少女レティシア
ごめんなさい。ハチャメチャ獣生活まだまだ書き途中なんですが書きたくなった物語があるので平行して書きます!
じっとりとした地下牢は、カビと男たちの汗、それから排泄物の臭いが混ざり合って最悪の環境だった。
レティシアは冷たい石床の上で、膝を抱えて小さく身を縮めていた。すり切れた麻の服は泥と乾いた血で汚れ、肌に張り付いて気持ち悪い。
それでも、今の彼女にはそれを気にする気力さえ残っていなかった。
「おい、化け物の出来損ない。まだ生きてんのか」
ガチャン、と粗暴な音を立てて鉄格子が蹴飛ばされる。
見張りの若い兵士が、腰の鍵束をじゃらじゃらと鳴らしながら、ひどく不快そうにレティシアを睨みつけていた。その目は、人間がドブネズミを見る時のそれと完全に一致している。
レティシアの銀髪の間からは、硬く黒い角が二本生えている。まだ小さく歪な形だが、それが彼女の頭部にあるというだけで、人間にとっては排除すべき「異物」だった。さらに、ボロ布の隙間から覗く背中には、トカゲのような硬い鱗と、未発達で小さな羽が皮膚を突き破るようにして張り付いている。
高貴で強大な力を持つという【竜族】の父親と、しがない【人間】の母親の間に生まれたハーフ。それがレティシアという少女の正体だった。
「……なに」
掠れた声で短く聞き返す。まともに水を飲ませてもらっていないせいで、喉が焼けるように痛む。
「なんだその目は。反抗的な態度を取ると、明日の引き渡しまでにその角をへし折ってやってもいいんだぞ。どうせ商品価値があるのは生体組織だけだからな」
兵士は下劣に笑いながら、鉄格子の隙間から槍の柄を突き出し、レティシアの角を小突いた。コン、と乾いた音が頭に響き、鈍い痛みが走る。レティシアはただ黙ってうつむき、それを受け入れるしかなかった。
ほんの数日前まで、彼女はここから少し離れた場所にある、ガルザ王国の辺境の村で暮らしていた。
決して裕福ではなかったが、母親と二人、静かに暮らしていたのだ。竜の血を引くレティシアは、生まれつき力が強く、怪我の治りも早かった。だからこそ、村人たちからは「気味が悪い」と遠巻きにされ、人間が嫌がるようなきつい労働をいつも押し付けられていた。
真冬の冷たい川に入っての洗濯、大人三人でも持てないような大岩の撤去、狂暴な害獣が潜む深い森での薪拾い。それらをすべて、レティシアは文句ひとつ言わずに引き受けた。
『レティシア、ごめんね。私が人間だから、あなたにこんな苦労をさせて』
病床で日に日に痩せていく母親は、いつも申し訳なさそうにレティシアの泥だらけの手を握った。そして、死ぬ間際に何度も何度もこう言い聞かせたのだ。
『人間を恨んじゃだめだよ。みんな、ただ未知の力が怖いだけなの。あなたが優しくしていれば、いつか必ず仲間として認めてもらえるからね』
レティシアはその遺言を、宝物のように胸に抱いて生きてきた。どれだけ理不尽に怒鳴られても、石を投げられても、いつか笑い合える日が来ると信じて泥にまみれて働き続けた。
だけど、全部バカみたいだった。
今年の夏、村の畑が深刻な干ばつで全滅しかけた。井戸は干上がり、家畜は次々と死んだ。絶望した村人たちが集まって始めたのは、神への祈りではなく、生贄探しだった。
彼らは驚くほど簡単に、そして迅速に手の平を返した。
『あの化け物の娘が村にいるから、山の神が怒ったんだ』
『そうだ、あいつが不吉を呼んだに違いない』
『ちょうど国軍が、竜の血を引く実験体を高値で探しているらしい。あいつを引き渡せば、村全員が何年も遊んで暮らせるだけの大金が手に入るぞ』
夜中、家に押し寄せてきた村人たちの顔を、レティシアは今でも鮮明に覚えている。松明の炎に照らされた彼らの顔は、まるで狂鬼のようだった。
何より絶望したのは、一番仲が良かったはずの幼馴染の男の子が、真っ先にレティシアの腕を掴んで捻り上げ、縄で縛り付けたことだ。
『悪く思うなよレティシア。お前だって、最後に村の役に立てて嬉しいだろ?』
男の子はそう言って、見たこともないような醜い笑顔を浮かべた。助けを求めて見上げた先では、昨日まで「いつも手伝ってくれてありがとう」と優しい声をかけてくれていた近所のおばさんが、汚いゴミを見るような目でレティシアの顔に唾を吐きかけた。
あの瞬間に、レティシアの中で何かが完全に終わったのだ。
「おい、聞いてんのか。明日にはお前を買い取った王都の研究者が来る。その生意気な角や羽を、麻酔もなしに生きたまま根元からむしり取られるんだ。人間に逆らった罰だ、せいぜい牢の中で泣き叫んでろよ」
見張りの兵士は唾を吐き捨て、小気味良さそうに足音を響かせて通路の奥へ去っていった。
再び静まり返った檻の中で、レティシアは自分の胸元をぎゅっと掴んだ。母親の言葉を思い出そうとしても、もうあの優しい声は脳内に響かない。代わりに聞こえてくるのは、村人たちの罵声と、幼馴染の嘲笑だけだった。
(……ごめんね、お母さん)
心の中で呟く。涙はもう出なかった。
(私、やっぱり人間が嫌いだ。……あいつら、全員、苦しんで死ねばいいのに)
その思考が脳裏をよぎった瞬間、ドクン、と心臓の奥が激しく脈打った。
冷え切っていた体温が、一瞬で沸点に達するような感覚。体の中で、これまでずっと眠っていた熱く禍々しい血が、主人の怒りに呼応して狂ったように暴れ出し始めた。
――ガラン! ガラン! ガラン!
突然、砦の奥から鼓膜を破るようなけたたましい鐘の音が響き渡った。非常事態を知らせる警鐘だ。
直後、すさまじい地響きが地下牢まで伝わってきた。上の階からは、人間の悲鳴や怒号、そして肉が凄まじい力で引き裂かれる嫌な音が、壁を伝って響いてくる。
「なんだ!? 何が起きて――ぎゃっ!?」
異変に気付いて通路を慌てて走ろうとしたさっきの兵士が、背後から迫った巨大な影によって、一瞬で床に叩きつけられた。ベキバキと骨が砕ける音が響き、壁と床にどろりとした赤黒い血が飛び散る。兵士はピクリとも動かなくなった。
血の海を平然と踏みつけて現れたのは、人間の倍以上の体躯を持つ巨大な魔族だった。
頭部からは山羊のような湾曲した角が生え、背中には蝙蝠のような大きな翼がある。その身から放たれる殺気だけで、並の人間なら気絶するレベルの、本物の化け物だ。魔王軍の上位幹部であることは間違いなかった。
「ちっ、人間の砦なんぞ小突いただけでこれか。どいつもこいつも歯応えがねえな」
魔族は太い腕で大斧を肩に担ぎ、鼻を鳴らした。そして、ぎらついた赤い目が、檻の奥で冷たく佇んでいるレティシアを捉えた。
男はニヤリと下品に牙を剥く。
「なんだ、これか。軍師の野郎が言ってた『竜の血が混ざった珍品』ってのは。ずいぶん貧相で貧弱なガキじゃねえか。おい、連れてってやるよ。魔界の実験室でモルモットになる準備はできてるか?」
魔族が大きな手を鉄格子にかけ、力任せにこじ開けようとした。
その時、レティシアがゆっくりと顔を上げた。
「……うるさい」
低く、地を這うような冷たい声だった。
「ああ? なんだと?」
聞き取れなかった魔族が、怪訝そうに眉をひそめる。
「うるさいって言ってるの。人間も、お前ら魔族も、どいつもこいつも……私のことを勝手におもちゃみ
たいに扱って。どいつもこいつも、偉そうに上から目線でさ」
レティシアが小さく息を吐き出した。その瞬間、地下牢の空気がずしりと重くなった。重力が何倍にもなったかのように、周囲の物体がみしみしと音を立てる。
彼女の体から、どろりとした黒紫色のモヤのような魔力が噴き出し、触れた床や頑丈な石壁が、熱湯をかけられた氷のようにドロドロと溶け始めた。
「がはっ……!? な、んだこれ……っ、空気が……っ」
魔族が突然、胸を押さえてその場にどさりと膝をついた。
呼吸ができない。ただその場に立っているだけなのに、周囲の生き物の生存を許さないような、圧倒的で絶対的なプレッシャー。魔族の強靭な皮膚が、レティシアの放つ魔力の熱量だけでジリジリと焼け焦げ、不快な煙が立ち上り始める。
(動けねえ……! 指一本、動かせねえぞ……! なんで俺が、こんなハーフのガキ相手に恐怖してやがる……っ!?)
魔族がこれまでに数多の戦場で築き上げてきたプライドは、一瞬で粉々に吹き飛んだ。全身の毛穴から冷や汗が溢れ出し、ガタガタと勝手に四肢が震え出す。
レティシアはゆっくりと立ち上がった。
その目は、もはや人間の形を留めていなかった。爬虫類のような、完全に縦割れの金色の瞳。それは純血の竜の中でも、選ばれた王族しか持たないとされる【竜王の金眼】だった。頭の黒い角がみしみしと音を立てて巨大に尖り、背中の羽が檻を埋め尽くすほど禍々しく広がる。
「私は、もう誰の言いなりにもならない。私をいじめた奴らも、この世界も、全部、全部私の力でめちゃくちゃにしてやる」
ドォン!!!
彼女が静かに一歩踏み出した。ただそれだけの動作で、大人が数人がかりでも壊せない頑丈な鉄格子が、爆風に煽られた紙切れのように木っ端微塵に吹き飛んだ。
魔族は完全に恐怖に呑まれていた。目の前にいるのは、人間の血で薄まったハーフなんかじゃない。世界そのものを滅ぼしかねない、本物の怪物だ。魔族は涙と鼻水を流しながら、プライドも捨てて、床を這いつくばって後ろへと逃げようとする。
「ひ、ひえっ……! くるな、来るな……っ! 助けてくれ……っ!」
さっきまで傲慢にモルモット呼ばわりしていた魔族が、無様に命乞いをする。
レティシアはその哀れな姿を、感情の完全に消えた、冷たい金色の目で見下ろした。
「……今さら、命が惜しくなったの?」
その声は、凍てつく針のように魔族の脳髄に突き刺さった。魔族は恐怖のあまり、ひぃ、と短い悲鳴を上げて硬直する。
「だったら、その命、私のために使いなさい。――私を、あの村へ案内して。私を売って大金を手に入れ
ようとした、あの人間たちのところへ」
少女の細い指先が、じりじりと熱を帯びていく。それはすべてを塵に変える、竜の息吹の予兆だった。
絶望に染まった魔族を従えて、レティシアはゆっくりと、外の世界へと歩みを進める。
これが、のちに世界中を恐怖で蹂躙し、人類の天敵となる『最凶の魔王』が誕生する、ほんの始まりの物語。
どうでしたか!たぶんすぐには投稿できないです。ごめんなさい




