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第6話 巫女の筆遣いと紅白の甘味『いちごサンドイッチ』

 静寂に包まれた社務所の中で、墨の独特な香りが鼻腔をくすぐる。

 すずりの海に筆を浸し、穂先を整える一連の動作は、かつかつて神殿で聖典の写本を行っていた頃を思い出させ、心が自然と鎮まっていくのを感じた。


「はい、こちらでお納めいたしますえ。ようお参りどしたな。文字には魂が宿りますさかい、一筆一筆にうちの祈りを込めてしたためさせてもろてます。どうぞ、大切に持ち帰っておくれやす」


 朱色の印が押された帳面を、うやうやしく両手で差し出す。

 受け取った参拝客の女性は、紙面に踊る墨文字を見て、驚きに目を見開いた。


「すごい……!なんて力強くて、美しい字なんですか。まるで、文字そのものが生きているみたい」

「ふふ、お褒めいただき光栄どす。文字には魂が宿りますさかい、一筆一筆、祈りを込めてしたためさせてもろてます」


 神に仕える装束に身を包み、糸目を細めて微笑めば、相手はありがたそうに何度も頭を下げて去っていく。

 再三、胡散臭いと言われた笑みと言葉遣いも、場所を選べば効果的なのが不思議である。


 この日雇いバイト、本来は境内の落ち葉を掃き、清める清掃係のはずだった。

 しかし、春の繁忙期というのは恐ろしい。連日、御朱印帳に向かい続けていた宮司さんの腰が、限界を超えて悲鳴を上げたのだ。


『ああっ、腰が……ぎっくり腰が!椅子に座ってられん……!』


 絶望に沈む社務所で、彼は履歴書を震える手で指差した。

 そこに記された住所氏名の筆致に、起死回生の光を見たらしい。


「まさか、履歴書の文字がきっかけで、こうして筆を執ることになるとは思いまへんでしたわ。人生、何が役に立つか分からんもんどすなあ」


 腰をさすりながら涙ぐむ宮司さんの言葉は、あながち大げさでもないらしい。


 異世界で使用していた神聖古代文字ルーンの筆運びは、なぜかこの国の『毛筆』という文化と親和性が高かった。

 魔力を込める要領で筆圧を調整し、祈りの言葉を紡ぐように「奉拝」と書くだけで、周囲が勝手に「達筆だ」「霊験あらたかだ」と騒いでくれるのだから、人生とは分からないものである。


 それに、袖を通している紅白の装束――巫女服から聖衣に近い気配を感じるせいか、驚くほど身体に馴染んでいた。


「次の方、どうぞ」

「あ、はい!お願いします!」


 春の陽気に誘われてか、神社は参拝客でごった返していた。

 窓の格子越しに外を窺えば、石畳の参道には途切れることのない人の波が続いていた。

 その長さたるや、朱塗りの鳥居を越え、さらにその先の坂道まで伸びているのではないかと思えるほどだ。


「おやまあ……こらまた、随分と気の遠くなるような光景どすなあ。まるで、救いを求めて聖地を目指す巡礼の大行進、あるいは伝説の巨竜『レヴィアタン』の如き長さどすえ」


 感嘆とも諦めともつかない溜息を漏らし、筆を置いた手首を軽く回す。

 これほどの数を相手にするとなれば、精神力もさることながら、肉体的な消耗も計り知れない。

 墨の香りに包まれ、清らかな心持ちで筆を走らせてはいるが、肉体──特に胃袋は、正直な悲鳴を上げ始めていた。


「……あきまへんなあ。このままでは筆を持つ手が震えて、文字に宿るべき魂まで痩せ細ってしまいますわ」


 聖女たるもの、万全の状態であらねば迷える人々を導くことなどできない。

 これは怠惰ではない。戦略的かつ、神聖なる休息が必要なのだ。


 ――ぐぅぅぅ……。


 静寂を保っていた社務所に、まるで地底の魔獣が目覚めの咆哮を上げたかのような、低く、しかし力強い重低音が響き渡った。

 顔から火が出るほどの羞恥。しかし、ここは何としても聖女としての威厳を保ち、この場を切り抜けなければならない。


「……おや、お耳をお借りしてしまいましたか。お恥ずかしい話やけど、どうやら封印されし内なる獣が、空腹という名の鎖を引きちぎろうと暴れ出したようどす」


 筆を運んでいた手がピタリと止まる。目の前で御朱印の完成を待っていた参拝客が、目を丸くしてこちらの腹部を見つめていた。

 無理もない。巫女がいきなり封印だの獣だのと言い出したのだから。

 しかし、ここで畳みかけなければ、尊厳が危うい。


「申し訳ありまへんが、少々『清めの儀式』をいただいてもよろしやろか?このままでは、文字に宿る霊力まで獣に喰らい尽くされてしまいますえ。宮司はん、代打をお願いしてもよろしやろか?ほな、内なる獣を鎮めてまいりますさかい、しばしのお待ちをおくれやす」


 呆気に取られる参拝客と、腰を押さえながら這い出てきた宮司さんに、流れるような所作で優雅な一礼を捧げる。

 これぞ聖女の『退出の礼』。本来は厳粛な儀式の終了を告げる動作だが、休憩や離脱にも使える汎用性の高いスキルである。


 社務所の裏手、木漏れ日が差し込む縁側へと移動する。

 そこは参拝客の喧騒から切り離された、静謐な空間だった。

 懐から取り出したのは、コンビニエンスストア『まんぷくマート』で購入しておいた、本日の戦利品。


「ふふ……まさか、この神聖な紅白の装束を纏いながら、同じく紅白の彩りを持つ供物を食すことになるとは。これもまた、運命が用意してくれはった数奇な取り合わせやわあ。ほんまに、眼福ならぬ口福どす」


 透明なフィルムの中で輝くのは『いちごサンドイッチ』。

 真っ白な食パンの間に、雪のようなホイップクリームと、ルビーの如く鮮やかな苺の断面が鎮座している。

 その姿は、サンドイッチという軽食の枠を超え、一種の芸術品、あるいは捧げ物のようにも見えた。


「サンドイッチいえば、カードゲームに熱中したイギリスなる国の伯爵様が、手を汚さんために考案したいう説が有名どすなあ」


 ペリペリと慎重に包装を剥がしながら、仕入れたばかりの知識を呟く。


「本場イギリスでは、薄く切ったパンにキュウリやハムを挟むのが嗜みやと聞き及んでおります。簡単で便利、機能的. あくまで食事の補助的な役割……。せやけど、この国のサンドイッチはどうどす?」


 フィルムが完全に剥がれ、甘酸っぱい香りとミルクの甘い香りがふわりと立ち上った。

 それは、機能性などという言葉を嘲笑うかのような、純粋な快楽の追求。

 パンという食事の象徴と、ケーキという甘味の象徴を、悪魔合体させた禁断の果実。


「食事なんか、おやつなんか。境界を曖昧にして、ただひたすらに『美味しい』を追求する……。ほんまに、日本人の食に対する業の深さには、聖女の祈りも届きまへんわ」


 そっと一切れを指で摘む。

 パンの表面はしっとりと柔らかく、強く握れば指の跡がついてしまいそうなほど繊細だ。

 崩さないように、赤子の頬を撫でるような優しさで持ち上げた。


「では、謹んで……春の紅白、頂戴いたしますえ」


 ぱくり。

 唇に触れたパンの柔らかさに驚く間もなく、クリームの海へと沈み込む。

 途端に口内へ溢れ出すのは、雲のように軽いホイップクリームの濃厚な甘み。


「んんっ……!?」


 甘さに溺れそうになったその刹那、苺の果肉が弾けた。

 ジュワッと広がる瑞々しい酸味。それがクリームの脂分を爽やかに中和し、鮮烈なアクセントとなって舌を駆け巡る。

 最後に、パンのほのかな塩気が全体を引き締め、見事な調和をもたらした。


「……たまらへん。パンとクリームとイチゴ、どれか一つが欠けても成立せえへん奇跡のバランスやないの」


 咀嚼をするたびに、ショートケーキにも似た、しかしパン特有の素朴さも残した不思議な幸福感が脳髄を痺れさせる。

 本場の伯爵様も、まさか自分の発明品が極東の島国でこんな進化を遂げているとは夢にも思うまい。

 カードゲームの合間に手を汚さず食事を摂るための合理性が、極東の地で狂気的なまでの甘味への探求心に変貌を遂げているのだから。


「ふふ、獣が……内なる獣が、悦びで喉を鳴らしとりますわ」


 一切れがあっという間に消え失せる。

 口の端についたクリームを指で拭い、それを舐め取るという背徳的な行為さえ、この場では許される気がした。

 残るはあと一切れ。この紅白の宝石を胃袋に収めた時、暴れる内なる獣は完全に鎮まり、真の安寧が訪れる。


「名残惜しいですが、別れの時は必ず来るものどす。さあ、うちと一つになりまひょ……」


 ふわりとしたパンの感触の直後、溢れんばかりのクリームが舌の上で溶け、最後に苺の果肉がプチリと弾けた。

 口いっぱいに広がる春の甘酸っぱさは、まさに至福のファンファーレ。


「んんっ……!ああ……甘酸っぱい春の嵐が、五臓六腑を駆け抜けていきますなあ」


 ごくり、と飲み込む。

 喉を過ぎた熱量が、指先までじんわりと染み渡っていくのが分かった。

 糖分という名の魔力が、枯渇しかけていた集中力を急速に充填していく。


「ふふ、これはもう、神様が『食べて働け』と言うてはる啓示に他なりまへん。口元も綺麗に拭いて、いよいよ筆に魂を戻す時どす。待ってはる迷える子羊たちのために、うちの全力を尽くしましょうか」


 口の端をハンカチで丁寧に拭い、居住まいを正す。

 社務所に戻れば、宮司さんが腰をさすりながら、悲痛な面持ちで筆を握ろうとしていた。


「お待たせしました、宮司はん。清めの儀式は無事に完了いたしましたえ。もう大丈夫どす、うちが引き受けますさかい。どうぞ、そのお腰を養生しておくれやすな」

「おぉ、ハンナリエルさん!すまん、もう限界だ……頼む……!」


 席を交代し、再び筆を執る。

 すずりに筆を浸すと、先ほどとは違う、力が漲る感覚があった。

 いちごサンドの加護を受けた今、筆先からほとばしるのは単なる墨ではない。春の喜びそのものだ。


「次の方、どうぞお入りおくれやす」


 差し出された御朱印帳に、迷いなく筆を走らせる。

 トメ、ハネ、ハライ。そのすべてに、クリームの滑らかさと苺の酸味のキレが宿っているかのようだ。


「……できましたえ」

「す、すごいです!なんだか字が生き生きとして……というか、甘い香りがしてきそうなほど優雅です!」

「ふふ、春の陽気が筆に乗っただけのことさかい、お気になさらず。どうぞ、あなた様に良きご縁がありますよう、心から祈っておりますえ」


 感涙にむせぶ参拝客を見送りながら、心の中でほくそ笑む。

 日が暮れるまで、この行列を捌き切る自信がついた。

 労働の後の夕飯を想えば、筆はどこまでも軽く、滑らかに動くのだから。


 ***


 帰宅後、心地よい疲労感と共にノートパソコンを開き、本日の福音を記す。


【タイトル:[聖別]紅白の巫女装束と『いちごサンドイッチ』における色彩的合一、および糖分による筆跡への霊的影響について】


『――白きパンは清浄なる心、赤き苺は燃ゆる情熱。その二つをホイップという慈愛で包み込む時、人は内なる獣を飼いならし、神の庭へと近づくことができるのです』


「ふふ……今日もええ仕事しましたわ。明日は何が、うちの胃袋を呼んでますやろか。楽しみで夜も眠れへんようになりそうどす」


 画面の中で増えていくハートマーク――前回の「紅の福音」への反応も上々で、キリハラさんに薦められて始めたこの集会場のーちょも、少しずつ居心地の良い場所になりつつあるのを眺めながら、胡散臭い聖女は満足げに目を細めた。

 その夜、夢には巨大な苺の御神体が現れたとか、現れなかったとか。


 #いちごサンド #紅白の彩り #巫女バイト #スイーツは別腹 #聖女の休息


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