最終話 また明日と『かつ丼』の円環
大晦日を控えた街は、一年の終わりを惜しむように静まり返っていた。
ゲートが閉じ、師匠との通信が途絶えた。
二度と会えなくなってしまったという喪失感の重さに、足取りは鉛のように重かった。
ぽっかりと心の穴を持て余したまま、足が自然とあの場所へ向かっていた。
見覚えのある路地を曲がり、住宅街を抜け、角を一つ折れると。
あの交番が、そこにあった。
一年前の今日。
私を一人の警察官が拾ってくれた。
胡散臭い聖女の与太話を呆れ顔で聞きながら。
温かなかつ丼を差し出してくれた。
あの日から、ちょうど一年。
交番の中を覗き込むと、見慣れた姿があった。
紺色の制服に身を包み、デスクに向かって書類を書いている。
髪が暖房の風に小さく揺れていた。
「キリハラはん。お疲れ様どす」
「……ん?あら、ハンナリエル。どうしたの、こんな年の瀬に」
キリハラさんが、交番の前に立つ私を不思議そうに見つめた。
どう説明すればいいのだろう。気づいたら足が向いていた、なんて。
「……なんとなく、この場所に来たくなったんどす。ちょうど一年前の今日、ここで初めてキリハラはんにお会いしましたから」
「あーそういえば、そんな時期だったわね」
「忘れるわけがおへん。あの日のかつ丼の味は、うちの記憶にしっかりと刻まれていやすえ」
キリハラさんが、ふっと笑った。
いつもの呆れ顔ではなく、もう少し柔らかい表情だった。
「ちょうどお昼休憩に入るところだったのよ。ちょっと待ってて」
キリハラさんがデスクの電話を取り、どこかへダイヤルを回した。
「あ、もしもし?いつものカツ丼、二つお願い。……ええ、そうよ。今日は大盛りにしなくていいから」
電話を切ったキリハラさんが、こちらを見て悪戯っぽく笑った。
「実はね、ずっと覚えてたの。今日がキミと出会った『記念日』だって」
「キリハラはん……」
「それでまあ、その。一年前と同じお店のものを一緒に食べようかなって……変?」
「変やありまへん。変やありまへんえ、キリハラはん」
声が、少し震えた。
「中に入りなさい。暖房つけてあるから」
一年前と同じ交番のパイプ椅子に腰を下ろした。
しばらくすると、外でけたたましいバイクの音が聞こえ、キリハラさんが受け取った二つの出前の器が机に並べられた。
蓋を開けると、甘辛い煮汁の匂いがふわりと立ち上った。
一年前と、同じ匂いだ。
「……いただきます」
箸を割る。
卵でとじられたカツに箸を入れると、サクリ、という最初の一音は衣が吸った煮汁で柔らかくなり、しっとりとした手応えに変わっていた。
口に運ぶ。
甘辛い醤油の煮汁と、ふわりとした卵。
その中に包まれたトンカツは、衣に出汁をたっぷりと吸い込み、かつての鎧としての硬さを脱ぎ捨てて、柔らかな温もりそのものに変わっていた。
白い飯が煮汁を受け止め、肉と卵と米が一体となって、口の中で穏やかな円を描く。
「……」
一年前にも、同じ味を食べた。
あの時はただひたすらに空腹で、無我夢中で祈りの言葉を紡ぎながら目の前の食べ物にかぶりついた。
今は、違う。
一口一口の味が分かる。この甘辛さの奥にある出汁の深みも、卵の優しさも、米の甘みも。
この世界で過ごした一年間が、全部、舌の上に乗っている。
「……美味しいどす。あの日と、同じ味なのに……今日のほうが、ずっと美味しい」
「そりゃそうでしょ。あの時のキミは何も食べてなかったってぐらいの勢いだったんだから。今ほど味なんて分からなかったでしょうに」
「確かにそうどしたな。あの日のうちは、かつ丼の味よりも、キリハラはんの呆れ顔のほうが記憶に残っておりますわ」
「呆れもするわよ。『異世界の聖女です』なんて真顔で言う不審者、前代未聞だったんだから」
キリハラさんが、かつ丼を食べながら苦笑した。
「職務質問しても設定が崩れないし、身元は確認できないし、かといって悪意はまるでないし。正直、どう処理していいか分からなかったわ」
「処理……ふふ、うちは書類の一枚として処理できまへんでしたか」
「できるわけないでしょ。結局、大家さんに引き取ってもらう形になって……でも、それで良かったのよね」
「ええ。あの日、キリハラはんがかつ丼を食べさせてくれなかったら、うちは今ここにいなかったかもしれまへん」
キリハラさんの箸が、一瞬止まった。
「大袈裟ね」
「大袈裟やありまへんえ。あのかつ丼が、うちのこの世界での最初の『食の記憶』なんどす。あの温もりが無ければ、うちはこの世界を好きになれなかったかもしれない」
交番の小さな窓から、冬の夕陽が差し込んでいた。
一年前のあの日、かつ丼を照らしていたのは冷たい夜の蛍光灯の光だったけれど。
「キリハラはん。この一年、本当にお世話になりました」
「お世話って。ワタシは別に、何もしてないわよ」
「してくれましたえ。何度も巡回のついでに様子を見に来てくれたでしょう。騒動のたびに後始末してくれたでしょう。困った時に『しょうがないわね』って言いながら、必ず助けてくれたでしょう」
「……それは、まあ。仕事、だから」
「仕事の範疇を超えてると、ゴンドウはんも言ってましたえ」
「大家さん、余計なことを……」
キリハラさんが、少しだけ頬を赤くした。
残りのかつ丼をかき込んでいる。
「……ねえ、ハンナリエル」
「はい」
「キミは、来年もここにいるの?」
その問いに、一瞬だけ、師匠の顔が浮かんだ。
ゲートは閉じた。元の世界への道は、もう無い。
けれど、それは喪失ではなかった。
「ええ。おりやすえ。来年も、再来年も。ここはうちの居場所どすから」
「……そう。なら、いいわ」
キリハラさんが、ふうっと息を吐いた。
「来年も、散々ワタシに面倒かける気でしょう?」
「かけます。盛大にかけますえ」
「……開き直らないでよ」
二人で笑った。
一年前、不審者と警察官だった二人が。
同じ場所で、同じかつ丼を食べながら。
かつ丼の最後の一口を丁寧に味わった。
甘辛い煮汁が染みた飯粒の一つ一つが、この一年間の全てを凝縮しているようだった。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。さて、休憩終わり。仕事に戻るわ」
キリハラさんが立ち上がり、空の器を手際よくまとめた。
交番の窓枠の向こうで、西の空は夕焼けの名残が薄れ、東の空には一番星が瞬き始めている。
私は椅子から立ち上がり、帰る支度をした。
「じゃあ、今年もお疲れ様どした、キリハラはん」
「ハンナリエル」
「はい?」
キリハラさんが、まっすぐに私を見た。
紺色の制服姿。切れ長の目が、冬の西日を映している。
「また明日ね」
たった五文字。
けれど、その言葉の中に、この一年間の全てが詰まっていた。
不審者と警察官。
かつ丼と呆れ顔。
幾度もの騒動と、その度に差し伸べられた手。
「また明日」
それは、明日もここにいていい、という許可であり。
明日も会いたい、という願いであり。
明日も変わらず日常が続く、という約束だった。
「……ええ。また明日、キリハラはん」
交番を出て、私は帰路についた。
少し歩いてから振り返ると窓の向こうのデスクで、キリハラさんがこちらに片手を上げて小さく振ってくれた。
胸の中で、かつ丼の温もりがまだ灯っている。
一年前の今日も、同じ温もりを感じた。
あの時は、生き延びるための熱だった。
今は、ここに在ることの喜びの熱だ。
「……さて」
どこからともなく現れたんにゃ丸が顔を出し、「んにゃ?」と首を傾げた。
「帰ろうか、んにゃ丸。うちらの家に」
年の瀬の街を歩く。
来年も、この街で働いて、食べて、笑って、友と過ごす。
それだけのことが、たまらなく愛おしい。
聖女の一年目が、静かに幕を閉じた。
***
【タイトル:[円環]始まりの交番に還る聖女と、二度目の『かつ丼』に宿る一年の重み】
祈りの時です。
皆様は、同じ料理を二度食べて、まったく違う味を感じた経験はおありでしょうか?
それは『かつ丼』──卵と煮汁に抱かれた黄金の鎧が、白い飯の上で静かに眠る、聖なる丼でございます。
一年前、聖女が最初に口にしたのがこの料理でした。
あの日は味など分からなかった。ただ温かくて、ただ必死に食べました。
そして今日。大切な繋がりとの別離に心の穴を持て余しながら向かった、あの始まりの交番で。
共に迎えた二度目の『かつ丼』は、出前の器から温かな湯気を立てておりました。
今度は、一口一口の味が分かります。
出汁の深みも、卵の優しさも、米の甘みも。
この世界で過ごした一年間が、すべて舌の上に乗っています。
不審者と警察官から始まった物語は、「また明日ね」という五文字で、静かに新しい日々へと繋がりました。
明日もきっと、お腹は空きます。
明日もきっと、美味しいものに出会えます。
それだけのことが──この世界に生きているということが、たまらなく愛おしいのです。
──Re:エルの福音グルメ日記・完──
#かつ丼 #交番 #また明日 #聖女の円環 #ありがとうございました
何かと胡散臭い糸目の聖女ハンナリエルさん ~日本の食文化にはんなりと抗えない~
これにて完結となります。
全六十話、ハンナリエルの食卓にお付き合いいただき、ありがとうございました。
評価など諸々をいただけると次回作やシーズン2への構想や執筆の励みになりますので、是非ともよろしくお願い致します。
改めて、本当にありがとうございました。




