転生について
今回の考察は他の作者様に大変批判的なものとなっています。
そのことを重々承知の上で閲覧くださいますようお願い申し上げます。
今回はファンタジーものではごく当たり前とも言える『トリップ』もの、とくに『転生』について考察していこうと思う。
1、『転生』と『トリップ』
『トリップ』と『転生』を分けて考えるのが一般的なようだが、『転生』も『トリップ』の一形態にすぎない。
『トリップ』の定義は「現在の世界から本来移動不可能な異世界へとその存在を移すこと」と定めることができるだろう。
『転生』も間に「死」という過程が存在するだけで、「本来移動不可能な世界へその存在を移す」という点には違いがない。故に『転生』は『トリップ』の一形態であるといったのである。
さて、広辞苑によれば『転生』とは「生まれ変わること。輪廻。」とある。
ここでいう「生まれ変わる」は「死んで別の存在として生まれること」と定義できるだろう。では、どこまでの範囲が『転生』と言えるのかということを考察していこうと思う。
2、『転生』のパターン分けとその考察
『転生』ものでは神、ないしはそれに類する高位存在によって『転生』させられるのが一般的であろう。
このときの『転生』のパターンとしては「記憶はそのままで新たな両親のもとで乳児から開始」、「新たな両親のもとで一定年齢まで育った後、記憶を取り戻す」、「ある程度まで育った状態の身体をもらって開始」、「その世界の存在に憑依して開始」の四つだろうか。ここでの「開始」というのは「その世界の存在となった」ということだと解釈してもらいたい。
では、それぞれのパターンごとに考察していこう。
パターン1:記憶はそのまま新たな両親のもとで乳児から開始
これは正しく『転生』と言えるだろう。「前」の記憶を持っているが、それ以外は基本的には他の子供と同じ生まれ方である。故にそれについては問題ない。
しかし、「前」と同じ性格・思考形態をとるようになるだろうか。それ以前に、生まれた直後に明確な自我が存在することがあり得ないのだ。
人格の形成は遺伝と育ってきた環境とが複雑に絡み合ってなされるものだ。であるというのに遺伝子からして明らかに違う存在であるのに、同じ思考形態になるとはとても思えない。
たとえ生まれてすぐに「前」の自我が浮かんできたとしても、成長過程で上書きされていくことになるはずだ。人格形成に影響を与えることはあっても「前」と同じになるわけがないのだ。
それでも、「前」の自我の影響できわめて「前」によく似た人格が形成されることはあり得なくはないだろう。また、同様に「前」の自分が望んでいたような行動(原作介入・改変など)をとる可能性も高いといえよう。
パターン2:新たな両親のもとで一定年齢まで育った後、記憶を取り戻す
これも前項と同じく、人格が「前」と同じになるはずがないという問題がある。しかも、こちらのパターンの場合は人格形成の基礎段階で「前」の影響を受けないため、より「前」と乖離したものとなるだろう。
そんな状態で「前」の記憶を取り戻すとどうなるだろうか。長期にわたり、断片的に記憶が取り戻されていくならば、「今」を主体として人格・記憶の統合がなされていくことになるだろう。こちらの場合はうまく生活していけるだろう。
急に「前」の記憶を取り戻した場合は『転生』というよりも『憑依』に近いと思う。
結果としてはいくつかの場合が推測できる。
「今」が主体となって統合されれば、それまでの生活を続けていくことは可能だろう。しかし、主体が「今」である故に「前」の自分が望んだような行動を行うかは微妙な線だ。
「前」が主体になって統合された場合、「前」の自分が望んだように行動することはできる。しかし、周囲がそれを許すかどうかが問題だろう。下手をすると精神障害を疑われる結果となるだろう。
あるいはファンタジーものの世界であれば「悪魔憑き」として追われることになるかもしれない。最悪の場合はそのまま殺されるだろう。
人格の統合が失敗した場合、いわゆる「多重人格」になるか精神崩壊を起こすかのどちらかだろう。前者ならば普段は「今主体」、必要時には「前」といった人格の入れ替えによる印象操作なども可能だろう。しかしうまく切り替えられるようになるかが問題だ。
後者であればそのまま精神科に入院の運びとなって終わりだろう。あるいはそのまま衰弱死もありうる。もちろん「悪魔憑き」として扱われる可能性もあるが。
安全面でいうならばゆっくりと人格を統合させていく方がよいが、「前」で望んでいたような行動をとるかは結局のところ「今」の自分次第ということだ。
パターン3:ある程度まで育った状態の身体をもらって開始
この時点で『転生』であるのかはおおいに疑問である。「前」と同じ構成の身体や新たな身体に「前」の人格が入った状態で「開始」なわけだが、むしろこのパターンは『憑依』と『転移』の複合型と言うべきではないかと思う。なぜならその世界で「新たに生まれた」わけではないのだ。
たとえ「前」で死んでいるからと言って『転生』とは言えないだろう。幽霊が人形にとりつくことを『転生』とは言うだろうか。このパターンはいわばそれらに近い状態なのだ。
「生まれ変わった」わけではないので当然と言えるが人格面については「前」のものがそのまま引き継がれることになる。
だからと言って「前」から望んでいたように行動できるかというとそうでもないだろう。
まず第一の問題として戸籍などの存在に関する問題がある。最近は「開始」時にそれらの情報が改竄されていたりもするが、「開始」時点までの書類はあっても「存在」その物はないのでどこかで矛盾が出てくることになるだろう。
第二に金銭面での問題だ。通貨が完全に違う世界であるなら「前」の通貨を装飾品や素材として売り払うこともできるだろう。しかし、同じ通貨を使用している世界であれば「前」の通貨を使うことは犯罪である。小銭程度なら問題はないだろうが、札の場合は通し番号が振ってあり、それによって流通量が決められているのだ。「前」からの持ち越しは「偽造」と同義だ。
文化レベルが中世程度ならばとくに問題はないが、現代レベルなら警察組織のお世話になりかねない。
ただし中世レベルであった場合、命や貞操の危険が付きまとうことになるだろう。
パターン4:その世界の存在に憑依して開始
いわゆる『転生憑依』と呼ばれるものだ。しかし、なぜこのパターンが『転生』として扱われているのかははなはだ疑問であるが、おそらく「一度死んでいる」ということに着目した結果だろう。
さて、『憑依』の際に問題となるのは憑依先の年齢と記憶、周囲の環境についてだろう。
年齢は幼ければ幼いほど「前」の人格が優先されることになる。これは精神的な強度の関係だ。幼い精神は柔軟だが脆く、結果として「前」の精神に押しつぶされることになる。
それによって無事な「前」の精神が優先されることになるのだ。
ある程度成長した精神だと拮抗してどちらかが崩壊するか、共存するかということになるだろう。
やはり「前」の人格が望んだような行動をとりたいなら幼いうちに憑依した方が有利であるだろう。
記憶については、憑依先の身体の記憶を共有することで解決としているものが多い。
たしかにそれまでの情報は手に入るだろうが、それらはあまり有用なものではないと思われる。
「前」の精神に抑えつけられてしまうような未発達な精神が、「前」の人格が求めるような情報を持っているとは考えにくいのだ。
最低限の常識は手に入るだろうが、多くは望むべくもないと思われる。
そして周囲の環境が一番の問題だろう。もし、何かの実験体に憑依したなら、生き残れるかもわからない。逆に裕福で穏やかな家の子供に憑依したなら、安全に生き残れるだろう。
このような極端な話でなくても、憑依先の人物が置かれている状況による生存確率の変動はいかんともしがたい。
また、人間関係的な環境についても問題だ。『憑依』した時点で憑依先の精神よりも「前」の精神が優先されるようになれば、当然、言動や性格の違いを見咎められる。
そうなればパターン2で「前」の人格を主体として統合されたときと同じ危険があるだろう。
3、「転生者」の能力について
「転生者」は高位存在によって何らかの能力を付与されている場合が多い。
よくあるのは「不老不死」や他作品の技術・魔法、「アカシックレコード」への接続・掌握などであろうか。
「不老不死」については最初から破綻しているものも多い。とくに前項のパターン1の場合はそうだ。なぜならば成長と老化は同義とも言えるからだ。
老化しないならば当然成長もないわけで、永遠に乳児のままということになる。
ところが『転生』ものでは「原作」主人公と同じ身体年齢まで成長したりしている。この時点で「不老」ではなくなってしまっているのだ。まぁ、これについては一定年齢で発動ということにすればいいので大きな問題ではないだろう。
ただし、発動後は筋力トレーニングなどの効果は一切なくなるだろうが。
他作品の技術は知識として得るのはそう難しくはない。『転生』時に魂に刻み込むなりなんなりしてもらえばいいのだ。しかし、技術そのものの習得は難しいだろう。
技術とは、多くの経験の積み重ねで創られるものだ。相応に経験を積まなければ習得できるわけがない。武術や戦闘術であるならば、その技術を使うのに適した動き方、体つきなどの問題もある。
研鑽も積まずにそれらの技術を行使するのは、テレビでボクシングの試合を見ただけで、指導も受けずに本職の選手に挑むようなものだ。それで技術がものにできているわけがないし、当然勝つこともできないはずなのだ。
ところが、『転生』ものではそれを無視して技術を行使しているものも多々見られ、なおかつその世界でも上位の実力を持つ者に勝利したりしている。
そんなことができるわけがないのだ。それができるとしたら「刀語」の「鑢 七実」くらいの天才である。
他作品の魔法についてだが、これはそれぞれの世界観においてのみ通用する類のものが多いように思える。
たとえば、「ネギま!」の魔法を「リリカルなのは」の世界で使用しているものなども多く見かける。
「ネギま!」の魔法は精霊に「特定の呪文」に呼びかけることによって「特定の効果」が引き出される、いわゆる精霊魔法だ。
だが「リリカルなのは」の世界に精霊がいるとは思えない。仮にいたとしても「ネギま!」世界の呪文で「リリカルなのは」世界の精霊が応えてくれるわけがないだろう。
逆に「ネギま!」世界で「リリカルなのは」の魔法を使うことはできるだろう。「リリカルなのは」の魔法は完全に個人の資質によるものであり、魔力をプログラムに沿って行使するものであるため、精霊の有無も関係ない。故に「ネギま!」世界でも問題なく使えるだろう。
「アカシックレコード」への接続・掌握など、既に人間ではない。
「アカシックレコード」とは「世界のすべての現在・過去・未来の記録」である。それを掌握できるということはその世界を掌握するのに等しい。当然その負荷は相応のものになり、掌握した瞬間に死ぬか消えるかになるだろう。接続するだけであってもその危険は軽減されることはないと推測できる。脳への負担だけを考えても即死ものだろう。
人間一人分の情報量でもかなりのものだ。それが世界一つ分など、耐えられるわけがないのだ。
ほかによくあるのは「魔力値最大」「身体能力最大」などだろうか。
「最大」がどこであるかという問題はあるものの、それに基準を定めれば、魂レベルでの改変が必要にはなるが前者は一応可能であるだろう。
しかしながら後者は個人の努力次第だ。身体能力は素質とそれまでの鍛錬次第で変わってくる。「身体能力最大」になれる可能性があっても、当人が努力しなければ何ら意味のないものとなるだろう。
4、最後に
結局のところ、「転生者」は多くの矛盾や欠点をかかえた存在であるということだろう。
その生まれ方にしても、死んだのに生きているということにしても、その能力にしても、問題点・疑問点をあげていけばキリがないだろう。
今回の考察は『転生』ものの矛盾点や疑問点をあげるだけになってしまったのは、我ながら不満ではある。しかしながら、どこをどう変えれば矛盾がなくなるかと問われると、私は答えに窮するしかない。
なぜならば『転生』という時点で矛盾した事象であるといえるからだ。
いや、『転生』その物であるならば問題はない。しかし「前」の人格をもったままで、というのはやはりどこかに矛盾があるのだ。
故にこの考察についてはここまでとさせてもらおう。
意見・反論等があれば遠慮なく聞かせてもらいたい。
それによってさらにこの考察を深めることも可能であろう。
今回は『転生』ものの作者諸氏に批判的な物言いが多々あったかと思うが、一個人の戯言と流してもらえると非常にありがたい。
最初の予定では「転生とトリップについて」だったんですが、言いたいのは「転生もトリップの一種」ということだけだったので、転生のほうに焦点を据えてみました。
本文末尾にも書きましたように、今回はかなり批判的なものでありました。
これらはあくまで私個人の意見であります。
所詮戯言と流していただけますと大変ありがたいです。
最後に、かなり読みにくかったでしょうに、投げ出さずに最後まで読んでくださった貴殿に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。