第四章 ノキリの村(2)
空は灰色の厚い雲でおおわれていた。まわりには険しい傾斜を持つ山の裾がせまり、その中腹から上も雲の中に隠れている。ところどころ傾斜がおだやかな場所には草が生えているが、山肌の大半は切り立った岩壁である。
交易都市ビャンマを出発してから丸一日、東方にあるノキリの村へと向かう三人とナノ山岳地帯にさしかかっていた。このあたりには人家もほとんど見られない。標高が高いこともあり、少し肌寒い。
灰色の空を見上げながら、シーナがつぶやいた。
「このあたりはいつもこんな天気らしいわ。そしてふもとからは雲に隠れて見えないけど、山の頂上に古代ネリシア王国時代の遺跡があるという話なの。聞いたことはないかしら」
「さあ、俺は知らないな。遺跡にもあまり興味はないし」
ジールの返答は素っ気ない。
「でもね、ここから見上げると山の中腹に雲がかかっているでしょう? あれを抜けるといつでも青空が見えて、足元に広がる雲の海からたくさんの島が突き出したような、不思議な景色が見えるんですって」
「へえ、遺跡はともかく、それは一度見てみたいな」
「そしてその島のひとつに美しい神殿が建っていて、それは美しいまるで天国みたいな光景らしいの」
「それを実際に見た人はいるのか?」
ラックがシーナの横顔を見た。
「八年ほど前に、一人の冒険家がこの付近の山に登って偶然見つけたの。でも似たような山ばかりだから、下山したらどの山だったのか分からなくなってしまったんですって」
「なんだか間抜けな冒険家だな」ジールが笑った。
「それ以来、何人かの冒険家がこの付近の山に登ったらしいけど、見つけた人はいないと言われているわ」
「単に最初の冒険家がホラを吹いていたとか?」とラック。
「その可能性もあるわね。でもその時のスケッチが王室に献上されて、私も見たけど、とても綺麗な景色だったわ」
「まあ、嘘だとしても夢のある話だな」
「それで学者たちが調べてみたら、古代ネリシア王国時代の数少ない文献に、古い峰という名前でそれらしき遺跡の記載があったの。それは重力を無視した不思議な建造物であり、巨大なドラゴンによって守られていたと書かれていたわ」
「ドラゴンって空想上の生き物じゃないのか? どこまで本当なのか怪しいな。でもナノに山登りが得意な動物に化けてもらえば、意外とすぐに見つかったりして」
「でしょ? ナノ、少し寄り道してもらえないかしら?」
シーナが語りかけたが、ラクダのナノはその首を横に振った。
「どうして? え、ええ、そうだったの?」
ラックとジールにはよく分からないが、シーナはナノから何かを聞き出しているようであった。
「ナノも他の動物からその遺跡の話を聞いたことがあるそうよ。実際に遺跡の近くで巨大なドラゴンと出会い、とても危ない目にあったんですって」
「俺のフレイム・ドラゴンと勝負してみたいな」
ラックが冗談めかして言うと、ジールがあわてて首を横に振った。
「おい、本物のドラゴンだとすれば、勝ち目はないからやめとけって」
「そうか、残念だな」
「私も見てみたいけど、ドラゴンに襲われるのは勘弁ね」
シーナもため息をついた。
「そうだな。ドラゴンと遺跡はあきらめて、このまま真っすぐノキリの村に向かおう」
「ええ、そうと決まれば急ぎましょう」
シーナの言葉を聞いたナノの足が速くなった。動物たちと会話できないラックにも、ナノの安堵が伝わってくる気がした。
針葉樹の群生する森に、木立の隙間から陽光が差しこんでいた。シダで覆われた地面の一部が踏み固められて獣道ができ、甲高い鳥の鳴き声がこだまする。古い峰のある渓谷を抜けて二日後、三人とナノはようやくノキリの村に近いところまで来ていた。次第に前方の木々が少なくなり、青く澄んだ湖と緩やかな稜線を描く山の尾根が見えてきた。湖面はキラキラと輝く光の粒子をまとい、そこに山脈の倒立像を写し出している。
「もうそろそろ到着かしら」
シーナが馬上で気持ちよさそうに伸びをした。ラックとジールを乗せた荷車を引くナノの姿は、いつの間にかフタコブラクダからたてがみの美しい駿馬へと変わっている。
「きれいな場所だな。穏やかな気分になるよ」
ラックが荷車の上から身を乗り出した。
「私はこの景色になんとなく見覚えがあるけど、赤ちゃんの時の記憶かしら。これから私のここで暮らしていくことになるけど、まずは陛下からの使者を探さないといけないわね」
その言葉に、ラックはこの村を目指した当初の目的を思い出した。シーナが王室を離れ、ひっそりと暮らしていくために、ラックとジールはタイラー王からこの村までの護衛を仰せつかっていたのである。と言うことは、ノキリの村につけばシーナともお別れになる。
これから先、俺はどうしようか?
寂しさと不安の中で、ラックは自分のこれからのことを考えていた。レッディード最精鋭部隊、赤いトラのイギス・ダンサンを超える剣士になること、そして六年前に奪われた聖剣を取り戻すこと。漠然とした目標はあったが、そのために何をしたらいいのかまったく分からなかった。
ふと我に返ると、樹木を伐採してできた一角に数十戸の家屋が立ち並ぶノキリの村が見えていた。やはり懐かしい臭いがする。軒先には長い冬に備えて保存用にするのであろう、たくさんの野菜が干してあった。時々すれ違う村人たちは、よそから来た三人の若者に、好奇と警戒の入り混じった目を向けていた。
どうしたものか、とラックは考えあぐねる。
六年前ラックにペンダントをくれた老人がここにいたとしても、村の住人に自分たちの祖先のことを明かしていないはずだ。そうでなければカシウスの子孫がこの村にいるというニュースはたちまち村の外に漏れ伝わってしまうだろう。
それにこの村で孤児だったというシーナに頼れる身内がいるはずもない。
せっかく目的地に着いたのに、誰に何と声をかければよいのか分からなかった。村の中央広場まで来て困り果てているところに、誰かが声をかけてきた。
「もしかしてお前さんたち、六年前の少年たちか?」
振り向くと、そこにはあの時の老人が立っていた。麻でできた上着とズボンは泥で汚れ、日焼けした肌がのぞいている。額のしわはこの六年でやや彫りが深くなり、ヤクの革をなめした帽子を耳が隠れるまで深くかぶっていた。
「はい、そうです」
安堵の色を浮かべて駆け寄り、いろいろ話しだそうとするラックたちを老人は手で制した。
「長旅ご苦労じゃったな。積もる話もあるだろうが、ここでは不都合なこともあろう。まずはうちに来なさい」
そう言われてあたりを見渡すと、いぶかしげな眼を向けている数人の中年女性と目が合った。たしかにここでカシウスやティーナ姫という単語を出すのはまずいだろう。
三人は互いに目配せしてからうなずき、老人の家に行くことにした。集落の中心地から少し離れた、森のすぐそばにその家はあった。人が簡単にまたげる高さの石垣に囲まれ、くすんだ色の土壁とかやぶきの屋根でできている。庭には薪が高く積まれ、その隣には小さな菜園がある。もう今年の収穫を終えたのか、枯れた植物が力なく倒れていた。
老人が家の戸を叩くと、中から十一、二歳の少年が出てきた。
「ゼイリーじいちゃん、おかえり」
まだ変声期前の声だ。きゃしゃな骨格からはどこか中性的な印象を受ける。
「ただいま、ノクト。お客さんを連れてきた」
ゼイリーと呼ばれた老人は三人を屋内へと招き入れた。
「この子の両親は八年前のはやり病で早世してしまってな。今は祖父である私と二人暮らしなのじゃ」
「ところでじいちゃん、この人たちは?」
きっとこの小さな村落に部外者が来ることは珍しいのだろう。ノクトと呼ばれた少年は好奇の目で三人の若者を見渡した。
「俺の名はラック・ハイモンド。首都カシウスで剣の修行をしていたけど、訳あってこの六年間はカチェという村にいた」
「ジール・シモリスだ。これまでの経歴はラックと同じさ」
「私はシーナよ。でも自分の苗字は分からないの」
三人が順に自己紹介をしていく。それに耳を傾けていたゼイリーが驚きと困惑の入り混じった表情を浮かべた。
「シーナだって? お前さん、もしかしてこの村の生まれではないか?」
「え、ええ」とシーナがうなずく。
「やっぱりそうか、ユモイニーさんの娘だな。目元がお母さんにそっくりだ」
「私の父と母を知っているのですか?」
「もちろん知っているさ」
老人はシーナから目をそらし、ゆっくりと話し始めた。
「お父さんはレッディードの剣士でナイード・ユモイニー、お母さんはイエローサの貴族の娘でセセリアという名前じゃ。当時から決して友好的ではなかった両国間の決して許されぬ恋だったらしい。それで今から二十年前、二人してグリンピアの北の外れにあるこの村に逃れてきたんじゃ」
シーナは老人の話を真剣なまなざしで聞いていた。
「とても明るい夫婦でな、すぐにこの村の者たちとも馴染んだ。そして十八年前、お前さんが生まれたんじゃ。でもその直後、イエローサからの追っ手がこの村にやってきた。あそこは戒律の厳しい国で、それを破ると厳しい報いを受けることになる。彼らは他国の男と結ばれたセセリアを許さなかったんじゃろうな。そしてそれをかばったナイードと共に、命を奪われてしまった」
老人は無念そうな表情を浮かべた。
「武器を持たぬ村の者には、生まれたばかりのお前さんを隠すことが精一杯じゃった。そしてこの村にいてはお前さんも危ないと思い、カシウスの孤児院に預けたのじゃ」
「そうですか、そんなことが……」
シーナが表情を曇らせた。実の両親の不幸な最期を聞くことは、とてもつらいことであったに違いない。
そしてその後、シーナはグリンピアの王室に引き取られ、王女として育てられた。しかしレッディード王からの強引な求婚により、レッディードへと向かう途中、イエローサにそそのかれた山賊たちに襲われ、なんとか一命をとりとめてこの村に逃げてきたのだ。三つの王国に振り回された数奇な半生と言えた。
「あの、父と母のお墓はこの村にありますか?」
「そうじゃな、案内してあげるからついて来なさい。積もる話はそのあとじゃ」
ゼイリーは脱いだ上着を再びまとい、家の外へと出て行く。
「ノクト、わしは今からこの人たちを村の墓地に案内してくるから、ここで待っていてくれ」
「分かった。俺は留守番しているよ」
ノクトが家の中から手を振った。