よん
優しい雨音が、鼓膜を震わせた。
ヴィルバートは薄く目を開き、ぼんやりとした思考の中で、見知らぬ天井を見上げ続けた。
「――――ここは?……ああ、そうか」
瞬時に昨日の出来事を呼び覚まし、深々と息をついた。
そして汗の染み込んだシャツの気持ち悪さに顔をしかめて、体を起こす。
脱いでしまえはいいかと、ボタンへと手をかけたところで、ふと寝台の反対側へと意識を向けた。
そこでヴィルバートは、信じられない光景を目の当たりにした。
布団に入った上半身裸のマキが、ルチカを抱き枕にして眠っているではないか。
マキの腕に閉じ込められたルチカも、彼の背中に腕を回して、すやすやと寝息を立てている。
マキの二の腕には、ルチカの赤く柔らかな唇が呼吸の度に触れていた。
戦慄いたヴィルバートは、速やかに二人の引き剥がしにかかった。
布団を捲ると、より一層絡み合う姿が露になった。
しかも二人の手首には例の手錠が嵌められている。
場所が場所だけに、色事を思わせるその寝姿は、ヴィルバートの言葉を失せるには十分だった。
「……むにゃ」
ルチカが幼子のように、口をもぐもぐさせて寝言を言った。
それで我に返ったヴィルバートは、マキの腕を上げ、ルチカを引き摺り出した。
彼女をこてんと仰向けに寝かせて、元通り布団を掛けてやる。
ルチカは布団の端を齧りながら、「砂糖菓子……」とつぶやき笑っている。
「夢に見るほどか」
食に執着のないヴィルバートからしたら、ルチカは食欲の塊だ。
だが、食べ物を粗末にしないという点には、好感が持てる。
ヴィルバートが与えたものを美味しそうに食べる姿は、むしろ可愛いくらいだ。
「ああ、ルチカ。今すぐこの腕に抱き締めたい」
「――――マキ」
ヴィルバートが冷徹に呼ぶと、マキは閉じていた目をぱちりと開いた。
「仕方ないだろう。寝てるときに誰かに触られたら、普通は起きる」
「それにしては、意識がはっきりとしているな」
「刺客に襲われないための、努力の賜物かな」
冗談めかして言ったので、ヴィルバートもあっさりと受け流した。
「俺ってわかっていたのなら、一声掛ければいいのに」
「黙っていたら面白いものが見れるかもしれないと、ね。期待して待っていた割には、収穫なしだったけれど。ヴィルは案外、へたれだよね」
さらっとした暴言に、ヴィルバートはむすっとして訊く。
「何の話だ」
「嫌だなぁ。わからない?」
からかいめいたマキの語調に、ヴィルバートは無視を決め込んだ。
そして手早くシャツを脱ぎ、とりあえず寝台の飾り板へと掛けておく。
本当は下も脱ぎたいところだが、ルチカがいる手前、さすがにそれは気が咎め、止めておいた。
もう一度寝直そうとしたところで、マキが枕に横顔をつけたままで言った。
「ルチカに、ヴィルと従兄弟って話したけれど、よかったよね?」
ヴィルバートは虚を突かれたが、落ち着いて尋ね返した。
「……他には話していないだろうな?」
「話していない。ただの血縁者ってことだけだ。だけど、まぁ、薄々気づいているかもしれないなぁ」
自嘲気味なマキは、さりげなくルチカを抱き寄せようとしたので、それは阻んでおく。
「俺の猫だ」
「早く俺の女だ、になるといいね」
それだけ言い残して、マキは目を閉ざしてしまった。
こうなればもう、梃子でも起きないだろう。
ヴィルバートはマキに小言を言うのを諦め、ふと目についた散らばるルチカの長い髪を集めて、一つに編み込んだ。
サイドテーブルに丁寧に畳んで置かれたリボンを取り、毛先で結ぶ。
きらびやかな紬糸は縒られてなお、華やぎを失わず、常人ならば感嘆をもらす優美さだった。
一国の王が探し求める秘宝とはよく言ったものだ。
しかしヴィルバートは、色で惹かれる人間の気がしれない。
ルチカのよさは、外見ではない。
本人が聞けば、怒るだろうが。
布団を食んでいたルチカが突然覚醒し、寝惚け眼でヴィルバートを茫と見つめてつぶやいた。
「……ご飯の、神様……」
「何だ、それは」
尋ねたが、ルチカは再び夢の中へと誘われて金の双眸を閉ざしてしまった。
ヴィルバートは、声を立てて起こしてしまわないように笑った。
ルチカは寝惚けている状態でさえ、ヴィルバートの色彩を恐れない。
これまでに、一度だって怯えることはなかった。
自ら、その小さな手を触れてきた。
美しい彼女の髪とは真逆の、闇を模したヴィルバートの髪を。
ルチカの食欲にまみれた穏やかな寝顔に、愛しいと、心が囁く。
横たわり、彼女の寝言を子守唄に、ヴィルバートはそっと短い眠りについた。
◇◆◇◆◇◆
明け方マキにくすぐり起こされたルチカは、髪が結われていることを疑問に思いながら、ローリエにしばしの別れを告げて王宮へと向かった。
正門からではなく、王宮にある騎士団の衛所からマキ、ヴィルバート、ルチカの順で身分証明を行い許可を受けた。
リタの王宮は、敷地内に宮殿が幾つもある造りだった。
どこも同じだと思っていたが、リュオール国の王宮は城らしい。
間近で見上げると、空を貫きそうなほど高く映る。
慣れた様子で城内へと向かうマキだが、足取りは普段よりも重そうだ。
ヴィルバートも勝手はわかっているようだが、ひどく居心地悪そうにしている。
当然、帽子も被ったままだ。
ルチカも同様に帽子を深く被り直して、そしてだれよりも気負わず歩いていた。
「平然とし過ぎていないか?」
「昔王宮に住んでましたし」
自虐的な発言は、場を和ますためのものだと二人とも理解したのか、固い表情が少しだけ緩んだ。
城内に入る前にも、不審物を持ち込んでいないか厳重に調べられた。
検閲の女性に服の上から体を触られ、帽子を脱ぐよう言われたが、マキがすかさず誤魔化した。
「何か持ち込むなら帽子の中ではなく、胸に隠すと思わないか?ほら、こんなに隙間があるだろう?」
(……ぶっ飛ばす)
ルチカはささやかな胸の膨らみを押さえていると、ヴィルバートが黙って肩を引き寄せた。
しかし帽子を被るヴィルバートも、疑いの眼差しを向けられている。
「俺は……外にいた方がいいか?」
「まぁ、そうかな。また体調を崩すかねないし、庭園でも愛でて時間を潰してる方が、精神衛生上いいかもしれないな」
ヴィルバートはやはり、城には入りたくなかったようで、心なしか安堵していた。
彼の存在は周知のはずだが、それでも胸を張り歩ける場所ではないのだろう。
色彩師嫌いの彼に、偽色彩師のルチカの付き添いをさせるのは酷な話でもある。
「すぐに戻って来ますから」
「わかった。その辺りにいる」
「じゃあ、行こうか」
ルチカはヴィルバートを何度となく振り返りながら、マキとともに城の内部へと歩き始めた。
長い直線の廊下を進み、階段を上がってしばらくした頃、マキが唐突に言った。
「これからルチカに合わせるのは、半分血の繋がった義理の姉だと思うけれど、正直誰が出てくるかわからない」
「その姉が嫌がらせを?」
「いいや。あちらの一家丸ごとだと思ってくれて構わない。父親は傍観しているのか、知らないのか……」
「家族なんてそんなものですよ。マキさんは、優しいお母さんがいただけ幸せです」
「ルチカの親は?いる?」
ある一室の扉を開きながら、今夜の献立でも聞くように問い掛けてきた。
誰もいない室内に入室し、マキは扉を閉めてルチカにソファに掛けるよう促した。
「生物学上の両親はいます。一度も親と思ったことはないですけど」
豪奢なソファに並んで座り、ルチカは苦笑した。
上品で値の張る装飾品を前に、一度帽子を外した。するとたちまち、この部屋の内装が色褪せる。
どんな高価なものでも、この髪に敵わないようだ。
ルチカは几帳面に帽子を被り、髪を覆った。
「リタの箱庭にいたと聞いたが、売られたのか?」
金に目が眩んだ、家族や親戚に売られるのが希色たちの命運だ。
親の顔を知らない者も多い。
箱庭を出てからだ。あれが親だと、アニスに聞かされたのは。
「……売られたわけでは」
口ごもると、マキが頭に手を乗せてきた。
それ以上は言わなくていいという、気遣いのようだ。
「嫌なことは忘れて楽しい未来を思い描くといいよ」
「楽しいことですか」
「そうそう。例えば……ああ、ヴィルのお嫁さんになりたいとか」
(お嫁さん……)
考えただけで、ルチカの全身が急速に火照り始めた。
誰かと添い遂げるなど、これまでに想像すらしなかった。
アニスと死ぬまで旅をすると思っていたのだ。
「その反応だと、好感触?」
「…………」
ルチカが目を逸らすと、その先にあった扉がちょうど、ゆるりと開かれた。
侍女たちにかしずかれ、人目を惹く淡麗な容貌をした女性が、凜然としたその全身を現す。
内面に秘められた崇高な誇負が強い輝きとなり、身から満ち溢れて見えた。
彼女はマキをひたと見つめてから、装飾をふんだんにあしらったドレスで、たおやかにこちらへと歩いてきた。
そしてマキではなく、ルチカの正面になるようにゆったりと腰掛け、膝の上に手を揃えて乗せた。
仕草の一つ一つが洗練されていて、高貴な人間だというのは明らかだ。
似ていないのに、マキとの血の繋がりを感じた。
年はマキと同じか、少し上だろうか。
左手の薬指には、彼女の瞳を模した濃紺の宝石の指輪が嵌められていた。
(大きい……。重くないのかな)
ルチカの余計な心配をよそに、彼女は左手でふぁさりと扇を開くと口元を隠した。
「久しいわね。マキュアード」
呼びかけた彼女が見遣るのは、他の誰でもなくマキだ。
ルチカの疑問は、即座に言い返したマキによって氷解した。
「僭越ながら、コルテシア様。俺には、マキ以外の名前はありませんが」
「ああ、そう。それなら、マキ。色彩師の代役を見繕って来たと聞いたのだけれど……この幼い娘のことかしら?」
「根元から失礼な国ですね」
ルチカが普段の調子で返すと、やってしまった、とでも言うようにマキが額に手をあて肩を竦めた。
コルテシアは感情を潜め、切れ長の目でルチカの人となりを見極めている。
マキに嫌がらせをする愚かさは、彼女からは感じられなかった。
どちからといえば、理知的な印象だ。
「……この私に、媚び諂うことをしないのですね」
「餌をくれる飼い主にしか懐きません」
コルテシアが、いかがわしげな冷ややかな目をマキへと向けた。
「俺ではありませんよ。……ヴィルバートのです」
その名を告げた途端、コルテシアの瞳に怒りにも似た、恥のような不思議な感情が過った。
まるで彼の存在そのものが、国の汚点だとでもいうような表情だ。
(いつかぶっ飛ばしてやる!)
ルチカは眉を潜めてコルテシアを見据えた。
ヴィルバートの名前に過剰に反応するということは、彼の色彩を過去に見たことがあるのかもしれない。
「懲りもせず、あの忌まわしき悪王の子と、交流しているのですね」
コルテシアははっきりとした蔑みをマキへと投げた。
その瞬間、ルチカの堪忍袋の尾が切れた。
「ぶっ飛――――むぐっ」
瞬時にマキに口を塞がれ、心で思い浮かぶだけの罵詈雑言をもごもごと叫んだ。
「俺の交遊関係に、口を挟まないで頂けませんか」
「……類は友を呼ぶということなのかしら。そちらの娘も、奇矯ですものね」
「もごもごもご……」
「ルチカ。後で焼き菓子を勝手あげるから大人しく」
マキはそう躾をし、ルチカを押さえつけていた手をそっと離した。
「仕方ありませんね。わたしは大人なので我慢します。だけどヴィルやマキさんを愚弄したら誰であろうとぶっ飛ばしますよ」
「我慢出来てないから。餌は、お預けかな?」
ルチカは唇を結って、お利口な猫を演じる。
(もう話の腰を折りません)
「うん。いい子だ。この風変わりな子が、優秀な色彩師代行です」
「よろしい。ではその証拠を見せてご覧なさい」
侍女に目配せをし、それから扇をぱちんと閉じるとルチカに告げた。
「偽者ならば、今ここで立ち去りなさい。それ相応の覚悟を持ち、試験に挑める者だけが名誉を得るのです」
「名誉なんていりません。そんな腹の足しにもならないものに興味はありませんよ。だけどマキさんの不名誉になるような真似はしないのでその試験とやらを早く始めてください」
臆することなく淡々と発言するルチカに、コルテシアは優越の混じる微笑をした。
しばらく待ち、侍女が用意してきたのは、頑丈な金網で造られた、檻。
その檻の内側に、白くうねる、何かがいる。
ローテーブルへと檻を運んだ侍女は、そそくさとその場を離れた。
檻にいる生物に、恐怖心を抱いているようだ。
ルチカは金網の底を這う、鱗に覆われた細長いその生物をながめ言った。
「……蛇ですか?」
「ただの蛇ではありません。これは、毒蛇です」
マキが表情を一変させた。
悦に入って目を細めるコルテシアに、低い声色で抗議をする。
「毒蛇だなんて、冗談が過ぎますよ」
「自信がないのなら、別の色彩師を探して来ることですね。無論試験はこの、毒蛇のみですが」
毒蛇は三角の頭を起こして、ルチカへと細く鋭い牙を晒した。
そして口を閉じると、ちょろちょろとした舌を出す。
静かに腹を据えているマキの隣で、ルチカは一つうなづき、コルテシアへと確認のために問い掛けた。
「この蛇を一度、檻の外へと出しても構いませんか?」
金網の隙間は小指の爪ほどしかなく、触れることが出来ないのだ。
「ルチカ……?やる気なのか?」
「頼まれましたし、やりますよ」
ルチカが平然としていることで、マキの気がするりと抜けたようだ。
ははっ、と笑い言った。
「万が一のことがあったら、ルチカの墓前に焼き菓子を毎日供えるよ」
「それは生きてる内にくださいよ。毒蛇を出しますけど、逃げたい人は逃げてください。出してから騒がれたら対処しかねるので」
コルテシアの侍女たちは一様に青ざめて、部屋を飛び出したそうにしていた。
だが、主が悠然とソファに構えているので逃げるに逃げれず、寄り集まって震えている。
(本質を理解しようともしない人間は、勝手に怯えてればいい)
ルチカは彼女たちを労わるほど、優しくはない。
「毒蛇の毒に対する血清は準備済みですが、もし、私に危害を加える結果となれば、不敬罪は免れませんよ」
今でも逮捕されてるようなもののルチカには、その脅しは効果がなかった。
あっさりと檻を開け放ち、毒蛇が自ら来るのを待つ。
侍女たちの小さな悲鳴を無視して、ルチカは毒蛇へと視線を交わした。
しゅるり、と蛇は胴をくねらせてルチカの前へとその身を滑らす。
すくっと頭を上げた毒蛇に、マキがすかさずルチカを庇い、腕を出した。
毒蛇との間を隔てるその腕を、ルチカはやんわりと退けた。
「大丈夫ですから」
一言告げると、マキは警戒しながらも傍観に徹してくれた。
ルチカは、一心に見上げてくる毒蛇へとまず、頭を下げた。
動物たちは礼儀を重んじる。
アニスの言は、いつも正しい。
毒蛇はルチカへと、敬意を持って頭を垂れた。
場の空気が、水を打ったように静まり返った。
むしろ都合がいい。誰にも邪魔をされずに済む。
ルチカは毒蛇のひんやりとした頭へと指を触れた。
なるべく彩色に見えるように、細心の注意を払いながら。
鱗の輝きを封じていた白い色が極小の亀裂となり、ほろほろとほどけた。
瞬く間に、淡い黄色の蛇へと変貌を遂げる。
(綺麗な蛇だな……)
純粋にそう思ったルチカへと、毒蛇は深々と礼をし、――――顔つきを豹変させた。
これまでの謙虚な態度が嘘のように、窓辺へとすさまじい早さですり抜け、体をしならせて木へと飛び移る。
ルチカでさえ呆気にとられていたその間に、毒蛇は跡形もなく消えてしまった。
「…………ふ」
静寂を破り、コルテシアが笑い声をもらした。
「毒蛇をかしずかせるとは、色彩師にも様々な者がいるのですね」
「合格ですか?」
コルテシアは扇を一気に開き、くすりと笑う。
「肝心の蛇が逃げてしまいましたので、女神の復活祭の代役のみ、認めることにします」
(王家に雇われるつもりなんてなかったんだけど……)
とりあえず目的は達成したらしいので、ルチカとしては最良の結果と言える。
マキもほっとした笑みを見せて、ルチカの頭を褒めるように叩いた。
「復活祭の最終日前日に、打ち合わせがあります。忘れることのなきように」
コルテシアは必要事項だけ残して、未だに戦慄いている侍女たちを一瞥で促し、部屋を後にした。
「偽色彩師は、さすがだなぁ」
マキが感嘆ともからかいとも取れるつぶやきをした。
「偽色彩師じゃありませんよ。今はヴィルの愛猫です」
「それなら早く、飼い主のところへ返さないとね」
ルチカはマキと連れ立って、ヴィルバートのいる庭園を仲良く目指したのだった。
蛇が苦手な方にはすみません。
ルチカは大体の生き物に物怖じせず触れますし、触らせて貰えます。
だけどマリアだけは別かな。恋敵なので。
今のところは、ですが。




