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二日前、田中を自分のアパートで降ろした後、猪股は悩んでいた。松井にはどう説明したら適切であるか、皆目、見当がつかなかった。
「松井って男は、目付きが悪くて老けているか?」
隣で運転している田尻が、前置きもなく、そう言った。
「そうですね。そういう雰囲気はしてます」
でもどうしてですか、と猪股が尋ねる。何で分かったんですか、とも付け加えた。
「阪井のアパートの前で、そういう男がいた。阪井たちの姿を見た後で、姿を消したが」
ウィンカーを出して、車は右折する。松井の待つファミリーレストランへと、向かう最中だった。田尻は至って冷静な様子だが、猪股は慌てた。
「本当ですか、それってまずくありません?何か企まなければいいですけど」
すぐに携帯電話を取り出して、松井に連絡する。どうやらもう待ち合わせ場所に着いているようだった。少しだけ遅れます、とだけ伝え、電話を切る。
「もう一回、阪井のアパートに寄ってもらえますか」
猪股が言うと、分かった、とだけ言って、田尻の車は行き先を変える。特に猪股を模索する様子はなかった。
アパートに着くと、阪井の部屋の電気は既に消えていた。
「もう寝たのかな」
さっきも同じことを言ったな、と思いつつも、猪股は窓に耳をつけた。音はしない。どうしたものかと考えた挙げ句、猪股は固まりきっていない道路の雪を集めて、野球ボールほどの玉を作った。そのまま躊躇わずに窓へと投げる。予想よりも大きな音がした後で、雪玉は弾けて粉々になった。小走りで田尻の車へと戻る。しばらくすると、窓が開いた。阪井が不思議そうに顔を出して、左右を確認にする。悪戯だと思ったのだろうか、すぐに窓を閉めて、それきりであった。
「無事そうですね」
その言葉を聞いて、田尻は車を発進させた。雪を踏み鳴らす音が、外からした。
「松井のやつ、何かしますかね」
車の窓に額をつけていた猪股が、田尻の方を向き直して言う。
「酷く動揺している様子だった。今日で何をしようとは思わないだろう。今のやつは、そこまで考えが回りはしないさ」
「だといいんですけど」
それよりも、と田尻は言う。
「随分とあの外崎にこだわっているようだな」
あぁ、そうですね、と猪股が答える。
「田尻さんも気になりますか」
「いや、お前には悪いがそうでもない。俺にはあまり関係のないことだからな」
冷たいですね、と猪股は言う。特に否定することもなく、田尻は軽く笑った。
「でも助けたいじゃないですか、今度は」
聞こえるか、聞こえないかの声で猪股が言う。田尻の反応はなかった。
松井は疲れているようだった。肉体的にではなく、精神的に。それを見て、田尻の言うように、あの場所にいたんだな、と猪股は思った。とりあえず、外崎は見つけられなかったとだけ、松井には伝える。
「ありがとうな」と最後に松井は言ったが、それが自分を労ったものか、もしくは外崎の居場所を間接的にではあるが、見つけられたことに対してかはわからなかった。
自分の嘘に食いつくことなく、足早に松井が店内を出る。少し間を置いてから、猪股も田尻の車へ向かった。
「どうだった」と田尻が尋ねる。
「あっさりとしたものでしたよ」と答える。
ただ、と猪股は続けた。店を出る寸前に見た松井の顔は、決心のようなものが浮かんでいた。自分の直感が正しければ、松井は動くだろう。それも負の方向性に向かって。
「田尻さん、前に言ってましたよね」
「ハッキングか」
猪股の考えを理解していたかのように、田尻は言う。
「松井の住む場所を特定すればいいんだな」
「どのくらいかかるものですかね」
「明日には分かっているさ。それでどうするつもりだ?説得して聞くようなやつには見えないが」
うーん、と猪股は唸った。その先は考えていなかった。
「でも殺そうとするはずです。松井は阪井を」
「外崎じゃないのか」と田尻は言う。
「自分の子を身籠った人間を殺しませんよ。それに松井は彼女にこだわってますから」
「お前と松井、どっちのこだわりが上なんだろうな」
冗談ともつかない口調で田尻は言った。
「それはもちろん」
あっちですよ、と猪股は答えた。
田尻の言葉通り、松井の家は次の日に分かった。どうしても不安に思った猪股は一晩中、阪井のアパートの前にいたので、朝にきた田尻からの電話もそこで聞いた。
「お前も物好きだな。こんな真冬に一晩も外にいたら、凍死するかもしれない」
暖房を最大まで効かせた車内で、田尻は言う。猪股は体の震えを止められないまま、暖房に手を寄せていた。
「自分でもビックリです。こんな根性があったなんて」
寒さで呂律が回らず、きちんと話せなかった。田尻が差し出した熱い缶コーヒーを飲んで、ようやく震えが落ち着く。
「ここに来る前に、松井の家に寄ってきた。やつは仕事に出掛けたようだ」
「だったら安心ですかね」
猪股は阪井の部屋に目をやる。二人はまだ部屋にいた。
「乗り込んだ船だ」と田尻は言う。
「俺も一晩で考えてみた。今から松井の家に忍び込もうと思う」
えっ、と間の抜けた声を猪股が出した。寒さを一瞬忘れる。
「お前も一緒に来るか」
猪股の答えを聞くことなく、車は走り出した。
前から思ってたんですけど、と猪股は言う。
「田尻さんって、本当に探偵なんですか?」
「お前と同じ探偵だよ、一応はな」
さらりと、田尻は答えた。
松井の家は、阪井のアパートから車で十分ほどのところにあった。近くに高校と大きな公園があり、距離で言えば、その真ん中辺りである。昔ながらの一軒家だが、一人で住んでいることは、松井から聞いていた。
「こういうのも久々だな」
そう言って、田尻はポケットから細長い針のようなものを出す。テレビで見たことがある、と猪股は思った。所謂、ピッキングだ。
長丁場を予想していたが、一分もしない内に、玄関の鍵が開く。猪股は拍子抜けしたが、田尻は納得いかないように、時間が掛かりすぎた、と呟く。
誰もいないことは分かっていたが、それでもなるべくは物音を立てないよう、体を滑らすように猪股と田尻は玄関へ入った。それから一階と二階の全ての部屋を捜索したが、男の一人暮らしには、この家は大きいようで、生活感のあるのは台所とリビングだけであった。
「ついてきてなんなんですけど」と猪股は言う。田尻はリビングに無造作に置かれていたパソコンを、起動しているところだった。
「家に忍び込む意味ってあるんですかね」
「毒には毒で制するしかないからな」
パソコンと向き合いながら、田尻は答えた。画面には、次々と数列などが並んでは消えていたが、田尻は慣れた手付きでキーボードを打っていた。
すごいですね、と猪股は言ったが、これがどの程度すごいものなのかは、全く解らなかった。
「これは、上出来じゃないか」
しばらくして、キーボードを打つ手を止め、田尻が呟いた。キッチンの方にいた猪股が、それを聞いて、近づいてくる。
パソコンには先程までの数列などは消え、代わりに帳簿が映っていた。田尻はポケットからUSBを取り出して、またキーボードを打ち始めた。コピーをしていることが、猪股にも分かる。
「これって、何ですか」
猪股は尋ねる。詳しい話をされたところで、理解できるとは思えなかった。それを見越してか、「松井にとって、毒になるものだ」とだけ、田尻は言う。
「じゃあ僕は、松井の毒を見つけたみたいです」
猪股は田尻に、キッチンで見つけた紙袋を差し出す。中身はシースナイフだった。刃渡りも長く、簡単に人を殺せそうな雰囲気がある。
「これ、どうしましょうか。捨てるのは、まずいですよね」
猪股が言う。それはマズイだろ、と田尻は笑った。
「せめて偽物にすり替えたり出来れば、いいんですけどねぇ」
猪股はじっとナイフを見つめていたが、そんなことは出来ないだろうな、と思った。なので、田尻が出来ると言ったときには驚いた。
「田尻さん、本当にすごい人なんですね」
「そうでもない。さっきも言ってるが、俺はお前と同じ探偵なんだよ」
関心のない様子ではあったが、猪股は田尻が嘯いているように聞こえた。




