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その日、田中は“truth”にいた。あの日の夜から、猪股とは三日ほど会っていない。電話もかかってこなかったが、阪井のことを調べていることは、察しがついたので、こちらからかけることもなかった。
そして手持ち無沙汰になって、何となくここに来たのは、前に飲んだカクテルが美味しかったのもあるが、ここにいれば田尻に会えるかもしれないと思ったことの方が大きかったのかもしれない。
案の定、髪を金色に近い茶色に染めた、俗に言うイケメンのバーテンダーと、他愛もない話で二十分ほど盛り上がっていると、田尻は店に顔を出した。
コートの肩口に積もった雪を払った後で、すぐに田尻は田中に気づく。
「久しぶりだね。猪股の姿が見えないが、今日は一人かい」
自然な流れで、カウンターに座る田中の隣に田尻は腰かける。
「そうですね」
実は田尻さんに会いたくて、とわざとらしく上目遣いを田中は使うが、それは嬉しいことだ、と言う田尻は、言葉に反して一度も田中を見なかった。
「でも本当なんですよ」
「ほぉ」田尻が初めて、田中の方を向く。
「実は彼のことで相談がありまして」
「彼とは、猪股のことか」
語弊が生じないよう、確認するように田尻が言う。
「えぇ」
「あいつとは同業者だから、ある程度は知っているが。その相談が田中さんと猪股の恋愛関係であれば、いいアドバイスは期待しないでくれ」
その辺は大丈夫です、と田中は笑う。そして、そのことについては深く聞かない田尻は大人だな、と思った。
カクテルに口を一度つけた後で、松井の依頼に関して、今までの経緯を話し始める。
タバコに火をつけて、時折、軽く吸いながら、田尻は黙って聞いていた。
そして自分の仮定までを話し終えた後で、田中は田尻に尋ねた。
「これって、どう思います?」
俺も真実を知ってるわけではないが、と田尻は前置きをする。
「面白いんじゃないか、いい線いっている」
「でも彼は、私の言ったことを鵜呑みにして、今動いてまして」
出来の悪い息子を恥じる気持ちはこんな感じなのだろう、と言いながら田中は思った。
「それまでが平行線だったんだ。キッカケがあっただけで、あいつにとっては大きな進展だったんだろう。それに」
フィルターまで近づいてきたタバコを揉み消して、田尻は続ける。
「探偵が事件を解決するには、そういう直感が必要だ」
田尻が言うと、それには大きな説得力があった。
「私って、彼より探偵に向いてますかね」
「向いている、だろうな」
「彼が聞いたらどう思うだろう」田中が顔を綻ばせる。
「今回、やけに張り切ってるから。外崎を助けるんだ、って。どうしてでしょう」
田尻は一度、思考を巡らした後で、呟く。
「思い入れがあるのかもしれない」
「思い入れ?」田中は首をかしげる。
「いや、何でもない。これは直感だ」と、田尻は静かに笑った。
そこからしばらくの間、猪股の話を田中と田尻は続けていた。その中には、田中が知らないエピソードもあったので、これは脅しに使えると内心で思った。
「そう言えば、俺も聞きたいことがあったんだ。気を悪くしないで聞いてくれ」
田尻が思い出したように言う。田中は珍しいな、と思いながら、良いですよと答える。
「どうして田中さんは、猪股と付き合っているんだ」
予想だにしない質問に、田中は戸惑う。そんなことを聞かれるとは。
意に介さない様子で、田尻は続ける。
「今朝のニュースでやってたんだ。今時の女性は付き合う男に安定を求めると」
田尻の口から、今時、なんて言葉が聞けるとは思わず、田中は笑いそうになった。
「猪股の仕事は安定とは程遠い上に、稼ぎも少ないだろう」
包み隠すことなく真実を述べる田尻に、そうですね、と田中も否定しなかった。
「だから不思議に感じてな」
「あぁ」と田中は頷く。
「それが私にも分からないんですよ」
「分からない、か」
「えぇ。でもそういうのは気にしてないかな。何だかんだで一緒にいると楽しいですし」
ノロケに捕られるかな、と考え、田中はそれ以上を話すのを止めようと思った。
「つまり、理屈ではないんだな」
真剣にそう言う田尻に、田中はまた笑いそうになる。
「この前、初恋の人の話をされて、普通にしてたんですけど、嫉妬心を感じたんで。そういうのが無くなったら、別れると思いますけど」
「そういうものか」田尻が感慨した様子で言う。
「そういうものです」
田中の携帯電話が鳴ったのはその時だった。鮮やかに光るディスプレイには、たった今、話題になっている男の名前が浮かんでいる。
新幹線が開通して、土地開発が進み、アパートや一軒家が次々と建てられている。その中の一つに、阪井のアパートはあった。外観は、その回りにあるアパートと同じく、西洋風になっていた。
中央には入り口があり、中に入ると、二階に続く階段と、各部屋に繋がる扉が左右に二つある。右の方が阪井の住む部屋だと、猪股が言う。
一度、外に出てから阪井の部屋の窓を見る。夜なのでカーテンが閉められており、中の様子は見えないが、電気がついているので、誰かいるのは確かだった。
「阪井のアパートが分かったんだ」
電話に出ると、開口一番で猪股がそう言った。
「今からそっちに行くから、待ってて」
田中はすぐに会計を済ませて、“truth”を出る。見渡すが、タクシーがいる気配はない。 駅の方まで向かえば見つかるかと思い、歩き出そうとすると、田尻が田中の後ろから言う。
「送っていこう。俺はまだ何も飲んでない」
田尻の黒のセダンに乗り込み、猪股が言う阪井のアパートまで向かう間、田中は自分の仮定が当たっているのか、いないのか、そわそわしていた。
万が一、外れていたところで特にどうなるわけではないが、三日間、それを信じて動いていた猪股のことを考えると、当たっていて欲しいと思う。
阪井のアパートから少し離れた場所に止めてある、田尻の車には助手席に田中、後部座席に猪股が乗っていた。
落ち着きのない様子で、先程から何回も猪股は後ろを振り返り、阪井のアパートを見ている。相変わらず電気はついているが、外に出てくる気配はない。
それを微笑ましく、田尻は見ていた。
「よく割り出せたな」
「すごく頑張りました」
猪股は今までの労力が吹き飛んだような笑顔を作る。きっと田尻に誉められたからだろうな、と田中は思った。
それから三十分ほど経った頃、阪井の部屋の電気が消えた。
「寝たのかな」
不安そうに猪股が呟く。まだ夜の十時前ではあるが、違うと否定するには確証がないため、田中は黙っていた。田尻も同様に言葉を発さない。
しばらくして、入り口から人影が見える。阪井だった。後ろを振り返りながら、誰かと話している。その誰かは、まだ見えない。
猪股が後ろで息を飲むのが分かる。田尻は表情を崩すことなく、バックミラーで様子を見つめていた。
やがてもう一つの人影が、ぼんやりと外灯に照らされて、田中はその姿をしっかりと確認した。
「やっぱり」
自分の仮定が当たった高揚感は、田中の中に不思議となかった。阪井の隣で笑う外崎の姿が、あまりに幸せそうに見えたからだ。
言われて気付く程度ではあるが、腹部も少し大きくなっている。そして何より印象的だったのは、それを触る阪井の姿だった。壊れ物を扱うような、その手付きと顔は、外崎と同じく幸せに満ちている。
「あの子供、本当に松井との子供なのかな」
自然と田中の口から、そんな言葉が出る。
「僕も同じことを考えてた。どうすればいいですかね」
猪股が田尻の方を見る。阪井たちの姿は、車とは逆の方へと消えていった。
「松井に何て説明すればいいか、分からないです」
「お前の依頼だ。お前の好きにすればいいよ」
田尻がバックミラー越しに猪股を見る。投げやりな言い方ではなかった。
きっと猪股は松井に嘘をつくだろう、と田中は思った。でもそれが、悪いことには思えなかった。猪股がつくのは真っ白な嘘なのだ。




