第四章 海のポテチ ⑥
第四章⑤
ポテチとナカサンはクラゲを見るためにそと海に漕ぎ出したあげく帰ってこない――
エルザが指さす先を見れば、置き去りにしてきたビーチパラソルの下にだれか寝転がっている。ひと組の男女だった。
「ポテチだ!」
「まさか、クラゲに刺されて死んでいるんじゃないだろうな」と不吉なことをいうウマの頭をエルザが小突いた。
近づくと傘の陰にポテチが仰向けに、その裸の胸に顔をうずめるようにして官能的なナカサンのボディがあった。まるで映画のワンシーンのようなのだ。ふたりとも眠っているようだった。
「ポテチ」と声をかければ、目を覚ますなり笑顔でいうのだ。
「メシ食った?」
「わかってたの?」
「たぶん、そうだろうと思って留守番をしてた」
オレたちは顔を見合わせた。
「こんなところオレたち以外にくる人いないんだから、上がってくればよかったのに。どこまで流されたんだよ?」ときけば、彼は手を振りながら「いやあ、クラゲを見つけて観察してたら、ぜんぜん陸地が見えなくなっちゃってさ。ははは… 」
「ははは、じゃないだろ。よく戻ってこれたな」
能天気なヤツだとオレたちは呆れるしかなかった。
ポテチが上体を起こすと、気づいたようにナカサンも目を覚ました。寝ぼけまなこでこちらに気づくと「あらあ、キミたち。暑いでしょ?」という。
オレたちは、ふたたび顔を見合わせながら「どっちがアツイのやら」と呟くのだ。
とりあえず、そこを撤収することにしたが、ポテチは大物のビーチパラソルやらビーチチェアを独りで抱えて歩いていくのだ。
どうやら心配かけたことを自覚していて、その罪滅ぼしのつもりらしい。ナカサンも借り出したフィンやシュノーケルを抱えてポテチのあとを追う。おかげでオレたちはマットと小物だけですんだ。ウマなどはみんなのバスタオルだけ抱え、ほとんど手ぶらだった。
うえに上がってナカサンが「ゴメ~ン」とカエデたちにいうと、彼女たちもまるでなにもなかったように笑顔で「お帰りなさーい」などと返してはいるが、オレは女たちの目に見えない感情の波動みたいなものを感じていた。バチバチと火花を散らしているのだ。
にもかかわらず照山シスターズは、クラゲがどうしたなんてノンキな話に応じているふりをしていた。心中はクラゲどころではないはずだ。のほほんときいているのはアヤだけに見えた。
「アイツら、なにもなかったのかな?」
茶店に入っていくふたりのうしろ姿を見ながら、ウマが素直なところを口に出した。すかさずエルザがウマの頭を叩いていうのだ。
「声が大きいよ。クラゲの観察にあんなに時間がかかるわけないだろ?」
「そうだろうなあ」とウマもヘンな笑い方をするのだ。
そんなことがあるわけない、と思っていたのはオレだけなのだろうか。もし、なにかあったとしたら、オレはいまどき考えられない鈍感だ。
だが、オレはポテチを信じたかった。わざわざオレだけに告白する時間をつくるために、ウマたちを引き離す計画を立てたのだ。そんなあからさまに裏切るようなことをするはずがない。
ところが帰る段になってポテチとナカサンは、ますます疑惑の行動にでることになった。ふたりはタンデムで帰るというのだ!
なんでも、ナカサンは新幹線の駅まで送ってもらうという。彼女のウチは都内なので、オレたちが帰る都下多摩地域経由だとかえって遠回りになるから、という理由なのだ。まさかポテチの実家まではいかないだろう。そこには婚約者が待っているはずだ。子どもができたというタイミングで、いきなり浮気をするほど愚かではあるまい。
だが、たしかにまだ正式に結婚はしていない、といっていたことがオレを惑わせた。ポテチはなにを考えているのか、オレにもわからなくなってきた。ただ、異様にモテることだけは隠しようのない事実だった。
茶店から幹線道路までは一緒だったので、別れ際にはアヤ以外の全員がひきつった笑顔でふたりを見送ったはずだ。アヤはポテチにもナカサンにも、まったく興味を示さなかった。オレのワゴンには荷物とアヤが乗ってくれたので静かなものだったが、いまごろウマのクルマは、ふたりのことでカンカンガクガクになっていることだろう。
カエデたちが気をきかせてくれたのかどうか知らないが、帰路はアヤとふたりだけの幸せな道中になるはずだった。ところが、どうしてもポテチのことが気になって、話題を探すだけの余裕がなかった。
アヤも、まるでタクシーにでも乗っているような気分なのか、ムダな労力は使わないといったふうに一言も口をきかないのだ。話し相手として認めていないのかと思うほどだ。
早く出てきたはずなのに、高速の入り口に続くみちは渋滞していた。まえのクルマのルーフに灼熱の陽ざしが反射して眩しかった。こうなると瞼が重くなってくる。
まえに並んでいるウマのクルマのなかの様子も、人影が動いていない。向こうはこっちの倍の人数が乗っているのに活性化していないことがわかる。ウマも睡魔と格闘していることだろう。
ふいにアヤのモバイルが鳴った。まえのクルマのカエデからだろう。しばらく話してからモバイルを切るとアヤは初めて口をきいてくれた。
「高速に乗ったら、小田原からバイパスで帰りましょうっていってます」
「そうですか」
まるで、さっき初めて会ったばかりの人との会話だ。浜辺では、もうちょっと打ち解けていなかったか?と自分の記憶を疑いたくなる。オレが「アヤちゃん」などといえば、「なんでアタシの名まえを知ってるんですか?」なんていわれそうだ。
「松尾サン、なんか音楽聴こうか」
「アヤでいいですよ」と、こっちを見て微笑した。
よかった。オレの勘ぐりすぎだったか。
――そりゃ、そうだよな。いくら人見知りだって、そこまで徹底していたら、どこかおかしいのではないかと思われる。
アヤは例のカエデの外付けメモリーをクルマのオーディオコンソールにジョイントした。一曲目は、たしか〝シュリッシュ〟の『恋人もいないのにアナタは京都へいくの』だった。エレキギターのイントロから始まるフォーク歌謡で、昭和のにおいがプンプンしている。
「大昔の歌もなかなかいいよね」
アヤは、ちょっと鼻で笑うような反応を示した。
「回りくどいタイトルだけど、こんなのが流行っていたのかって思うよね」
「これはカノジョがカレシにいった言葉をタイトルにしてるんですよ。アタシというものがいながら、どうして独りで京都なんかにいくんですかっていう… 」
「ずいぶん具体的な話だな」
「つまり、カノジョは京都にべつの女がいることを知ってるんですよ」
まるで、たったいま別れただれかのことみたいだ。
「深いな。キミたちはそんなところまで分析してるのかい?」
「歌詞を読めば、だいたいわかりますよ」
昭和歌謡に限れば、彼女たちの方がオレより詳しいに決まっている。なんだか見下されているようで居心地悪くなってきた。オレがなにかいえば、その都度バカにされているような気分になるので、そこからはまた沈黙を守ることになる。
しかし、同乗者がアヤでよかった。話題はなにもないが、横顔を見ているだけで眠気が吹き飛ぶ。ポテチじゃないが、このままアヤと二人でどこかにいってしまいたい気分だ。
「アヤちゃん、眠かったら寝てていいよ」
「アタシより秋野クンの方が眠くなるのが怖いわ。それにこのシート、リクライニングしないみたいだし」
「そうだな」とオレは苦笑して、心にもないことをいうのだ。
「つぎの休憩場所でだれかと代わってもらいな」
「アタシ、このクルマでいいです」
ウソだろ、と思った。こんな乗り心地度外視の配達用の軽ワゴンがいいはずはない。
――それともオレと一緒にいたいというのか?
「向こうのクルマだとカエデがうるさいでしょ?」
なるほど、そういうことか。もしかすると、アヤは賑やかなところが嫌いなのかもしれない。すると、なおさら喋れなくなる。
「アイツは思ったことを全部口に出さないと気が済まない体質だからな」
「ずっと喋ってるんですよ。夕べだって、もしかしたらアタシが途中で寝たのに気づいていないのかと思うほど喋りたおして、目が覚めても、まだ喋ってるの!」
「アイツ、寝てないの?」
「わからないです。アタシは寝ちゃったから」
「どうりでアザラシみたいに寝てたわけだ。なにをそんなに喋ることがあるんだよ?」
「…いろいろ。全部はきいてられません」
もっともだ。
「災難だったね」
「もう慣れましたから」
照山シスターズがいれば、ウマも眠くなるようなことはないだろう。
少し場に慣れてくるとオレは気を取り直して、どうでもいいことを根掘り葉掘りききたくなった。
「八月も施設まわりをするんだろ?」
「八月はやりません。昨日の施設で終わり」
そこで「じゃあ、オレと映画でも観にいこう」といえないところが、オレ自身も嫌いな煮え切らない性分なのだ。
「休みはなにしてるの? 実家の手伝いとか?」
アヤは意味深な笑みを浮かべて首を振る。
「ウチの手伝いなんてしたことないんです。アタシがあとをやらないってことをわかってるみたい」
「お宅はずっと美容院をやってるわけじゃないの?」
「母が始めて、一代で終わるかもです。もしかしたら妹が継ぐかもしれないけど、アタシはやりません」
「妹さんがいるの?」
「まだ高校生なんですけど」
「じゃあ、なにもアヤちゃんがやる必要もないわけだ」
アヤは黙って、そとの景色を見ているだけだ。
みちの両脇は農地で人がだれもいないのだ。道路は延々とクルマが数珠つなぎになっているのに、街は死んだように真黄色の古いアナログフォトみたいだった。こんな風景は、たとえ東京の片田舎のウチの近所でも見られない。空の青さだけが変わらなかった。
「長閑だねえ」
「アタシ、こういうところに住みたいわ」
「都会は嫌い?」
「嫌いじゃないけど、生活拠点はこういうのんびりしたところがいいかな」
アヤは、やはりマイペースなコなのだろう。マイペースに拘ってカエデなどに誘われると、理由もなく鬱陶しく感じてしまうのではないか。とくにオレたちみたいな、よく知らないヤロウと一緒だと煩わしくなってしまう。今回もそうだし、たしかカラオケ大会のときも最初は断っていた。
「こういう時間がゆっくり流れているような場所が好きなんでしょうね。自分の世界にどっぷり浸かって…」
そういって笑った。でも、やはり本心から笑っているようではなかった。
こういうところはポテチとまったく正反対だ。カエデにしても、アヤとはまるでちがう。なんでもわかりやすい性格ではない、ということの表れではないか。
「自分の世界って『夏草のいざない』の世界?」
すると突然、人が変わったようにこっちに向き直った。
「そうなんですよ!」
「え、え?」
「あの世界みたいじゃないですか、このあたりの景色」
たしかに夏の午後の陽ざしに晒された用水の側溝や藪の木陰は、あの映画のなかに出てくる場面に似ていた。
「そんなに好きなんだ、あの映画」
「今日も持ってきてるんです」といって、うしろの荷台から自分のバッグを引っぱりだす。なかに入っていたタブレットをさっそく立ち上げるのだ。
「観てていいですか?」
オレはなるべく苦い顔をしないようにして頷く。かえってヘンな気遣いをしなくて済みそうだった。その後アヤは、いったいなにがそんなに興味を惹かれるのか知らないが、ものすごい集中力で鑑賞していた。オレは、その恍惚とした横顔を眺めては戦慄を感じるようだった。
向こうを出たのが何時ころだったのかわからないが、陽がだいぶ傾いてから小田原に着いた。そのまま海岸線を走るバイパスに乗って、平塚に出るころには薄暮になっていた。
休憩をとったファミレスでウマはいうのだ。
「シタのみちも激混みだぜ。向こうを昼ごろ出たのに帰るのは夜中だ」
「しかたないだろ。ここからウエに乗ったら、もっと悲惨なことになる」
エルザは余裕だ。
「オレ、明日休んでいい?」
ウマは上目遣いでオレを見るのだ。オレはウマの顔も見ずに返事した。
「いいはずないだろ」
そこへカエデが割り込んでくる。
「キミたち、バイトなんだ?」
「ウマはともかく、生活かかってるんだよ、オレは」
明日からはポテチがいないのだ。頼りないウマでも、いないよりかはマシだと思っていた。そのウマすらいないとなると、さんざん遊び疲れて明朝から薄気味悪いところ巡りをこなせるとはとても思えない。しかも日焼けの後遺症を抱えてだ。
「だけど、それを承知で誘ったのはキミたちだからね」
カエデは同情どころか、血も涙もないことをいうと思ったが、実際その通りだった。ところがウマはいうのだ。
「いや、いいだしたのはポテチだぜ!」
途端に場は静まり返った。まったく場を読まないことにかけては天下一品だ。
オレはウマの脇腹をド突いた。「ポテチ」あるいは「ナカサン」という固有名詞は現在、暗黙のうちに禁句になっていた。
♪Sentimental おおぞら There beneath the blue suburban skies ~
オレのワゴンの車中には〝ウミユリ〟の『ブルーサバーバンスカイ』が流れていた。これを聴くと妙に元気になるのだ。アヤと唯一、共有できる感覚だと思っていた。なぜなら、この曲はアヤが異常に好きな映画『夏草のいざない』の挿入歌に使われていたからだ。
「いい曲だよね。好きなんだ、これ」
アヤは、そこまでの高揚感もなく、ただ笑顔で頷いていた。
「このタイトルの意味を知ってます?」
不意に彼女はきいてきた。
「タイトル? 郊外の青空って意味だろ?」
「それはどこから取ったか」
「どこから?」
――なにかのアンサーソングなのか?
オレは首を振った。
「〝ウミユリ〟のボーカルだった蔦葉永遠は〝ビートルズ〟の『ペニーレイン』が好きだったんですって。その歌詞の一節をヒントにして書いたらしいですよ」
「〝ビートルズ〟の曲をヒントにしたって、きいたことはあったけど、『ペニーレイン』だったのか」
「『ペニーレイン』は〝ビートルズ〟の地元の通りの名まえらしいんですけど、アタシはこれを聴くと『夏草のいざない』の川辺のシーンを思い出しちゃうんです」
今度はオレが、それには反応できなくて笑顔で頷くしかなかった。
それからしばらくは、ふたりとも黙って聴いていた。
すっかり暗くなった幹線道路を走っているときに、助手席に座るアヤが突然いうのだ。
「ガ… メ… 」
「?」
オレはアヤの顔を見た。彼女は疲れ果てたのか、ぼんやりと前方を見つめていた。
「ガメ? ガメっていった? それ、なに?」
オレがきくと彼女は「あれ、あれ」というように指さした。見れば前方の道路わきに見える電飾が《GAME》と表示しているのだ。
オレはこのとき、アヤがなんの気なしに口走ったローマ字読みがおかしくてしかたがなかった。彼女にはこんなひょうきんな面もあるのかとオレが笑いだすと、彼女もつられるように笑いだした。
それからしばらくは、ふたりともツボにハマったように笑っていた。そうとう疲れていたのだと思う。
つづく
毎週金曜日23時に更新します。
*作中の人物、団体、作品等の名称は、実在する一部を除き、特定のモデルはありません。




