第4話 路地裏の決闘という試練、授かりし『肉汁爆弾メンチカツ』と猫を統べる秘奥の業
視線の先に、静かな殺気が揺れている。
夕闇の入り口、ゴミ捨て場の影から放たれる二つの鋭い眼光。それは犯してはならない聖域の境界線を、無言のうちに守護する絶対的な拒絶の光だった。
「……あらまあ。まさかこの平穏な住宅街の裏路地に、これほどまでの威圧感を放つ門番が居座ってはるとは思いまへんでしたわ。ほんま、油断も隙もありまへんね」
石畳の上に立ちはだかるのは、一匹の野良猫。
黒い毛並みは、長く伸びた建物の影を飲み込んだように深く、艶やかな闇を纏っている。
その中央、金色の瞳が冷徹にこちらを見据えていた。尻尾をゆっくりと一定のリズムで振るその動作は、間合いを計る熟練の剣士が放つ緊張感そのものだ。
「ふふ、そこをどいておくれやす、小さき守護者サマ。うちはただ、あそこの曲がり角の先にある『聖域』へ、今日という一日の終わりを祝うための供物を拝受しに行きたいだけなんどす」
一歩、慎重に乾いた地面を踏みしめる。
途端、猫の背中が微かに膨らみ、喉の奥から地響きのような唸り声が漏れた。それは明確な宣告。
これ以上、この不可侵領域に踏み込むならば、鋭き爪による裁きを下すという警告に他ならない。
「……おや。うちの『静寂の歩法』を以てしても、その警戒の網を潜り抜けることは叶いまへんか。さすがは四つの足を使い、重力の呪縛さえも軽やかに受け流す類まれなる狩人どすなあ」
相手は魔物ではない。ただの小さき生命。
しかし、その瞳に宿る野生の光は、かつて迷宮の深淵で対峙した名もなき守護者たちと同質の、一切の妥協を許さぬ厳格さを孕んでいる。
力任せに排除するなど、聖女としての矜持が許すはずもなかった。
「あははっ……!あー、ほんと面白いね。キミ、本気で猫と睨み合って何してるの?それ、側から見るとかなりシュールだよ?」
静寂を切り裂き、弾けるような明るい笑い声が響いた。
路地の入り口、電柱に背を預けて立っていたのは、ポニーテールを揺らす一人の女子高生だ。制服の着こなしは活動的で、瞳には好奇心と隠しきれない茶目っ気が溢れている。
「あら、麗しき若人サマ。うちは今、この猫さんの通行の権利を賭けた神聖なる対話の最中なんどす。笑い事やありまへんえ」
「対話ねぇ……。どう見ても猫にメンチ切られてタジタジになってるだけにしか見えないけど。私は『龍崎千怜』、困ってるなら力を貸してあげようか?」
軽やかな足取りで近づいてくる彼女の動きには、一切の無駄がなかった。重心の移動が実に滑らかで、武を志す者が持つ、独特の心地よい緊張感を纏っている。
「ふふ、リュウザキはん。そのお申し出、ありがたいんやけど、うちはこの対局を自分の力で解決したい思てます。……そうどした、名乗り返しもせんと失礼いたしましたな。うちはハンナリエル。ふとしたご縁で、この街に身を寄せてる迷い人どすえ」
「ハンナリエル?へぇ、響きが綺麗だね!格好いいじゃん!」
「恐縮どす。……せやけど、あんさんのそのお腹の音、うちの耳には福音の如く響きましたわ」
──ぐぅぅぅ。
制服の向こう側から、抗いようのない生命の主張が漏れ聞こえる。一瞬のきょとんとした間を置いて、彼女は顔を赤らめると豪快に笑い飛ばした。
「あははっ、バレちゃった?今日は稽古が長引いちゃってさ。『何事も行動あるのみ』だけど、燃料切れじゃ動けないし!」
「食欲は生の証明。恥じることなどありまへん。……では、こうしましょ。うちは今からあそこのコンビニで温かな供物を拝受して参ります。リュウザキはん、あんさんも一緒にいかがどす?猫さんとの仲直りの秘策、そのお礼に教えてもらえたら嬉しいんどすえ」
「あー、ストップ!龍崎っていうの、可愛くないから禁止!千怜、って呼んでよ。いいでしょ?」
「おや、左様どすか。リュウザキはんという響きも、龍の如き力強さを感じて素敵や思いますけど……。チサトはんのご所望とあれば、うちもそのように。ほな、参りましょか」
「えっ、いいの!?奢ってもらえるなら断る理由なんてないよ!キミ、いい人だね!よーし、決まりだ!じゃあ、まずはこの猫さんをどうにかしちゃおうか!」
猫の前に立ち、リズミカルな動きで指先を動かし始めたチサトさん。それはまるで獲物を誘う蝶の羽ばたきのようであり、あるいは気を操る武術の型のようでもある。
「ほら、見ててよ。猫っていうのは力で屈服させるんじゃなくて、好奇心を刺激して『仲間』だと思わせるのがコツなんだから!」
驚いたことに、先ほどまで般若のような顔で唸っていた猫が、目を丸くして彼女の指先を追っている。やがて殺気は霧散し、猫はあくびを一つすると、悠々と塀の上へと飛び去っていった。
「……お見事どす。まさに指先一つで戦いを終結させる、無血開城の神業どすなあ。チサトはん、あんさんは稀代の魔導師……いえ、調教師の才能がおありのようどすえ」
「ただの稽古の応用だよ!さあ、約束の供物、楽しみにしてるからね!お腹、ペコペコなんだ!」
夕暮れの空気を震わせ、二人はコンビニへと足を踏み入れた。
自動ドアが開いた瞬間に溢れ出す、抗いがたい芳醇な油の香り。それは腹を空かせた迷える者たちにとって、最も慈悲深い福音だった。
「ふふ、見なはれ。このレジ横の聖櫃にて暖かな光を浴びる『ホットスナック』こそ、今宵のうちらを救う福音。チサトはん、今日のおすすめを指し示しておくれやす」
「わぁ、これだね! 巷で話題の『肉汁爆弾メンチカツ』! 今日はこれを、お腹いっぱい食べたい気分なんだ!」
「ええ、ええ。迷える魂がお望みなら、いくらでも。店員はん、その黄金の衣を纏った『肉汁爆弾メンチカツ』を、四ついただきまひょか」
揚げたてのメンチカツたちが放つ熱が紙袋越しに伝わってくる。その温もりは、夕風に冷えた指先を優しく解きほぐしていくようだった。茜色に染まり始めた空の下、駐車場の隅で儀式が執り行われる。
「では、大いなる穀物と、命を捧げし獣たちに感謝を込めて。……いただきますえ」
「いただきます!よーし、食うぞー!」
一切のためらいもなく紙袋からメンチカツを取り出し、豪快にその中心へと喰らいついたチサトさん。サクッという快音の直後、ジュワッと熱い奔流が溢れ出した。
「んんっ……!美味しいっ!この衣のパリパリ感と、中から溢れてくる肉汁のダムが決壊したみたいな勢いがたまらないね!スパイスの効いたお肉と、タマネギの甘さが舌の上で完璧なコンビネーションを組んでるよ! これだよこれ、生きてるって感じがする!」
「ふふ、チサトはんのその食べっぷり、見てるだけでうちの胃袋も喜びの舞を踊りそうですわ。肉汁という名の慈悲が、喉を焼き、魂を潤していく……まさに至福の瞬間どすなあ」
同じメンチカツを口にすれば、厚めの衣が弾ける小気味よい音が響く。
閉じ込められていた脂の甘みと、胡椒のキレ。それは高級な懐石料理にはない、剥き出しの誘惑そのものだった。
「……ああ、罪深いどす。この暴力的なまでの旨味と油分。聖女としての清らかな魂が、一口ごとに快楽の深淵へと沈んでいくのが分かりはりますわあ」
「難しいこと言ってるけど、結局は『旨い!』でしょ?見てよ、このメンチカツ!お肉の密度が凄くて、噛むたびにタマネギの甘みがじわーって広がっていくんだ!これなら稽古をもう一周できるね!」
メンチカツを半分に割り、断面から立ち上る湯気を浴びながら、幸せそうに頬を緩めるチサトさん。
彼女のリアクションは、どんな美辞麗句よりもその料理が持つポテンシャルを雄弁に物語っていた。
「ふふ、チサトはん。あんさんのその元気、うちも分けてもろた気がしますわ。……ところで、先ほどの猫さんとの対面、あれは一体どんな理屈なんどす?」
「あ、あれ?簡単だよ。指を猫の目の高さに持っていって、ゆっくりと『8の字』を描くんだ。『円の理』だね。相手の意識を自分の動きに同調させて、敵意を消し去る……技も猫の懐柔も、本質は一緒なのさ!」
「なるほど、円の理……。形あるものはすべて円を描き、巡り巡って元に戻る。まさか猫さんとの交流に、世界の真理が隠されていたとは。チサトはん、あんさんはやっぱり、ただの女子高生やありまへんな」
「ただの女子高生だよ。こう見えて弓道部と書道部を掛け持ちしててさ。たまになぎなた部とかに助っ人頼まれたりもするけど……まあ、ちょっと動けるだけの普通の生徒さ!ふぅ、ごちそうさま!これでお腹も心も満タンだ!ありがとね、糸目のお姉さん!」
最後の一片を飲み干し、腰に手を当てて満足げに笑うその姿。仕草の端々に凛とした強さと、少女らしい瑞々しさが共存している。
「いいえ。うちの方こそ、猫さんと仲良くなる秘奥の業、授けてもろて感謝しとります。次は、野良猫さんとも笑顔で茶を酌み交わせるように精進しまひょ」
「それ、想像するとちょっと怖いけど……まあ、キミならできるかもね!じゃ、私は戻るよ!またどこかで美味しいもの、食べようね!」
駆けていく背中は、茜色の家路の中に消えていく。
薄暗くなり始めた路地さえも照らしてしまいそうなほど、眩いエネルギーに満ち溢れていた。
その温かな余韻を感じながら、家路を急ぐ足取りはどこまでも軽い。
「……ふふ、楽しい道連れどしたなあ。さて、うちはうちで、この感動を綴らなあかんね。今日という日を彩る福音は、溢れ出す肉汁の賛歌と小さな狩人との和解の物語……」
***
【タイトル:[和解]路地裏の守護者への供儀、授かりし『肉汁爆弾メンチカツ』と弓武の少女による猫統率の理について】
『――人は、パンのみにて生きるにあらず。しかし、揚げたての『肉汁爆弾メンチカツ』という名の福音を拝受した時、魂は重力の束縛を逃れ、野生の精霊とさえ心を通わせることができるのです。肉汁という名の慈悲の雨は、あらゆる争いの火種を消し去り、そこにはただ、満たされた胃袋という名の平和のみが残るのです』
「ふふ……うちの言葉の刃も、今日はいささか丸くなった気がしますなあ。チサトはん、またお会いできたら、今度は何をお奢りしましょうか。楽しみどすえ」
液晶の向こう、安らぎを求める信徒たちの反応を眺めながら、そっと目を閉じる。
夢路には、8の字を描いて踊る猫と、メンチカツを握りしめて笑う少女の姿が浮かんでいた。
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