終 章
最終回です。
ところが、それから数年後のことだった。運命のいたずらというのはホントにあるのだ、と実感するような出来事が起こったのだ。
その年の秋口、運営施設の協力病院と契約更新手続きをするため、その病院に向かった。約束の時間まえに着いてしまったので、しばらくあたりを散策することにした。
会社のクルマを駐車場に置いて、その病院のある通りを目的もなくブラブラ歩いていた。大きな通りの向こう側は米軍の基地の敷地で、ずっとフェンスが続いている。歩道は広く、通りに軒を連ねる店のまえはテラスみたいだった。
駅に続く道との交差点で信号待ちをしているときに、みちを渡った角の店が目に入った。そこで立ち止まらなければ、あっさりと通り過ぎたかもしれなかった。
なぜ、そこに引きつけられたかといえば、けっこう広い店構えなのに、窓から明かりが見えなかったからなのだ。いまは平日の昼下がりなので、それほど人通りはないにしろ、あまりに閑散とした印象だった。準備中か、それとも今日は休業日なのか、と実にシンプルな疑問が湧いてウィンドーからなかをのぞいてみた。
たしかに照明は消えている。ちょっと趣のあるようなテーブルと椅子が並んでいるのがわかる。軽いカフェというよりレストランという感じなのだが、食事をするような店内でもなかった。奥までまる見えで、まるで倉庫のような簡素な店内だった。壁に備え付けの棚に、なにかが無造作に並んでいる。外から店内をなめるように見たが、こんなお店もあるのか、と思った程度だった。
そろそろ時間になるので踵を返して病院へ戻り、用を済ませてクルマで大通りに出てきた。もう夕刻に近いせいで、みちは混んでいた。信号の連携が悪いのか、道路工事でもしているのか、くるときとはうって変わった渋滞になった。
オレはなんの気なしに動かないクルマのなかから、先ほど冷やかした商店街を眺めていた。さっき気になっていた、なに屋さんだかわからないレストランのような店舗の横にゆっくりと近づく。
あのときは気づかなかったのだが、オレがのぞいていた窓ガラスには文字がペイントされていたのだ。
《Blue Suburban Sky》
「?」
それが店の名まえなのだろうということはすぐにわかったが、それにしても《ブルーサバーバンスカイ》には耳なじみがありすぎた。オレの好きな歌ではないか。と、同時に忘れていた学生時代の憧れ、アヤの好きな映画『夏草のいざない』のテーマ曲だ、とも思いだした。
あの夏休みに彼女のリクエストで、映画の世界にダイブしたことを思い出す。あのとき、もっと積極的になっていたら、いまのオレはない。ノラの代わりにアヤがオレの妻だったかもしれない。
いや、アヤはオレなどに興味を持っていなかっただろうから、それはないか。オレはいまの生活に充分満足しているのだ。あれは、あれでよかったんだ。
――まてよ…
あのとき、ふたりだけの世界なのに肝心なことをいわなかったこと以前に、ものすごい違和感があると思ったら、そうだ、オレはあのときポテチの姿を借りていたのだ!
だんだん、あのときのことが頭に浮かんできた。このまえの同窓会のときにカエデがいっていたように、オレがふたりの橋渡しをしたわけではない。
ポテチがオレをアヤと会わせようとして、彼女に何度も連絡していたのだ。ポテチはオレに借りを返すつもりでチャンスをつくってくれた。それで映画の世界にダイブしたのだ。オレはそれをわかっていながら、アヤのことを気遣うあまりにポテチに成りきった。待ち合わせの場所に突然、予想外のヤツがいたら、アヤは硬い殻に閉じこもるだろうと思って。
まず、それを告白するべきだった。オレはポテチじゃない、と。
ここで、やっとカエデの話が理解できた。アヤから「まるで人が変わったみたい」といわれたポテチは、実はポテチではなかった、ということだ。メタフィジカルで会ったポテチはオレで、九月にキャンパスで会ったポテチは本人だったのだ。それをさんざん後悔したことまで思い出した。
そうだ、カエデはたしかこうもいっていた――
「秋野クンに繋ぎをつけてもらって、ふたりは会ったじゃない。そのときの印象がとっても良かったんだって」――
それがきっかけでポテチとつき合いだしたのなら、アヤはひょっとしてポテチに成りきったオレのことを気に入ってくれたのだとも思えてきた。
――まさか、まさか・・・
いまさら、そんなことが腑に落ちてもしかたがない。とっくの昔に終わったことだ。結果として、オレが最後までポテチに成りきっていたためにアヤを誤解させてしまったようなものだ。
ポテチはそのことをアヤの話から知って、煮え切らなすぎるオレがあまりアヤを気に入ってないのでは、と憶測したのかもしれない。そのフォローをするつもりで、しばらくはアヤとつき合ったのではあるまいか。
どうもカエデの話の様子からではプラトニックな関係だったみたいだし、だいたいアヤはそういうのが好きなコだ。ポテチはアヤに合わせていたにちがいない。
なんだったら、大学を辞めていたにもかかわらず、アヤのためにキャンパスにきていた可能性すらある。そんなヤツがいるか?と思われそうだが、オレにはポテチならやるだろうと思えた。そういう優しさが女心をくすぐるのだろう。
もう本人にたしかめようがないが、もしオレの想像どおりなら、とんでもないお節介やきに見込まれたものだし、そこまで面倒を見てくれる凄いヤツに出会っていたのだと、あらためて驚かされる。
午後遅い陽ざしが、まえのクルマのルーフに反射して眩しかった。頭のなかを映画のテーマ曲『ブルーサバーバンスカイ』が流れ出す。
「エッ!」
また、別のことが甦ってきた。あれも同窓会のときにカエデがいっていたことだ――
「アヤちゃんはなにしてるの?」
「だいぶまえだけど、なんかF市にいるっていってたよ」
「F市って、東京の? 米軍基地があるF市?」
「そうそう。米軍基地のすぐ近くで西洋雑貨の販売とカフェをやってるっていってたわ」
「自分で? そりゃ、たいしたものだな」
「あのおっとりムスメがね。《ブルーサバーバンスカイ》ってお店」
なんだって・・・ ブルーサバーバンスカイ?
――まちがいない。ここはアヤの店だ。
オレの視線は、もはやすぐ横にあるその店舗に釘づけになっていた。さいわいにも渋滞はゆるゆると進んでは停車を繰り返していた。おそらく二車線あるこの広いみちの先の片側で工事をしているのだろう。合流に時間がかかっているのにちがいない。
オレはクルマをハンズフリーの渋滞モードにして、視線をその店に集中していた。さっきはそこまでいかなかったが、店の裏あたりにガレージがあり、そこにベンツが停まっているのだ。アヤのクルマだろうか。それとも亭主がいるのか。
オレのイメージでは、あのお淑やかで怖いもの見たがりのお嬢さまがベンツを運転していたとしてもおかしくはないと思えた。
そのときあろうことか、ガレージ横の外開きの扉が開いて女性が顔を出した。西日の陰になった側の、しかもちょっと距離がある。おまけにオレは最近つとに視力が落ちていた。乱視のうえに、もう老眼が始まっているのかもしれない。女性の顔は判然としなかった。
彼女は、しばらく外の様子をキョロキョロと見ているようだった。オレは、それがアヤかどうか必死に見定めようとしたが、とたんに渋滞は流れ出した。はっきりとはわからなかったが、たぶんアヤそのひとなのだろうと感じた。普通の、そのへんにいるオバサンと変わらない印象だった。
なんたる奇遇だろうか。オレが見かけたのがアヤであるという保証はなにもないが、店は彼女の店にまちがいない。アヤでなければ、あれはだれだったのか、と思うのが普通だろう。見た目から想像して彼女の母親でも娘でも納得がいかないとすれば、本人でしかない。
神様は意地悪だ。なにも、そんなアヤを見せなくたっていいじゃないか。
そうか、あのとき神様はウマ同様にオレにもおっしゃっていたんだ。「オマエに似合いの女性が現れるのは、いまじゃないよ」と。
クルマのフロントガラスから、勢いがなくなりつつある光量のなかの空が見えた。東京近郊の青空の下だ。ほんの少しの間のことだったが、あのころのことを思い出し、ノスタルジックな気持ちになった。夕映えに染まる鱗雲を眺めながら、いつかポテチの墓参りにいこうと思いついた。
「この間、アヤを見かけたよ。たしか昔、自分の趣味の店をやりたいっていってたけど、その夢を叶えたみたいだ。立派なオーナーになってた」
墓前にそう報告しよう――。
*
オレは、もう彼にはなれない…
まっすぐいけば異国の海からヤシの実が流れてきたという歌碑がある岬に出るのだが、オレはそのあたりから内陸の方に曲がり、もうすぐそこまできたとき、あらためて思った。ポテチの墓前を訪れようと思ってから、どのくらいの年月が過ぎたか。今年の盆休みになってやっとこれた。初めてきたところなのに、なんだか妙な懐かしさを覚える。
あの夏の西伊豆の町を彷彿させるようだった。またはアヤと没入した、あの黄昏の川辺。そして夏休みが始まったばかりの雲ひとつないマリンブルーの下をタンデムでキャンパスにいった朝。それらのすべてがここにあるようだった。
――オレとオマエがこんな場面を迎えることになるとは、だれにも想像できなかっただろう。
オレはあの夏、彼女に出会った。彼女が出会った彼は、実は彼ではなかった。彼はオレだったのだ。でも、もう彼にはなれない。もはや彼はいないし、いまのオレはあの『夏草のいざない』に描かれた東京近郊の青空の下のような気持ちも持ち合わせていない。
山の麓にあるお寺の駐車場にクルマを停めて、カエデにきいた墓地に向かう。駐車場といっても、東京とちがい通用路の脇に広がる造成地のような空き地だった。道路との仕切りもない。山の斜面なので段々になった敷地の二段目からが墓地だった。駐車場から直接上がれるので、わかりやすかった。
カエデの話では、いちばん高いところにある真新しい墓石がそれだといっていた。といっても、それからもう何年も過ぎてしまった。石段を最上段まで登った崖縁みたいなところにポテチの墓はあった。
こちらから見ると、ずいぶん殺風景な場所に建っていると思えたが、遺族がここを選んだ理由がなんとなくわかった。墓前に立つと町が一望に見渡せるのだ。
「ポテチ、きたぞ。素敵なロケーションじゃないか。オマエらしいよ。ここはオレたちのキャンパスから見下ろす風景に似てるからな」
ずっと向こうまで続くかのようなフラットな農地に点々と雑木林が見えている。午後の煙るような陽ざしのなかに気怠くそよいで、穏やかなオレの心中を察しているようだ。
墓碑銘には歿年とともに《俗名 小芋碓氷》と刻まれている。
その昔、難関といわれた峠の名まえを貰ったといっていた。それを乗り越えろという意味で親御さんがつけた、とも。笑いながら「お互い、難関を乗り越えよう」といったっけ。
「辛い難関だったな。オレはオマエの好意を無にしたかもしれないけど、神様がそれでいいんだとおっしゃってくれたみたいだよ。なんとかやってるから、もうオレのことは心配するな」
花とお線香を供えて、そう報告した。返事はなかった。線香の煙が靡いているだけだった。その煙が見渡すかぎりの眺望の彼方に霧散していく。
了
長い間、粘り強く読んでいただいてありがとうございます。
*作中の人物、団体、作品等の名称は、一部を除き、特定のモデルはありません。




