表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

第一話:Nemophila

暗い場所が、好きだった。

誰にも邪魔をされず、人の目に触れないで。

期待や嘲笑、善意や悪意に触れずに済むから。


暗い場所が、好きだった。

光は、無慈悲に僕を照らす。

手段を変えて、刺し続けるんだ。


照らされるということは、見られること。

見られることは、測られるということだ。


市場価値とか、成果とか、将来性とか、

そういう曖昧なくせに、逃げ場のないモノサシで。


だから、僕は演じ続けている。

曖昧なモノサシで、社会に求められる自分を。


責任、数字、恋愛、人間関係。

どのモノサシで測られても大丈夫であろう、自分を演じて、演じて、演じ続けている。


暗い場所が、好きだった。

誰にも邪魔をされず、人の目に触れないで。

とうの昔に捨ててしまった、自分だけのモノサシが

ここならまだ残っている気がするから。




目が覚めた。

「まだ、生きてるのか...」


起き上がる理由を探すのに、数十分かかる。

ぼーっとしてるとスマホのアラームが鳴って、

止めて、天井を見る。

白いはずのそれは、妙に灰色に見える。

最初からこういう色だったのかもしれないな。

ただ、自分のほうが変わっただけで。


「いつまで、続けるんだろうな...」


誰に向けたわけでもない言葉が、喉の奥でほどけて消える。


会社に行けば、ちゃんとやる。

笑うし、相槌も打つし、謝るし、頭も下げる。

「田村くんは真面目だよね」なんて言われる。


満面の笑みで「真面目だけが、取り柄ですから!」

と返してみる。


真面目。


それはつまり、壊れてもいい部品ってことだろう。

替えは効くけど、壊れるまでは使う価値がある、

くらいの意味で。


帰り道、コンビニの明かりがやけに眩しくて、避けるように歩く。


明るい場所には、人がいる。

人がいる場所には、言葉がある。

言葉は、光。聞けば聞くほど、疲れてしまうから。


「新規案件任せたいんだけど」

「飲み会の幹事任せていい?」

「田村くん真面目でモテそう」

「いい人いそうだけどね」


吐き気がする。

そりゃ、貴方にとっていい人だ。

あなたが好きそうな僕を

演じているのだから。


いい人なんて、どこにもいない。


ピロン♫

結婚相談所からの、メッセージ通知。

恒例のお見送りの通達だ。

「お話自体は面白かったですが、少し話が冗長で気遣いの出来ない方とお見受けし...。」


思わず笑ってしまった。

お茶の時、演じ方を間違えたか。

「選ぶ側にいる貴方はさぞお偉いのでしょうね」


演じた自分で異性と付き合えて、家庭を作る?

そもそもそれが幸せなのだろうか?答えはきっと否で。

じゃあ、1人の方がいいじゃないか。

つまるところ本来の自分であれる場所なんて、どこにも無いんだ。


「世界中の人が消えて、僕だけになればいいのに」

自分以外みんな消えろ、は自分が消えたいと同義。

それに気づかないほど、

馬鹿でない事に、我ながら溜息が出た。


いつも、踏み出す勇気が出ない自分しかいないんだ。


社宅の屋上に出る。

夜の空気は冷たくて、肺に入ると少し痛い。


下を見れば、道路。

車のライトが流れていく。

これだけ距離が遠ければ、会話は聞こえないんだ。

夜の街に、僕一人だけみたいだった。


あそこに落ちたら、どうなるんだろう。


想像は、簡単だった。

怖さよりも、静けさの安堵が勝る。


終わってもいいんじゃないかな。

全部。


市場価値も、婚活も、責任も、期待も。

「誰かにとっての足りない」を埋めるだけの人生も、全部。


それは、僕にとって救いに近い響きだった。


手すりに手をかける。

冷たい。


「自分の価値を見出したかった。あわよくば、年収も、婚活、市場価値、全てなくして」

それは、贅沢なんだろうか。

少しだけ、体重を前に預ける。


風が吹く、新春とは思えない暖かな風が吹いた。

僕は目を瞑り...。きっとまだ踏み出せない僕を、誰かが後押ししてくれると思った。



「明らかにソフィアとは違う...いや現世とも違う景色...これは、成功か?!」


バン、という音と共に現代離れした若人が屋上へ入り込んできた。


「失礼。驚かせてしまった。俺はエイル。魔法都市ソフィアの生徒だ」


自然に名乗ってきた。

「は?」


間の抜けた声が出る。

直前まで考えいたことが全て抜け落ちる。


「今、俺は異世界観測の実験中でね。結果としてここに来た」


「……いや、ちょっと待ってくれ」


頭が追いつかない。

というか、追いつく気がしない。


「異世界? 実験? 何の話だよ。お前ヤバいやつか」

厨二病か?僕にもそんな時期あったような気もするが...。


「そのままの意味だ。ここは俺の世界とは異なる法則で成り立っている。空気中の魔力濃度が著しく低い。建造物の構造、衣服、照明……どれも興味深い」


エイルは、きょろきょろと周囲を見回す。

その仕草は、観光客のそれに近い。


なるほど。

「夢、か」

思わず呟く。


そうだ、これは夢だ。

都合がよすぎる。


今まさに、終わろうとしていたところに、異世界の学生が現れるなんて。


「夢ではないと思うが」

「ところで君は、ここで何をしていた?」


言葉が詰まる。

「....別に」


言えるわけがない。

今から飛び降りようとしていた、なんて。


エイルは、少しだけ首を傾げる。


「別に、では答えになっていない。ここは危険な場所だろう。落ちれば死ぬ」


「分かってるよ...」


エイルは鋭い目付きで僕を見た。

「なら、なぜそこに立っている?」

「……」


言葉も目線も、まっすぐだ。

遠回しな言葉も、気遣いもない。

ただ、疑問をそのまま投げてくる。


「少し考え事だよ」

ようやく絞り出した言葉は、ひどく薄っぺらい。


「そうか」

エイルは頷く。

それ以上、踏み込まない。

だが、目は逸らさなかった。


「君は、苦しそうだ」

こちらが何をしていたか知ってるような、静かな言葉。


「は...?」


「表情、呼吸、声の震え。俺の世界でも、人の状態を観察する学問はある。君は今、明確に疲弊している」


随分と人を観察するのが得意なようだ。

「だから?なんだよ」


思わず、棘のある声が出る。

「別に、あんたに関係ないだろ」


「関係はない」

さも当たり前のように、返答する。


「だが、目の前にいる以上、無関係ではいられない」

「なんだよ.....それ」


エイルは優しそうな表情になる。

「少なくとも俺は、そう判断した」


「人の人生に土足で入ってくんな。帰れよ」

「実験だかなんだか知らないけど、帰る場所あるんだろ」


「ある」


「じゃあ、帰れ。ここは……そういうお伽話で云々できる場所じゃない」


「それは困る」

エイルは困ったように首を横に振る。


「この世界は魔力が非常に少ないようだ。帰還に必要な量溜まるまで、約三日間は動けない」


「三日?」


「うん。ここは魔力の回復効率も悪い。計算上、最低でもそれくらいは必要だ」



「つまり?」

「しばらく滞在させてほしい」

「は?」


エイルがニコッと笑う。

「衣食住の提供を頼めると助かる」


「いやいやいや」

思わず笑ってしまった。


「なんでそうなるんだよ。初対面だぞ」

「そうだな」


「普通、警戒するだろ」

「している」

「してるのかよ」


エイルはこちらをチラと見る。

「君は今、危険な行動を取ろうとしていた。だが、俺に対して攻撃性は示していない。観察の結果、一定の安全性はあると判断した」


「……勝手に判断するなよ」

「では、君は俺を危険だと思うか?」

「……」


言葉に詰まる。

危険と思わない自分に驚いた。

もしかすると、この青年の素性に興味を持っているのかもしれない。


なぜか悔しいのと同時に、

何も演じていない自分がいる事に気付いた。

 

「……知らねえよ」

「そうか」

エイルは、少しだけ考えるように視線を落とす。

「なら、取引をしよう」


「取引?」


「三日間、俺を滞在させてくれ。その代わり、君の疑問に答える」

「例えば、この世界の外に、本当に別の世界があるのか、とか。魔力、魔法、興味あるだろ?」


心臓が、わずかに跳ねる。とうの昔に失ったはずの好奇心が飛び出る音がした。

「ある」


「少なくとも、俺の世界は存在する。そして、そこには君の知らない価値基準がある」


価値基準。


その言葉に、引っかかる。

「市場価値でも、ネンシュウ?でもコンカツ?でもない尺度だ」


「……なんでそれを」

「さっき、君が口にしていた」


「……」

聞かれていたのか。


「君は、自分を測る物差しに苦しんでいるように見える」

まっすぐに、言われる。

「だったら、一度別の物差しを見てみるのも悪くない」


軽い調子で。

「だろ?」と、肩をすくめた。


けれど、その言葉は、やけに重く響いた。


「……三日、か」


たった三日。

それだけで、何が変わる

変わるわけがない、のに。


そつなく生きるために、こんな奴は警察に突き出して終わりでいいのに。


「行く場所、ねえのかよ」

気づけば、そんな言葉が出ていた。

「ない」


「即答、、マジか」

「マジだ」

エイルは、少しだけ笑った。


その笑い方は、驚くほど無防備だった。

「はぁ」


ため息をつく。


なんでだろうな。

さっきまで、全部終わらせようとしていたのに。


今は、目の前のこいつをどうするかで頭がいっぱいだ。

「……三日だけだぞ」

「助かる」

「変なことしたら、すぐ追い出すからな」


「了解した」

エイルは素直に頷く。


「その……さっきのは、忘れろ」

屋上の縁を見る。


「難しい」

「は?」

「俺は観察した事実を簡単には忘れない」


「……おい」


「だが、無理に言語化することはしない。君が望まないなら」


「……」


なんなんだ、こいつ。

調子が狂う。


「……行くぞ」


背を向ける。


「ついてこい」


「ありがとう、田村博木」

名前を呼ばれる。


「なんで知ってる?」


「落ちてた」

社用カバンに括り付けた社員証を持っていた。


「そうかよ」


小さく息を吐いて、階段へ向かう。


足取りは、さっきより少しだけ重くない。

その理由を、まだうまく言葉にできないが

久しぶりに胸がワクワクするのを感じた。



玄関の扉を開けると、見慣れたはずの社宅の部屋が、少しだけ違って見えた。

変わったのは、部屋じゃない。


「狭いな」

後ろから、遠慮のない感想が飛んでくる。

「悪かったな」


靴を脱ぎながら、適当に返す。

「いや、機能的だ。最低限で、無駄がない。合理的だと思う」

フォローなのか評価なのか分からない言葉。

エイルは部屋を一周して、最後にデスクの前で止まった。


「ここで働くのか」

「ああ。在宅の日はな」

「……戦場みたいだな」

「は?」

パソコンを前にしては、珍しい表現を聞き聞き返してしまう。


「君の表情が、さっきの屋上と同じだ」

「……気のせいだろ」


そう言いながら、ノートパソコンを開く。

「まだ今日のタスクが残ってるんだ、持ち帰り。2〜3時間はかかる。」


「冷蔵庫の中のものは好きに食え。俺は、ビールと冷凍餃子かな」

「興味深いな、電気が主力の食料冷却装置か...」


僕はサクッと軽飯を作り、エイルに食事を出した。


おお!異世界の食事だ!とはしゃぐ声を聞きながら、ビール片手に仕事に没頭した。


兄弟がいたらこんな感じなのかもな。

うるさい家も、悪くないなと感じた。



翌朝、エイルを残すわけにもいかず、在宅勤務に変更をする。


「プロジェクト遅延はありますが、概ねは問題ないかと...」

「運用側のスケジュール遅延だろ?あり得ねえよ、向こうの上も巻き込んで責任取らせろ。スケ遅れは論外だ。雑な仕事すんなよ田村。」


詰め気味の上司に顔が引き攣るが、なんとか笑顔を保つ。

「はい!クライアントファーストの気持ちで、必ず。汚れ役も買うのがマネージャーの仕事ですからね!」


上司からの詰め後、会議で僕は声を上げる。

「芳田課長、すみませんお忙しいのに。田中くんから出た再発防止とかはどうでもよくて。工程遅れるとまずいんですよ。今日中に仕様再整理お願いしたく...」


笑う。

鼓舞する。


「やりきりましょう!」

画面の向こうで、何人かが頷く。


自分でも分かる、少し大げさなトーン。

熱量を盛っている。


「田中さんは要件再整理、芳田課長、品質担保お願いします。村井くんは分析軸の再設計。僕の方で全体の進行管理と再提案資料やるので、皆さんはそれぞれ集中してください」


テンポよく指示を出す。


「ピンチはチャンス。ピンチはチャンスを合言葉に。成長機会と思って、ここから取り直して行こ!」


本当は、全然大丈夫じゃない。


でも、笑う。

鼓舞する。成長意欲がある奴と思われなきゃ。


「これリカバリーしたら市場価値爆上がりよ。

ミスはチーム全体でカバーして行こう!」


画面の向こうで、何人かが頷く。

その瞬間だけ、チームの空気が前を向く。

それを作るのが、自分の役割だ。


分かってる。

分かってるけど、

モヤモヤが止まらない。


通話が切れた。


「……はぁ」

背もたれに体を預ける。

一気に、全部が剥がれる。

肩が重い。喉が乾く。


何もしていないはずなのに、ひどく消耗している。


「今のは、何だ」

後ろから声。

振り返ると、エイルが腕を組んで立っていた。

「仕事だよ」

「違う」

「役割の遂行、という意味では理解できる。だが、あれは演出だ」

「……演出?」


「君は周囲を鼓舞していたが、行動が君自身の考えとは乖離している」


「まあな」


「他の人もそうだ。やる気があるように見せている。」

エイルは、腕を組む。

「なぜ、あそこまでやる。楽しさはあるのか?」


「やらないと、回らないからだよ」


「回す必要はあるのか?」

「あるに決まってるだろ。仕事なんだから。やらないと生きれないんだよ。」


エイルは真っ直ぐにこちらを見つめてくる。

「偽りながら騙し騙しこなすことが、君のしたい仕事なのか?」


「……」

喉が詰まって言葉が出ない。

「……そうだよ」


嘘だ。

自分でも分かる。

エイルは、少しだけ目を細める。



夜。

「今日、婚活の電話あるんだよな……」

スマホを見ながら、ぼやく。


「コンカツ?」

「結婚相手探すやつ」

「合理的な制度だな」

「まあな……合理的すぎて、しんどいけど」


着信。

「あ、来た」

深呼吸。

「もしもし、田村です〜!」


声色が5段階上がる。


「はい、先日はありがとうございました!すごく楽しかったです」


笑う。笑う。

相手のテンポに合わせる。


「いえいえ、全然ですよ。むしろ僕の方が話しすぎちゃって……」

女は初対面で話せない男には興味を示さない。

だから、ピエロになる。楽しませる。


「お仕事、大変そうですよね。すごく頑張ってらっしゃるの、伝わってきました」


相手を立てる。

「僕なんて全然で……まだまだ勉強中です」


自分を下げる。

「休日ですか?

相手が楽しそうな所を、見るのが好きっていうか!

なのでインドアもアウトドアもおっけー!なんです。」


合わせる。

とにかく、合わせる。


「はい、はい……あ、ワインお好きなんですね。僕も好きです」


好きじゃない。

でも、相手の声色を伺って、合わせにいく。


「熟成肉とか合いますよね!ぜひ、今度ご一緒できたら……」


ふと、視線を感じる。

エイルが、こちらをじっと見ている。


「……はい、では日程はまた、アドバイザーの方で調整してもら...」


その瞬間。

プツッ。

通話が、切れた。


「……は?」

スマホを見る。

通話終了。


「……おい」

振り返る。


エイルが、無表情でスマホを持っていた。

「何してんだよ」


「切った」

「見りゃ分かるわ!」


思わず声が荒くなる。

「なんでだよ!」


エイルは、静かに言う。

「耐えられなかった」

「は?」

「君が、自分を削っているのを聞き続けるのが」


「……」

言葉が詰まる。


「全部、嘘だったろう」


「……仕事みたいなもんだよ」

「違う」


強い口調で否定された。


「仕事は生きるためにまだ分かる。だが、今のは明らかに自分を売っている」


「……同じだろ」

「同じではない」


エイルは一歩、田村に近づいて、スマホを返した。


「君は、自分を相手に合わせて変形させている。軸がない」


「……」

何も言えない。


「好きでもないものを好きと言い、望んでもいない関係を望むと言う。それは」


エイルは一瞬、言葉を探すように止まった。


「君の心を空洞にする」


「……じゃあどうしろってんだよ」


図星に心が詰まり、絞り出すように言葉を吐いた。


「正直に話したら、選ばれねえんだよ」

「選ばれなければ、何だ」


「……そりゃ、世間でいう高齢独身になって社会不適合ってレッテルを貼られて...」


「死ぬのか?」


「……」


言葉が、出ない。

エイルは息を吐いた。

「君は、選ばれることを目的にしている」


「当たり前だろ」

「それは、本当に君の望みか?」

「……」


分からない。

分からないけど。


「……そうしないと、結婚できないだろ」


ようやく絞り出す。

エイルは、首を傾げる。


「偽った自分で結婚して、君は幸せなのか?」

「......」


「.....分からない。」

「飯でも......買ってくるよ」



そうして、時間が過ぎていく。

コンビニ袋を広げる。

弁当、カップ麺、スナック菓子、酒。

「今日は量が多いな」

「飲む日だ」

「なるほど」


缶を開ける。


「ほら」

エイルに渡す。


「昨日より苦くない」

「慣れてきてんじゃねえか」

「学習した」


くだらない会話。

ポテチをつまみながら。


「君は、なぜそこまで選ばれようとしている?」

「今の社会は、男は選ばれないと価値がないんだよ」


会社では口が裂けても言わないような、正直な意見を答えた。

エイルは、少し考える。


「君の価値は、誰が決める?」

「社会だろ」


「違う」

先ほどよりも強い口調、否定の言葉。


「君だ」


「……」

「少なくとも、俺の世界ではそう教わる」


思わず鼻で笑ってしまった。

「お伽話みてえに楽な世界だな」


「厳しいぞ」

エイルはこちらを見つめた。


「自分で決めるということは、逃げられない」

「……」


確かに。


「でも、その代わり」

エイルは、ニッと笑う。


「自分で決めた価値は、誰にも奪われないんだ」

その言葉が、やけに染みた。




三日目。

「今日は、出社する」


ネクタイを締めながら言うと、エイルは少しだけ目を細めた。

「戦場に戻るのか」

「大げさだな」


そう返しながらも、少しだけ苦笑する。


「お前は?」

「外を見てくる」


窓の外を見ながら、興味深そうに言う。


「この世界は、まだ観察しきれていない」

「金は少し渡しとくわ。迷うなよ」


「問題ない。帰還座標は把握している」

「じゃあ、夜な」

「ああ」


短い会話しかしていない。

なのに、不思議と誰かが待っている安堵があった。


自然体で会話している自分に驚き、こんな生活も悪くないのかもなと感じた。



エイルは、街を歩いていた。

人の波、交差点、ビル、広告、情報、街のキャッチ、募金の案内。

すべてが、過剰だった。


「……多いな」

喧騒の中、ぽつりと呟いた。


人の顔を見る。

誰もが、どこか似ている。


疲労、焦燥、無関心。

だが同時に、動き続けて、何かに取り憑かれたように止まらない。


「興味深い」

カフェに入ると、周囲の会話が耳に入る。


「マジで最近忙しくてさ」

「上司がさ……」

「転職したいけど、今の会社も捨てがたくて」


別の席。


「婚活うまくいかない。ほんと女は生きづらい世界」

「いい人いないんだよね」


別の席。


「月利10%は確約できます!なので、脱サラも夢ではありません!」

「いや、一旦家族と話したくて...」

「家族を思えばこそです!」


エイルは、静かに聞く。

そして、理解する。


「……同じか」

田村だけではない。

この世界の人間は、多くが似た構造を持っている。


自分の外側にある物差しに従い、

そこに自分を合わせている。


ズレながら、削りながら。

それでも、やめない。

やめられない。


「……強大だな」

この流れは、個人では抗えない。

だから皆、折り合いをつけるようだ。


騙し騙しやろうとするんだ。

壊れない程度に、壊れていると知りながら。


「……」

エイルは、少しだけ目を閉じる。


「だから、あそこまで疲弊するのか」

田村の顔を思い出す。

少し、彼の焦燥に理解が追いついた気がした。



「ただいま」

田村は、玄関を開ける。


「おかえり」

エイルが、いつも通りの場所にいた。

それだけで、少しだけ安堵したが。


「どうだったよ。」


「興味深い。」

短い答え、思わず鼻で笑ってしまう。


「この世界は、よくできている」

「皮肉か?」

「事実だ」


靴を脱ぎながら、苦笑する。

「……疲れた」


「そうだろうな」

エイルは、あっさり頷く。


「皆、同じ顔をしていた」

「そして、同じように動いていた」


「……だろうな」

会話が、妙に静かに続く。


「君だけではない」

エイルが言う。


「この世界は、多くの人間が自分ではない何かを演じて成り立っている」

「……」


分かってる。

「だから、どうしようもない」


その言葉が、自然に出た。

エイルは、少しだけこちらを見る。

「そうだな」


否定しなかった。

「構造としては、そうだ」


少しだけ、胸が軽くなる。

肯定されたからじゃない。

どうしようもなさを、共有されたからだ。


口から出た率直な疑問は、本心かもしれない。

「僕は、どうすればいいんだろうな」


エイルは、考える。

そして、真っ直ぐにこちらを向けて言った。

「俺達の世界に来い。」


時間が止まった。


「……は?」


聞き間違いかと思った。

けれど、エイルの目は冗談を言うときのそれじゃない。


「君は、この世界の物差しに適応しようとしている。だが、それに耐えきれていない」

「なら、物差しごと変えればいい」


簡単に言うなよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。


「俺の世界では、少なくとも選ばれるために自分を削る必要はない」

「……」


「向いていること、やれること、やりたいこと。それを軸に価値が決まる」

「……そんな都合のいい話あるかよ」


「都合は良くない」

エイルは当たり前のように、即座に答える。


「生きるのはどこでも厳しい。だが、君のように自分を空洞にして適応することは要求されない」


静かに、まっすぐ見つめてくる。

「君は、この世界に残るべき人間ではないと思う」

心臓が、強く打った。


否定したい。

でも、できない。


「……無理だろ」

やっと出た言葉は、それだった。


「何がだ」

「全部だよ」


笑う。乾いた笑いだった。


「仕事もあるし、生活もあるし……」


それに、、

言葉が詰まる。自分に言い聞かせるように言った。


「僕には、飛び込む勇気がないよ」


エイルは、何も言わない。

僕は視線を逸らした。


「僕は、そういうの選べる人間じゃないんだよ」


沈黙を破ったのはエイルだった。

「そうか」


それ以上、何も言わなかった。

責めず、説得もしない。


ただ、受け取っただけだった。

「……悪いな」

「なぜ謝る」

「いや、なんか……せっかくの話だったのに」

「問題ない」


エイルは、ほんの少しだけ笑った。

「選択は、君のものだ」


その言葉が、妙に重くて。

そして、優しかった。


夜、二人は社宅の屋上にいた。

3日前と同じ、構図、同じ空気だ。

夜の冷たい空気が、静かに変わっていく。



「……そろそろか」

エイルが、ぽつりと呟いた。


「魔力が充填した」

「帰るのか」

「帰る」


短い返事だ。

分かっていたはずなのに、

胸の奥に喪失感が出てきている。

無二の親友を失うような、そんな気持ちでいた。


「そうか」

それ以上の言葉が出てこない。


エイルは、光るドアの前に立つ。

空間が、わずかに歪む。


見えない何かが、集まっていく。

「田村」

「なんだよ」

「君は、壊れているわけではない」


エイルは、悲しそうな顔をしている。

「ただ、人より優しすぎるだけだ。」


「……」

「その優しさは、自分自身に向けていい。」

喉が、詰まって言いたい事が言えなくなった。

「……お前な」


笑おうとするけど、うまくいかない。

「最後まで、そういうこと言うよな。」


「事実だからな」

エイルは、軽く肩をすくめた。


「じゃあな」

「ああ」


光が、強くなる。


「……三日、ありがとな」

「こちらこそ」


2人の視線が合う。

「君と話せて、本当に良かった」


そのまま、光が弾けた。

エイルの姿は、消えていた。


夜の静寂。

さっきまであった気配が、完全に消える。


「……はは」


笑いが漏れる。

「なんだよ、これ」


急に、世界に色が無くなる。

「……」


胸の奥に、ぽっかりと穴が空く。

三日だけだったのに。

たったそれだけなのに。


「……やっぱり」

立ち上がる。


「僕には、無理だ。」

足は、自然と柵の外に向かっていた。


三日前と同じ、社宅の屋上。

三日前と同じ、夜の景色。


「……」


手すりに手をかける。

冷たい。

何も変わってない。


世界も、自分も。


「そんなお伽話みたいに、変われるわけ、ないよな」


あいつは言った。

モノサシを変えろ、と。


でも。

「そんな勇気が、僕にもあったら」


ここにいねえよ。



苦笑して下を見る。


止めもなく流れる車のライトが、まるで川みたいだった。


「……一回、見ちゃったからな」


別の可能性を、別の世界を、別の自分を。


それでも。


「やっぱり、無理だ」

無意識に、後ろを振り返る。

トンチンカンな異世界人がくる事を期待した自分に、驚いた。


何もない景色に、前を向き直す。

今度は、迷いがなかった。


目を瞑り、手すりに体重を預ける。

少しずつ視界が前に傾く。


ふ、と浮遊感。


風が顔を叩いて、音が遠ざかる。

思考が、静かになっていく。


「……ああ」

怖さよりも、解放感が勝った。



暗い場所が、好きだった。

誰にも邪魔をされず、人の目に触れないで。


市場価値も、婚活も、期待も、全部捨てて。

暗い場所で生まれて、暗い場所に帰るんだ。


「……これで、いい」

終わりの安堵と、少しの未練。



バン!!!!!!!

空間が、裂けた       

目の前に、光の扉が現れる。


あり得ない位置に、あり得ない形で。


「……は?」


思考が、引き戻される。


落下しているはずの体が、

その扉に向かって吸い込まれていく。


向こう側に、見える景色。


見覚えのない空、知らない光。


「終わりが、お前のモノサシか?田村」


そこに、エイルがいた。

片手を伸ばしている。


「……なんで」

言葉が、途切れる。


「嘘を言っていた。最後まで。」

理解が追いつかない。

「観測対象として、非常に分かりやすい」


いつもの調子で、意味の分からないことを言う。


「……お前」


笑いそうになる。

「ほんと、空気読まねえな」


エイルは、少しだけ眉をひそめた。

「読む必要があるか?」

「ねえよ」


僕に、迷いはなかった。


「……そっちの方が、マシか。探してみるよ。自分のモノサシ」

「いい顔だ。田村」


僕は、期待に満ち溢れた目で

差し出された手を、強く掴んだ。


重力も、音も、くだらないモノサシも。

全部、遠ざかっていく。


最後に見えたのは、夜の街の光だった。

灰色の世界が色付いたように、やけに綺麗に見えた。






あの扉をくぐってからのことは、正直、うまく言葉にできない。


気づけば、空気が違った。重さも、匂いも、温度も。何より、「見られている感じ」がなく、安堵を覚えた。


最初の数日は、ただの異物だったと思う。

言葉も完全じゃないし、常識も違う。

でも、妙に居心地が悪くなかった。


エイルは当たり前みたいに隣にいて、

当たり前みたいに「学べ」と言った。


気づけば、魔法都市ソフィアの学生として受け入れられ、学生寮生活をしていた。


魔法学。

最初は意味不明だったけど、

構造が見えた瞬間、少し笑った。


ああ、これ、機械と同じだ。

工学部出身で、精密機械を弄るのが得意だった僕は、想像よりもずっと早く吸収していった。


精度を上げて、無駄を削って、理屈で組み上げる。

違うのは素材が電力じゃなく、魔力ってだけで、

やってることは、ずっと好きだった分野に近かった。


気づけば、夜遅くまで式と睨み合っていた。

誰に評価されるわけでもないのに、

やめる理由がなかった。


「面白いからやる」

それだけで動いている自分が、少し不思議だった。


友人も、少しずつ増えた。


興味本位で話しかけてくるやつ。

露骨に警戒してくるやつ。


その中に、一人。

やたら距離の近い、青髪の女の子がいた。


「田村くんはさ、変だよね〜」

開口一番、それだった。


「みんなさ、初対面ってちょっと盛るじゃん。自分を大きく見せたり、逆に謙遜したり」


「田村くん、それがないんだよね」

「ただ、思ったことそのまま言ってる」

「……悪く言うと不器用では?」

「うん、不器用」


即答された。

「でも、嫌いじゃないよ」


彼女は笑って、机に頬杖をつく。

「あとさ、回路組んでる時だけ、顔違うよね」


「顔?」

「うん。すっごい楽しそう」


言われて、少しだけ固まった。

そんな顔を、自分ができること自体忘れていた。


「そう、かな」

「そうだよ」


彼女は当然みたいに頷く。

「田村くん、普段ちょっと暗いのに」

「余計なお世話だろ」

「でも、その顔の方が好き」


心臓が、少しだけ跳ねた。

そういう跳ね方をしたのは、かなり久しぶりだ。


一瞬、言葉の意味を取り損ねた。

「……は?」

「だから、好き。田村くんのこと」


少しだけ首を傾げて、当然みたいに言う。

冗談を言う顔じゃない。

「いや、軽く言うなよそういうの」

「軽くないよ?」


あっさりと、なんでもないことみたいに言う。

その言葉に、心臓が跳ねるのを感じた。


選ばれるとか、評価されるとかじゃない、

もっと軽くて、ずっと温度のある言葉。


「……変なやつだな」

「田村くんに言われたくないな〜」


「……リィナ、距離感バグってない?」

「そう?」


首を傾げる仕草まで、妙にあざとい。

天然でやってるのが、余計にずるい。


「…まあ、そういうとこも、いいとおもう。僕も好きかなと思うけど」


相手に好かれそうな言葉を選ぶ。

無難で、角が立たなくて、少しだけ好意を返す。

無意識に出た、癖のようなものだった。


「それ、やめて」

リィナが、遮った。

「……は?」

「今のやつ」

じっと、こちらを見ている。


「僕も好きかなと思うけどってやつ」

「なんか、急に遠くなった」

「……いや、そんなこと」


何か言おうとして淀んでしまう。

「別に、無理して好きって言わなくていいよ?」

「っていうか、今の田村くん、好きじゃない」


はっきりと言われた。

でも、不思議と刺さらなかった。

拒絶じゃないと分かるからだ。


「さっきまでの田村くんは、好き」

「でも今のは、なんか違う」

リィナは眉を寄せて、こちらに身を乗り出す。

「たぶん、それ、誰かに合わせてるやつでしょ」


「……」

見抜かれていた。

「そういうの、いらない」


「田村くんは、そのままでいいの」


まっすぐな瞳に、逃げ場のない言葉だった。

でも。


「……っは」

小さく息が漏れて、笑いそうになる。

「なんだよ、それ」

「注文多いな」

「でしょ?」


リィナは、満面の笑みで、嬉しそうに笑うんだ。

「でも、その方が楽だよ」

その言葉に、妙に納得してしまった。


確かに。


「……じゃあ、訂正する」

少しだけ考えてから、言う。

「よく分かんねえけど、嫌いじゃない」

「うん、それでいいの。」

「そっちの方が好き」


また、心臓が跳ねた。

さっきよりも、少し強く。


「リィナ、また田村を困らせているのか」

振り返ると、資料を抱えたエイルがいた。


「別に〜?」

リィナは悪びれずに笑う。


「田村くん、反応面白いから」

「観察対象として遊ぶな」


思わずツッコミが出た。

「散々観察したお前が言うなっ!」


二人が同時にこちらを見る。

一拍遅れて、自分がかなり自然に喋っていたことに気づく。

……ああ。


こういうの、なんだっけ。

少し考えて、答えが出た。

親友、か。


同期、上司、取引先。

すぐに切れてもいいように、関係性に名前をつけておくんだ。


でも、ここでは違って、楽しいから一緒にいる。



「そういえば」

エイルがふと思い出したように言う。

「今夜、中層区画で夜市がある」


「夜市?」

「食事と魔鉱物の露店だ。田村が興味を持ちそうな試作品も多い」


少しだけ目が輝いたのが、自分でも分かった。

「行く」

「即答だね」

リィナが笑う。


「分かりやすいなあ」

「好きなものには素直なんだな」

エイルも頷く。


「……悪いかよ」


「いや」


二人が、少しだけ笑った。

からかわれているのに、不思議と嫌じゃない。


むしろ、心地いい。


夜市は想像以上に騒がしくて、

色とりどりの光で溢れていた。


浮遊するランタン。

路上で回る小型の魔法電車。

知らない香辛料の匂い。


人混みは相変わらず苦手だったけれど、

隣にエイルとリィナがいるだけで、少し違った。


「田村」

エイルが屋台を指差す。


「見ろ。簡易式魔力収束器だ」

「え、構造どうなってる?」


気づけば二人で前のめりになっていた。


「ここの回路設計、だいぶ無駄ないな」

「いや、効率だけならまだ改善余地がある」


自然に議論が始まる。

「また始まった……」

後ろでリィナが呆れたように笑う。


「男子ってこういうの好きだよね」

「こういうの、ってなんだよ」

「キラキラしてる機械見て目輝かせるやつ」

「否定はできない」


エイルが真顔で返して、

思わず吹き出した。


腹の底から笑った。

あまりに自然に出たそれに、自分で少し驚いた。


笑えるんだ、まだ。

夜空を見上げる。

見慣れない星だった。

でも、不思議と怖くなかった。


ここには、市場価値も、出世も、年収もない。


その代わりに、

好きなものに夢中になって、

少し変な親友がいて、

やたら距離が近くて、

ネモフィラの香りを纏う青髪の女の子がいる。


30年の人生で、積み上げてきたものは全て捨てて

新しい世界に飛び込んだだけなのに。


「……案外、悪くないかもな」

ぽつりと零すと、

隣のエイルが少しだけ口元を緩めた。


「当然だ」

「俺の見立ては正しかった」

「自信家だな」

「事実だからな」


街灯の少ない暗い夜に、

3人で眺める星空は、かつての世界よりずっと綺麗に見えた。


僕は清々しい顔で、ふ、とつぶやいた。

「選ぶのは、最初からずっと僕だった。」

「その通りだ。」




暗い場所が、好きだった。

僕たちみんな、別のモノサシを持って

明るいものを探す今が、最高に楽しいから!











夜の静かな時間帯。

寮の自室で、エイルは珍しく机に向かっていた。


手元には、見慣れない形式の紙とペン。

彼にとって記録とは、再現性と検証のためのものだ。

だが、今回のそれは少し違う。


再現できない現象。

測定しきれない価値、感性、感情。

それを、残す必要があると判断した。


ペンを走らせる。

「異世界観測記録」

「対象世界における価値基準の特徴について」


そして、淡々と書き始める。


当該世界において、個体の価値は主に外部評価によって規定される傾向が強い。


具体的には、経済的指標、社会的地位、婚姻状況など、他者比較可能な数値・状態に依存する。


興味深い点は、これらの指標が個体の内的満足と必ずしも一致していないにも関わらず、強い拘束力を持つことである


ペンが止まる。

少しだけ、視線を落とす。


結果として、多くの個体が自己の内的欲求よりも、外部評価に適応する行動を選択する。


この過程において、自己と行動の乖離が発生し、継続的な精神的負荷が観測された。


小さく息を吐く。

「……強いな」


あの世界は、強い。

構造として、完成している。


だからこそ。

特筆すべきは、この構造が個体単位での脱却を極めて困難にしている点である


社会全体が同一の尺度を共有しているため、逸脱は即座に不利益として返ってくる。


ゆえに、

多くの個体は「壊れない範囲で壊れ続ける」という選択を取っていた。



脳裏に浮かぶのは、あの屋上の光景。

俺が扉に入る前の

田村の悲しそうな、あの瞳。


「……」


わずかに、眉が寄る。

ペンを持ち直す。


ただし、例外的に、当該構造に対して強い違和感を持つ個体も存在する。


彼らは適応能力が低いのではなく、むしろ感受性が高いがゆえに、乖離に耐えきれない。


田村博木はその典型例である。

静かに、書き続ける。


彼は高い適応行動を取る一方で、

それが自己を消耗させることを

明確に認識していた。


当該世界においては稀有な観測結果である。



窓の外には、ソフィアの夜景。

穏やかな光。

あの世界とは違う、やわらかい光だった。


ぽつりと、独り言漏れ出る。

「ここに、田村も連れて来れたらな...」


あの日、少し悲しそうな田村を止めずに、

真っ直ぐに帰ってきた事を、後悔していた。


無理矢理にでも、連れてくるべきだったか。

いや、それは彼の意思に反した行動になる。


ペンを置く。

椅子にもたれ、

天井を見上げる。


「……あいつなら」


ほんの少しだけ、口元が緩む。

田村の表情が思い浮かぶ。


「簡単には壊れないだろう」

確信に近い何かがあった。

「……しぶといからな」


あの最後の表情を思い出す。


あれは、完全に諦めた顔ではなかったはずだ。

「……」


目を閉じる。

「無事でいろよ」


それは、祈りに近かった。


エイルは、再びペンを取り、

最後の一文を書き足した。


対象個体は極めて興味深い。

再観測の価値あり。






「本日未明、東京都内のマンションで、」


ニュースキャスターが、淡々と原稿を読む。

無機質な声色が響いた。


「会社員男性、田村博木さん(30)が、建物屋上から転落し、死亡しているのが発見されました」


画面には、ぼかされた現場映像。

赤色灯、規制線。


「警視庁は現場の状況などから、自殺の可能性が高いとみて、詳しく調べています」


「え……いや、信じられないです」


テレビ画面にスーツ姿の男性が映る。


「田村さん、すごい真面目で……」

「仕事もちゃんとしてて、むしろ頼りにされてたというか……」


求められる言葉を探すそぶり。

「そういう人が、なんで……って感じです」


翌日の会社の会議にて

「正直、現場は大変ですね」

別の社員は、ひどく疲れた顔をしている。


「田村さんがやってた案件、結構多くて……」

「引き継ぎも急だったんで」


仕方なさそうに苦笑した。

「まあ、回すしかないですよね」


「いやこれさ、マネージャー不在はまずいでしょ」

上司が、眉をひそめる。


「誰が見るの?この案件」

会議室に沈黙が訪れる。


誰も目を合わせない。

「……じゃあ、とりあえず短期で求人出すからさ。代理捕まえてよ」

「はい、分かりました。比較的タスク振れそうなのは、山本さんですかね」

その場は解散する。


管理職の辛そうな声色が響いた。

「山本さんごめん、田村くんの代理で入ってもらっていい?職級足りないんだけど、成長の機会と思って...」


「え、いや、私まだ子供もまだ小さいので...」

山本の焦った声が響く。


「分かるんだけど、会社としても一大事でさ...。こういうのはやりながら覚えるもんだし、市場価値は上がるからさ。お願い!山本さんにしか頼めなくて。」


山本は悲しげな表情をした後、呟いた。

「.....分かりました」


さらに上の上司からの電話。

破裂するように、心臓がバクバク鳴った。

急いで1コール以内で取る。


「山本受けたんだって?ポスト田村のマネージャー職。期待してるから、お前は飛ぶなよ。

ピンチはチャンス、ピンチはチャンス!

田村もよく言ってたな。」


電話越しに上司の乾いた笑いが響いた。




人が歩く。

電車が走る。

信号が変わる。


一週間も経てば、何事もなかったかのように、世界は周る。


スマホを見る人。

笑う人、苛立つ人。


いつも通りの朝。

誰も立ち止まらない。


誰かが消えても、代わりが入って、歯車は回る。

真面目と言う名の都合のいい歯車も、ガタがくれば代用が見つかる。


新しい歯車は悲鳴をあげながら軋んで、

でもすぐに馴染んで、

また同じように回り続ける。


壊れるその日まで。


「それでは次のニュースです。」

画面の中で、

ニュースは次の話題へ移る。


天気予報。

経済ニュース。

芸能人の話題。


田村博木という名前は、ものの1分で流れ去った。



暗い場所が、好きだった。

誰にも邪魔をされず、人の目に触れないで。

期待や嘲笑、善意や悪意に触れずに済むから。


暗い場所が、好きだった。

光は、無慈悲に僕を照らす。

手段を変えて、刺し続けるんだ。


だから、僕は選んだんだ。

選ばなかった未来を想像して

一人暗闇に、沈む選択を。

僕だけの、温かな暗闇を。



「田村くんは、そのままでいいの」

空になった簡素の部屋の周りでは、温かな風に揺られた

青のネモフィラの香りがした。



X @kumoransesuki


初作品となります。

お読みいただき、ありがとうございました。

ご感想はぜひ、DM・リプライお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ