冒険の始まり 修行 3
恐らく2月31日。・・・・・・時間はもう分からない。
俺はあのまま身動きせずずっと床に倒れている。トイレにも行っていないので、俺のズボンはぬれてしまったが、それもすっかり乾いている。
脱水状態になっていて、意識がはっきりしない。そんな中、不思議な事だが、腕のあたりで何か匂いを知覚する。もちろん、腕に嗅覚は無い。だが、確かに腕や、足、全身で何かの匂いを感じた。
何だろう?
「・・・・・・だ、とぅ」
言葉もまともにしゃべれなくなっている。
俺は身じろぎをすると、匂いのする方に頭を向ける。
するとどうだろう。迷宮の壁が見える。
更に、その奥に光のようなものが見え、それがこの匂いの源である事が分かる。
俺は力を振り絞って立ち上がる。迷宮の壁が見え、地面が見える。だが、力の入らない俺は、迷宮の壁に寄りかかりながら、ゆっくりとしか歩く事が出来ない。もどかしい。
匂いの源の小さな光を見失わないように、俺は壁をいくつも曲がり、ようやく地面に置かれた光の下にたどり着く。
強烈な匂いだ。とてもかぐわしく、懐かしい。
暖かい温度も感じる。
涙が溢れてくる。これが何だかはっきり見える。
野菜と卵の入ったスープに、塩が掛けられただけの焼いた肉。それにパン。それらがそれぞれ皿に盛られて、トレーに乗せられて地面に置かれていた。ご丁寧にスプーン、ナイフ、フォークにナプキンまで添えられている。
俺はこんな大きな食事セットに今まで気付かなかったのか、こんなに香り立つ食事に気付かなかったのかと愕然とする。
俺はスプーンを手にして、震える手でスープをひとすくいする。
兜の口の部分が開くと、強烈な香りが俺を包む。あまりの香りの良さに気を失いそうになる。もう鳴る事を諦めていた腹の虫が、けたたましく鳴り出した。
俺は持てる精神力を総動員して、一滴もこぼさないように細心の注意を払いつつ、スープを一口すする。
「あああああああ~~~」
なんて美味いんだ。涙が止まらない。野菜から溶け出したうまみと、塩気とブイヨンの深い味わい。一滴一滴が体中を駆け巡る。
たまらず肉を手づかみにしてかじりつく。
柔らかく仕上げられた上等な肉だ。いや、上等な肉で無くても充分だ。塩だけのシンプルな味付けが俺の体に活力を与える。肉は薄く切られていて、今の俺の状態でも食べやすくしてくれている。
パンも小さく、薄切りで数枚。全体の量は少ないが、今の俺が沢山食べたら、のどを詰まらせたり、胃が消化仕切れなかったりするかもしれない。
恐らくそうした配慮で用意されたメニューなのだろう。
家族の愛と、過酷な修行中だというのに細やかな気配りをしてくれている事が有り難かった。
祖父の言う通り、俺は孤独では無かった。
それから俺はゆっくり時間を掛けて食事を終えた。
体に力が、心に気力が蘇ってくる。
俺は、壁により掛かる事無く、フラフラ~と立ち上がった。 周囲を見回すと景色が変わっていた。
迷宮の壁が見えるだけではない。
説明しづらいが、天井から俺を俯瞰して見ているような視界があり、俺の全周、壁の向こうまで見通せるようになっている。しかも意識を集中すると、寝室やトイレ、水飲み場の位置が光って見える。温泉に至っては、水面が色つきで見えるようだ。
視覚だけでは無い。さっきまであんなにうるさかった俺の鼓動が感じられず、それより、温泉の湧く音、空気の流れる音までが聞こえる。
全身が物を見て、音を聞き、匂いを感じられるようになっていた。
すると分かる。
自分から2メートル前方に、誰かが立ってこっちを見ているのが・・・・・・。
身長や体格まで分かる。間違いなく祖父だ。祖父は本当にずっとそばに付きっきりでいてくれたのだ。
「よく耐えたな、カシムよ」
耳からはくぐもったように聞こえるが、全身の聴覚からは、はっきり祖父の声が聞き取れた。安心したような暖かみのある様子も感じ取れる。
「ようやく次の段階に行く事が出来るな」
暖かみが一瞬で消え、厳しい祖父の声に俺はショックを受ける。
「つ、次?」
「当たり前だ。お前は今ようやく『無明の行』の入り口に立ったに過ぎん。とは言え、今日はもうゆっくり休むがいい」
祖父の言葉に、一瞬体が重くなり、祖父を恨みかけるが、俺は祖父の体調の変化に気付く。
「じいちゃん、まさか・・・・・・」
「こら、カシム。修行中だぞ」
「あ・・・・・・、申し訳ありません。・・・・・・師匠、もしかしたら師匠も食事を取っていなかったのですか?」
すると祖父は「当たり前だ」とすまして答える。
「お前は孤独では無いと言っただろう。ワシだけ食事をとったりなぞするものか」
この人はすげぇな~。
「カシム。今日はちゃんと風呂に入って、歯を磨いて、着替えて寝るのだぞ」
ああ。じいちゃんの愛を感じる~。珍しく祖父の愛に素直に感動してしまった。
それも明日には撤回する事になったのだが・・・・・・。