狐は去りし夢を見る ⑤
借り物のあぽろ12号のアクセルを開け、僕は北西方面へと加速する。ちなみに改造前らしく、11号とは違って普通の原付だ。月まではぶっ飛べない。
あのとき、子狐は確かに言った。
――いー、いきー、きかかえす。
幼い息づかいのような声だった。
日本語を話したのだ。もっとも、ナツユキの情報では、魔都京都に於いてはノラ犬やノラ猫ですら話す輩もいるらしいのだから、炎狐という怪であるあの子狐が言葉を話したとしても不思議なことではない。
「生き、返す」
声に出して呟く。
誰を? どうやって?
仮死者を増やし続けている行動とは正反対の言葉だ。
戒厳令のためか、通りすがりの人間はほとんど見かけない。怪らしき存在は何度も見かけたけれど、ヒトと違って魂を抜かれる恐れのない彼らの生活は、ほぼ平常運転だ。
ゴーストタウンを抜けて原付を走らせ、碁盤の目のように造られた京の道路を、西へ、北へと交互に進む。
静かすぎる街は少し不気味だ。異形の怪であっても、声が聞こえてくると安心する。
京都の道路は、目的地の方角さえ見失わなければ迷うことはない。時々スマートフォンのナビに視線を落としつつも、僕はようやく目的地に到着した。
山際に建てられた静かな墓地だ。
怪とは、伝説上の神や天使、悪魔、魔物、妖怪、妖精といった類の存在と言われている。だとするなら、京の狐の伝説はそう多くはない。
古来より京を見守ってきた伏見稲荷の宇迦之御魂神を除けば――茶人、千宗旦に化けて茶会を楽しんだ宗旦狐。琴を弾くことを好み、夢枕に立って子を授けるとされる御辰狐。一条天皇の宝刀である小狐丸を刀匠三条宗近とともに鍛えたとされる合槌狐。伊佐津川の橋に化けて人々を困らせた狐。高陽川のほとりに出現して人間を騙し、馬の背に乗った少女狐。
うち、祀られていない、正体や出所のわからないものは二つ。
伊佐津川の狐は、カーテンの外の話だから除外。となると、高陽川のほとりに出現して少女の姿に化け、通行する人々の馬に乗る悪戯を繰り返していた少女狐である可能性が高い。
馬に乗る少女狐の伝承は、この住吉山墓地からほど近い、高陽川、仁和寺の近くだ。
恐る恐る墓地に入る。市営霊園らしいが、行政が半壊して以来、管理するものは存在しない。今や京の行政は、生者のためで手一杯だ。
静寂を破る風の音。冬であれば虫の声すらしない。
「行くぞ」
生唾を飲み、僕は草木に覆われた墓石近くの地面を一件一件調べてゆく。他に方法はない。だって僕は、少女狐と関わった人物の名前を知らないのだから。
探しているのは狐の痕跡だ。
狐であれば、犬のように主人の墓前に留まることはないだろう。だけど、怪となれば話は別だ。現にあの小狐は、僕に語りかけてきた。「生き、返す」と。
山岳方向には、天まで届くほどのカーテンが広がっている。ここは第一級閉鎖指定地区の北端だ。確かこの先の宇多天皇大内山稜あたりがカーテンの引かれた地だったか。
一時間ほどかけてすべての墓前を調べたが、それらしき痕跡はない。足跡や糞に期待をしたけれど、そもそも地面には雑草が生えているし、知性の高い怪である炎狐が糞など住み処に残すかどうかも怪しい。あったとしても、それが件の炎狐のものだという確証はない。
「だめだ、無謀だったか」
馬の背に乗った少女狐の話は今昔物語集にある。となると、平安時代末期にはすでに存在していた伝承ということになる。
そもそも、この住吉山墓地ができたのは明治に入ってからだ。平安時代に亡くなった人が埋葬されている可能性は低い。平安の墓ありきで明治に墓地にしたのか、墓地ありきで墓が並べられたのか。前者であれば、可能性があると思ったのだが。
額の汗を拭い、僕はカーテンを見上げた。
本来であれば電磁波は透明で色などついてはいないが、閉鎖指定地区の内外問わず危険な代物なので、特別にオーロラのように着色されている。原理はわからないけれど。
「こうして見ると案外綺麗だな。あまり長居はしたくないけど」
これほどの電磁波だ。短期的なものならともかく、長期的にはどれくらいの範囲まで人体に影響を及ぼすか、わかったもんじゃない。
引き返そうと視線を下げたとき、僕の視界に、山岳方向へと続く細い獣道が入った。雑草が踏み潰されて、草木の生い茂った薄暗い山へと続いている。太さから察するに、猪や熊といった類ではないだろう。熊などいないけれど。怪以外は。
「カーテンに近づくことになってしまうか……でも、ここまで来て引き返すのもな……」
そのとき、スマートフォンが鳴った。メールの着信音だ。
FROM:夏奈深雪
こんにちは、絢十さん。今日はとてもよいお天気ですね。まだまだ寒いけれど、窓から射し込む陽光は暖かいです。心なしか、窓際で育てているポインセチアも喜んでいるような気がします。それと、ご心配をおかけしてごめんなさい。まだ少し治るまでに時間がかかりそうですが、身体のほうは大丈夫です。お忘れかもしれませんが、わたしも京流しをされた身。半分は怪となってしまいました。でも、おかげでこの街で暮らしてゆけるくらいには強くなれました。わたしは絢十さんのほうが心配です。危険なことはしていませんか? あなたは昔から、誰かのために動き始めると無理をする方でしたから。どうか、御身を大切に願います。それでは、再会を楽しみにしています。
ナツユキ拝
「病弱なクセに、ベッドの中で強いって言われてもな」
まるでどこかから見られているかのような文面に、僕は苦笑した。
「大丈夫だよ、ナツユキ。危なくなったらすぐに逃げるから。キミに逢うまでは死んだりしない」
独り、呟く。
返事を書くのはあとだ。
スマートフォンを原付バイクのメット入れに収納する。
電磁波のカーテンに近づくのだ。指向性があるとはいえ、機器類が壊れてしまってはナツユキと再会することすらできなくなってしまう。
意を決して、僕は獣道を進んだ。人間がいなくなった地域は、驚くべき早さで植物が蔓延る。まるで植物のトンネル状態だ。
身を屈め、ひたすら獣道を辿った。木々につかまり斜面を下り、わずか三メートルほどの幅の小川を飛び石で渡って、枯れ葉の大地に手をつき、再び斜面を登る。
やがてそれは、そう遠くない位置に見えてきた。
石だ。現代の墓石のように綺麗に切り取られたものではなく、けれどもかろうじて直方体を目指したと思われる、ゴツゴツとした人工物。
時代を感じさせるように、すっかりと苔生している。
かろうじて読めなくもない、彫り込まれた文字は――。
「しのざ……篠﨑……貴守……」
聞いたことのない名前。けれど、墓石には違いない。それに。
「枯れ葉のベッドだ」
墓石の陰には、堆く積まれた枯れ葉があった。ちょうど小動物が眠ったような痕跡があり、中央が窪んでいる。枯れ葉のベッドには、金色の体毛がいくつも落ちていた。
あたりだ。少女狐は他人の魂で、篠﨑貴守を生き返らせようとしていたんだ。
「カーテンの近くだから、誰も近寄らなかったんだな」
僕はその場に膝をつき、両手を合わせる。
「必ずもう一度参ります。可能なら、あなたの大切な友人を連れて」
ゆっくりと手を合わせている時間はない。少女狐と鉢合わせなどしたら拳銃(レンの弓)を抜かざるを得なくなるし、それでなくとも少女狐と冬乃がぶつかる前に、このことを冬乃に知らせなければならない。
僕は踵を返し、大急ぎで斜面を下る。小川を渡って再び斜面を登り、墓地に繋ぎ止めておいた原付に跨がった。
直後、原付のメット入れから着信音が鳴り響く。メールじゃない。それは、冬乃からの電話だった。




