている。
サウスストリートからウエストに入るこの通りは、三日月顔の猫通り。三日月型の口をした意地悪そうな猫が、通りを示す看板のモチーフになっている。
衣類や雑貨が並ぶ通りらしい。
歩いていると、女性の悲鳴が聞こえた。
「泥棒!」
泥棒?
振り返ろうとすると、すぐ横を男が走り抜けて行った。
「待て!」
走り出したフラーダリーの後を追って走る。
可愛い小ぶりなバッグを持ってる。あいつが引ったくりをやった泥棒なんだろう。
男の目の前に岩が現れた。フラーダリーの大地の魔法だ。見事に岩にぶつかった男が、その場でうずくまる。
そのままフラーダリーが男を取り押さえると、周囲から歓声が上がった。
「魔法部隊だ」
「今のって魔法?」
「すごいな」
魔法部隊。
フラーダリーが作った魔法使いだけで構成された自警団だ。フラーダリーは魔法研究所で働く傍ら、魔法部隊を結成して、隊長として王都の治安維持活動をしている。
引ったくりにあった女の人が走って来た。
男が落としたバッグを拾って渡す。
「ありがとう。助かったわ」
女の人がバッグから何か取り出す。
「お手伝いして偉いわね。これ、あげるわ」
一口サイズの丸いロリポップだ。
フラーダリーを見る。
「貰ったらどうだい」
頷いて、ロリポップを貰う。
「ありがとう」
「こちらこそ、助かったわ。ありがとう」
女の人が歩いて行くと、その方向から知ってる顔が三人来た。
「やっほぉ。エル」
「こんなにあっさり捕まえちゃうなんて、すごいわ」
「かっこいいです」
フラーダリーが立ち上がる。
引ったくり犯は、後ろ手にしてロープで縛ったらしい。
「こんにちは。君たちは?」
「はじめまして。エルのクラスメイトのセリーヌです」
「マリアンヌです」
「ユリアです」
いつも三人一緒に居る。
「はじめまして。私はフラーダリーだ」
「知ってます。王都で自警団を結成した方だって」
「ありがとう。でも、敬語なんて要らないよ。気軽に話してくれるかい」
「気軽に?」
「私たちは、王都の人たちに密着した自警団を目指しているからね。……そうだ。私はこれから、この引ったくりを守備隊へ連れて行くんだ。三人共、エルを頼めるかい」
え?
「わかりました。この辺で買い物してます」
「んーっとぉ……。とりあえず、あのお店に入ってよっか」
「そうね。場所を変える時は、伝言を残すようにするわ」
「ありがとう。エル、皆と一緒に待ってるんだよ」
なんで?
フラーダリーと一緒が良い。
「すぐに戻るよ。良い子で待っていて」
……わかった。
フラーダリーが俺の頭を撫でる。
「ロリポップも食べていて良いからね」
頷いて、フラーダリーを見送る。
今のところ、引ったくり犯は大人しいけど。暴れだしたら大変だから。俺が一緒だと邪魔なんだろう。
「さ、買い物に行きましょう」
俺には、この三人に付き合う理由なんてない。
「そんな顔しなくても良いでしょ。フラーダリーだって、すぐに戻るわよ」
「この辺は迷子になりやすいからねぇ。一緒に待ってよぉ?」
「ほら、行きましょう」
マリーに手を引かれて、近くの店に入る。
女性ものの服が並んだ店だ。
明らかに俺には用がない。
「涼しい服がたくさんあるわ」
「この素材は夏にぴったりね」
「手触りも良いねぇ」
全く興味が湧くものがない。
持っていたロリポップのラッピングを外して口に入れる。
甘くて美味しい。
「エル、どう?」
三人が、それぞれ持ってる服を自分に合わせている。
……変なの。
「何よ。似合わないって言うの?」
別に、そんなことは言ってないけど。
「エルはぁ、どれが似合うと思う?」
俺が選ぶの?
なら。
セリーヌが持っていた黄緑のワンピースをマリーに渡す。
「え?私?」
そして、ユリアが持ってた淡いピンクのスカートをセリーヌに渡す。
「私がピンク?」
この方がしっくりくる。
「私はぁ?」
この中にはない。
マリーが持っていた赤いワンピースを戻して、服が並んだ場所を見る。
どれにしようかな。
「試着してくるわ」
「本気なの?マリー」
「せっかく選んでくれたんだもの。着てみるわ」
「仕方ないわね」
二人は試着しに行ったらしい。
紺のワンピースも可愛いな。ユリアに合わせてみる。
でも、丈がもう少し短い方が良いかも。もう少し探そう。
「エルってぇ、いつも長袖だよねぇ?」
長袖の服の方が慣れてるから。
肌の露出が多い服には慣れない。
「もしかして、砂漠の出身とかぁ?」
え?
……なんで?
「砂漠は日差しが強いからぁ、肌をあんまり出さない人が多いって聞いたんだぁ」
服装で気付かれる場合もあるのか。
なら、どれだけ隠していても、いずればれるんだろう。
「あんまり、言いたくなかったぁ?」
頷く。
「そっかぁ……。ごめんねぇ」
ごめん?なんで?
あ。良いのを見つけた。
白と水色のワンピースをユリアに合わせる。
「似合うー?」
似合う。
「じゃあ、着て来よっかな」
ユリアが試着しに行くと、入れ替わりでマリーとセリーヌが出て来た。
「どう?可愛い?」
マリーがその場でくるりと回る。
黄緑色のワンピース。やっぱり、スカートが広がる感じが人形みたいに可愛いマリーにぴったりだ。
「明るい色がマリーに似合ってるわ」
「ありがとう。セリーヌもすごく合ってるわ」
「そうかしら」
淡いピンクのスカートは細みだから、二人より背が高いセリーヌ向きに見えた。色が気に入らないみたいだけど、セリーヌの雰囲気にも合ってる。
「可愛いわ」
「そう……。たまにはこういうのも良いかしら。今日のブラウスにも合うし」
「良いわよね。私、このまま着て行く」
「私もそうするわ」
二人が店員の方に行く。
ユリアはまだかな。
店内を見回す。
店には服以外にも小物も置いてる。
こういうスカーフなら、フラーダリーにも似合うかもしれない。
お小遣いを持ってくるんだった。
買い物に出かけるってことは、フラーダリーへのプレゼントも選べたのに。
お小遣いは、毎月定額ずつフラーダリーがくれる。好きなものを買って良いって言われているけど、学用品や日用品、消耗品等を買うのに必要だろうから、まだ使ってない。
ただ、フラーダリーが喜ぶものなら買いたかった。
「お待たせ」
ユリアが戻ってきた。
「わぁ。可愛い」
「ユリアにぴったりだわ」
「えへへー」
ユリアが微笑む。
似合ってる。
「ありがとぉ、エル。皆、もう買っちゃったぁ?」
「えぇ」
「じゃあ、私も買ってくるねぇ」
ユリアもそのまま着て行くらしい。
「エルって、センスあるのね。どこで磨いたの?」
磨く?
「おしゃれが好きなら、男性用のお店にも行きましょうか」
興味ない。
「スカーフ?選んであげるわ」
なんで、俺が女物のスカーフを着けると思うんだ。
「フラーダリーのを見てるんじゃない?」
「そうなの?フラーダリーと言えば白百合よね」
白百合?
「知らないの?」
「っていうか、エルって、フラーダリーのこと、どこまで知ってるの?」
そっちこそ。なんで、俺がフラーダリーと一緒に居ることに疑問がないんだ。
俺の保護者がフラーダリーだってことは周知してないはずなのに。
「あんた、本当に無口よね」
「言いたくないなら仕方ないわ。でも、フラーダリーが留学生の後見人になったって噂は貴族の間で有名なのよ。お母様も知ってたわ。アレクシス様とも仲が良いってことは、彼女が王族の関係者だって知ってるのよね?」
フラーダリーは王族じゃない。
国王の妾腹だけど、王族の地位を捨てて一般人になっている。
でも、フラーダリーが王家の血を引いてるのは事実だから、子供を引き取ったら目立つんだろう。
引き取ったっていうか……。年が近過ぎるせいで養子縁組が出来なかったから、俺とフラーダリーの関係は、留学生と後見人だ。ラングリオンは財力のある成人の養子縁組を認めてるはずなのに、八歳差じゃ駄目らしい。
いや、もうすぐ七歳差か。
「皆、何してるのぉ?」
ユリア。
「フラーダリーのスカーフを見てたのよ」
「良いねぇ。やっぱり百合かなぁ」
「そうね」
「フラーダリーは百合の魔法使いって二つ名があるのよ」
百合の魔法使い。
フラーダリーが扱うのは大地の魔法なのに?
でも、フラーダリーは花が好きだから、花の名前が合ってるのかも。
「こっちも素敵だわ」
「こっちはぁ?」
「もう少し大人っぽいのが良いかしら」
いつの間にか本格的にフラーダリーのものを選ぶことになってる。
見てただけなのに。
「教えてあげよっかぁ?」
教える?
ユリアが、スカーフを自分の首に巻く。
スカーフの巻き方を見てると思われたらしい。
「この結び方はぁ、片リボン」
店に飾られていた巻き方だ。
「こうするとぉ、可愛いリボンが出来るんだぁ。フリルをこんな風にするのも可愛いんだよぉ」
色々あるらしい。
でも、フラーダリーに似合いそうなのは最初のやつかな。
来客を知らせる扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
フラーダリーだ。
「エル、皆。……良かった。まだここに居たんだね」
走ってきたらしい。少し、息を切らしてる。
「皆、エルと一緒に居てくれてありがとう」
三人が顔を見合わせる。
「友達だもの。当然だわ」
友達?
「今日の服はぁ、全部、エルが選んでくれたんだぁ」
「そうだったの。皆、すごく可愛いね」
「うんっ」
「ありがとう」
「良いのを買えたわ」
友達は、片方がそう思っているなら、宣言しなくても勝手になってるものなのかもしれない。
「今、あなたのスカーフを見ていたところだったのよ」
「私の?」
「こんなのはどうかしら」
乳白色のスカーフだ。白百合の模様が丁寧に装飾されている。
「エルも良いと思うわよね?」
フラーダリーに似合いそう。
「ありがとう。じゃあ、私も買って行こうかな」
フラーダリーがスカーフを持って店員の方へ行く。
「あ、私たちはもう行きますね」
「うん。気を付けてね」
「はい」
「エル、また休み明けにね」
「またねぇ」
「またね」
三人に手を振る。
女の子って、ずっと喋り続けてるな。
喋れないこと、気づかれるかと思ったけど。全然、そんなことなかった。
ロリポップを食べてたからかもしれない。
飴部分がなくなった棒を口から出す。
「ゴミはゴミ箱にね」
頷いて、ポケットに入れておいた包み紙と一緒にゴミ箱に捨てる。
「お待たせ。さぁ、行こうか」
ちょっと待って。
フラーダリーが買ったスカーフを、フラーダリーの首に片リボンの結び方で結ぶ。
「ありがとう」
良かった。
気に入ってくれたみたいだ。
※
その後も三日月顔の猫通りを歩いたけど、特に欲しい物は見つからなかった。
でも、途中で本屋を見つけたから、そこで山ほど本を買って貰った。こんなに買って貰って良いのかってぐらいたくさんだったけど、フラーダリーが満足そうだから良いか。
このまま帰るのかと思ったら、更にカフェに寄ることになった。
ウエストのプラリネ通りにあるショコラの専門店。
ショコラトリー・ウォルカ。
……なんていうか。
この通りのイメージともかけ離れた、明らかに目立つ外観をした店だ。
フラーダリーが笑う。
「見た目は変わってるけど、アレクが気に入ってるショコラティエだからね。味は保証するよ」
アレクが好きな店なら間違いないだろう。
アレクはショコラが好きだから。
フラーダリーと一緒に店に入る。
「やぁいらっしゃいフラーダリー。君の弟君が来ないなんて非常に残念だがここは新しい出会いを祝うとしよう。なかなか甘いものが好きそうな子だね。君に合いそうなのはあれだ。お近づきの印にこれをどうぞ」
早口で良く聞き取れなかったけど、ショコラを出された。
一口サイズのボンボンショコラを口に放り込む。
その瞬間、口の中で溶けて香りが立つ。
なんだこれ。
すごく美味しい。
「ね?アレクが気に入るのが解るだろう?」
すごい。こんなの初めて。
「カフェコーナーで食べるケーキを選んでくれるかい」
どれにしようかな。どれも美味しそう。
……これ。
「これだね。ウォルカ、ガトーオペラを一つとフロランタンショコラサブレを。……エルは、コーヒーで良いかい」
頷く。
「それから、コーヒーを二つ」
「かしこまりました。カフェコーナーで少々お待ち下さい」
楽しみだ。
※
ガトーオペラは、甘くて、上品で、すごく美味しかった。ラングリオンには美味しいものがたくさんあるけど、あれは群を抜いて美味しかった。
俺が浮かれ過ぎてたせいか、フラーダリーがお土産をたくさん買っていた。焼菓子はもちろん、製菓用のショコラまで。
フラーダリーは何かと俺を甘やかしたがる。
そこまでしなくても良いのに。
でも、楽しい一日だった。
勉強をしないで過ごしたのってどれぐらいぶりだろう。
……駄目だな。
明日はカミーユとシャルロが家に来る予定だから、休み中に進める予定だった勉強をやろう。
成績が良いとフラーダリーが喜んでくれるから。
一階のキッチンからは良い匂いがする。
今日の夕飯は何かな。
フラーダリーは、ビスクって言っていた。エビを使った料理らしい。楽しみだ。
※
夕食後は、のんびりお風呂に入って湯上りに水を飲む。
ラングリオンは豊かな国だ。いつでも冷たい水が飲めるし、たっぷりのお湯も使える。それに、食材が豊富で料理の幅も広い。ビスクもとても美味しかった。
王都を支える水の管理について勉強するのも面白そうだな。
そういえば、ナルセスは水の専門科だっけ。
王都に来てからずっと俺の治療を担当している医者。王立魔術師養成所時代からのフラーダリーの同期で、錬金術研究所で働く研究者だ。
養成所に入ってからは、ずっと会ってない。
今度は、いつ会いに行くんだろう。
「ちゃんと乾かさないと風邪を引くよ」
水を飲んでいた俺の頭にフラーダリーがタオルをかける。
まだ濡れていたのかもしれない。でも、これだけ暑い夏に風邪なんか引くわけがない。
そんなことしなくても……。
タオルを引っ張って目が合った瞬間、フラーダリーが悲しそうな顔をした。
……ごめんなさい。
そんな顔をさせるつもりなんてなかった。
もう一度、タオルを被って椅子に座る。
腕を引くと、フラーダリーが俺の髪を拭いてくれた。
フラーダリーがいつも俺の心配をしてるのは知ってる。
心配し過ぎなぐらい。
気を使い過ぎなぐらい。
いつも、大切にしてくれてる。
……少し、母親のことを思い出す。
俺を産んだ母は居ない。
その後の母は、こんな風に俺に気を使っていた。母親になってくれようとしていたんだと思う。母が作ってくれたシナモンの効いた甘いおやつは良く覚えてる。裁縫が好きな人で、妊娠してからずっと赤ちゃんの為の小物や、赤ちゃんを包む布なんかを作っていた。
でも……。
「ごめんね」
フラーダリーが後ろから俺を抱きしめる。
何が?
「ちゃんとした親になれなくて」
フラーダリーを見上げる。
俺は、ちゃんとした親がどういうものか知らない。
でも、フラーダリーと一緒に居て楽しい。
だから、そのままで居て。
「君は、とても良い子だよ。私と一緒に居てくれて、ありがとう」
それは、俺が言いたいことだ。
俺と一緒に居てくれて、ありがとう。
「そろそろ寝ようか」
フラーダリー。
本当に伝えたいことは声に出さないと伝わらない。