第5話 聖女の微睡みと失敗から生まれた紅の福音『チキンライス』
窓から差し込む夕暮れの光が、六畳一間の畳をオレンジ色に染め上げている。
ちゃぶ台の上に置かれたノートパソコンの画面には、開設したばかりの真っ白なページが広がっていた。
『Re:エルの福音グルメ日記』。
キリハラさんから「食レポのついでに日々の記録を付けてみたらどう?」と薦められ、慣れない手つきで始めたこの集会場。
まだ数えるほどしか言葉を綴れていないが、ここには確かな「生の軌跡」が刻まれようとしている。
「ふふ……。慣れへん道具と格闘するんは、魔物と対峙するのとはまた違うた緊張感がありますなあ。せやけど、こうして自分の感動を言葉にするんは、思いのほか心地よいもんおす」
画面をスクロールさせ、これまでに頂いた数少ない反応に目を向ける。
そこで目に留まったのは、うちの拙い食レポを読み、何やら熱心な要望を寄せてくれた迷える信徒の声。
『――聖女はんの綴る言葉の端々から、溢れんばかりの食への情熱を感じます。もし宜しければ、いつかあの黄金のドレスを纏った「オムライス」の福音について語ってはおくれやす。あの卵が弾ける瞬間、世界に救済が訪れると思うのです』
その切実なる祈りには、かつて街角で通りかかった洋食店で、窓越しに見たあの輝かしい情景が重なる。
ナイフを入れた瞬間に左右へと崩れ落ち、チキンライスを優しく、そして艶やかに包み込んだ半熟卵の慈愛。
その上から回しがけられた、漆黒のデミグラスソース。
「ああ……。あの『とろ~り』とした情景を思い出し、唾液の泉が溢れ出してしまいそうどす。……せや、今日は特別どす」
ふと思いついたのは、些か無謀とも言える挑戦だった。
日雇いのアルバイトで貯めた信仰力(日本円)には、多少の余裕がある。
そして、最近は使わずにいた魔力が、美食と睡眠のおかげで溢れんばかりに充填されている。
「たまには、聖女らしい奇跡を自炊に役立てても、バチは当たらへんはずどす。世界を救うために使った力がオムライスの卵を理想の状態にするために使われる……。女神サマも、その平和な使い道に微笑んでくれはるに違いありまへん」
そうと決まれば、行動は早い。
近所のスーパーへと走り、新鮮な卵、鶏肉、玉ねぎ、そしてケチャップを調達した。
キッチンという名の祭壇に立ち、精神を統一する。
「ふふ……。まずはベースとなる、紅の土台から作りまひょか。鶏肉と玉ねぎを炒め、ケチャップの酸味を飛ばして旨味を凝縮させる……。これぞ、全ての始まりどす」
フライパンの中で、鶏肉が弾けるような音を立てている。
玉ねぎが透き通り、甘い香りを放ち始めた。
そこへ、山盛りの白飯を投じる。
木べらで切るように混ぜ、一粒一粒を紅の衣でコーティングしていく。
「ええ色どすなあ。この色こそ、情熱の証。これだけでも十分美味しいのは分かっておりますが、今日はその先へ……。あの、黄金のドレスを再現せなあかんのです」
チキンライスを皿に盛り、形を整える。
そして、いよいよ本番となる卵の工程だ。
ボウルの中で三つの卵を解き、隠し味に牛乳を少々。
ここからが、魔力の出番である。
「聖なる光よ、わたくしの指先を通じて、液状の黄金に最適な熱の加護を与えたまえ。外側は薄い膜を張り、内側は永遠に溶け続ける奇跡の半熟……。さあ、顕現の時どす!」
軽く指をかざし、微弱な加熱魔法と、構造を安定させる『凝固調整』の加護をフライパンへと流し込む。
ジューッ、という威勢の良い音と共に、卵液が熱い鉄板の上で踊り出した。
「……っ!?あら、ちょっと魔力の出力が……!?」
想定外の事態が起きた。
どうやら、久しぶりに使う魔法の感覚が狂っていたらしい。
あるいは、オムライスへの過剰な執着が、無意識のうちに力を増幅させてしまったのか。
フライパンの中の卵は、半熟の状態を維持するどころか、急激な熱量に晒されて一気に膨らみ始めた。
「とろ~り」どころではない。
ボコボコと泡立ち、まるで生き物のように形を変えていく。
「あきまへん!戻りなはれ。うちが望んだんはしなやかなドレスどす!ゴーレムみたいな質感は求めてへんのですえ!」
慌てて魔法を打ち消そうとしたが、時既に遅し。
フライパンの上には、理想とは程遠い、完全に火の通った「厚焼きのスクランブルエッグのような何か」が鎮座していた。
しかも、魔法の影響でチキンライスの一部と融合し、最早オムライスとしての原形を留めていない。
「……ふふ。これはいったい、何の儀式の結果なんどすやろか。黄金のドレスどころか、防弾チョッキみたいな堅牢さを感じますわ」
呆然と立ち尽くすこと数秒。
キッチンには、焦げたケチャップの香ばしい匂いと、魔法の残滓である香りが漂っている。
予行演習なしのぶっつけ本番。
聖女の奇跡は、文明の利器であるガスコンロと、己の食欲の暴走によって無残にも霧散したのだ。
「……ああ。世界は救えても、卵一つを思い通りに操ることさえできひん……。女神サマ、これはうちの傲慢に対する、ささやかな戒めなんどすか?」
自嘲気味に微笑み、ぐちゃぐちゃになった「それ」を皿ごと引き寄せた。
本来なら、オムライスの完成を祝うはずだった。
しかし、目の前にあるのは、卵が不規則に混ざり合った、無骨な『チキンライス(卵入り)』だ。
「……せやけど、捨てるわけにはいきまへん。食材の命を救うんは飽食の時代に生きるうちの義務どすさかい。見た目は少々暴力的に見えるんが、味まで裏切ることはないはず……。いただきますえ」
スプーンを入れ、一口。
それは、もはや「とろ~り」とは無縁の世界だった。
「……っ。あ、あら?」
口の中に広がったのは、意外なほどに懐かしく、そして力強い味だった。
完全に火の通った卵は、チキンライスのケチャップと一体化し、独特の『香ばしさ』と『食べ応え』を生み出している。
魔法の余熱が、奇跡的に鶏肉のジューシーさを閉じ込め、玉ねぎの甘みを最大限に引き出していた。
「ふふ……。なんやこれ、美味しいやないの。お洒落な洋食屋さんの味とは違う、お母さんが作ってくれたみたいな……。いえ、うちはお母さんの手料理なんて知らへんはずやのに、何故か心が温かくなるお味どす」
パクパクと、手が止まらない。
崩れた卵の食感が、かえってアクセントとなって楽しい。
デミグラスソースのような複雑さはない。
あるのは、ケチャップという名の、真っ直ぐで嘘のない愛情だけだ。
「……うちは、難しく考えすぎてたんやねえ。奇跡で飾り立てんでも一生懸命作ったもんは、それだけで誰かの……いえ、うちの心を救ってくれる。これもまた、一つの福音なんやわ」
結局、理想のオムライスには会えなかったが、そこには確かに『救済』があった。
空っぽになった皿を見つめ、満足感と共に小さく嘆息する。
「ふぅ……。ごちそうさま、どした。失敗は成功の母、言う言葉もありますが……。うちの場合は、『失敗はチキンライスの最高の隠し味』言うことにしておきまひょか」
ちゃぶ台に戻り、再びノートパソコンを開く。
今日の出来事を忘れないうちに記しておかねばならない。
タイトルは……。
【タイトル:[断罪]傲慢なる魔法の残滓と、失敗から生まれた純粋なる紅の記憶『チキンライス』における家庭的救済について】
『――人は時として黄金の輝きを追い求めて、足元の幸せを見失うことがあります。理想の「とろ~り」を求めたわたくしの指先に女神様が授けてくださったのは、焦げたケチャップの香りと不格好ながらも力強い、紅の福音でした』
カタカタと、打鍵音が静かな夜に響く。
失敗したことさえも、こうして言葉に変えれば、それは一つの物語へと昇華される。
「……ふふ。次は魔力に頼らんと、ちゃんと腕を磨きまひょ。いつか、本物のドレスをこの手で仕立てるために」
キーボードを叩くのを止め、窓の外を眺める。
一番星が、街の空にひっそりと輝いていた。
聖女の微睡みは、お腹いっぱいの幸福感と共に、ゆっくりと深まっていく。
(……あ、でも。明日の朝ごはんは、クロワッサンが食べたいなあ……)
結局、煩悩が消えることはない。
だが、それこそが、この世界で生きる彼女にとっての何よりの活力源なのだから。
胡散臭い聖女の夜は、今日もまた、美味しそうな夢と共に更けていくのだった。
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