005
「貴族とは民のため、王のため、国のために存在するのだ」
父ガルテーンはいつも、イドラゲアに対してそう語っていた。
彼は厳格な父であり、優れた魔術士であり、誇り高い軍人だった。それゆえに、イドラゲアの魔力と魔術の才を畏れていたのだろう。
彼はイドラゲアが幼い頃からずっと、魔術の扱い方と貴族としての有り方、役割について懇々と説明した。
王の命に従い、国を豊かにし、民を守る。それが貴族の『役目』。
「貴族としての役目を、決して忘れてはいけない。貴族とは義務であり、定めだ。それを放棄しようなどと、それから逃げようなどと思ってはいけないぞ」
きっと、イドラゲアを縛り付けるためにそう言ったんだろう。彼は妾に孕ませた息子が敵となることを、恐れていたんだろう。
イドラゲアは父の教えに従った。
だから皇帝に命じられたとき、両の目玉を差し出した。
だから父に反逆の罪が科せられた時、被害を少なくするため生贄になった。
イドラゲアが永遠に国のために働く代わり、正妻である義母とその娘の異母妹は国から追放されるだけに留められ、家に仕えていた使用人たちは頑として残った者以外が無事に他の職につくことが出来た。
それを処刑の前日に話せば、父は嗚咽を漏らしてイドラゲアに謝罪した。
――――すまない。私のせいだ。私のせいで両目ばかりでなく。すまなかった。
後悔と罪悪感に沈んだ父の顔は、年齢以上に老け込んで痩せ細り、普段の様子からは想像もつかないくらい頼りなく感じた。
なぜ父は、あんなにも悲しげだったのか、イドラゲアには理解出来ない。
「父上の言う、貴族としての役目を果たしただけなのに」
アリシアに促されながらも、父の背を見つめてポツリと呟く。
翌日、父は斬首に処されて晒し者となった。
それを悲しく思い、皇帝たちを多少恨んだりはした。
だがそれ以上に抱いたのは、これから自分が伯爵としての……貴族としての『義務』を果たさなければという使命感。
軟禁という形で身を守られ、魔石を造り、戦の時には魔術で国を守る。それが己の『役目』だ。
貴族としての義務と役目を果たせ、という父の教えを守るために。
イドラゲアは放棄することも、逃げることも選ばなかった。
そうして、イドラゲアは『アイルトーン伯爵』となった。
ミャウミャウ、という声と共に優しく体を揺さ振られた。
意識が覚醒したイドラゲアは、トトと思わしき声のする方へ手を伸ばす。手を握られて、大きな黒い手と黄緑に橙の混じる目が特徴的な顔を認識する。トトの視界には青い髪をした自身の姿と、草花と木々の風景。
「ここは、森……かな」
トトに支えてもらいながら、ゆっくりと身を起こす。
ホー、ホーと梟らしき鳴き声が遠くで聞こえた。髪をなぶる風は少し湿って冷たい。草の青臭さに、月明かりの夜の香りが混じっている。
腕時計の蓋を開き、指針に触れる。時間は既に深夜を示していた。
「随分と、眠っていたみたいだね」
「ミャウ」
頷くようなトトの声。膝に乗せて抱き締めていたので、一緒に飛ばされてきたようだったのは、不幸中の幸いだ。
屋敷ではない、どことも知れぬ、右も左も分からない場所。ここには誰もいない。ヴォルテール公爵も、ご婦人も、ご子息たちも、使用人も。そしてアリシアもだ。
「どうやって帰ろうか……困ったな、近くに村はあるかな」
「ミュー、ミュ?」
「なに、どうしたの?」
くいくいと袖を引く彼の視線は、一人の女に向いていた。
誰、などというまでもない。ウィランの妹であり襲撃犯のリーシャである。彼女も気を失っているのか、横たわってピクリともしない。
「死んでるの?」
「ミー?」
「ここからじゃ分かんないか。トト、ちょっと確認」
してもらえる? という前に、身じろぎする気配を感じた。
「う……」
次いで聞こえたのは、女の声。
イドラゲアは眉間に微かに皺を寄せると、防御魔術を発動させる。半透明の結界がイドラゲアを中心としてドーム状に展開され、あらゆる角度からの攻撃を防げるようにした。
そうする間に、女の意識は完全に覚めたらしい。
「ここは、一体……?」
修道騎士であるにも関わらず、長髪を垂らしたままの女が起き上がる姿が、抱き上げたトトを通じて窺える。
気難しげな顔をさらに顰めた彼女はこちらに気づき、じっと見つめて来る。
しばらくすると、頬を淡く染めて一言。
「可愛い……!」
その言葉に、さらに不快感を覚えた。
トトに対する言葉か、イドラゲアに向けての言葉かは分からない。だが今の発言から、自身の行いに何の罪悪感も抱いていないことが理解出来た。
あれだけのことをしておいて、被害者の一人であるイドラゲアたちを前にしても、全く悪びれていないのだ。この女は。
ふらりと、女がこちらへ歩み寄ろうとしてくる。
「ぶっ!」
だが張っていた結界に阻まれ、顔面から壁にぶつかった。
「い、いた……ちょ、ちょっと。これは一体、何のつもりなの?」
「そっちこそ、何のつもり? 公爵家を襲撃して、少将を殺そうとしただけじゃ気が済まないの? 今度は僕を殺す気?」
冷たい声音でそう切り返せば、彼女は顔を強張らせた。
「わ、私が狙ったのはウィラン一人で……へぶっ」
そして謝罪なく、言い訳しながらまた近寄ろうとして、再び顔面を殴打。
学習力のない女だな、と彼女の行動からイドラゲアは思った。
女は赤くなった鼻を擦りながら、イドラゲアを見下ろし名乗り出す。
「私はリーシャ・ストアよ。貴方は?」
「……イドラゲア・ハイド・アイルトーン。アイルトーン伯爵と呼んで」
「そう、イドラゲアね」
伯爵と呼べといったのにファーストネームを口にしたので、その慣れ慣れしさにますますイドラゲアの顔が歪んだ。
「……名前で呼ばないで。不愉快だから」
「不愉快って……失礼ね、名前を呼ばれた程度で。これだから貴族は」
「貴族って分かってるんなら、名前で呼ばないで。あと敬語を使え」
「私、態度の悪い人間を敬うつもりはないの。敬ってほしいなら、まずそっちがちゃんとした態度を取るべきじゃないかしら」
「不法侵入及び殺害未遂の犯罪者に、そんなことを言われる筋合いはない」
「だ、だからそれは」
現行犯、それも罪の意識もない女の言い分に耳を貸すつもりは毛頭ない。イドラゲアは腕の中でリーシャを威嚇し、今にも飛び掛りそうなトトを諌めながら、そっぽを向いた。
その様子に、リーシャはまた「我侭」だとか「躾がなってない」だのとブチブチと文句を言う。
女の喧しさに眉をしかめつつ、イドラゲアは尋ねる。
「君はどうして、少将を殺そうだなんて思ったの?」
「貴方にいう義理はないわ。教えたところで、理解出来ないでしょうし」
「…………教会でなく、国側についたのが許せなかったんでしょ。それと、自分を置いてストア家と縁を切ったことも」
礼を知らぬリーシャに、イドラゲアは触れた時に知覚した女の内心を晒す。
すると彼女は目を見開いて、開いた眼を険しくして怒鳴った。
「何で知っているの!?」
「一々騒ぐな。君は知性も理性もない獣か何かか?」
侮辱の言葉に女はまた叫ぼうとしたが、そうすれば今の言葉を認めてしまうことになるので、不満げにしながらも口を噤む。
「それで僕が何故知っているか、だっけ? 僕が、イドラゲア・ハイド・アイルトーンだからだ。国にいるものなら、僕が触れた者の心情を読めることは噂なり何なりで知っているはずだよ」
「……! 貴方が、『盲目の妖精』……!!」
ようやく気づいたらしい女は、ナイフを構えた。
フェルメール教会の過激派は、イドラゲアを特に嫌っている。彼らにとって邪なものである魔石を、人工的に作り出す存在だからだ。
だからその反応を取ったリーシャに、冷たく言い放つ。
「ふん。やっぱり僕も標的の一人か」
「……!?」
「数時間いるだけの少将を狙うだけで、公爵家を襲撃する必要はない。屋敷に匿われている僕を殺害するためにも、侵入してきたってわけだ」
「ち、違っ……そんなつもりじゃ!」
被害者のような顔をする彼女を遮り、イドラゲアは続ける。
「我を忘れていたなんて言い訳は無意味。魔術は精神状態にも左右される、だから貴様が眠りの術を使った時の心理状態は正常だった。つまり、少将と僕ひいては公爵たちも殺害するつもりだったと判断される」
「あ、貴方は心が読めるんでしょ!? なら」
「貴様の心は汚らしい、二度と触りたくはない」
吐き捨てるように、イドラゲアは拒絶する。
自分の心が汚いと断言された女は、癇癪を起こしたようにまた喚き始めた。鳥が狂ったような甲高い声が耳障りなので、腕の中のトトを解放する。
「キシャアアアアアアアアアアアアアア!!」
トトは結界から飛び出すと、リーシャに襲い掛かった。
大きな手と鋭い爪を用いた薙ぎを、女は杖で何とか防いだ。だが戦闘特化型で、特別製の魔道兵たるトトの攻撃力は尋常ではない。鉄製の杖は枯れ木のように粉砕し、女は悲鳴を上げながら吹き飛んだ。
「ミューウッ」
一仕事終えると、小さな魔法生物は結界を潜り抜け、主の元へ戻った。イドラゲアは兜を被った黒い魔道兵を膝に乗せて撫でる。
「修道士とはいえ、騎士の名を冠する者の癖に、受身すら取れないなんてね。その程度で少将の首を取ろうと、よく思えたものだ」
「なっ、何ですって……!」
「僕はそろそろ眠る。大声を上げたりして僕を起こすような真似をしたら、このトトが君を殺すよ」
「な、何言ってるの! そんなの犯罪でしょう!!」
「よそ様の家で罪を犯した罪人を、被害者の一人である僕らが切り捨てても、多分誰も文句を言わないよ? ……ね、トト?」
「ミッ!」
当然、とばかりに頷くと、トトは黒腕を上げた。彼は虚空に空いた次元の歪みから、自身の身の丈の三倍もある大剣を取り出し、それを軽々と振るう。
それだけで、ビリビリと肌を震わせるような威圧感が飛ぶ。
「トトは、登録した物を無詠唱で呼ぶ迅速召喚が使える。下手なことをすれば文字通り、首が飛ぶから」
「ひっ……」
多くの血を吸ったことが分かる刀身を見て、リーシャは息を呑んで震えた。
これで、少しは静かになっただろう。
「それじゃ、おやすみ」
「ミャウー」
柔らかな草の上に横たわり、朝を待つ。
己の侍女が、明日明後日には来るだろうと予測を立てながら。