第一話 補話 田村くんへのご褒美
目が覚めた。
心臓が、早鐘のように打っている。
夢を見た。冷たい風を切って落ちていく感覚。アスファルトが迫り、テレビから流れる無機質なニュースキャスターの声が耳にこびりついている。
「はぁっ……、はぁ……っ」
全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。
ここはどこだ。暗い。また、あの狭くて息の詰まる社宅のベッドか?
恐怖で体が強張った、その瞬間だった。
「……田村くん? 怖い夢、見たの?」
暗闇の中、ふわりと甘いネモフィラの香りがした。
視線を向けると、月明かりに照らされたベッドの端に、リィナが座っていた。
透き通るような白い肌。月の光に溶けてしまいそうなほど儚く、折れそうなほど細い手首。
彼女は、自分の華奢な体には少し大きすぎる、だぼっとした白いニットを着ていた。萌え袖のようになった指先が、僕の震える頬にそっと触れる。
「ひどい汗。……よしよし、もう大丈夫だよ。私がここにいるからね」
リィナは、まるで迷子の子猫をあやすように、甘く、とろけるような声で囁いた。
そのまま、細い腕で僕の頭をそっと引き寄せると、自分の柔らかい太ももの上に乗せた。
膝枕だ。
「……リィナ」
「ん? なあに?」
彼女は僕の髪に指を絡ませ、優しく、何度も何度も撫でる。
その手つきがあまりにも心地よくて、あまりにも僕が求めていたものそのもので。
「……これは、夢じゃないのか?」
思わず、口から零れていた。
「僕は本当は、あの屋上から落ちて……今見ているのは、死ぬ直前の脳が見せている、僕にとって都合のいい妄想なんじゃないかって」
そうだよな。
だって、こんなに可愛くて、儚げで、なのに僕のことだけをこんなに熱を帯びた瞳で見つめてくれる女の子が、急に全肯定してくれるなんて。
都合が良すぎる。妄想だとしか思えない。
僕の言葉を聞いたリィナは、少しだけ目を丸くしたあと、ふふっ、と悪戯っぽく笑った。
「田村くんは、本当に心配性だなぁ」
彼女は僕の顔を覗き込むように身を屈めた。
長い青色の髪が、さらりと僕の頬に落ちる。距離が、近い。
リィナの甘い吐息が顔にかかる距離で、彼女は自分の細い指を僕の指に絡め、ぎゅっと握りしめた。
「ほら、あったかいでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、次はこれ」
リィナは僕の手を引くと、それを自分の胸元……柔らかいニットの奥、左胸のあたりに押し当てた。
トクン、トクン、と。
彼女の少し早い鼓動が、手のひらを通して僕に直接伝わってくる。
「……妄想の女の子が、こんなにあったかくて、生身の鼓動があると思う?」
「……」
「田村くんが触ってくれたから、私の心臓、ちょっとドキドキしちゃってる。……分かる?」
上目遣いで、少しだけ頬を赤く染めて微笑む。
あざとい。自分の可愛さも、僕がどうすれば安心するかも、全部知っていてやっている。
でも、その計算の奥にあるのは、純度100%の「僕への執着」と「愛情」だった。
「田村くん、今まであの世界で、ずーっと一人で頑張ってきたんだよね。……偉いね。本当に、よく頑張ったね」
「……僕は、ただの部品なんだよ。自分殺して、愛想笑いして、壊れたら捨てられるだけの……」
「違う」
リィナの甘い声が、ふいに少しだけ強くなった。
僕の頬を両手で包み込み、逃げ場をなくすように見つめてくる。
「田村くんは部品なんかじゃない。そんなの、あの馬鹿な世界が勝手に決めただけのくだらないモノサシだよ」
「リィナ……」
「もう、笑いたくない時は笑わなくていい。誰かのために自分を削らなくていい。婚活? 市場価値? なにそれ。私はそんなの好きじゃない。」
「田村くんは、もう私がいなきゃ生きていけないくらい、だめだめになっちゃえばいいんだよ」
彼女は、僕の唇に自分の親指を優しく這わせながら、甘く囁き続けた。
「私が全部、甘やかしてあげる。ご飯も作ってあげるし、痛いところは撫でてあげるし、怖い夢を見たら朝までぎゅーってしててあげる」
「……そんなことしたら、僕、本当に何もできない人間になるぞ」
「うんっ、なって? 私、田村くんのお世話をするの、だーいすきだから」
満面の、とびきり可愛い笑顔だった。
僕をダメにすることを心の底から楽しんでいるような、でも、どこまでも深い愛情。
「ねえ、田村くん。あの世界にはもう、何一つ戻る理由なんてないでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、これからは私だけのものになってね。私も、田村くんだけのものだから」
リィナはゆっくりと顔を近づけ、僕の唇にちゅっ、と優しくキスを落とした。
柔らかい唇の感触と、ネモフィラの香りが僕の全てを包み込む。
鼻腔をくすぐる甘い香りに、何も考えられなくなる。
暗い場所が、好きだった。
青いネモフィラの香りに包まれた
甘美な暗闇が、大好きだった。
リィナは悲しそうな表情を見せ囁いた。
「田村くんは、そのままでいいの」




