*7*
田中は瞼が重くなるのを感じて、気がついたら猪股のアパートに着いていた。田尻に優しく起こされて、お礼を言ってから、車を降りる。
猪股はこれから松井のところに行って来る、とのことで車からは降りず、そのまま田尻と共にまた走り去っていった。
一緒に行こうかと思ったが、松井に対して負い目を感じ、猪股には悪いが、今回は逃げることにした。
部屋に戻った後で、ベッドまで直行し、田中は改めて考える。果たして松井が納得する嘘を、猪股は言えるだろうか。今回はそれで収まったとして、いつかは阪井と外崎の関係に気付くのではないか。そしたら松井はどんな行動をするだろう。
そこまで考えたが、それは自分には分からないことで、これからも知る由のないことだ、と田中は思い、眠ることにした。シャワーを浴びていなかったが、明日にすればいい。起きたら猪股に、その後のことを聞こう。そこまで思考を巡らして、田中は意識が遠くなるのを感じた。
田中の予想と反して、猪股は次の日も、その次の日も部屋に帰ってくることはなかった。二度ほど、彼の携帯電話に連絡したが、「今、ちょっと立て込んでるんだ」と話して、すぐに切られた。
猪股にしては珍しく乱暴な電話の切り方に、田中は少しだけ腹が立ったが、彼は彼で色々あるのよ、と自分に言い聞かせて、怒りを落ち着けた。
そんなことを思い出して、また腹が立った頃に、部屋のドアが開く音がした。猪股だった。疲れた様子で、目も充血している。
「どうしたの」
田中が驚いて駆け寄ると、ちょっとね、と猪股は曖昧に笑うだけだった。
田中は訝りながら、異臭に気付く。卵が腐ったような臭いが、鼻をつく。紛れもなく、猪股の体からしている臭いだった。
「ねぇ、すごく臭いよ」
「そうかなぁ」と自分の体を嗅ぐも、猪股には分からないようだった。
「まぁ、三日もお風呂に入ってなければね」
三日といえば、最後に猪股に会った日だ。その間、彼が何をしていたかは気になったが、とりあえずシャワーを浴びてきて、と田中は言った。
脂ぎって光る頭をさすりながら、シャワールームへと猪股が消える。しきりに大きな欠伸をしていた。
猪股の携帯電話が鳴ったとき、相手の名前を見るまで、田中は無視をしていた。しかし、何度も繰り返してかかってくるので、出てしまえと携帯を取ると、田尻からのものであった。
「もしもし」
「その声は田中さんか」
電話越しで田尻の声がする。繰り返してかけてきた割には、急いでいる様子のない口調であった。
「彼は今、シャワーを浴びてますよ」
「そうか。松井が動き出した、と伝えてくれ。行き先はたぶん、阪井のアパートだ」
「はい?」
間の抜けた声が出る。どういう意味かを考えるも、答えは出そうになかった。それを察して、田尻は言う。
「もしかして何も聞いてないのか」
「全然です。さっき彼が帰ってきたので」
「そうか」
「緊急事態ですか?」
松井が阪井のアパートに行く、ということはつまり、外崎と鉢合わせするということだ。事の重大さに、田中はようやく気付く。
「緊急事態ではあるが、もうこちらの準備は出来ている。大丈夫だろう」
準備、とは何のことかは分からなかったが、田尻が大丈夫と言うなら、大丈夫なのだろうと、田中は思った。
「分かりました。今から彼と向かいますんで」
「田中さんも来るのかい?」
「よく状況は掴めないですけど、私だけ置いてけぼりにされたくないんで」
今回は自分の直感で真相がわかったのだ。そのくらいの権利はある。
田尻の電話を切った後、すぐにシャワールームに向かった。別に裸を見られて気にする間柄でもないので、迷いなく、ドアを開ける。
田中は呆れた。猪股が寝ていたからだ。疲れているのは分かる。しかし、立って頭を洗ったままで寝なくてもいいはずだ。
濡れた髪を気にすることなく、猪股はアクセルを踏む。その力は強く、車は鞭を打たれた馬のように、どんどんスピードを上げる。法定速度の二倍は出ていた。
「さっきから色々と考えてるけど、さっぱりなのよね」
田中が呟くと、少し遅れて猪股が答える。
「何が」
「松井は何で、阪井と外崎の関係に気づいたわけ?」
「それは」と猪股は言った後で、やめる。何から話そうかを考えている様子であった。そして散々悩んで、言う。
「全部終わってから話すよ。余計なことを考えたら、事故を起こしそう」
その瞬間、車内が激しく揺れる。そうして、とシートベルトを確認しながら、田中が言う。無事につくことを祈った。真実を知らないまま、死ぬのは御免だ。
阪井のアパートに着くと、そこにはもう黒のセダンが止まっていた。田尻の車だった。猪股がその横に車を止める。
「早かったな。松井はたった今、阪井の部屋に入った」
冷静な口調で、田尻は阪井の部屋を指差す。その時、大きな物音がした。阪井の部屋からだ。
猪股は、行きましょう、と阪井の部屋へと向かっていく。田尻はその様子を見た後で、ゆっくりと歩き出した。
その姿に田中は、夢でも見ているような気分になった。もしかしたら自分は、猪股が部屋に帰ってきた後で、眠ったのではないか、と。
「田中さんはどうする。ここで待っているかい」
「どうしましょう」
咄嗟にそんな言葉が出る。田中は迷っていた。自分が行ったところで、何が出来るわけでもなさそうだ。しかしここで取り残されるのも、癪だ。もう一度、阪井の部屋から物音がする。それに急かされたように、田中は言う。
「やっぱ、行きます」
田尻の後ろにつくように、歩き出す。無駄のない動作で、猪股が阪井の部屋のドアを開ける。猪股、田尻、田中の順でキッチンを抜けて、今へと入っていく。
部屋の中では、一番奥で阪井が外崎を守るように、抱きしめていた。小さなテーブルを一つ挟んで、松井がそれを睨むように立っている。
手にナイフのようなものが見えた。蛍光灯の光で、冷たく光ってる。
「これ、全然大丈夫な雰囲気には見えないんですけど」
その状況に動揺して、田中が言う。そこで始めて、松井が田中たちの存在に気づいた。
「あんたら、どうしてここにいるんだ」
松井のナイフが、こちらに向けられる。田中はぎょっとして、体を少し縮めた。
「大丈夫だよ」と猪股は言い、怯むことなく、松井の元へと近づく。
来るな、と出鱈目に松井はナイフを振り回す。奥ではそれを見た外崎が、悲鳴をあげた。阪井は外崎を抱きしめる力を強くする。
「もう止めよう」と諭すように、猪股が言った。
「何も女は、世界でその人だけじゃない。何もそんな執着する必要なんてないさ」
偉く真面目にそんなことを言う猪股に、田中は拍子抜けした。
「俺にはこいつだけなんだ。それにこいつは、俺の子を身籠ってるんだぞ」
俺の子、に阪井と外崎が反応したように、田中には見えた。そして二人で目を合わせた後で、阪井が決意したように立ち上がった。その気配を察して、松井は阪井の方を向く。
「本当にすまない」と阪井は細く息を洩らす。目には涙が浮かんでいた。
「彼女のお腹の子は、俺との子供なんだ」
松井はそれを聞いて、顔色を失くしたようだった。どうして、どうして、と呟いている。
人間は予想だにしないことに脆い、と聞いたことがあったが、今の松井は、まさにその状況なのだろう、と田中は思った。
「お前、彼女に暴力を振るってたらしいな。それで何度か、俺のところに相談に来てたんだ。そのことがキッカケだった。何度か会う内に、俺たちは関係を持つようになったよ」
松井を非難する様子はなく、それよりは、自分がしたことを責めるような口調で、阪井は続ける。
「本当は言わなければならないと思った。でもお前のことは知ってる。いずれはこうなるかもとは、予想してた」
松井の目に力が戻っている。力、というよりは殺意だ。ナイフを握る手に力が入っていた。それに猪股が気づく。
「止めろ」
軸足で踏ん張った後、軽やかに飛び出して猪股は松井と距離を縮める。しかしそれより早く、松井のナイフは阪井の体に吸収されていったのが、田中には見えた。全ての光景がスローモーションに見える。赤い液体が阪井の体から出て、ナイフの刺さる反動で、阪井は倒れ込んだ。ちょうどその横には外崎がいて、甲高い悲鳴をあげて、目を瞑る。松井はそれを呆然と見つめていた。しばらくの間、部屋は静まり返った。
「田尻さん、どういうことですか」
我に返った猪股が、取り乱すように田尻の方を見る。田尻は冷静さを失わずに言った。
「大丈夫だ」
そう指差す先には、Tシャツを赤く染めてはいるものの、痛みも何もなく、平然と立ち上がる阪井がいた。
「どうして」阪井と田中の声が重なった。




