第三章 王女の旅立ち(1)
それから一週間後、ラックとジールは六年間暮らしたカチェの村を離れ、首都カシウスに来ていた。十八歳になり、正式に王国の兵士になるためである。この日の午後は、フレイム・ドラゴンの使い手であるラックに会いたいという国王たっての希望で、王宮で謁見することになっていた。
慣れない状況を前に緊張するが、それでもやっぱり腹は減る。ラックとジールはカシウスの下町にある料理屋へと来ていた。あの女将さんの店だ。半地下にある狭い店内には、相変わらず料理とカビの混ざった匂いが立ちこめていた。まだ昼過ぎなので窓から光がうっすらと差しこみ、外通りの喧騒が店内にまで聞こえていた。
「しかしお前さんたち、久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「もちろんさ」
ラックが応じた。その右手には骨付きチキンの蒸し焼きが握られている。一方のジールは目の前の牛肉を食べることに余念がなかった。二人とも羊以外の肉を食べるのは久しぶりである。
「見ていて清々しい食べっぷりだね」
女将さんが目を細めた。
「ここの飯、うまいからね」
ようやくジールが口を開いた。ラックも心の中でそれに同意する。決してイリアの作る田舎料理がまずかったわけではないが、やはり種類と言い、味と言い、料理屋を営む女将さんの腕には一日の長があった。
「それはさておき、今、国中で話題になっていることがあるんだよ」
「ああ、王女の結婚話のことだろ」
カウンターの向こうにいた背の低い男が口をはさんだ。外界との情報を遮断され、田舎に疎開していた二人には初耳である。
「そうさ、ティーナ王女がもうすぐ結婚するかもしれないんだよ」
女将さんの表情が暗くなり、ため息をついた。
人間の平均寿命が五十年ほどしかないこの時代、十八歳での結婚はさほど珍しくない。ラックはその名を聞き、六年前の豊穣祭で見たティーナ王女の姿を思い出した。あの美しい王女が結婚だなんて――。
「相手は誰なんだよ?」
「レッディード王国の国王さ」
女将さんの言葉に、ラックは血液が沸騰するのを感じた。六年前にこの国の宝物庫から聖剣を盗んだ赤いトラ隊長、イギスの国だ。グリンピア王国の国宝であった剣士カシウスの聖剣は、現在もレッディード王国にあるとされている。そしてあの年以来、毎年の豊穣祭や三年に一度の剣闘技大会は開催されていなかった。
「まさか、それって政略結婚?」
「さあね。ティーナ王女の美しさは有名だけど、レッディードの国王は王女と会ったこともないはずさ。それなのに王女が十八歳になった日の夜、先方から婚約を申し込む書状が届いたらしいよ。応じなければ戦争も辞さないという脅迫つきで」
「そんなのあんまりじゃないか」ラックが拳を握りしめた。
「結婚に応じれば人質を差し出す土下座外交。でも応じなければ戦争。頭の痛い問題さ。あそこは軍事に力を入れている国で、今まともに戦ったらグリンピアに勝ち目はないしね」
「そんなの一方的過ぎるよ。王女の結婚なんだろ? 王女の気持ちを無視して、まわりが決めても仕方ないじゃないか」
「それがねえ。一国の王女ともなると、そんな簡単な話じゃないのさ」女将さんはやり切れなさそうな顔で言う。
「あのさ」
いつのまにか、カウンターの向こうにいた背の低い男がラックたちのそばに来ていた。
「こんなこと言うのも何だけどよ。ここでティーナ王女が亡くなったら、すべて円満解決だよな」
「バカ。滅多なことを言うもんじゃないよ」
女将さんの声が険しくなる。
「へ、俺だってそんなことは分かっているさ。すまなかった。忘れてくれ」
背の低い男はグラスに残っていた酒を一気にあおった。ラックはいたたまれない気持ちになり、席を立つ。
「おい、ジール。そろそろ店を出ようか」
「あ、ああ。そうだな。女将さん、お勘定」
「あいよ、ありがとう。また来ておくれよ」
支払いを済ませ、ラックとジールは薄暗い店内から明るい大通りへと出た。同時に、まばゆいばかりの光が二人を包みこんでくる。
石畳に照り返す陽光は強く、大草原に慣れていたラックは、その暑さとまぶしさに一瞬めまいがした。しかし往来の人々は何食わぬ顔で、そのかたわらを通り過ぎていく。
「カシウスってこんなに人が多くて、明るい街だったんだな」
薄暗い店内から表に出ると、この六年を過ごしたカチェの村との違いがより一層鮮明に感じられた。
町中いたるところから様々な音が聞こえてくる。荷車を引く馬のいななき、人々の談笑、石臼を引く音、客を呼び込もうとする店主たちが手をたたく音。
すべてがにぎやかで、活気にあふれていた。
ラックの目の前を、目元以外を隠す民族衣装をまとった若い女が通り過ぎて行った。甘い残り香がする。ラックは無意識にその後ろ姿を目で追っていた。
女はすぐ近くにある駄菓子を売る屋台の前に来ると、そこの店主に軽く手を振る動作をした。そして商品の一つを手にすると衣装の中にしまい、そのまま立ち去っていく。
万引きだろうか。
ラックはすぐに女の後を追い、その右手首をつかんだ。
「痛い、何をするのよ」
女が非難めいた声を上げる。
「それはこっちのセリフだろ。万引きは良くないぜ」
ラックが声を張り上げると、まわりに野次馬が集まってきた。不意に後ろから服を引っ張られ、ラックが振り返ると、そこには万引きされた屋台の店主がいた。
「いや、大丈夫ですからお構いなく」
やたらと腰の低い店主を尻目に、女がラックの手を振り切って逃げだした。ラックは事態が呑みこめないまま、とりあえず女を追いかけることにした。野次馬たちは二人の姿を見比べつつ、女に道を譲り、ラックの邪魔をする。そのせいでラックが女に追いついたのは、大通りを抜けた人通りの少ない遊歩道だった。
「もう、なんで追いかけてくるのよ」
女の声が涙ぐんでいた。まるでラックが悪いことをしたみたいだ。何か言い返そうとして言葉を探しているところに、ジールと店主が追いついてきた。
「違います。その方は万引きではありません」
店主の呼吸は乱れていたが、それ以上に取り乱していた。ラックにはまだ事態が呑みこめない。
「そういうことよ」
女が目元以外を覆い隠していた被り物を脱ぎ捨てた。明るい栗毛色の髪に、ブラウンの瞳。高価な装飾品こそ身に着けていないが、ラックはその顔に見覚えがあった。
「ティーナ王女」
ラックのつぶやきに、ジールの顔が青ざめた。
「そうです。このお方こそグリンピア王国タイラー王のご息女、ティーナ姫様にございます」
店主は額を地面に擦りつけんばかりの勢いでかしこまった。
「代金なら侍女がまとめて払っているわ。私にとって数少ない息抜きの場だったのに、あれだけ注目を浴びたらもうあそこには行けなくなったじゃない。お願いだからもう、私がこの町で過ごす残り少ない時間を奪わないでよ」
赤く目を腫らしながら睨みつけてくるティーナ姫を前に、ラックは返すべき言葉を失った。