第三章 王女の旅立ち(7)
両国の兵士が崩れ落ちた土砂のところに集まっていた。シーナが乗っていた馬車も半分くらい土砂の中に埋もれている。普通に考えれば、これに巻き込まれた人間はほぼ間違いなく助からないだろう。山賊たちは獲物を見失った肉食動物のように不服そうにあたりを見渡し、しぶしぶと撤退を始めていた。
と、そこで土砂の一部が突然消えた。その場にいた兵士たちが動揺の声を上げる中、土砂は少し、また少しとゆっくり消えていく。そして最後には両国の兵士とジール、そしてもぬけの殻となった馬車だけが取り残された。
「ようこそ、ティーナ姫様、そしてフレイム・ドラゴンの使い手ラック殿」
突如、二人の背後から声が聞こえた。振り向くとそこには先ほどの兵士が立っている。年齢は三十歳前後だろう。知的な印象で線が細く、武闘派には見えない。若草色の甲冑の下には黄色いシャツが見えていた。
「あんた、いつの間にここに来たんだ?」
ラックが警戒の色をなして剣を抜くと、意外な答えが返ってきた。
「これはおかしなことを言われますね。私は最初からここにいましたよ」
「でもさっき崖の下で会ったはずだ」
「さあ、人違いでは?」
「そんなはずがあるか」
次第に声が大きくなるラックを、目の前の兵士がいさめた。
「落ち着きなさい。せっかく姫様が土砂崩れに巻き込まれて行方不明になった場面だというのに、ここで騒いでその所在を皆に伝える気ですか」
兵士に言われ、ラックとシーナは顔を見合わせた。たしかに崖の下の兵士たちには、土砂崩れに巻き込まれたはずの姫があとかたもなく消えてしまったように感じられるだろう。
「私はイエローサ王国の南方方面軍属でリューイ・レイレリールと申します」
リューイと名乗る兵士はグリンピア王国の西方にある国の名前を挙げた。
ラックたちが暮らす大地には南のグリンピア王国、北のレッディード王国、西のイエローサ王国と呼ばれる三か国があり、国境線付近では小さな戦闘を繰り返しながら、覇を競い合っている。
もともとイエローサ王国が位置する西方には砂漠が多く、やせた土地が広がり、人が住みつかない辺境の地として放置されていた。しかしグリンピア王国歴248年、砂漠のオアシスに建てられた寺院の修道女だったリファ・セイザールが、知の女神メルネから啓示を受けた。リファはメルネの助言を得て新しい国を建国し、その初代女王におさまった。それ以来、男系の王を一切許さず、常に女王が国を統治してきたという点で、他の二国と異なっている。
「ティーナ姫様。この度はダッセル王とのご婚姻、誠におめでとうございます。しかしそれによってグリンピア王国とレッディード王国との結びつきが強まるようなことになれば、我がイエローサ王国の立場が苦しくなります。そこでシシカ女王は姫様を亡き者とするよう命令を下されました」
リューイは自らの言葉に何の感情もこめず、淡々と続けた。
「山賊たちに姫様のことを伝え、馬車を襲わせたのはこの私です。正直なところ、姫様が兵士たちを置いて真っ先に逃げだすようであれば、あのまま殺害されてもやむなしと考えておりました。しかし姫様の誇り高いご決断に心を打たれ、はばかりながら別の選択肢をご用意させていただきました」
「それはどのような内容なの?」
シーナが恐る恐る尋ねた。死を覚悟した一方で、当然ながら生への執着もある。
「なに、簡単なことですよ。私のデルタイによって、両国の兵士たちはティーナ姫が土砂崩れに巻き込まれ、行方不明になったと思っています。人間の心理として、一度土砂崩れが起きた斜面を登ってここまで姫様を探しに来る者はいないでしょう。今後あなたはティーナ姫という立場を捨て、どこか小さな村で無名の村人として暮らせばよいのです。私の真の目的はティーナ姫を外交の表舞台から消すことであって、あなたを殺害することではありません」リューイの表情が柔らかくなった。「約束していただけますか?」
不意にシーナの目から涙がこぼれ落ちた。生への道筋を示され、それまでの恐怖から解放された反動だった。
「もし私にそれが許されるなら」
「大変物分かりの良い方で安心しました。そう言われると思って、タイラー王をお連れしましたよ」
リューネが指し示す先、はるか彼方に人影が見えた。馬にも乗らず、徒歩で近づいてくる人物こそ、グリンピア王国のタイラー王その人である。
「周りの兵士たちに気づかれぬよう、王だけをここにお連れするのは少し骨が折れました」
リューイは自分の右手で左肩を叩きながら、軽く首をすくめた。
予想外の展開が続き、言葉を失うシーナのもとに、ややあってタイラー王が歩み寄った。
「無事だったか、ティーナ……いや、シーナよ」
シーナは右手を胸に当て、右ひざを地面について頭を下げた。ラックも見よう見真似でそれに従う。
「はい、陛下にはご迷惑を」と言いかけるシーナの両肩を、タイラー王は地面に膝をついて抱きかかえた。
「お前につらい決断をさせてしまったことを申し訳なく思う」
「陛下……」
今のシーナには、自分がタイラー王の娘ティーナ姫としてふるまうべきか、王族とは関係のない孤児のシーナとしてふるまうべきか、判断がつかなかった。
「ここに来るまでの間におおよその事情は聞いた。シーナよ、グリンピア王家ともレッディード王家とも関わりのない場所でいいから、これからも元気に生きてくれ。そしてこれだけは忘れるな。お前は私の娘だ」
その言葉に、これまで張りつめていたシーナの心が決壊した。
「はい、陛下。これまでお世話になりました。最後にもう一度だけ呼ばせてください。御父上」
嗚咽を漏らして泣き始めるシーナをタイラー王が抱きしめた。ラックはもらい泣きしないようにこらえるのに必死だった。ふとリューイを見ると、あらぬ方角を向いて空を見つめている。ラックと同じように涙がこぼれるのをこらえているのだろうか。
シーナとの抱擁を終えたタイラー王が立ち上がり、「リューイ」とその名を呼んだ。
「はい、なんでございましょう」
リューイがタイラー王に向き直り、臣下の礼をとる。
「そなたがイエローサ王国で名高い軍師リューイ・レイレリールか」
「名高いかどうかは存じませぬが、イエローサ王国のリューイ・レイレリールでございます」
「見事な策だな。幻影を作り出すそなたのデルタイで、シーナが土砂崩れに巻きこまれたように見せかけ、実際には安全な場所に避難させた。こうすることでグリンピアとレッディードが結びつくのを阻止しながら、シーナを救って私に貴国への借りを作らせたのだな。もしかして私をここへ呼び寄せたグリンピアの兵士も、そなたが作り出した幻影だったのか?」
タイラー王は、リューイのデルタイが幻影を作り出すことだと指摘した。
だとすれば、シーナを刺した山賊も、ラックの後方から声をかけてきたリューイ自身の分身も、そしてラックたちの体をすり抜けていった土砂崩れも、すべてこの男の作り出した幻影だったのだろうか?
「誠に恐縮ですが、もし私に借りができたと思っていただけるなら、これ以上の詮索はご容赦ください」
「たしかに、借りを作った上に手の内まで明かせというのは虫が良すぎる話だ。失礼した」
タイラー王が小さく笑った。
「恐れ入ります」
「ところでシーナ、お前はこれからどうするつもりだ」
「私は……」
シーナが言いよどんだ。すべてが急転直下のできごとだったため、今後の予定などあろうはずもない。
「お前はノキリの村の出身だ。今後はそこに身を寄せたらどうだ」
「ノキリの村だって?」
ラックがシーナの顔を見ながら声を上げた。しかしそれがタイラー王に対して礼を欠く発言だと気づき、すぐに頭を下げる。
「ラックといったな。ノキリの村について何か知っているのか?」
幸いなことに、タイラー王は特に気にしていないようだ。
「はい、自分は六年前の豊穣祭の日、赤いトラのイギスたちに聖剣を奪われたあの夜にノキリの村から来たという老人と会いました。そしてこれを受け取ったのです」
ラックは左手に巻いた布の中から、大切にしまってあったペンダントを取り出した。そこにはめ込まれた宝玉が太陽の光を浴びて、炎のように燦然と輝く。
「それはオリハルコンではないか」
タイラー王が驚きの声を上げた。
「オリハルコン? それは何でしょうか?」
「いや、ここには他国の者もいる。聞かなかったことにしてくれ。それよりその老人の名はなんという?」
「それが名乗らなかったので自分も知らないのです。ただ、その老人は、自分の先祖が剣士カシウスだと言っていました」
「カシウスだと?」タイラー王の顔色が変わった。
「リューイよ、すまないが今の話は聞かなかったことにしてくれ。さもなくば、私はそなたと切り違えてでもこの秘密を守らなければならなくなる」
「……承知しました。貴国の建国伝説に首を突っこむより、陛下に借りがあると思っていただいたほうが我が国の国益にかないます」
「そうか、それは助かる」
タイラー王が安堵の息を吐いた。
「シーナ、お前は故郷であるノキリの村に向かい、そこで暮らすと良いだろう。現地での生活に困らぬよう、いずれ私から極秘の使者を送るつもりだ。それからラックよ、すまないがシーナをノキリの村まで送り届けてやってくれないか」
「はい、喜んで」と頭を下げるラックの肩をタイラー王が力の限りつかんできた。
「頼むぞ。だが喜びすぎて変な気を起こすなよ」
その目には仇敵をにらむような鋭い光が宿っている。
「は、はい、はは」
この日一番の恐怖を感じたラックが、顔を大きく引きつらせた。
両脇を小高い丘に挟まれた道の真ん中に、豪奢な馬車が取り残されていた。すでに太陽は西に傾き、柑橘類を思わせる橙色に染まりつつある。
山賊と両国の兵士ほぼ全員が立ち去り、そこには一人と一匹の姿しか残されていない。
「ラック、ティーナ姫、どこに消えたっていうんだよ」
ジールが力なくつぶやく隣で、黒猫のナノが呑気な鳴き声を上げた。
「ジール、心配かけたな」
不意に聞きなれたラックの声が聞こえてくる。ジールが声の聞こえてきた馬車の背後に回り込むと、そこにラックとシーナの姿があった。シーナのドレスはあちこち切り裂かれ、泥と埃にまみれて高貴さを感じられなくなっている。
「ラック、お前、見損なったぞ。いったい姫様に何をした?」
今にも剣を抜いて切りかかりそうなジールの前に、シーナが立ちふさがった。
「違うの、これは私が身分を隠すために自分でやったことなの」
「それなら良いのですが……」
「それと、その呼び方や敬語は金輪際やめてもらえるかしら。これからの私はノキリの村に生まれた村娘シーナとして生きていくのよ」
その明るい口調に、ジールはシーナの決意が死から生へと変わったことを知った。
「ご無事で何よりです……いや、無事でよかったな、シーナ」
「ありがとう、心配かけてごめんね、ジール」
ジールは思わず涙がこぼれそうになり、オレンジ色の空を仰いだ。
「そうだ、久しぶりにあれをやろうぜ」
ラックが右足を半歩前に出し、左膝を地面について、右こぶしを握りしめたまま前方へ突き出した。それを見たジールも同じ姿勢を取り、ラックの右腕に自分の右腕を重ね合わせる。
「あの、私も参加していいかしら」
遠慮がちに言うシーナに、ラックが笑顔で答えた。
「もちろんさ、俺たち仲間だろ」
その言葉を聞き、シーナも二人の右腕に自分の右腕を重ね合わせる。
「テラノム・サーサスール」という三人の言葉が重なりあい、夕日の中に溶けていった。