盲目の歌姫
盲目の歌姫、レーメとはプロメシアの極一部では有名な存在であった。
しかしそれは決して良い意味ではない、それは彼女の出自を揶揄した言葉だ。
首都プロメシア、この都市は一見すればアルクール公国の名に恥じない華やかさがあり治安も良く、オークレア大陸に住むものなら誰しもが訪れたいと願う街である。しかし、人口の流入の多いこの街が栄華のみと言う一面だけで済むはずはない。試練の塔からも近いこの街には多くの者が訪れ、この国で身を立てる事を夢見る。
しかし、ファラク達が本拠を構えるバレンシア大通り。その大通りから一本裏路地へと足を運ぼうものなら全く別の側面をもった街が顔を覗かせる。
さしずめ夢散った残骸であろうか。建物により太陽が遮断され、薄暗くなった裏路地へと入れば、一転して犯罪の横行する街へと早変わりする。奴隷が売買され、冒険者崩れは窃盗、強奪を繰り返し、どんな効果があるか分からないような謎のアイテムが市場価格に喧嘩を売るような値段で販売される。
諦めた者。
あがく者。
野望に燃えるもの。
享楽に身を任せるもの。
様々な者がいるが、一度この地区へと追いやられた者が這い上がれる事は皆無に等しい。公国そのものに忘れられた犯罪特区。
盲目の少女レーメはそんな所で生まれ育った。
彼女の両親はこの試練の塔へと挑戦しにきた冒険者であった。
ギルドを作り、試練の塔へと挑み。そして夢半ばに散った両親。
母は他界し、病気で動けなくなった父をなんとか養う為、目の見えないレーメが必死に考えた末、とった手段が歌う事であった。
そんな特区から薄汚れた格好で広場を訪れ、歌う彼女に手を貸すものはいない、そんな彼女についた渾名が盲目の歌姫だ。
夕暮れ時の時間、何時もよりも多めに稼ぐことに成功した彼女は、闇市でいつもの通り屑パンと、しなびた野菜を買い家路についた。
バタンと、家の扉を閉じ、ほっと息をついた。何事もなく済んだと。すると声をかけられた。
「お帰り、随分嬉しそうな顔をしているね」
ゴホゴホと咳をしながら、父ペドロの言葉。
レーメは見えない瞳をただ声の方へと向ける。
尋ねた父はベッドの上にいる筈だ。声の方角からしてもそう。というよりペドロがベッド上から出る事は少ない。
足を欠損しているし、病気の身ではベッドから起き出す事も難しのだから。
それよりも、自分はそんな顔をしていたのだろうか、そう思い自分の手で頬を触れてみる。ずっと昔に視力を失って以来。あまり表情を意識したことはないが、意識してみれば口角が上がっている事に気付く。
ただいま、そう返したレーメに父ペドロが告げる。
「お前がそんな顔をしているのは久しぶりだね」
「今日は20ルシカも稼いだんですお父様」
そう、ここ数日は彼女にとっては大入りだ。曲にして4曲分。歌を売り物にしてみたのは良いが、普段は全くと言って良いほど稼ぎはない。一曲分の5ルシカをなんとか稼ぐのが関の山だった。
「それは凄いね」
ペドロの喜びの声、だがその声は稼いだゆえではなく、彼女の努力が実った事に対してだ。
歌は妻が色々教えていたとはいえ、野外で歌ったところでお金を払ってくれる人は少ない。その上彼女の身なり、一見して犯罪特区に住むであろうと分かる。そんな彼女に関わろうとする者は滅多にいない。この街に馴染みのないものが時折、不憫に思いながら曲を注文するくらいであろう。
現に4曲分である20ルシカは彼女にとって破格の報酬であった。
「はい、お陰で今日はお野菜も買えましたよ」
そう笑顔で告げたレーメは台所へ足を運ぶ。
目の見えない者とは思えない動きで器用に料理をするレーメ。全ての調理器具が、調味料が。寸分違わずいつも同じ場所に置くことで、レーメは料理をこなす事ができる。
この家にしてもそうだ。寸分違わず同じ場所に同じもの。そのお陰でこの家の中でレーメは健常者と同様の生活ができる。
ゆっくりと時間をかけて料理を作り、レーメがトレイを父に差し出し、自らはテーブルに着き食事を始める。
ふとレーメは今日不思議な男に言われたことを思い出し、父に尋ねた。父に相談すべきことでもあったからだ。
「お父様、今日酒場で歌わないかとお誘いを受けたのですがどう思われますか?」
「酒場でかい?」
ペドロの声に困惑の声の色が混じった事にレーメは気付いている。酒場で歌えば給金として一定の報酬を得られるであろう。その額は言うまでもなく、現状よりも良くなる。
だが酒場の開く夜の時間帯に働く事となる。そうなれば帰路につく時間は人が寝静まるような夜更け。当然女がそんな時間に犯罪特区で彷徨しようものなら、体所か命の保証もない。
それを理解した上で、レーメは先を続ける。
「はい、今日歌を聴いてくれた方が酒場で歌わないかって。今酒場で用心棒のお仕事をされているらしくて。帰りが危険だからと断ろうとしたのですけど、それなら家まで送るって」
話を聞いたペドロは言葉を返さず黙った。
話が本当であれば願ってもない話ではある。毎日の日銭を稼ぐのも苦労する今の現状が少しは変わるかもしれない。だが犯罪特区に長年住んでいるペドロは素直にその話を信じる事ができない。
目の見えない娘に近づいて何が目的だ?
甘い話には罠がある。特にここ犯罪特区にはその手の話には事欠かない。
断るべきだ。そう考え口を開こうとした瞬間。ペドロは閉口した。
「その男はどんな男だったんだい?」
娘が今まで見たことない位楽しそうな顔をしていたからだ。
「とても変な人だったんです」
――そう、とても不思議な人
ここ数日毎日の様に声を掛けてきては歌をお願いしてくる。
私なんかの歌をもっと聴きたいと言ってくれる。
ここ最近は、毎日彼の為に歌っている。
彼だけの為に、歌っている。
声からして若い男性のように思う。
だけど言動から時折年齢が分からなくなるような事がある。
まるで何も知らない子供のような印象にも、どこか老成したようにも……
悪い人ではないと思う。
彼の言葉からはしがらみを感じない
彼の言葉からは裏を感じない。
目の見えない私には分かる。
彼の姿が見えない私だから分かる。
彼は、人じゃないかもしれない。
自分は人族だって言ってたけど、違う気がする。
でも嘘を言ってる声じゃない。
それがなんだか気になって、なんだか気になって。
彼の事を考えてしまう。
頭の中の、想像の中での彼の輪郭が、ぼやける。
形が決まらない。
そんな人は初めて。
だから思う。
人じゃないかもしれない。
ファラクさん
自由な人。
真っ白な人。
形の決まらない人。
人じゃないかもしれない人
彼が私に話しかけるその声は、本当に嬉しそう。
他の人にも……そうなのかな?
「そうか、その顔を見れば良い出会いだったのだろうね」
どんな顔なのだろう? そうレーメは思ったが、答える。
「はい、ここ最近毎日歌を聴きに来てくれるんです」
ここ最近の少し豪華になった食卓事情に関わっている男であると考えれば少しだけ話を聞いても良いかと思う気にはなった。
「それじゃあその人に感謝しないとね、ここ最近食事が豪華になったのは彼のお陰と言うわけだね」
話しながらレーメはファラクと名乗った彼の事を考えていた。
目が見えない自分に毎日のように構ってくれる人。レーメはいつもわざと薄汚れた格好をしている。目の見えないレーメが犯罪特区に住んでいればいつ男の欲望にさらされるか分からない。それを危惧した父に言われ、いつも仕事に出かける前に体を汚すのだ。幸いにして目の見えない彼女にとって体が汚れていたり、ぼろの服を着ることになんら抵抗がなかったのもあり、今の所そんな姿のお陰か父が心配するような女故の危険にあったことはなかった。
だが自分に近づいてくる者も勿論いない、それなのに彼はなんら気にすることなく話し掛けてくるのだ。そればかりか彼の声からは力強さと、なぜかレーメに対して慈しむように声が発せられるのだ。目が見えないゆえ発達した耳が、本人にも気がつかない僅かな感情を正鵠に捉えていた。
だから彼なら信用しても良いと、そう彼女は思っていた。
しばしの静寂、ペドロが考えを纏めているのであろうその間が破られるのを、レーメは待った。
「条件がある、その男を一度連れてきなさい」
◇◆◇
ファラクは何を持ってレーメに酒場で歌う事を進めたのか、それはひとえに自分の為であった。
彼女の声をもっと聴いていたい。それがファラクの感じていたこと。
自らに生まれた新たな感情と向き合い、追求するためにも彼女と接する時間を増やしたいと考えていた。
用心棒と言う仕事が良かったのだろう。
酒場で酒を飲みながら、かといってミスは無く、マリーに言われた殺さずを守りながら、酔っ払いの揉め事を苦も無く取り除くファラクにポーラや酒場の女性達が心を開くのにさしたる時間は掛からなかった。用心棒と言えば屈強な強面な者が多く、それと比較すればファラクの様な一見柔和で険のない顔立ちは話しやすく色々な相談をしやすかったのであろう。
そうしてすっかりお気に入りになった酒を片手にポーラの愚痴を聞いている折り、歌い手が欲しいと聞いたのがきっかけであった。
すぐさまファラクの頭にはレーメの姿が思い浮かび、彼女を連れて来てもいいかポーラに話した。
ざっくばらんなポーラの回答は悩むこと無く「連れてきてみて」だった。
その話を翌日レーメへと話し現在に至る。
そんなファラクは今レーメの家にお呼ばれしていた。未だ諸事情に疎いファラクは特に考えるまでもなく、レーメの家に行くことを承諾した。ファラクの中ではこちらが願った立場なのだから相手の条件も呑むべきだ。そういう考えであった。
「ベッドの上からで申し訳ないですが、本日はお越しくださってありがとうございますファラクさん、父のペドロです」
ファラクは声の主であるペドロからの言葉を受けていた。
病気なのだろうか、時折咳をするペドロは何か病を抱えているのだろうとファラクは気付く。
「ファラクだ、オルフェウスのギルドに所属している」
いつものようにファラクはカードで身分を明かし、家の中を見渡した。
ファラクの知る家よりも随分と質素な家である。
マリーの家はさておき、今は仮住まいとなっているギルド。それらと比較しても明らかな違いがあった。
保冷するための魔冷箱どころか、辺りを明るくするための魔光の設備もない。辛うじて調理するためであろうかキッチン周りだけなんとか揃えられているといった状況である。
そんな中、「お客様にお出しするのは気が引けるのですが」とレーメが作り差し出した料理を見てファラクは思う。
これは――酷いな。
レーメの料理が酷い訳ではない。
その量が――だ。
まともな暮らしができていないのはすぐに分かった。レーメが痩せている原因はこれなのであろう。
ファラク自身今はギルドの借金を返すためにエヴァンから必要最低限の依頼料しか受け取っていないが、ある程度物価の概念も理解出来る今、彼女達の現状を理解できた。
「お口に合いませんでしたか?」
恐る恐る、レーメが口を開く。その様子をペドロが見守っている。
「いや、二人は食べていないのではないか? レーメを見ていて思ったが、随分痩せている。お前達が食べた方が良いだろう」
「いえ、お客人を僅かでも、おもてなしをしたいのです。どうか私達の事は気にせず食べてください」
些か考えるように間を取った後ペドロが答える。そういうものなのか。そう考えてファラクは口を付けた。
「ど……どうでしょうか?」
食べた気配を察してレーメの言葉。
「美味い……」
掛け値なしに、だ。闇市で売られている屑ものでしかない。
それを卵と牛乳でつけ込んで焼き上げたパン、屑野菜と捨てる部分でしかない内臓のスープも内臓臭さも無く、丁寧に料理されたスープとなっている。
料理を作る事を覚えたファラクには感嘆の声が上がる料理であった。
そんなファラクの声には嘘偽りない気持ちが乗る。それを敏感にレーメが察知し、思わず顔を綻ばせる。
ペドロはそんなレーメとファラクの顔を見ていた。
娘であるレーメの表情は見たことがないくらい生き生きとしていた。本人に自覚があるのかどうかは定かではなかったが。
そして今日の料理。常の食事よりもかなり豪華ではあるのだが、表の街に住むファラクからすれば屑の材料しか使っていない。内臓の料理など人によれば出した時点で即刻顔をしかめるものだがファラクからそんなものは微塵も読み取れなかった。何よりも声から人の本心を読み取る事のできるレーメが心から喜んでいるのだから。
そんな二人の表情を見るもペドロは計りかねていた。
ファラクという男。
見た目の年齢は十七から二十歳くらいにみえるだろうか、だが最初に一目みた雰囲気ではもっと年上に見えた。そして食事をするその表情は逆に子供の様に見間違えた。
その年齢に見合わない程真っ直ぐに澄んだ瞳を見ていれば彼が騙そうとしているような人間には見えない。
だが不審な点もある。
その身なりだ。
話に由ると駆け出しの冒険者と言うこと、それにしては着ている服装が立派過ぎるのだ。
まるで貴族があつらえたように黒皮のジャケットは魔法陣も描かれていた。一目見て良いものであると分かる、その上でデザインも考えられたその服は駆け出しの冒険者が着るような服ではない。
どこかちぐはぐ。そう、ちぐはぐなのだ。
ペドロは様々な事を考え。そして止めた。
憶測に憶測を重ねた所で仕方がない。
彼の人となりは娘の方が知っている。
服装はどうあれ、彼の態度に悪意は感じられないのは確か。
なら娘の判断に任せるのがいいだろうと、娘のレーメはその耳で人の心を見透かす、僅かな声の変化。それで人の内面を知るのが娘だ。その娘があんな顔をしているのだから。信じてみるのが良いだろう。そう判断した。
そも、どちらかと言うとペドロはあってみて判断、と言うよりも娘にあんな顔をさせた男を見てみたかったのだ。
「ファラクさん」
レーメが食べ終わった食器を洗いに行った最中、ペドロがファラクに声を掛ける。
「なんだろうか?」
真っ直ぐにペドロを見るファラク。ペドロは目を瞑り、ベッドの上で低頭した。
「娘の事を宜しくお願いします。あれは目も見えず、苦労ばかりしてきた娘です。女の幸せを掴める事など無いと思っていましたが……今日あれの顔を見て決心がつきました。あれの事を宜しくお願いします」
「なら、彼女を酒場に連れて行っても良いのか?」
ファラクが彼の意図に気付く事はなかった。
「守ってくださるのでしょう?」
「ああ、帰りが危険だという事は聞いた、家まで送るさ」
「なら安心です。定職に就けるのですからこちらこそお願いしたい位です」
「分かった、今日の夜。彼女を酒場に連れて行くつもりだがいいか?」
「構いません」
「いいのですかお父様?」
台所から戻ってきたレーメが割って入る。声に若干の驚きが含まれていた。
「ああ、行っておいで、こんなチャンスは滅多にないからね」
ペドロが笑顔で告げると、ベッドから身を起こす。立てかけてあった杖を手に取り、ひょこひょこと歩き出した。
タンスを開け、ごそごそと奥の方から一着のドレスを手に取るとレーメに手渡し、笑顔を浮かべる。
「お父様、これは?」
「お前の母が着ていたものだよ、あれも昔はこんなドレスを着て、歌っていたものだ」
「見れないのが残念です」
渡されたドレスをレーメはぎゅっと胸に抱いた。
「娘にこれを着せてやってください、後は身なりを綺麗にする為にどこかでシャワーを浴びれればいいのですが」
ファラクに向き直ると、困ったように尋ねた。レーメの薄汚れた格好では酒場には相応しくない。
「それならうちのギルドに寄ればいい、そこなら身なりを整える事ができる」
「ご迷惑をお掛けしますがお願いします」
ファラクが肯定を返すと、ファラクはレーメの手を取り、ギルドへと向かった。
男性と手を繋ぐ等初めての経験である。気恥ずかしいのはあるが、レーメ自身ギルドの場所も酒場も知らない、仕方が無いと一人気恥ずかしさを感じながらも手を振り払う事をしなかった。
彼の手は大きく。硬く。暖かかった。
ファラクの住むギルドからレーメの家まではさほど距離はない、バレンシア大通りは物価が高く栄えた場所であるのだが、当時有数のギルドであったオルフェウスが本拠を構えるにはうってつけであったのだろう。人の行き来の多い広場も近く、それゆえレーメとの出会いがあったのも確かであろう。
手を引いて彼女をギルドへと連れ帰るとエヴァンがいつものように事務仕事をこなし、シンディがソファーで絵本を読んでいた。入ると同時、エヴァンがこちらへと気がつき、ファラク、レーメと順に視線を動かす。
「ファラクさん、その人は?」
「レーメだ、酒場の仕事に連れて行く。酒場で歌って貰おうと思ってな、連れて行く前にシャワーを浴びさせに寄ったんだ」
薄汚れた格好を見てエヴァンは考えるかのように顎に手を当てる。
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
頭を振ってファラクの問いに答えるとエヴァンは、シンディにシャワーまで連れて行って身を綺麗にさせるよう頼む。盲目の彼女には付き添いが必要であろうし、その役目をファラクにさせる訳にはいかない。
ホールで二人を見送った後、ファラクはソファーへと腰を落とした。
「マリーの仕事が成功するしないに関わらず、後二日程この依頼を続ければ借金返済の額が貯まります」
再びエヴァンが視線を書面に落としたまま口をついた。声が普段よりも明るい。
「そうか、それなら安心だな」
「ええ、色々ご迷惑をお掛けしました。借金を返し終わった後の報酬には色を付けますよ」
「別に必要ないけどな」
「いえ、色々これから入り用になると思いますよ」
さっとエヴァンがファラクを見ると、シャワールームの方へと目配せし、再びファラクを見る。
何かその行動に意図があるのは分かったが何がしたいのか分からない。
「何だ?」
「いえいえ、ファラクさん、女性との付き合いはお金が掛かるものなんですよ」
「……?」
本気で分からない顔をするファラクにやれやれとエヴァンがため息をつく。
ファラクは彼女と一緒にいるときの自分の表情に気がついていないのだろうか。
「まぁいいです。そうですね。多めにお渡しした依頼料で彼女に何かプレゼントすれば良いかと思いますよ」
レーメがファラクに対してどういう気持ちを持っているか分からないが、少なくともエヴァンの声を聴いた時、彼女に緊張が走り、僅かにファラクに近づいた事は確か。少なくとも彼女はファラクを頼っている事をエヴァンは見逃さなかった。
それにしてもこの男はとため息をつき、女性の扱いについて講義でもしようかとエヴァンが考えていると、レーメがシンディに手を引かれて出てきた。
ほう、とエヴァンが感嘆の声を上げる。
薄汚れた格好をしてはいたが、美人だとは思っていた。身を綺麗にして、純白のドレスに身を包む彼女は、盲目であると言う事を差し引いてもほしがる者はいくらでもいるだろう。
あまり食べていないのであろうその体は発育不足と言う感は否めない、肉付きの少ない線の細い体と透き通るような肌の色は病的ではあるものの男の庇護欲をかき立てるだろう。
次いでエヴァンはファラクを見た。
予想通り目を奪われている、彼女をじっと呆けたように見つめる彼は明らかに彼女に惹かれているているように見える。先程の会話から本人が気がついていないようだが。
(自分の事ほど分からないとはいいますが、彼は相当なようですね)
うちの期待の新人は女性には疎い様だと、エヴァンは微笑ましく二人を見ていた。
「あの、ファラクさん、どうですか?」
もじもじと恥ずかしそうに告げる声。
「あ、ああ。立派な服だな」
(あぁもう、この男は何を言ってるんですか!)
やや内心呆れ気味にファラクに悪態をつく。それでもレーメは嬉しかったのか、屈託のない顔で微笑んでいた。
深く事情を知っているわけではないが、犯罪特区に住むと一目で分かる彼女の手助けしているのだ、彼女に情を寄せられてもおかしくはない。
(ですが、犯罪特区の少女とファラクさん。問題が起きないか注意する必要がありますね)
「ファラクさん、そろそろ向かわねば間に合わなくなりますよ」
年若い二人のやりとりを眺めつつ、内心の考えを胸に残したまま、ファラク達を仕事へと送り出した。
ギルドから出たファラクはレーメの手を握り、酒場へと先導していく。着いた時はその妙な取り合わせで注目を浴びていたようだが、今度は誰も気にする様子はない。
時間があれば肉でも食べたい所であったが、あいにくと時間は少なく、ファラクとレーメはやや早足で酒場へと赴いた。
店へと入ると酒場の主であるポーラに引き合わせる。緊張した面持ちでポーラに受け答えするレーメは、ファラクの手を握る右手に僅かに力がはいっていた。
歌のテストをするとポーラが彼女を連れてファラクを残し、従業員の部屋へと連れて行く。
ファラク二人が見えなくなるとさきほどまでレーメが握っていた左手を見る。
手に彼女の温もりが残っている。
不思議だ。なぜだかぽっかりと心に穴が空いたように感じる。
先程までの充足感が嘘のように、物足りなさを感じる。
もっとああしていたかった……のか?
理由と言えばそうとしか考えられない。
そう結論づけたファラクはそれ以上考える事を止めると、カウンターの裏からファラク専用に取ってあるボトルを引っ張り出すと椅子へと腰を下ろし、カウンターで一杯やり始めた。
暫く酒を楽しんでいると。ポーラが戻ってくる。
「良い感じよあの子、歌も上手いし容姿も十分だね。目が見えないんだからあんたがフォローしてやんなよ」
笑顔で伝えてくる彼女に、そうだろうと、酒を呷りながら返した。
レーメは緊張した面持ちで身を硬くし、顔にぱたぱたとお化粧されるのを耐えていた。
薄暗いホールの中でも映える化粧をされているのだ。
化粧など攫われないように泥化粧をするくらいだ。女性として化粧をするなど初めての経験。自分で見えないのが残念にも感じる。
ファラクに連れられてきた酒場、歌のテストに合格を貰った後、説明を受けた。
歌専門となる為、配膳もこなす女性達ほど稼げる訳ではないが、それでも日に100ルシカと今までの収入から考えるとかなりのものとなる。今の所暫定ではあるが、客の反応によればさらに出して貰える事もあるという。これからの自分の働き次第だとレーメはぎゅっと手を強く握る。
「お化粧のノリがいいね、レーメちゃん」
「い……いえ、そんな事ないです」
「やっぱり若いからかな」
落胆した声。化粧をしてくれるポーラは30歳、それでも声から察するに十分若く感じるのだが。
「それにしてもいい男を捕まえてきたわね。どうやって捕まえたか教えて欲しい位よ」
本気でそう思ってはいないのだろう。声にからかうような色合いが含まれていた。
「いえ、捕まえたなんて……ファラクさんが私なんか相手をしてくれる事なんてないですよ。でも、ポーラさんの目から見ていい男なんですか?」
「ん? まぁそうね。用心棒としては満点ね、相手が武器を取り出しても難なく取り押さえちゃうし、冒険者としては有望なんじゃない? それにあの服。かなり高価なものじゃないかな。本人がお金持ちなのか、贈り物かはしらないけど」
贈り物、その言葉がレーメの心に影を落とす。
「どうしたの?」
変な顔でもしてしまったのだろうか。レーメは「何でもないです」と答えると、一先ず自分の心に差し込んだ気持ちに蓋をして仕事への気合いを入れなおした。
午後18時店が開く時間。
この時間ファラクの仕事はあまりない。用心棒として在籍するファラクの出番が多くなるのは主に夜更けだ。まだ飲み始めの者が多い中では特にすることもなく、時折店主のポーラや、店の従業員の頼み事を聞いて動く位である。
手持ち無沙汰なその時間、ファラクは読書をする。まだまだ知るべき事は沢山ある。
数時間ほどそうして時間を過ごすと、店内は賑わってくる。料理人の腕がいいのか、食事目的の者も多く、盛況な様相がこの職場での光景だ。
「ほら、ファラク。次、あの子が出るよ」
カウンターに立つポーラがファラクに目配せをするとホールの奥、壇上となったその場にレーメが現れる。
魔光装置による光がはなたれ、彼女を明るく照らし出す。
その様子に辺りが静まり。その場の者が聴衆と化した。
一転して静けさが漂ったその部屋の中、澄んだソプラノの声が響き渡った。その声が、ホールを支配し、聴衆は一心に耳を傾ける。
広場での歌と違い、聴衆に耳を傾けさせる為に作り出された状況が、彼女の、レーメの歌を際立たせる。
神々しいとはこういう時に使う言葉かもしれない。
優しく、柔らかな声で、
ファラクは息を呑むのも忘れ。彼女の声に、歌に聴き入っていた。
やがて。余韻を残し歌が終わる。
やはり彼女の声は特別なのだろう。そうファラクは目の前の喝采を耳にしながら思っていた。
「驚いたね、上手だと思ってたけどあそこまでとは思わなかったよ、それよりファラク、あの子を迎えに行って従業員の待機室まで送ってあげて。あの子は目が見えないんだからね」
「分かった」
通常配膳もこなす歌い手達は歌った後に配膳を行う。それが客の満足につながるらしいが、彼女にそれは難しい。
ファラクが壇上へと向かうとレーメの手を取る。びくりと体を揺らしたが、ファラクだと分かると逆に手を強く握ってくる。
ファラクはそのまま彼女を部屋へと連れて行くと、仕事の為、また店のホールへと戻る。
二度、三度レーメが歌い、手を引いては部屋へと連れて行く、四度目にそれは起った。
すっかり夜も更け、できあがった客も多いなか、歌い終えたレーメにファラクが近寄る前に、一人の男が近寄り彼女の手を握る。
ファラクと勘違いしたのかレーメはそのまま手を握っている。
男はにやりと笑うと、そのまま手を引いて彼女を外へと連れ出そうとする。
「ファラク――」
ポーラが何か言った気がする。
だがファラクにその言葉は聞えなかった。
言葉が発せられるよりも早く、ファラクは動き出していた。
身の内からわき出た激情が、ファラクを突き動かす。
頭が白くなり、一瞬意識が消し飛んだ。
ほんの一瞬、何か胸の奥からファラクとは別の存在が現れ、突き動かすように体が勝手に動いていた。
強力な彼の身体能力に、その一瞬は十分な時間であった。
ファラクがはっと思考を取り戻すと、男の腕をねじりながら組み伏せている。
ぎりぎりと音を立て、男の関節が軋む。
男が悪かった、悪かったと関節が軋む度に呻き謝っている。
もう僅かに力を込めれば彼の関節が壊れる。普段のファラクが行う力加減を明らかに超えていた。
どこか、ファラクはその光景を外から見ているような感覚に陥っていた。はっと現状を自覚し、ファラクは手を離した。
「すまない、お客、歌い手には触れるな」
力を込めすぎた事を詫び、男は慌てて席へと戻っていった。
レーメは何が起ったのか分からず。おろおろとしていた。
「大丈夫だ」
ファラクがそう告げ、彼女の手を取ると、安心したのかほっとした表情となった。その表情に言いしれぬ安堵を感じ、仕事中だと言うことを思い出すと彼女を部屋まで送った。
それ以後、荒事は起らなかったが、ファラクは席で一人自分の手をじっとみていた。
「今日もありがとう、気をつけて帰るのよ」
ポーラが先の言葉をファラクに、後の言葉を隣で手を繋ぐレーメに告げる。二人は頷くと店を出て、レーメの家へと向かった。
レーメはずっと無言でファラクに導かれるまま歩いている。
仕事を終えて疲れているのだろう。そう思って二人無言で歩いていると広場にさしかかった。ここを過ぎて裏路地まではいっていけばすぐレーメの家だ。
「あの……」
レーメが足を止めて口を開いた。手を引っ張られる感覚、その声にファラクも足を止めファラクは彼女に向き直った。
「どうした?」
「今日……男の人を取り押さえた時、怒っていたんですか?」
俯きながらレーメは辿々しく告げた。
「いや、どうなんだろうか」
「分からないんですか?」
なぜか少し悲しそうな顔になる。
「いや、一瞬何も考えられなくなった」
「ポーラさんが……あんなに怒ったファラクさんは初めて見たと言ってました」
その理由もポーラの考えを語られたが、レーメは話す気はない。
ファラクはファラクで色々考えてはいたが。
あれが怒ったという状態なのか。
なぜ怒ったは一先ず、怒ると言うことについて認識を深めただけであった。
「そうか、なら俺は怒っていたのだろう」
「どうして?」
「分からない、だが……あの男がレーメに触れた時、一瞬頭が白くなった、気がつけば男の腕をねじり上げていた」
自分で自分が分からず、ファラクはあのときの状態を話すしかなかった。
だがレーメにはそれで十分だった。レーメの目から涙が零れ落ちる。
初めて見る涙。だが涙を流したことのないファラクには、生理的な機能と言う意外に分からなかった。
悲しい。
辛い。
そして嬉しい。
いずれかが涙を催すと、ファラクは知識として得てはいる。だが何れも経験の無いファラクには、その涙は何を意味しているのか分からない。
「そう……ですか、ちょっといいですか?」
肯定を返すと、すっとレーメがファラクの顔を見上げ、その両手でファラクの顔を挟む。
「何をしてるんだ?」
そのまま彼女の手はファラクの頬から額、鼻、顎先へと指を這わせる。
「顔を覚えてるんです」
「顔を?」
「はい、目が見えないので、ファラクさんの顔を感触で覚えようと思って」
そう答え、何度も何度もファラクの顔に触れていた。彼女の涙は止まり、代わりに笑顔が浮かんでいた。